にのさん
よろしくお願いします
暗闇から人影がじんわりと湧き出てきた。
「よお」
人影はメキナハに歩み寄り、声をかけてきた。メキナハと同じ黒髪。ハビで牢にいるはずの、メキナハの因縁の男。彼女が「黒」と呼んだ、元許婚のゲン。ここにいるはずもない人物だ。
「ずいぶん楽しそうじゃねぇか、男を何人も侍らせて。ジザを売った裏切り者が!」
怒りで歪んだ顔を隠しもせず、ゲンはメキナハと距離を詰めてきた。久しぶりに聞くジザの言葉。
「ゲン……」
メキナハが呼びかけると男は急に怒鳴り始めた。
「俺の名前を呼ぶな!反逆者の分際で!継手様と呼べ!」
「つぎて……?あぁ、次期首長に指名されたのですね、おめでとうございます」
メキナハは言った。わざとだ。
継手とはジザの次期の首長に指名されている者のことだが、彼が勝手に名乗っているだけなのだろう。現在の状況ではジザの次期の首長を定める意味も方法もない。たとえあったとしてもゲンは終身刑に服しているのだ。選ばれるはずもない。
案の定、ゲンは押し黙ってますます顔を歪めた。
「服役中では?どうやってここまで?」
「案内してもらったのさ。お前に答える必要はねぇな」
案内?誰に?
ゲンの言葉に、今度はメキナハが顔を歪めた。
「何か用ですか?」
「迎えに来てやったのさ。許婚をな」
メキナハは不快感を隠して首を傾げてみせた。
「いいなづけ……?どなたです?」
ゲンは眉を吊り上げワナワナと震え出した。メキナハの服従や無抵抗が常だった彼には、今の彼女の言動はあり得ないものなのだろう。
怒りで言葉も出ないゲンを、メキナハはさらに煽った。
「そういえば、顔の傷は綺麗に治ったのですね。残念、少しは貫禄がつくかと思ったんですが」
ついにゲンは殴りかかってきた。メキナハはひらりとかわすと、振り返ったゲンは真っ赤な顔で怒鳴った。
「ウルセェ!ごちゃごちゃ言ってないで、早く来い!」
断然、全力でお断りだ。
だがこの男がいかに凶暴で、獰猛で、そして手強い武術家であるか、メキナハはよく知っている。
メキナハは身につけた装身具を外し始めた。ゲンは虚をつかれた様子だったが、メキナハが上着を脱ぎ始めると、何を思ったのか口角を上げて目を脂ぎらせた。
馬鹿め。何を考えているんだか。騎士団の姉さんたちが貸してくれた衣装を汚したくないだけだ。装飾過多で動きにくいし。
この馬鹿な男を倒せるのは、自分しかいない。自惚れでも何でもない、凌駕する技量を持っているのは自分だけだと己を奮い立たせた。
呼吸を整え、集中すると、ゆっくりと構えをとった。
ゲンは、溢れ出すメキナハの殺気に飲まれた。一歩下がると胸元を手探りでナイフを取り出す。
「このああああアーーーッ」
意味の無い叫びを放ちながらゲンは地面を蹴った。
メキナハは跳躍してかわし、その背中の心臓の辺りを蹴ろうとする。ゲンは体を捻って避けるが避けきれず、メキナハは肩を踏み抜くことになった。ゲンに片足を掴まれてしまったが、ためらいなくもう片方の踵で思い切り顔の中心を踏み抜く。鼻の骨の折れる音がして、ゲンが咆哮しメキナハから手を離した。
素早く立ち上がるとゲンが手放したナイフを蹴ってできるだけ遠くに飛ばした。距離を取るが、ゲンが驚異的な速さで無傷の方の肩を使い拳を繰り出した。
後ろへ飛ぶが避けきれない。受けた両腕を最大限に強化したが、右腕にミシリと嫌な音がした。
強い。
ゲンがもう一本、ナイフを取り出した。メキナハは舌打ちしそうになった。一体何本持ち歩いているんだ。
こいつは必ず、動けなくなるまで叩きのめさなくてはならない。
そうやってどれほど経った時だったろうか。メキナハは、ゲンが一瞬、ふらついたのを見逃さなかった。強化した拳を顔面に繰り出す。先程傷付いた辺りを容赦なく狙った。
ゲンがよろめいた所でもう一発。完全に足をもつれさせたところでもう一度。
ゲンの瞳に恐怖が浮かんだ。
ゲンは身を翻した。会場の中を目指して走り出す。
メキナハはすぐには追わなかった。脚絆を外し、傷ついた右腕に左手だけで器用に巻きつけて固定する。折れているかもしれない。
