いちのさん
「これは数字ですね。……さん、いち、に、です」
応接室に招き入れられたメキナハは、セヌリューバらが厳選した資料を示されて読み始めた。捜査官たちとシィトゥーハもメキナハの手元を覗き込む。
「次が、えっと、だ、む、だ、ダムダですね。名前でしょうか」
「ダムダ312?」
捜査官たちは顔を見合わせた。
「進め、待つ、と書いてあります。ダムダさんが待っているのか、ダムダという場所で待っているのか、ダムダさんに待っていて欲しいのか、これだけではわからないですね……。
次の言葉は、あまりよく知りません。でも数字の部分はわかります。えっと、やっぱり312です」
「ありがとう、こちらは?」
セヌリューバが他の書類を差し示した。
「あ、これは知っています。やっぱり312、ダムダ、進め、待つ、と書いてあります。どういうことでしょう?」
「わからんな」
セヌリューバが言った。
「この辺でこれが読める人はそんなにいないよ。ってことは、メキナハさんを探してるんじゃない?」
シィトゥーハが言うと、メキナハは少し考えた後否定した。
「いえ、それはないと思います」
「何故だ?」
セヌリューバは語気を強めた。
「私は『落ち人』の血を引いていまして、『里』には知人がいます。これを書いた人は、『落ち人』と何かしら関係があるはずですから、こんな風にわざわざ落書きなんてしなくても、私に連絡する方法は知っているはずです」
メキナハは一旦言葉を切って考えた。
「私でなく単に『落ち人』の言葉がわかる人を探しているのなら、それこそ『里』に打診した方がよっぽど簡単です」
セヌリューバは顎に手をやり考えた。
「これが何の言葉かは分からずにただ書き写したということは?」
メキナハは再び写真に目を落とした。
「可能性が無くはありませんが……。複数の言語で同じ内容を書いているので、考えにくいのではないですか?」
メキナハが言うと、全員がどういうことかと考え込んだ。
「と、いうことは、だよ?」
シィトゥーハはいっそ朗らかと言っていいほどの楽しげな声をあげた。
「『里』に内緒で『落ち人』の言葉がわかる人を探してるヤツがいるってことだな!面白くなってきたなぁ!」
「シィトゥーハ!いいかげんにしろ!」
セヌリューバに怒鳴られシィトゥーハは首をすくめた。
「あの、よろしければ私の方から『里』に連絡しますが……」
メキナハに遠慮がちに申し出られたが、セヌリューバは顔をしかめた。
「ありがたい申し出だが、ここで見聞きしたことを君の口から他に漏らすのはよくない。きちんと上から正式に『里』に連絡させてもらう。事が『落ち人』と関連しているのなら、我々の手に余るのでね」
「わかりました、口外しません」
メキナハは頷きながら答えた。
「この辺りで『落ち人』の言葉を話せる者は、君以外にいるか?」
「いえ、『里』以外では私が知る限り、いないかと」
「そうか。……ありがとう、メキナハ嬢。お陰で迅速な対応ができる。ただ、身辺には用心してくれ、必要ならば護衛もつける。君は腕が立つらしいが、誰かいればいざという時の使いっ走りくらいにはなる」
メキナハは首を振った。護衛など、メキナハには必要ない。むしろ、行動を見張られているようで居心地が悪い。
「そんなご迷惑をおかけするわけには……」
「護衛に加えて、定時巡警に君の自宅の周りを組み込む。君の当面の予定は?詳細を提出してもらえないか。それと、知らない人物を見かけたり、話しかけられたら必ず報告してくれ」
「いえ、あの……。は、はい」
セヌリューバの勢いに、メキナハは護衛を断る機会を失った。
「よし。本当はこの件の目処が立つまでは自宅から出ないでほしいところだが、」
「えぇっ!」
「仕事もあるだろう。だが決して一人で行動しないと約束してくれ」
「それは……」
さすがに困る。どうやって断ろうかとメキナハは懸命に考えた。
「狙われている可能性があるのに放置はできん。君の身と街の安全を守るために協力して欲しい」
「……」
「職場までは誰かに送迎させる。不便だろうが、よろしく頼む」
こうまで言われてしまっては、断れない。これは、護衛半分、監視半分といったところか。面倒な事になった、とメキナハは思った。この国に来て二年。そろそろ覚悟を決めなければならない時が来ていた。
