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晴る風辿る ーmiss spring

作者: 萩津茜

 暑さが和らぎ、あらゆる生物の熱気、活力が失われた頃のこと。染み付いた枕元で花の感覚を拳に掴み、タイムスリップを夢見る。

 そんな光の欠片がある。



 窓の隙間から入った、頬を撫でる風。意味もなく机に向かって鉛筆を走らせる手が止まる。目先は窓の外に動いた。季節外れの木の葉が宙に舞っている。ぬるい汗が首元まで一筋線を引く。

「君の求めるものはこっちだよ」

 不意に耳元で囁かれた感じがした。これはきっと空耳ではない。声の主を部屋の壁に凝視しながら考えた。旧い関わりの中で思い当たりがあった。その人は、爽やかな過去。ただ今は名を呼ぶことも憚られる。

 しばらく目を閉じ、皮膚に神経を集中させる。すると肌を摩擦なく滑るものが感じられた。ハッとした。

 色なき風。その存在は煩わしく強引であるが、ただこの風は僕に吹いている。そう、歯を食いしばって思った。

 ここには居られない。ラストチャンスに賭けるのもいいかもしれない。たとえ、悪い気がしようとも。――どうせ、このままずっと揺蕩う短い命だ。

 僕は部屋を出た。


 自分の為に玄関のドアノブに手を掛けたのなんて、思えば六ヶ月ぶり程であろう。金属の無機質な光沢。自分の手にある油を誇張する不快感。漂う錆に近い匂い。

 ガチャッ。扉が開く硬い音が家中に響き渡った、はずである。後ろに警戒したが、反応は一切ない。

 少し押すだけで扉は開けていく。

 数センチの隙間からでも、碧空を見上げるというありきたりに動悸がする。薄暗い玄関に光明が射し、仄明るくなる。

 そして、広がった。

 何時かの入道雲はあっという間に過ぎ去ってしまったようで、天つ空には残像たる、無数の糸引く巻雲が点在していた。白日光はまだ強く、藍青色によって希釈された日色すら、目眩めく程に爛々と照り付ける。

 狂花や夏草が交じる、草深とした青臭い庭が気になった。

 土いきれした土壌に咲く野花は数ヶ月前と比べると少々しおれて見える。生活道路を挟んだ向かいの花壇には一つまみのコスモスが弱くも花開く。高気圧に支配される中では、どうしても雨が降りにくい。だからといって僕は雨を降らすことはできない。魔術の世界でないのだから、ただ見捨てる。

 徳を積まなくては乾いていく。

 なんと残酷な人間か。

 狭い自分の中では、苦しいだけだ。

 カーテン越しでは知れなかった世界。コンクリートとエゴの壁の内側では知れなかった世界が、僕の小さな一歩の先にはやはりあったのだ。先ほどの悪い気は嘘だった。今は確信できる。無制限に外へ出よう。天際は全てを語ってくれている。

 この世界は、広い。

 仰ぎ見る蒼穹の空を見上げて空気を吸う。

 ああ、何かいいな。肺を抜ける凍てつく冷気が心をチクチクと、喉を痛ませた。晴嵐とともに朝鳥が飛来してきた。やんちゃな鳴き声。

 髪がなびく。乾いた音が響く。その時つ風。

 久しい感覚だ。前髪を分ける。

 サクッ。

もう片足は自宅の敷地から出ていた。


 薄暗さの残る、青海原の下を歩く。遠くの山には白くモザイクがかけられている。

 この低い背丈で画面の大半を占めるのは、いかにも平凡な整った住宅街。見慣れた景色であるからと深い気も置かずに通り過ぎようとしていたが、今日は違った。先を行く風と空がこれらを一気に溶かしてしまったかのように、家並は同化していた。目は決してぼやけていない。

 美しい。口から零れ落ちた。

 犬を散歩させている老人が目を細めてこちらを覗き込んでいるのに気付き、「何でもありませんよ」と言わんばかりに猫を被った笑顔を向けた。あとは頭を軽く下げて足早に場を去った。