どうせ奴が向かうのは会場だ。ゆっくりと乱れた呼吸を整え、身体強化を再度巡らせてから会場へ向かった。
予想通りの光景が広がっていた。
招待客の幾人かは、壁際で防護盾に守られ、さらに騎士たちが囲んでいる。他の者たちも全員、既に剣を抜き、ゲンに向かって構えている。
メキナハが姿を見せると、ゲンは血走った目を向けた。
「謀ったなあああアアーーーツ!」
メキナハは答えなかった。
ただ、ここでコイツが諦めて、投降するような頭を持っていなくてよかったと思った。
必ず再起不能にする。
音もなく近づくと、ゲンが突き出した右腕を蹴り払った。すかさず殴りかかってきた左の拳を、既に折れている右腕で受けた。メキナハも左の拳を顔面に繰り出す。
最前列で剣を構える騎士たちは、歴戦の面々だ。優れた武術家二人の死闘をじっと見守っている。たとえ手負でも、ゲンは彼らの手にあまる。下手に手を出せば邪魔になるだけだ。スキなく剣を構えつつ、後に「伝説の死闘」と呼ばれる対決を目に焼き付けていた。
ついにゲンは体勢を崩した。その腹へメキナハは膝を深くめり込ませる。
ゲンは崩れ落ちた。
メキナハは手を緩めなかった。その背中に踵を落として彼を床に沈めた。
さらに蹴りを入れようとすると、「そこまで!」と声がかかった。セヌリューバの上司で団長だと紹介された人物だ。
輪が解け、人々がわらわらと集まった。セヌリューバの上司らも大股でメキナハに近づく。
「手当を……」
と言いかけた彼らに、メキナハはささやいた。
「二階です」
さすがに歴戦の戦士たちは振り返って二階を見るような真似はしなかった。何人かがそっと向かう。だがメキナハは、二階の観覧席の人影が身を翻すのが分かった。
逃げる!
メキナハは靴を脱ぐと、全力で走った。いきなり走り出したメキナハに人々がどよめく。二階へ?間に合わない。バルコニーへ直接?届かない。メキナハが一瞬迷ったその時。
「キーナ!!」
久しぶりに聞く声の方を見ると、行手に男が二人。セヌリューバと、ガレシュだ。何故ここに?と疑問に思う間もなく、ガレシュが中腰の姿勢になった。ジャンプの踏み台になるつもりのようだ。
「もっと強く!!」
メキナハは叫んだ。ガレシュは肩の強化を最大限に集中した。
メキナハはためらわなかった。そのまま走り込みガレシュの肩を蹴ると、バルコニーへと跳躍した。無事な方の手でかろうじて手すりを掴むと、勢いをつけてひらりとバルコニーへ降り立った。
逃亡者は中から鍵を掛けたようだ。外開きの開戸に体当たりする。ガラスが飛び散り、額を切ったのを感じたが構わずメキナハは中に飛び込んだ。
中の人物はこちらを振り返った。メキナハを見ると驚愕し、逃げようとした。構わず詰め寄ると、その人物は尻餅をついた。部屋の扉が乱暴に開けられ、騎士らも飛び込んできた。
尻餅をついた人物の傍に膝を突き、メキナハは笑って見せた。
「久しぶりですねぇ、シュンさん。こんな所でお会いするとは、全く予想外ですよ。お父様はお元気ですか?」
それは、会場でメキナハを暗い目で見つめていた人物、ツダの息子、『里』の住人のシュンだった。
「ご子息には現在、内通罪の嫌疑がかけられておりましてね」
駆けつけたツダに対し、セヌリューバは言った。
「その件で、あなたにもお話を伺えればと待っておりました」
ツダは驚きの表情を浮かべた。
「ご子息の最近の様子ですが、交友関係や、高額の支出、目的がはっきりしない旅行などがありましたら……」
「ちょ、ちょっと待ってください、息子は内通などど言う大それたことの出来る器ではありません、『里』生まれ『里』育ちで、外のことは詳しくないのです。何かの間違いです」
「ご子息は、関係者以外は立ち入りどころか開催場所すら極秘となっていた特殊演習の場に忍び込んでいたのですよ」
ツダの表情が崩れた。大きく驚いている証拠だ。
「演習?そんな……、そんなバカな。
とにかく、息子に会わせてください。直接説明を聞きたい」
「ご子息がどこで演習の情報を得たのか、忍び込んで何をするつもりだったのか。明らかになるまでは面会も釈放も許可できません」