セヌリューバはため息を押し殺して立ち上がった。メキナハには告げなかったが、ダムダ312は、現在も治療中のあの男性が刺されて倒れていた場所だ。メキナハに見せた写真は少し離れた場所にあった落書きだ。
あちこちに様々な言葉でダムダへ進めと落書があり、そのダムダで人が刺された。最早『落ち人』が事件と無関係とは考えられない。早急に手を打たねばならない。
波乱の予感がした。そして、彼のカンはよく当たるのだ。
ガレシュ、イイタダイ、シィトゥーハ、そして意外なことに受付嬢が新たにメキナハの武術教室に出入りし始めた。
受付嬢はエンザギーという名で、話してみると真面目で面倒見のいい女性だった。メキナハは、彼女が実は騎士の資格も持っているとか、幼い頃からもう十五年も騎士団で働いて、騎士としては大成しなかったが、掃除炊事洗濯から事務まで、なんでもやってきて現在の受付嬢になった、ということを聞かされた。
彼女に関する噂も本人から聞かされた。実はセヌリューバ主任の亡くなった弟と恋仲で、彼を想って未だに一人なのだとか、いや主任に片思いで、彼が結婚した後も妻を亡くした後も、何も言わずにただ騎士団を支え続けているのだとか、色々だ。本人がニコリともせずに淡々と告げるのだから、メキナハとしては反応に困った。
(だとしたら、セヌリューバ主任がエンザギーさんのことを、警戒心が強くて融通が利かないとか言ってたことは、とてもじゃないけど言えないなあ)
メキナハは思った。受付嬢はコリュモよりもさらに数年ほど年上だろうか。さすがに噂の真偽を問うことはできなかったが、少なくとも主任に対して、何の思い入れも無いというわけではなさそうだ。
では何故、メキナハにこの話をしたのか?
(まさかと思うけど、主任に近付くなと牽制してるんじゃないよね?)
メキナハはセヌリューバの顔を思い出した。かなり年上で、亡くした奥様を今でも思い、その弟を過保護に扱い、子煩悩で、性格も顔も厳つい大男。
(エンザギーさん、主任様。皆様に慕われてる主任様だし好みの問題だとは思いますが、ちょっとナイです、すみません)
向こうもナイだろうけど、とメキナハは苦笑した。
(それにしても、騎士団の女性陣は、恋愛に消極的というか後ろ向きというか…)
彼女たちの仕事の場での勇猛さを知るだけに、なんだか可笑しいメキナハだった。
そんな受付嬢や捜査員たちが教室に出没するようになり、また見知らぬ騎士たちも毎日自宅周辺を巡警する生活に加え、コリュモがメキナハの家に転がり込んできた。
「私が守るからね!騎士服の人間が家に出入りするだけでも違うし!」
コリュモは大張り切りだったが、メキナハとしてはむしろ近隣住民に、いわく付きの人物との印象を植え付けてしまったのでは、と思った。
「キーナの料理を毎日食べられるなんて幸せー!泊めてもらってありがとね。ウチに来てもらってもよかったんだけど、騎士団の寮は狭いし、部屋もしょっ中女子たちが出入りしててうるさいしね」
それはちょっと楽しそうだなぁ、などどメキナハは心の中でこっそりと呟いた。
そしてこれだけ四六時中捜査員たちが周囲にいるにも関わらず、メキナハが読まされた文字についての情報は、一片も知らされていない。セヌリューバ主任はこの件が片付くまで護衛すると言っていたが、一体いつまでこんな状況が続くのか。常に見張られているに等しい現状に、メキナハはげんなりとし始めていた。
「あれ、ルバイヤ先生じゃない?」
ある日メキナハがコリュモと連れ立って歩いていたところ、コリュモの想い人、治療院のルバイヤ医師が濃い茶色のボサボサ髪を片手でかき回しながら、ヒョロ長い足をせかせかと動かしていた。
「あ、ほ、ホントだ、どうしよう!私、化粧もしてないし、こんな格好で……。キーナ!逃げよう!」
「何言ってるのよ、ほら、声かけなよ」
「いやいや、ムリだから!」
「もう!頑張って!……ルバイヤ先生!」
メキナハが声をかけると、ルバイヤ医師は振り返り、ずれた眼鏡を掛け直した。
「やあ、メキナハさん、それにコ、コリュモ捜査官」
「こ、こ、こんにちは、ルバイヤ先生」
二人はぎこちなく挨拶を交わすと、モジモジと下を向いたままだ。メキナハは一瞬、天を仰いでから声をかけた。
「すみません、お急ぎでしたか?」
「いや、特には。急いでいるように見えたかな?」
「随分と早足でいらしたので」
「ハハ、早足は癖みたいなものでね。特に急ぐ用もないのにせかせかと歩いてしまう」