 起きてから髪を整えることもしないのだ。ぼさぼさの髪が可笑しく見えるのだろう。

 容姿に気がいった、はずだ。

 住宅と学習塾の狭間に、白いポールが二本立った小道があり、その先が広小路である。小径の左壁にはくしゃくしゃになった「自転車進入禁止」の紙が貼りつけられている。ここに来るたびに汚れつつある。

 しばらく、脇を通った唸る車を見送り、まばらな葉を湛えた広葉樹が並ぶ広小路の歩道へと出た。

 まだ交通量は多くないにしろ、朝ドライバーは意気揚々と車を飛ばす。一定間隔でエンジン音が通り過ぎ、毎度、反響するコンサートホールに連れ込まれたような感覚に襲われた。耳鳴りを感じる。

 乗り物のそれぞれに誰かが搭乗し、たわいもない生活がある。面倒臭がる振りをして共感を得て、結局は楽しかったね、で仕舞にして満足する。転がる、転がる。

 ネットを被せた車内が時々目に飛び込む。ただ破壊できればよかった。魔術師ならできただろうな。

 目に疎く、耳に敏感である。次の振動で想像はすぐに打ち消された。

 まだ水気のある落ち葉をパリパリ踏みながら進んだ。だが、前を進んでいた風は容赦なく夏の残り火を蹴散らす豪速の自動車によってかき乱されていく。

 試しに立ち止まってみれば、もう肌を滑る感覚は無くなっていた。

 そこから先には、進めなかった。

 天を仰いでいると、人間の本能たる協調性が働いたのか、建物からの視線に緊張した。

 早々に家へ引き返して、忘れぬうちに廃れる街路樹を絵に描いた。下手といえば妬まれるが、上手いというのは偽善である。写実主義も分からないが、それでも機械的に手が動くのならそれでいい。

 外に出て、ようやく僕は気が付く。

 また季節が始まった。


  ――悲しみは一季節経てば忘れる。そうして人は強くなれる。前を向ける。


 翌日、その絵を見ると、街路樹の所々に鮮やかなピンクが添えられていた。

 一瞬。紙を粉々に破りながら、数日前の夏希の言葉が脳裏に宿った。

 つまり、僕は変わらず未熟なのだ。



 白昼の曇天。世間の気分が滅入る暗さの中、その予感があった。

 無駄に早起きをしたというのに、中々したいことを見つけられず、その間に時計の針だけがただ回るのだ。部屋にコツコツと鳴る秒針にさすがに虚しく感じられたので、一週間前の奇跡をノートの一角に書き綴ってみるのだが、悪い気が晴れるものではない。

 だからこそ、今日も願った。

 一種の色塗りの楽しみを。

 そんな気持ちとは正反対の空。だからこそこれからペンキで、白紙のキャンパスに鮮やかな色が塗りたくられる気がしてならないのだ。

 そういう、予感がした。

 首を曲げて机に向かいペンを走らせる手が止まる。外からの遠吠えが脳に鳴る。カーテンが激しく波打った。同じ風。

  ――もっと知らなければ。

 カタッ。ペンが床に転がり落ちた。

 僕は家を出た。


 扉を開き庭に出ると、後方から吹く木枯らしが身をくすぐった。風は、ある程度の進路を示してくれたようだ。

 先を見ても、一切景色の変わらぬ住宅街、その真直ぐな道を進んで大路に出る。すでに建物を複数介しても、街の交通量の多さがうかがい知れるようだ。

 目に疎いが、耳にも疎くありたい。視界から機械を遮断するのは簡単だった。だが、不特定多数の雑音を除くのは難しく、一群が去った後もしつこく残り続けた。

 頭が痛くなる。

 心拍数が上がるのが感じられる。視界は通行者を呼び戻す。フラッと瞬間、めまいがした。それで、無理やり頭を掻いた。

 こんなにストレスなら止めてしまえ。

 路上で頭を抱えて歩くなんて奇行をしていたら、不審者、体調の悪さをアピールしている、誇張のすぎる変人と、思われても仕様がない。だから、抵抗があった。

 ただでさえ人通りが多いというのに。面倒事が増える。

 大路は長い。店だとか住宅、またそれに追随する電柱、街路灯。申し訳程度の似非自然。これらが規則的に並ぶ。都市とは言い難い、一般的なニュータウン。この国のどこでもある箱庭である。

