超常現象 あるいは怪物②
★2025年4月11日 改稿版に差し替え。
思い返せば思い返すほど、己の迂闊さを呪いたくなる。しかし考えていく中で「でも、刑部さんがいなかったら、寂しかったと思うよ」と過去の自分がにっこりと笑いかけてくる。そこで紀乃は思考を止め、現実に立ち返った。
買い足しに行った二人がなかなか帰ってこないので、気づけばタピオカもミルクティーも綺麗に啜りきってしまった。もしかして、紀乃のことを忘れて二人で遊んでいるのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎる。あと何分くらいしたらメッセージを送ろうか。微妙に暑い中、げんなりしながら考えた。
「しかし紀乃は人の悪口滅多に言わんもんな。それは立派なことだと思うよ。わしに向かって鬼だのイカだのは言うてもな」
「それは褒めてるんです?」
随分しみじみとした風に刑部に言われたが、誉め言葉に聞こえなかった。特に最後の、実際に紀乃が刑部に向かって言った悪口の羅列は、嫌味としか思えない。鬼はそのままだが、イカの由来は刑部の被っている白頭巾にある。遠目で見るとイカっぽいので、採用したのだ。
なおどちらも言ったあとは頬を思い切り抓られ、阿保かお前、と倍返しを食らうのが常であった。刑部は紀乃に対してなら物理干渉が可能である。優しく頭や背をなでてもらったことの方が多いはずなのに、印象に残るのは折檻でやられる頬抓りだった。侮ることなかれ、これがかなり痛いのである。過去には本当に頬をちぎられるのではと思うくらい抓られた。挙句抓った本人は大福みたいによう伸びるわ、と言い出すので始末に負えない。
紀乃が刑部に敬語を使うようになったのは、紀乃が十歳になった時に、紀乃が刑部に『弟子入り』したからである。元々刑部からはいろいろと教わってきたが、改めてこれからも、ということで申し出たのである。刑部はは死んでから弟子ができるとはなあ、と苦笑していたが受け入れた。
「褒めとるよ、少なくとも人様に向かって金貰って妹背の仲をやっとるなんてことは言わんもん」
「さすがに本人に向かって言ってないと思いますけど……」
そう言いながら内心、本当に言ってたらどうしようと紀乃はひやひやした。それとは別にさらりと妹背の仲という言葉を出せるあたり、やっぱり昔の人なんだな、と刑部に対して変なところで感心を覚えた。現代で聞く機会があるとすれば、古典の授業くらいだろう。
「本人に言わんでもお前に陰口で伝えとるじゃろうが。聞いとるこっちが気分悪い」
ああ、そっちか。吐き捨てる刑部の顔は、苦虫と渋茶をいっぺんに口に入れたような顔である。陰口としても下の下、と刑部は言いたいらしい。
「それにしても遅いの、お前のこと忘れとるんじゃないかえ」
それを合図にメッセージアプリを立ち上げた。とりあえず混んでるの?とだけ送っておく。出方を待つ作戦であった。スマートフォンをテーブルの上に置き、返信を待つ。
わたし、本当に聞き出すの下手だなあ。警察官の娘なのに。
紀乃は少しばかり自嘲した。なぜ紀乃が不毛と思いながら二人の話を聞いていたか。それは乙宮姫子について、どうしても知りたい事情があるから。紀乃がこの名を知ったのは、夏休みに入る少し前。親友から、警告の形で伝えられた。
検索すると、十二年前のアーカイブ記事が見つかった。それは「おしろの会」といういわゆるカルト宗教の幹部が逮捕されたという内容だった。その中に行方をくらませた代表一家の娘の名前として、乙宮姫子(四歳)という記載があった。それが友人から聞いた名前と、同一人物かどうかを確かめたい、と思った。余程無い名前なので確定的だろうが、裏を取りたいと思うのは親の生業からくる性かもしれない。
あの人見知りな親友が知っていたなら、近所にいるだろう。とっかかりを掴むべく、顔の広そうな同級生に聞き込み回った。すると何人目かで、知っているという同級生に当たり、隣町の中高一貫校の高等部一年生であることが分かった。年齢も一致する。その人の話聞きたいんだけど、と言ってみた所、乙宮姫子が通う学校に通う友達がいるから、その子と一緒に話そうということになった。そうして本日、この場が設けられたのである。