メキナハや他の女性とは自然な会話ができるのに、この先生ときたら、コリュモと話す時だけ急にたどたどしくなるのだ。メキナハは呆れるやら可笑しいやらで半笑いだ。
「い、いつも、とても、その、お忙しくていらっしゃるから……」
コリュモが囁くかのような小声で言った。こちらもいつもの凛々しいハキハキ声はどこへやら、顔を上げて相手を見ることすらできない。
「い、いや、その、悪い癖だろうから、気をつけなければとは、思ってはいるんだが」
(おお。今日は会話が成立してる。二人とも地面に向かって話してはいるけれども)
ここでメキナハが口を挟むわけにはいかない。タイミングを図りながらメキナハは二人に心の中で声援を送った。
「わ、悪い癖だなんて、思いません!いつも、患者さんの為に走り回っていらっしゃるからこその、癖なのだと思います!私、あの、あの……。そ、尊敬します!」
「えっ!……あ、ありがとう、う、嬉しいよ。でも、誰かと歩く時には、やっぱり気をつけなければね。ついてくる人も、その、大変だ」
「……わっ私っ、私だったらっ、隊でも足が速いんですっ、先日の訓練会でも、女性の部で優勝しました!」
メキナハは嘆息した。ダメだこれ。短距離走の順位を言ってどうする。
「……あの、私、ちょっと先に行きますね。お二人はごゆっくり」
コリュモはガバリとメキナハに振り返った。
「ダメよ、一人で行っちゃ!危ないじゃない!」
「すぐそこだし、大丈夫よ」
「一応私、護衛だよ?近くでも、絶対ダメ!」
「……護衛?」
ルバイヤが怪訝そうに尋ねると、コリュモはしまった、という顔をした。メキナハの現在の状況は、触れ回っていいものではない。
「あ、あのですね、えっと、彼女、何だかヘンな男に付きまとわれていて……」
「……何だかヘンとは?」
「そ、その。贈り物を無理矢理押し付けてきたり、デートにしつこく誘ってきたり、行く先々に現れたりして……。気味が悪いですよね」
(コリュモったら!そんな事言ったら、ルバイヤ先生はあなたに贈り物もデートの誘いもできなくなっちゃうじゃない!)
メキナハは思わずコリュモの顔を見た。しかも随分と具体的である。
「気になる方とか、好ましい方からなら、大歓迎なんですよ?ただ、今回の方は、ちょっと……」
メキナハが援護すると、コリュモもハッとしたように慌てた。
「そ、そうなんです!すっ、す、好きな人からなら、大歓迎なんです!」
「そっ、そういう、ものなんだろうか。僕のような唐変木には難しすぎるな」
「先生は、唐変木なんかじゃないです!」
……なんでここにいるんだろう、私。メキナハはすっかり阿呆らしくなってしまった。
「お二人とも話し足りないでしょう?大丈夫だから、私、行くね」
「……それはダメ!キーナが行くなら、私も行くから!大体、いつでも任務を最優先しろって言ってるのはキーナじゃない。……せ、先生、あの、その、」
「……。はぁ、わかったわ。先生。お食事はお済みですか?今から、美味しいって評判のお店に行くんですが、良ければご一緒にいかがですか?」
(全く。声をかけるのも食事に誘うのも私だなんて、二人ともなんて手のかかる……)
「食事って、コ、コリュモ捜査官と?!」
「お邪魔でしょうが、私もおります」
「お邪魔だなんて、そんな、そ、その、ぜ、是非、行かせてもらいます」
その後、いつもの半分も食べないコリュモと、なんとか会話を盛り上げようとしては撃沈するルバイヤとの間で精神面をざくりざくりと削られたメキナハだったが、顔を上気させた二人が幸せそうに見つめ合うのを見て、良かった良かった、と思う反面、ホント何やってんだろ私、損な役回りにも程があると、普段は頼まないデザートのおかわりを注文したのだった。
メキナハの「げんなり」には他にも原因があった。例えば目の前の人物である。
「ね、イイタダイ捜査官はメキナハさんのこと、キーナちゃん、って呼んでるよね?可愛い響きだよね、キーナちゃん、って。僕も呼んでいい?」
いえ、やめてください、勘弁してください、……とは言えないメキナハだった。イイタダイは勝手に呼び始めたのだが、それを咎めていない以上シィトゥーハにだけ禁止するわけにもいかない。その辺のことも計算してイイタダイの名を出したのだろう。食えない人だ。
それでもシィトゥーハの人との距離の詰め方には感心する。押し付けがましくなく、自然にいつの間にか打ち解けてしまうのだ。だがそれだけに余計にメキナハは身構えてしまう。