 南と南東の大都市へ働きに出る為だけの使い捨て拠点。そう見える。いつか僕も未練無く棄てるのかもしれない。面白くも何にもない土地に。

 僕の過剰なコンプレックスが誇張されるようで、無意識に乗っていたひびいった排水路の上で慄然とした。

 ――こいつは嘘つきだ。

 後ろから背を押す気圧は、決して進行方向を曲げさせない。雲に隠れる日光がぼやける灰色と、地球の丸さを証明するかのような終わりなき中央道。自分の行く末を見つめていると、また、視線をさりげなく逸らした。

 消極的な内心が見え隠れしだした自分が嫌になる。そぐわず、風はより強く、より重く僕に吹く。これは悪魔の又三郎だ。

 強引な風を縁に身を任せていた。薄手の白いTシャツが膨らみ、皺になって張り付く。後ろを往く人がいれば、左右に身体を揺らす人影に後ずさるだろう。

 ついにまったく感性が芽生えず、歩みを止めた。風が独り歩きしているのを冷笑した。喉が締め付けられ、通りの中ほどで無視。深い悩み事に決心をつけたかのように天を仰ぎ、逆風を耐えて来た道を引き返した。

 帰宅してから自らの飽き性を後悔した。人の性格は治るものでないと信じている。改善に繋げるという大層なことは思いもせず、睡魔の中で沈んだ顔の通行者と枯れ木のパレードを絵に描いた。

 そんな愚作は破り捨てた。

  ――やっぱり、嘘つきか。

 今度は信じられるように唱えた。


 ――誰も悪くない。仕方がない。そう考えて気楽にしなさい。


 ぎこちない虚ろ目で言われても、それがたとえ歳上であっても、僕にはピンとこない。あの日の夕涼、鼻をすする音がポツポツと広がる公園を夢見た。



 世間が浮きに浮かれる祝日、昼下がり。じわじわと暑さを感じる。雲の隙間の青空を見ていたつもりが、深さのある雲、それを動かす大気の動きに意識が移る。なぜ風が起こるのか、空はどうして青いのか、この世の真理に触れようとする、狭い頭蓋骨の中での議論は雲を掴むようで億劫がましい。

 文庫本を読んでいた。何か約束があるわけでもないのに、焦燥感に駆られる。

 気を紛らわせたかった。――逢えるかもしれない。理解できるかもしれない。

 不確定理論を展開して、イライラしている。

 日々考えすぎる、煩雑な自分、頭にうんざりする。――残した紙切れだって、あれが。

 ――放射性物質。脳を劈き、除去を試みようにもそう易々とはいかない。考えずには居られない。――本を床に投げ捨てた。

 風はそれでも誘いかけてくる。

 ガタガタガタ。

 ヒューヒュー。

 締め切った窓を小刻みに震わす。

 祝日ではあるが、外出には向かない。

 本日は、強風。食欲の秋と謳われるが、ピクニックでもしようものならランチボックスごと遠方まで飛ばされてしまいそうな。

 先導がどれほど荒ぶろうと、誘いには応じたい。僕は守られた箱から出た。

 葉の音はより一層乾いてきた。実際に外へ出ると、空は大して眩しくなかった。それよりかは、白色の絵の具の上に、水で薄められた青が落ちたような水彩画みたいである。地は乾き、空は瑞々しく。

 五感をシャットダウンしたい。僕の感覚で。


――云う。感覚と想像だけが本当だ。だから、その全てを、神様から。


 アスファルトからの冷気を感じながら、地を黒白と塗り替え繰り返す雲よりもずっと小さく、遅く歩行した。

 催促が入る度に体中が熱くなり、流れに乗って、前へ前へ、留まらず、振り向かず。

 車窓から眺めるようにして大通りをやり過ごした。途中、頭に枯葉が一枚、髪をクッション材として舞い落ち、見事成功したようである。秋も中旬に差し掛かっている。季節の美しさ。――また一歩、気が付けたのか。