初対面の相手なので探り探り、当たり障りのない話から始めた。芸人が言うところの「場が温まった」ところで、本題を向けた。どうやら乙宮姫子は悪目立ちするらしい。水を向けた途端悪口のオンパレードである。よくここまで出るな、と変な関心を覚えたほどだ。
特に設楽先輩と彼女たちが呼ぶ人物と乙宮姫子が付き合っているという話は、信じがたいことであるらしい。テレビだったらピーって音が入る、と明後日な方向に思考が行く程度にはすさまじい罵りが飛び出した。その隣で、刑部は紀乃以外には見えないことをいいことにずっと話を聞いていた。最初はおー怖い、と苦笑しながら茶々を入れていたのが、だんだん渋い顔へ変化していった。紀乃はそれを横目で見ながら、彼女たちの話を聞いていた次第である。
こうなったら、時間を有効活用すべきだ。紀乃は切り替え、刑部に気になったことを問いただした。
「そういえば、乙宮の女は嫌われるのが世の常って言ってましたよね。そんなに嫌われ者なんです?」
「そりゃあもう」
刑部いわく、乙宮の一族とは彼が生きていた時代――江戸時代の少し前から存在するらしい。刑部は彼らを「因縁の相手」として強く恨んでいる。――それが原因で幽霊になったのではないか、と思うほどに。
「あの子ら設楽の名前出しとったじゃろ。そいつらもわしが生きとった頃からおる、乙宮の腰巾着よ。あの時の当代はそこそこ見れる顔の男じゃったけえ、侍女どもが黄色い声出しとったわ。その中にわしのお袋と妹もおって頭抱えたけどな」
身近にもっと色男がおるというのにわかっとらん、というぼやきを交えつつ、それにしても彼氏とはずいぶん出世したな、と続けた。どうやら刑部の頃は、明確に主従の関係であったらしい。
そもそも本当に、乙宮姫子と設楽が彼氏彼女の関係かどうかも不明瞭だ。単によく一緒に行動しているだけかもしれない。本当にそういう関係なの、と聞いたらますます彼女たちは吹き荒れそうだが。
「やっかみ交じりの話だから、どこまで本当かはわかりませんけどね」
「現代で従僕なんぞ流行らんだろうし、多分合っとると思うよ。設楽の一族はきれいな言い方をすれば上昇志向が強かったからの」
腰巾着の次は従僕である。完全に時代劇のワードだ。綺麗な言い方と言う表現と、顔を隠していても分かるほどに苦々しい顔からすると、設楽一族というのはあまり評判のいい人達ではないようである。
「上昇志向って……最終的に天下取りたい、とかですか」
「んー……究極言ってしまえばそういうことじゃろうが……。そもそもが神輿は軽い方がいいという奴らじゃからのう。ま、それは乙宮に群がっとる奴らみんなそうじゃと思うとるけどな」
「それ、みんな乙宮の力だけがほしくて、当主の人格というか、そういうのは求めてないってことです……?」
「そうさな。何の力があるのかは知らんが、あいつらに群がるのは、その内にある力を欲しがる奴ら。力だけほしいなら、人形みたいに言うこと聞いてくれる奴の方が楽じゃけえね」
恐る恐る言ったことをそのまま肯定された。それも想定以上に冷たい言葉で。
神輿は軽い方がいい、人形みたいなののがいい。あまりに酷い言われようだ。乙宮姫子にうっかり同情しそうになる。非情になれない己の甘さが恨めしい。
「でも、なんでそんなに嫌われるんでしょう」
「そりゃあ、絶世の美女ならともかく、野暮ったい女にそこそこ見れる顔の男が傅いとるのは、事情を知らん女から見たら哀れなんじゃろ。だからやっかみで噂が立つ」
あまりにド直球の暴言に、ミルクティーで甘くなったはずの口が一気に苦くなった気がした。諸々文句を言いたい。人のことを野暮ったいと言っている刑部は、普段は顔を隠しているが、自分で色男と言うだけあってなかなかの美形である。テレビに出てくる芸能人なんて目じゃないくらいに。そのうえで彼は容姿で差別されるつらさも身に染みているはずなのだ。それなのにこの暴言。