「なんと呼んでいただいても構いませんが、シィトゥーハさんは皆様になんと呼ばれているのですか?」
「え、僕の呼び名で呼んでくれるの?嬉しいなあ、でも僕、シィトゥーハって名前自体が兄さん家に引き取られてからつけてもらったんで、これといった呼び名がないんだ。そうだ、キーナちゃんが考えてよ!それで呼んでもらえたら嬉しいな!お願い!」
……上手い。上手すぎる。メキナハは思った。思わず絆されるようなエピソードを織り交ぜつつ、断りづらい頼みごとをする。しかも既にキーナちゃん呼びである。これでもし無自覚なのだとしたら稀代の人たらしだ。
「いえそんな。大切なお名前なのですね。では皆様と同じように、そのお名前で呼ばせていただきますね、シィトゥーハさん」
……上手い。上手すぎる。シィトゥーハは思った。鉄壁にも程がある。亡き姉と二人、過酷な子供時代を過ごしたせいで、すっかり人の表情を読むことに長けてしまった。だが目の前のこの女性は非常に分かりにくい。本当の気持ちから出てくる微笑みと、作った微笑みとの区別がつかないのだ。それに、常に伏し目がちで目の動きも分かりにくい。こちらの顔を見ているのに目は見ていない感じだ。相当の訓練の成果としか思えない。これで無自覚なのだとしたら稀代の役者だ。
「……残念だなあ、キーナちゃんだけの特別な呼び名で呼んでもらおうと思ったのに」
「……素敵なお名前なのですから心を込めて呼ばせていただきますね、シィトゥーハさん」
二人は乾いた笑いを交わし合った。
ある日メキナハは困っていた。洗濯物を飛ばしてしまったのだ。脚絆なのだが淑女としては誰かに見られるのはごめん被りたい。履いて回っている時は全く気にならないのに、洗濯物となった途端、一気に恥ずかしく感じるのは何故だ。とにかく一刻も早く回収しなくては。見回すと少し離れた木の先に引っかかっている。
慌てて近寄って見上げてみると、まあまあの高さがある。幸い辺りに人影はない。メキナハは軽く助走をつけると思い切りジャンプした。惜しい。あと少しで届かない。
人の気配を感じハッとして見回すと、イイタダイとガレシュが目と口を大きく開けてこちらを見ている。しまった。見られた。
「……凄いジャンプだね、キーナちゃん。見惚れちゃったよ」
イイタダイが感嘆しながら近寄って来た。ガレシュも開いていた口を閉じて近寄る。何故か赤面していた。何故だ。
「お疲れ様です。あの、実は、洗濯物を引っ掛けてしまって……、あ、見ないで!」
見上げようとした二人をメキナハが慌てて止めると、二人は猛烈な勢いで視線を下げた。
「えっとその……。手伝おうか?肩車でもしようか」
「有難いですが、肩車では届かないかと」
「そうか、じゃあ、ジャンプの踏み台になろうか。レジー、お前やれよ」
イイタダイがガレシュに言うと、ガレシュは目に見えて狼狽えた。
「え……」
「いえそんな!」
「いいからいいから。ほら、早く。飛んで行っちゃうかもよ」
ガレシュはメキナハを振り返り、戸惑ったようにウロウロと目を泳がせた。
「……どうすればいいか?」
「で、では、身体強化はお得意ですか?肩の辺りを強化、お願いしたいのですが」
「ああ、得意だ」
「い、いえ!ご自分の肩です!」
メキナハの肩に手を伸ばそうとしたガレシュを慌てて止めると、彼はさらに赤くなって手を引っ込めた。
「そ、それでこの辺りで、両手を膝に……、はい、そんな感じで。肩を蹴りますので膝を柔らかくして衝撃を逃して下さい、大丈夫そうでしょうか……」
「いけそうだ」
メキナハは遠慮がちにガレシュの肩に触れた。
「この辺りを蹴りますので強化を集中して……。頭を引っ込めて地面を見て……。はい、ではいきます」
メキナハは後方から助走をしてガレシュの肩を蹴りジャンプし、ようやく靴下を回収した。ふわりと降り立つメキナハに、二人は賞賛の眼差しを送った。
「いやー、いいもん見せてもらったよ、勉強になるよ、キーナちゃん。今度教室で、高くジャンプするコツを教えてもらおうかな。色々応用が効きそうだ」
「いえそんな。コツなんて。……その、ガレシュ捜査官。ありがとうございました。肩は大丈夫ですか?」
「問題なさそうだ」
自分に向き直って話しかけるメキナハに、ガレシュは微笑んでみせた。肩を蹴られた衝撃よりも、肩に触れられた手の感触の方が動揺したことは、とても言えそうになかった。
次回は番外編となります。コリュモの昔話です。