 俯きもするが遠くを見る。また顔を上げ、天井を見る。与えられるその多くが、解答を構成する材料となる。――残した難問。いつになったら最適解を導けるようになるのだろうか。できることならば、早く知りたい。日々の生存理由で、街を往くのもこのためだろうか。パステルカラーの家並の光の反芻は、脳の思考を巡らせている。そのことには留意しない。目的地の朧げな姿を糧に、両側は無機質な壁のようでいいとも思った。

 中規模のディスカウントショップが姿を現し、街の郊外を示した。緩やかな坂を下っていく。眼下には幾時振りの遠景が広がっている。深緑の海と古の光である。小走りになるのは仕様がない。筋肉がこわばり足下がおぼつかなく、絡んでしまう。フラッと、時折前へ倒れそうにもなって、平衡感覚の無さが露呈してしまっている。――これでも精一杯に、無教養で何も知らない引き籠りなりに、努力というものをしているのです。

  ――もう少し、きっともう少し。一つ、二つの季節を越し、今日でようやっと。だから留まるな、神経を集中させて。

 坂はまだ続く。左側に車道、右側には青白く錆びたフェンス、そして鉄の腐った匂い。野草や木の枝が飛び出ている。

 二次関数のグラフみたいに、少しずつ速度が増していた。せわしなく動かざるをえなくなったが、すると不幸なことが起こる。

 バタッ。

 どうやら――違うようであった。声も出ずに、荒々しい歩道の上に這いつくばった。また、風はどこかに去ってしまった。底なしの軽蔑が、どろどろと全身の穴という穴から流出してくる。

 灼熱の陽に、甲高いような、地を揺らすような、大都会の民衆の中にいるかのような小動物の声が重なって、しばらく硬直する。汗だか、それ以外の弱さか、それらが黒いシミを作っていた。

 そう、ただ――希望というものを、残った僕に与えてはくれないか。

 昼と夕の境での情景は、そのままで画になるものであった。頭の中で描き、そっとしまっておいた。


 ――終点には何があるのか、考えたことはない?現世でこの先に行きつくのは美しい場所か、怖い場所か、汚い場所か、それとも、幸せを知れる場所か。君は、どう思う?



「分からない。まだ知らない、また知れなかった。解けなかった…」

 早朝、登校日。汗の不快感とともに目が覚めたのは、悪夢みたいなフラッシュバックのせいだろう。

 まったく、昨日は虚けた日を過ごした。一つ、いや二つ、三つ、四つ…。幾つあるかすら自覚がないが、事を知るというのにこれ程まで自己嫌悪に陥ったのは初めてかもしれない。そして今、ほとんどは無に帰している。

 清潔感あふれるワイシャツのボタンを丁寧に留め、薄汚い黒の学ランに腕を通す。

 ――教育制度。知るという行為がこうも易々と行われてよいものか。当たり前だったはずなのに、胸に熱いものが込み上げてきた日は本当にイライラした。

 模範生、優等生、真面目、安定、思いやり、穏やか、頭脳明晰。周囲の他人にこういう事を言われたとき、肯定も否定もしてこなかった。芯の奥では鬱憤があっただろうに。ただ、人間は無意識の中でより多くを求めるものであると知っている。彼らは、自分のイメージよりもずっと貪欲だ。

 僕も――恐ろしく強欲だろう。

「今日も遅いなあ。夜更かしで寝坊か?」

 食事を早々に済まし、人口の光は目に障るのでカーテンを全開にした。かといってダラッとする暇があるほどの時刻ではないため、心の内にて秒を刻みながら支度をし、外へ入った。毎朝急かしてくる、夏希のためでもある。

「散歩して、こけて、疲れて、とにかく疲労が全身に籠ったままだったから。少し遅れただけじゃないか。気にしないで」

「俺はな、せっかちなんだよ」

 軽い釈明、いや言い訳をした。夏希はこう言うけれど、結局はあまり気にしていない。無鉄砲に喋っているようだから、いつも言葉の一つ一つに棘があるのだ。脳を使わぬ、反射のみで動いているようなやつ。その癖によく、図星をつく。僕の日々を妨害する破壊魔であると、最近思う。