「あ、あの、お言葉ですけど、女性に対して容姿のことを言うのはとても失礼かと!?」
「紀乃の半分でも愛嬌あったら、もちっと違うんじゃろうけどなあ」
「わたしに流れ弾が飛んだ……」
悪口を言われた訳では無いので正確には違うのだろうが、何となく被弾した気持ちだった。おまけに続けざまに、
「お前、人のこと悪く言わんのは立派じゃけどホンマに野暮ったくて陰気臭い女、好かれるわけなかろうが。よう考え」
とさらなる燃料を投下してくる。なんてこと言うんだ、と思ったが、悲しいことに刑部の言うことは掛け値なしの真理である。
「そりゃあ、暗……根……陰気な人は避けられやすいですが〜!」
「遠慮なんぞすな。どうせ敵じゃ」
言葉を選んだところ、にべもなく切り捨てられた。仇敵と言えど、と言葉を選んだらこれである。
「だ、だいたい野暮ったいって見たことあるんですか~~!! 刑部さんの代とは人が違うんですよ!」
「ど阿呆、当たり前じゃ。さすがに会ったこともない女捕まえて野暮ったいとかいうほど失礼じゃないわい。名前と通っとる学校聞いたあと見に行ったに決まっとろうが」
爆弾をかまされ、素で大きな声を上げそうになったのを何とか堪えた。
「初耳ですが!? え、行ったんですか!? いつの間に!?」
「そんなもんお前が学校頑張っとるときに決まっとろうが。学生ならよほどのことなきゃ学校ある日は学校におるじゃろうと思って教室覗きにいった。設楽の当代が女にきゃあきゃあ言われとるのもおんなしで自分が生き返ったかと思うたわ」
「で、でも、おしろの会のと例の乙宮姫子さん?が同一人物かはさすがにわかんないですよねえ?」
「あのなあ、のこのこ行くだけに見えるか。ついでに情報も取ったわ。おしろの会の娘で間違いない」
「情報取ったって何!? 師匠一体何ができないんですかこのチート!」
もはや声を抑えるのすら難しくなってきたところ、むに、と頬を摘ままれた。痛くはないが、ほんま大福餅じゃ、と言われるのは傷つく。人のことを大福呼ばわりしてくる刑部は、憎たらしいほどきれいな卵型の輪郭なのが余計にダメージである。
「ちゃーんというつもりじゃったけど、お前が人と話するというけえ、余計なこと言わんほうがいいと思って黙っとったんじゃ。あーあ、まさかわしのことそんな無礼な奴じゃと思うとったとはなあ。ほんまに失礼な弟子よ」
ぱっと手を離され、こつん、と額のあたりに拳をあてられた。拳骨というにはあまりに優しいやり方である。ふっと優しく笑って、聞きたいか?と尋ねてくる。ここまで来て、聞かないという道は存在しない。お願いします、と紀乃は頭を下げた。
けれどもそのタイミングで、返信が来た。中身を見る。
『悪いけど、こっちに来てほしい。交差点の角のカフェに、乙宮姫子がいる』
文字を見て息をのんだ。刑部は「まあ、どんな女かは直接見に行った方がわかりいいでな」と特に気を悪くした様子もない。家に帰ったらいくらでも話したる、と肩を軽くたたかれた。容器をゴミ箱に放り込み、件のカフェに向かう。
指示の通りに交差点のある方に向かうと、二人が手を挙げてこっちこっち、と手招きしてきた。駆け寄っていくと、一人が店のテラス席を指差した。男女二人、向かい合って話している。
そう言われて、示された先を見た瞬間、紀乃は比喩でなく全身の毛が逆立った。何、あれ。何だあれ。カチカチと奥歯が鳴る音がする。十月になってもまだ蒸し暑いなと思っていたのに、今は驚くほど寒い。思わずしゃがみこんでしまった。
乙宮姫子だと指差された人物は、人の姿をしていなかった。正確には、紀乃の目には人の姿に映らなかったのだ。幼稚園のころ見た図鑑に載っていた、雪男の姿が近い。あれよりももっと毛むくじゃらだ。黒い毛がびっしり生えて、まず人どころか動物の姿にも見えない。さらにその周りを、何かどす黒い雲のようなものがぐるぐると周回している。