ツダは驚愕の表情で、救いを求めるかのように事務室を見渡した。全員が手を止め、立ち上がってツダらを注目している。折れた右腕を肩から吊って隅に座るメキナハを目にすると、ツダは憤怒の表情を浮かべた。
「彼女です、メキナハです!パーティに参加するので衣装を貸して欲しいと私に言いました。私の息子は随分前からメキナハに求婚していましてね、彼女に会いたかったのでしょう、それだけなのです!内通などど、とんでもない!それはこの事務所の皆さんだって聞いてたはずだ!ここで彼女からパーティのことを聞いたんですからな!」
メキナハを指差しながらツダは叫んだ。
「ほぉ……。彼女にね……。では、ご子息は、そのパーティの日時や場所をどのように知ったのですかな?」
「私が教えました。メキナハから聞いていましたのでね」
セヌリューバはツダに歩み寄ると、彼の肩に手を乗せた。
「ツダ殿。あなたを偽証罪で拘束します」
「なっ……!」
「あなたは『落ち人』だ。我々に『落ち人』は拘束できない。が、現行犯なら話は別だ」
ツダは一瞬で事態を理解したようだ。
「ぎ、偽証罪ではない!本当にメキナハから聞きたのだ、やはり衣装を融通できないかと連絡をもらったんだ!それで詳しい日時や場所や参加者を聞いた。彼女が情報を私に漏らしたのだ、彼女の方が内通罪だ!」
「ツダ様」
メキナハは立ち上がる。
「……残念です」
メキナハは、腹立たしいというより、悲しかった。父とも小父とも慕った兄弟子だった。師匠を失った後のメキナハにとって、唯一家族と呼べる存在だった時期もあったのに。
「……私を嵌めたな!メキナハ!お前が確かに私に教えたじゃないか!」
「それは無理なのですよ、ツダ殿」
セヌリューバがツダを制した。
「キーナは知らなかった。あれは国賓を招いてのパーティに不審者が侵入することを想定した演習だったのです。国賓役には私の父が担当し、父がキーナをエスコートしていた。二人とも、当日の朝まで決行日を知らなかったし、場所も知らされずに会場へ連れてこられた。あなたに教えるなど不可能です」
ツダの顎が落ちた。視線を落とすと、また一瞬で計算したようだ。
「……すみませんでした。あまりのことに動転して、思い違いをしてしまいました。確かに彼女がパーティに参加するらしいとは息子に伝えましたが、それ以上はよく覚えていません。どうやって息子が日時を知ったかは、私には全くわかりません」
重い沈黙が落ちた。室内の全員が、ツダは息子を切り捨て、保身のため我が子に罪を着せたのだと悟った。メキナハに日時を聞いたと言い、参加者まで聞いたと冤罪をかけようとしておきながら、今さら思い違いとは。
「……機密情報の漏洩は、重罪だとご承知でしょうな?「文化の違い」では済まされませんぞ。……詳しくは別室で聞く。お連れしろ」
セヌリューバが低い声で命じた。腕を取られて連行されていたツダは立ち止まってセヌリューバを振り返った。
「息子はどうなりますか?」
セヌリューバは苦く笑った。
「あなたに家族への気遣いが残っているようで安心しましたよ、内通罪にせよ侵入罪にせよ、彼はあなたと違って『落ち人』ではない。カイレーの『普通人』と同じ刑が科されるとだけ言っておきましょう」
ツダの後ろ姿が扉の向こうに消えると、クダツーがメキナハに声をかけた。
「彼が今回の主犯だと、君も思うかい?」
「……はい。残念ですがそのようです。シュンさんを使って私とゲンを接触させたこと、ヤデイニトコの『里』を扇動しカイレーとの衝突の原因を作ったこと。彼が主導で間違いないでしょう。でも……」
「そう。ツダが何故こんなことをしでかしたのか全く不明だ。『落ち人』の立場を主張する割には『落ち人』を危険に晒しているしな。
しかも、ゲンがどうやって脱走したのか、それとアーニーさんの件、そこはツダの主導じゃなさそうだ。他に黒幕がいる。キーナさん、誰だと思う?」
クダツーが問いかける。
「……全くの当て推量になりますが、私の異母兄、前首長庶子のロクではないかと。他に思い当たりません」
メキナハは目を伏せた。ツダの行動は彼一人ではなし得ない。ロクに対する怒りが沸々と湧いてきて、今のメキナハには抑えることが難しかった。