 ガタついた石ころだらけの道の上、目のくらむ雲の波を歩く。上空から目には見えない、無色無臭の岩が転がり落ちてきていて、首から腰にかけてドッシリとした重みを感じる。

「先週に鈴木がスマホ持ってきてんのがバレてさあ。あいつな、昼休みに教室の隅で井上

たちに見せびらかして使ってたら、ちょうど通りかかった西尾先生に見つかったんだっ

てよ。持ってくるなら、そんな場所で使うなって話だよな」

「ああ、井上とな。あの辺の人らとね」

「今日絶対にあいつら指導室行きだぜ?馬鹿だよなあ。内申点下げられてるわ」

 夏希が言った。

「受験に影響したりするんだろうか」

 馬鹿、か。 ――耳馴染んだ響き。夏希には、数回程度だろうか。悪口だったり、戒めだったり、時によって別の意味を持つ。逢う度に振り掛けられたものであった。可虐で、ショックであり、また未だに腑に落ちない。

 X線みたいに透過する夏希の雑談を最低限の反応で継続させた。遠くの海からは大波が迫っている。息を呑んだ。

 秋の赤い匂い。

「縁人、やっぱり似てきたな。そろそろ受け入れろよ。あんたがよく分かっているは

ずだろう?」

 夏希が両眉を寄せてこちらを見た。

 頭にこつんと当たり、それが固体となって地面に落ちていった。踏んづけてやろうと足を上げた途端、小石に躓いた。

「違う。僕はまだ、まだ」

 そっぽ向いて、小声でぼそりと。夏希は怪訝な表情だが、聞こえているはずがない。ただでさえ低い声帯で声を押し殺した。

 夏希の身勝手で横暴的な雑談はポツリと途切れた。彼がまだ、僕にかまうのは。

「盲目かよ。視界は、真っ白か」

 夏希の吐き捨てた固体も、踏みつぶしてやりたかった。こんな、軽率に刃物を扱うような奴に。

「あっそ」

 ――語らせるものか。この怒りで果物ナイフを作ってやる。

 校門の真ん前、彼の不満も受け止めてあげた。

「お前は本当に、何を見てんだ?」

 感情が前面に押し出される、不満気な顔を向けてくる。きっと夏希は、今日も同じようにコミュニケーションごっこをして過ごすのだろう。

 人間的要素が、嫌いだ。

 それでも立ち止まり、斜め前、嵐の前の静けさが漂う飛行機雲を垣間見ていた。

 もちろん、人を馬鹿にしている。


――憎しみも、蔑みも、対立だって、ごく自然なことだよ。そんな感じで地球は明 日も平和だね。


 夜、また回想だ。 直後は思い出の一つすら考えたくなかったのに、ここ数週間、毎日のように浮かんでくる。目に疎く、耳に疎く、すると頭が働くようになってしまうのか。

 学校に居ると、周囲は僕に対して、心配という誤解をかけてくる。だから、毎度毎度、 こう伝えないといけない。

「あんなに立派に居られたらいいよね」

 この一言は、僕の妬みなのかもしれない。それから人を妬んでいるという自覚が、自らを苦痛に貶めるのである。



 秋雨前線というが、さながら梅雨の様相である。長く、雨が降る。

 夏希がいかに思うのも勝手だが、「人間失格」なんていう小説を読み、その世界に没頭していたとしても――頭から離れなくなった。作中で大庭葉蔵がモルヒネ中毒に陥ったように、僕もまた依存してしまっている。