どうしてあんなものを見てみんな平気なの、と紀乃は思った。けれどもそのあとすぐ、自分の目がおかしいのだと思い至った。そうなると逆に、なぜ自分の目には人に見えないのかという疑問が生まれる。目を閉じて、時間をおいてまた乙宮姫子の座っているところを見たが、同じだった。化け物、と叫びたいのを何とか堪える。
二人は紀乃の異変に気付かず、デートかよ、うざ、と悪口を吐き捨てている。刑部は紀乃の背をさすり、心配そうに顔を覗き込んできた。
「紀乃、どうした」
刑部の声にどう答えるかと思って顔を上げた。その瞬間、すさまじい汚臭が突き抜けていった。この世のありとあらゆる臭いものを、一緒くたにしたのではないか。そう思うほどの強烈な臭い。
おえ、とえずくのは必然だった。えずくだけならともかく、胃の中身が実際に出た。きゃあ、という悲鳴と女の子が倒れてる、という通りすがりのだれかの声、しっかりしろという刑部の声。それらを聞きながら、紀乃の視界は暗転した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目を覚ました時、視界に入ったものは見覚えのある天井だった。なんでここに、と記憶を巡らせる。手を動かすと、畳と敷布団に当たった。
嘔吐したことを思い出したところで、さすがに引かれたかなあ、と紀乃は恥ずかしい気持ちになった。たまらず掛け布団を頭にかけるように動かす。ふかふかの布団は天日干しをしたばかりなのか、いわゆるおひさまの香りというやつがした。なじみのある匂いで、先ほどの悪臭から癒された気持ちになる。
とりあえず部屋の光景から、父方の祖父母の家にいることは理解した。けれどもどうやってここまで来たんだっけ。首をひねっていたところ、祖母の梓が部屋に入ってきた。
「ああよかった。熱中症かしらね。まだ暑いものね」
水の入ったペットボトルと、レモンのはちみつ漬けを入れた容器と、クラッカーの小袋が載ったお盆を持って、梓は紀乃の傍らに座った。顔色は悪くないわね、と言いながらペットボトルを差し出した。飲め、ということらしい。実際、口の中が気持ち悪いのでありがたくいただく。上半身だけ起こし、蓋を開けて口をつけた。ちびちびと飲んでいたつもりだったが、口を離したときには半分ほど飲み切っていた。
「お友達がここまで連れてきてくれたわ。何かほかに欲しいものある?」
「とりあえず大丈夫、かな。ありがとう、おばあちゃん」
「当たり前」
梓はそう言って、部屋を出て行った。多分、あの二人が連れてきてくれたのだろう。しかしよくここがわかったな、と思っていた時だった。部屋の入口とは逆方向に顔を動かすと、じいっと紀乃のことを見つめる刑部と目が合った。今は覆い布をはずし、素顔をさらしている。本当に憎たらしいほどの美形だ。マスカラいらずの長くて濃い睫が、綺麗なアーモンドアイを縁取っている。その目は明らかに心配の色を含んでいた。真一文字に結んだ唇は、わずかに震えている。
その顔を見て、どうやってたどり着いたのか、という疑問は氷解した。そうだ、この人がいる。
「……刑部さんって、わたしに乗り移れるんでしたっけ」
「できるよ、紀乃だけじゃなく、やろうと思えば誰にでも。紀乃が目えまわして倒れたから、とりあえず身体動かせるか確かめるために乗り移った。なんとかなったから、あの子らにおばば様んち案内して連れてってもらった」
救急車と迷ったけど、どうせ迎えに来るのおばば様たちじゃ、と思うたら近いんじゃけえ家に行った方が早いと思ってな、と弱々しく笑った。確かにどうせ病院に行ったとして、祖父母に迎えに来てもらうのだ。それならむしろ、公園から徒歩数分の祖父母の家に行く方が手っ取り早い。おばあちゃんち近いからそこに連れてってくれたらいい、と言うだけである。場所の説明さえ、大谷助産院という看板がある、というだけで事足りる。家にたどり着いた後は梓が据え膳上げ膳で面倒を見てくれる。合理的な判断だ。