「……ロクという人物が黒幕と決まったわけではないし、今後ツダの聴取でどこまで明らかになるかわからんが、今回の結果はまあまあといったところだろう。それでだ」
セヌリューバがメキナハに歩み寄った。
「……お前、団長殿が止めなかったら、ゲンにとどめを刺すつもりだったな?殺す気か?」
「殺意がなかったとは言いません。殺す気で向かわなければ倒せない相手でした」
「捨て身が過ぎる!あの男が死んだら過剰防衛に問われるぞ、あの場の全員、そんなことをさせたくてお前を参加させたのではない!今だって、ルバイヤ医師が必死でヤツを生かしているんだ、お前が罪に問われないようにな!」
メキナハは息を呑んだ。単独行動が常だった彼女は、気遣いや善意への返し方がよく分からない。顔を上げて見回すと、全員が彼女を見ている。ガレシュも少し離れたところで、厳しい顔で彼女を見ている。
そういえば彼は、メキナハが彼女自身を諦めている様子なのが腹立たしいと言っていた。それはこういうことだったのかと、今さらながら思い至った。彼女を大切に思う人間がいることを忘れないでほしいとも言っていた。
「……申し訳ありませんでした」
なんとか言葉を絞り出すが続かない。頭を深く下げた。
「……幸い、ヤツはまだ意識は戻らんが、回復に向かっている。そこで、罰として、お前には来月から三ヶ月間、社会奉仕活動に従事してもらう」
「奉仕活動?」
「そうだ。騎士団の団員たちの指導に当たってもらう。毎日だし、当然だが無給だ」
セヌリューバの言葉に周りの団員たちが目を輝かせた。この武術の達人に指導してもらえるかもしれないなんて。
「ヤツの意識が戻ったら聴取が始まる。それが終わり今後の処遇が決まる頃には、お前の奉仕も明けるだろう。それまではおとなしく務めるんだな」
団員たちはわっと沸き立った。メキナハの周りに集まると、口々に労いや期待の声をかけた。
この人たちは皆、身内に甘すぎやしないか。こんなにも真っ直ぐに温かく迎えてくれるとは。セヌリューバの影響だろうか。
そう思ったメキナハはふと、自分をこの人たちの身内とみなしていることに気付き、赤面した。
伝説の死闘を繰り広げた少女、最悪と呼ばれた脱走犯を容赦なく叩きのめした人物が、恥じらいを見せて赤面する様子に、女性騎士を中心にその日のうちにファンクラブが立ち上がったことを、当人は全く知らない。
拘束されたツダの表情はあまり変わらなかった。疲れた顔をしているのは、むしろ取調官やクダツーらだった。ツダもまたメキナハと同じく、表情が読みにくい。あの二人は同じ師匠の門下生だったなと、クダツーは思い至る。
「私は十五の時にこの世界に落ちてきたのですよ」
ツダは肝心の事件については全く話さないが、自分の背景についてはよく喋った。ほとんど恨み言と言ってもいいような話は、取調官らを苛立たせ、疲れさせた。
「我々の世界には、他の世界からやってきた人物なんていません。他の世界があることすら知られていない。なのに、ある日突然、この未開の世界にやってくるのです。どれほどの衝撃か、分かりますか?
この世界はね、我々にとって本当に不便だ。しかし帰れるわけではないので、この地で生きていくしかない。
私は四十年近くもこの地の同胞たちが少しでも過ごしやすいよう、楽しく暮らせるように尽力してきました。ひいてはそれが、あなた方この地の異世界人たちの発展にも寄与すると信じてやってきた。この地に貢献することで、同胞たちの立場を強化してきたのです。その昔は本当に酷いものでしたからね。
お陰で我々は自分を守ることができるようになった。あなた方に『落ち人』を二日以上拘束することはできないはずだ。私は十分、協力しました。メキナハには迷惑をかけましたがその点は彼女に直接、償っていきます。
そろそろ帰してもらえないですかね」
ツダの言う通り、偽証罪の疑いでは『落ち人』を拘束できない。昔、『落ち人』たちを不当に拘束し使役していた時代があったので、彼らを保護するためにそう決められているのだ。このままでは、ツダを釈放せざるを得ないだろう。
クダツーはもどかしさに唇を噛んだ。