 床に散らばった、おびただしい枚数の手紙という名の偽善。勘違いの末、至った結論はこんなものかと、強く、固く、鬱陶しく思った。

 窓を網戸ごとずらすと、繊細な水の水晶が吹き込み、この頬を心地よい程度に濡らす。

 八時五十分。町をチャイムの音が包み込む。

 目の前の雨粒の全てが部屋中にわっと広がった。

 そう、これだ。

 僕は逃亡した。

 背中越しに、母の「遅くならないでね」という言葉を受け止めた。

 ビニール傘を差し、涙の町を歩く。まばらだった雨は、次第に音を「ザー」と立てるようになってきている。

 ぺしゃり。ぺしゃり。

 刻々と沈んでいく住宅街。リズム悪く轟音を弾く自動車、大通り。

 ザーッ。ザーッ。

 目と耳を閉じ、感覚を研ぎ澄ませ、想像を膨らませる。

 土と水の匂い。不純物としての排気ガス。

 葉の一枚一枚に水滴が滴り、それらは地に落葉する。また潤う。

 僕はこの循環、また現象を想起することしかできない。

 自然的要素。不純物としての人間的要素。

 これ以上の干渉は、よしたほうがいい。

 ジュッ。ジュッ。

 抑揚をつけて時雨れる氷の町。世界。

 濡れて肌にへばり付くズボンの裾の違和感すら、温かく、落ち着く。

  ――涙。あの瞳から、水滴が滴ることはあっただろうか。はたまたこれから、あるのか。

 この風雨を重ねてよいものか。罪かもしれない。こっ酷く怒られるかな。

 自然的要素。それは――。

 ――。

 奇妙なことに、人一人として見当たらない。半透明なベールに町が包まれたような、素晴らしい空間が構成されている。

 町の端、坂を下っていく。酸化した鉄フェンス越しには、時折林の草木、葉が擦れ合う

 ジャラジャラとした音や、緑々しいだが古臭い匂いが流れてきた。

 さらに先へ、道の先へ。求めるものは、そこにある。心の溝を埋める、出会いが。先導に迷いはない。相似して。

 道に飛び散った泥。枯れた藁みたいな雑草。ツンとする土の肥料。

 一面に田園が広がっている。

 ダンプカーといった農業用機械群が放置され、今まさに刈り入れ時といった感じである。


――こういう日本の原風景って、きっと間違っているんだよ。テレビの宣伝用素材ってだけだよね。


 僕はこの景色に見覚えがある。

 喋った。

 教えてもらった。

 うれしかった。

 悲しかった。

 喜怒哀楽に素直だった。

 美しかった。

 何よりも、満たされていた。それすら、無意識であった。僕の日常で、人生で、きっとただ唯一の生涯なのだ。

  ――また一つ、思い出せた。苦しい。

 風が身体を横から煽った。

 右だ。その先に在る。

 土地と土地を区切るような畦道。荒れたアスファルト。

 ジャク。ジャク。

 余計に足音が周囲へ響いていく。

 ククククク。ククククク。

 どこか近くで、遠くで、蛙らしい咆哮がリピートされている。

 ヒューン。

 一瞬。服を水浸しにして、先導は天高く昇ってしまった。

 その目で追った末に映ったのは、懐かしく、また竦んでしまう、山林への湿っぽい道。こちらに少し傾いて、今にも折れてしまいそうな風貌の伸びきった木々。あの日と何ら変わらない。

 何も変わっていないのが怖い。

 薄暗く、そこだけ時が止まっているかのような、過去の記憶と閉じ込め、僕を締め出す。異様な空気感が迫り、たった一歩でも進ませない。始めの気とは裏腹に、長く呆然と突っ立っているのみ。向こうが拒んでいるようだった。

「今日はここまで」

 この囁きは、天からか、静寂からか、それとも過去からか。


 ――どこかで区切りをつけないと、辛いだけだぞ。深く考えず楽しく生きよう、そ

う思わないか。


 夏希、彼に何が語れようか。慎重で、几帳面で、失くし物なんて知らない。いや、失っても自覚し、すぐに代わりを補填できる。

 活力に肥えている。

 彼がどこまで見えているのか。

 僕の孤独など、知る余地もない。僕がこの場に立つ意味を正答することも、想像すらできない、できっこない。

 もう一度、田園から林までを見渡した。 ――区切りはつけられない。まだ。

 僕はきっとこの先も、億劫じみたって探し続ける。

 パシャリ。

 水溜まりを踏み、足に水がかかる。笑い声が聞こえた。さっきの囁きによく似ついた、そう、自然。無抵抗に受け入れられる。

 馬鹿にされている。それでも、僕はこうして追わないといけない。夏の終わりに縋れるものが現れた。希望だと信じてやっとここまで。

 ――不帰。頭によぎって、すぐさま棄てた。

 もう、黙って帰ってしまえ。誰にもこの心は分からない。

 なのに、彼女が僕を騙した。

 全てを間違えていたのか。


 深夜、夢を見た。淡い視線の遠く先には、数多の植物が取り囲んだ古いレンガ造りの廃墟がある。後ろで手を組んで、背筋を伸ばし歩く彼女の後を急ぎ足で追っているのが僕である。雨が小降りだというのに傘も差さず、茶色がかった髪がキラキラと光を反射させていた。彼女は歩みを止め、僕に何かを語りかける。口元が僅かに動いていた。