刑部いわく、二人とも梓からジュース一杯の歓待を受け、きちんと礼を述べて帰っていったという。乙宮の悪口言っとるときは意地悪い顔してたけど、紀乃のこと心配してたから、根はいい子たちじゃ、と評価を改めていた。少し空気が緩んだところで、再び刑部の唇が真一文字になる。
「なあ、なんで倒れた。あれは尋常じゃない」
「ちょっと待ってください。説明する時に思い出して、また吐いたら嫌なのでレモンだけ食べさせて」
真顔の師匠からの問いに、紀乃はいったんストップをかけて輪切りになったレモンを口に放り込んだ。はちみつの甘さとレモンの酸っぱさが混じり合う。口の中を洗い流すかのようにレモンを味わい、皮だけになったものをティッシュに吐き出して捨てた。だいぶすっきりした心持ちである。
「……乙宮姫子が人間に見えなかった上、すっっごく臭かったから」
力を込めて「すごく」を強調した。思い出して吐くほどでは無いが、気分は悪い。シュールストレミングとくさやと生ゴミとドブの臭いをまぜこぜにした、と言っても過言ではない汚臭だった。要はこの世の臭いもの欲張りセットである。本当に漂っていたら町中がパニックになっただろうほどの、強烈な悪臭だった。
「よほど怪物に見えたんじゃな、紀乃の目には」
信じてもらえたことに安堵するが、続いた言葉は思いもよらない言葉だった。刑部は紀乃の手を取って、やめるか、と尋ねてきたのだ。その選択肢は最初から捨てていたのに、一蓮托生と言ってきた刑部に提示された。――けれども、そう言われて仕方ないことを自分はした。敵の姿を見て嘔吐したのだ。おまけに気絶した。当然怯えたと思われただろう。
「いいえ、決めたことだから」
「……やめてもええんじゃ、本当に。あいつらと関わるとろくな事ないもん」
「わたしが言いだしたんですよ。言い出しっぺのくせにやめるって言うの、ずるでしょう」
「ずるな事ない」
そう言った刑部の目が潤んでいて、紀乃は狼狽えてしまった。握ってくる力はやんわりと強くなっている。
「やめてもええ、本心で言うてる。ずるだとわしは思うたりせんよ。紀乃に何かあったら、大じじ様たちに申し訳立たんもの。化け物と闘うのは、とても怖いことじゃ……」
最後の方はうわごとに近かった。口調こそ変わらないが、普段の荒々しさはなりを潜め、弱々しい雰囲気である。本気で紀乃の身を案じて言ってくれている。それはわかる。大じじ様、すなわち曽祖父である隆志について言及するのも、このまま乙宮姫子と対峙して何かあった場合、悪い奴から守ってくれそうという隆志の見立てを破ることになると思っているのだ。
けれども紀乃は、どちらかと言うとこれはわたしがひいじいちゃんに怒られると思うんだよな、と考えていた。今やっていることを知られたら、ガキが生意気に警察ごっこしようとすんじゃねえ、と雷が落ちるだろう。
「……確かに、あれが相手かーとは思ったんです、正直。でも、今は負けてらんないって気持ちの方が強いかな。弱音なんて吐いてられないもの」
己を鼓舞するためでもあったが、負けてたまるかと思ったのは本心だった。負けてたまるか、あんな化け物に。
「でも、無理と思うたら言えよ」
あいつらに関わるとろくなことにならんのは本当だでな、と弱々しく刑部は笑った。その笑みはどこかへ消えてしまいそう、と錯覚するほど儚げに見えて、紀乃はますます闘志を燃やした。
「刑部さんがそんなに弱ってると、わたしまで萎れちゃいます〜」
しおしお、とおどけて言ったらくすりと笑ってくれた。そうじゃな、負けとれんよな、と少しずつ調子が元に戻ってきた。
「紀乃はあの子のために、闘うんじゃもんな」
「はい、きっとしおしおしてたら、怒られちゃう。やる気あるのかって」
「そうじゃな、わしもあいつに怒られるな。元より今更と思われてるだろうに、こんな弱気じゃあなあ」
奪われたものを取り返すことはできない。傷つけられたものを元に戻すことも。それでも、やらなければならないと思う。たとえ道理のないことだったとしても。