 あの畦道の先にあった、小さな楽園。もう行くことはないだろう。

 時が経つほどに色褪せる。過去という事実で済まされてしまう。夢の中の自分に感情はない。

 ああ、僕を騙し、嘲笑し、見捨て、縛り付け、神様みたいに教えと救いを享受させてくれた彼女に、また会いたい。

 この願いと執着が、花で霞んだ一本道から吹いている。

  ――いつも、現実に掻き乱される。



 突発的に家を出て、雨に打たれながら道を歩く僕は、頭が可笑しいのだろう。

 夏希、あいつは気味が悪い。

 コミュニケーションの億劫さを、奴は知らない。

 信号機のライトがぼやける。烏の歌に耳塞ぐ。路傍の花を踏みつける。

「ああああっ!」

 喉の奥から奇声が飛び出した。

 ――諦めろ。だなんて、身勝手なのだ。理想を捨てて残るものは現実だけだって、そ れくらい分かれよ。そう。

 現実に諦めている。 理想に奔り、自然を駆けたが、哀愁という毒で充満していた。なら、理想にも諦めているのか。

 くしゃみをしても一人。

 戻るもの、得るもの、無下にしてきた。

 孤独の悲しさを知った。人間のしょうもなさと小ささを知った。諦めに、苦しんだ。

 彼に言われなくたって、とっくに理解している。事実を、受け止めている。

 冷たくて、寒くて、寒気がして。

 一人になりたくない。

 思い出には手が届かない。願っても決して戻ってくるものではない。当たり前を何度唱えたことか。   

 彼女はもう居ない。

 現世を見られなくなった人は消えていく。たった一枚の紙に丁寧に書かれた無数の文の中にあった言葉。だから僕は受け止めたのだ。

 けれど染みが取れるものではない。

 彼女から知った、描画。小さな日常の美しさ。彼女が居なければ、きっと僕は泣くこともなかった。

 僕はもともと空っぽなのだ。単体では生きられない。だから、何かに縋らないと。

 僕の心を満たしてくれる、神様に。

 ジワリと、腕に光が当たった。次第に街を照らしていく。降る雨が温かい。

 天気雨。そして、光の柱。

 耳に雑音は入ってこない。何も聞こえない。

 空の一点に集中していた。視界は広がっていき、果てしない広大な世界が現れている。

 僕は、また歩く。背筋が伸びている。

 並ぶ電柱のどこかで、雀が小さく囀っていた。



 日に日に、目は洗練される。

 ある日の夜明け時、また夕暮れ、黄昏時、深夜。凪げば迷わず家を出る。そこに意志は必要ない。感覚のみが全てである。

 五感が鈍るほどに広がる想像。

 えも言えぬ、静寂に包まれる朝焼け。猫一匹街を往き、そこには昼間へ向かう鬱陶しさが存在していた。あくびが間延びして、これだけは考えられもしない、遥か遠くへと吸収され、また一人帰路につく。陽に背を向け、赤く色付いた自分の影が左右にゆらゆら、揺れていた。

 深夜の町は色も虫も眠り、無音単色。空が明るく、灰色の雲まではっきりと見えてい

た。

 さんざめく星々が今にも降ってきそうな、愉快な気分にさせる時間である。ここから

 郊外に抜けると更なる圧巻の空間を目の当たりにした。いつか映画で見たような画面。

 輝いていたはずのドリッピングされた点は次第に漆黒へと溶かされ、空も単色。

 ――心の穴の中に何かが棲みついた。――足は軽快に、心はフラットで、後ろめたさを押し切ることができていた。身が温かい。

 あの日。この日。昨日。どれも忘れた。

 身体が附いて行っているのならばそれでいい。心は問題でない。

 毎日絵を描いて、ごみ箱がすぐに一杯になる。

 絵は上達しない。元々誰かに教わっていたのだったっけ。なら仕様がない。

 あの春が終わっていた。あの夏が終わっていた。秋が過ぎていく。

 今日が終わり、明日も去り、それでも振り向くことをしなかった。

 前だけ向け。

 出処知らずの内なる声が必死に叫んでいるようだ。

 目線の先の景色はいつも違う。だが、ある時から一切他人を見かけていないのは偶然だろうか。

 地球上全ての花が脱色されたのは、例の地球温暖化が原因だったりするのだろうか。

 ――これが見えているのは、僕だけなのかもしれない。知らない。

 この上ない乾いた日が続いた。



 言わずもがな、快晴。陽の出方的に、おそらく昼間だろう。

 僕は懸隔の内を出た。

 外に出ても、何ら違和感はないはずだが、何だろう、ムズムズしていた。

 空は透過に透過を重ねた真白。左右にそびえる住宅は、白。そこにははっきりと明暗が生まれている。伸びる影が白い地面に写し出され、住宅の影と重なっている。やはり、昨日と同じだろう。

 なんて――。

 気が付いた。

 虚無。

 そうか、終点だ。

 誰かが僕に尋ねたことがあった。それからずっとその問いに対する答えを見つけることができなかった。悩んでも、苦しんでも、知れなかった。結構な人生の時をもがいていたのかもしれない。

 ようやくトンネルを脱した。

 今なら面と向かって答えられる、自信が湧いてくる。

 カラカラ疾風が刺した。

 咄嗟に魅せた陽炎が、新鮮な夜嵐の吹き残しをさらに焦がし灰にして、屋上のコンクリートに水滴を溢すひとりぼっちに、一瞥もせずDaybreak をはじめた。どこか諦めが悪いようで、それでも、まだ事実が固まらない夜を延長しようと、傾く半月に右手を握りつけた。腕さえ引き攣る。そんな、日が。

 なんだ、僕に聞いた、誰かが誰なのかすらも、意識の片隅には残っていない。いっそのこと人を忘れていればよかったのだろうな。

 キャラバンにアクセントはない。

 まだ色が足りない。

 大空さえもどかしい。

 まだ、まだ人智が足りない。

 君をもっと知ればよかった。人の心とは精到なのか。覚醒していれば。

 まだ、まだ、まだ時間がたりない。

「どうして僕に教えてくれなかった!まだ、まだ、まだまだまだ!僕には全く空っぽな

のに!」

 なんにもなくなっちまった、そう自覚が高じるにつれ、手持ち無沙汰に両手が微振動していく。焦れる。どうする、君は何処にいるのか。それを知ったって、僕は春の帳を破るほどの堅い拳を持ち合わせていない。五感の喪失なんて、望んでいたはずが。少なくともそれらが定かではなくなり、天の上の失物となったのは自明だ。

 ああ、今更まともになった。

 何を議論したって、だから、僕は、お前は、どうしようもない。

 それでも。

 終点に行き付きました。此処は此処でないのかもしれない。これから、際限なく堕ちていくようです。君なら、如何なるか判りませんが、これを望んでいたとは思いません。君は野に咲く陽炎を見ていたのかもしれない。どうです、美しいですか。

 どこかの君だ。君に、この応答を。

 終電の先、地上の淵より、リプライ願う。

 君というのは、きっとどこかに存在しているのだろう。そしてまだ、こうはなっていないはずだ。

 君に会えなくても、ただ、届いてくれたら。

 僕は、一瞬でも、満たされる。

 雨が降り出した。少量の雲、強く日の射す中で。

 風がすっと吹き去り、振り向いた。

 見えていたものは塵となり崩れて飛んでいく。曇る散り花のように。

 僕は目を離しはしなかった。

 蒼天の欠片。

これまで書いてきたものの消化です。僕にとっての創作の原点と思ってください。非常に拙い文章ですが、個人的には一番好きな作品です。

皆さんに読んでわからないことは、私にもわけがわからないのです。

宮沢賢治さんがこのような言葉を残していました。

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