第十話 秋季大祭の始まり
暁綺の言葉通り、皇太后と燕月妃が張り切って秋季大祭の準備に取り掛かってくれたことで彩花が苦労することは何もなかった。
さらには次の春季大祭の際にも困らぬよう、必要事項が驚くほど細かに記載された資料も渡された。それは、それがあればもはや彩花がいなくても十分進行できる状態であった。
だから、時間が有り余っているはずだと判断されたのだろう。
「彩花。初めは慣れないかと思うが、儀式中の作法はきっちり叩き込ませてもらうぞ」
「皇后陛下、私もできる限り補佐させていただきますので」
そう宣言した皇太后と燕月妃により、彩花は畑作業以外の時間のほとんどを礼儀作法の時間に充てられていた。
(指導時間はそれほど長くないけれど、課題が多すぎる……!)
一応琇家でも手習はしていたが、常日頃からお嬢様として暮らしていたわけではないので指先一つの動かし方でも神経を使う。
(二人とも丁寧な指導だけどものすごく細かい指導が入るって感じるけど……上流階級にとっては普通のことなのよね)
特に燕月妃からは「私の持つすべてを吸収してくださいませ」と、親切極まりない説明が行われた上、大祭当日も補佐役として彩花を支えたいと申し出てくれている。
ただ当日と言えばほぼ座って微笑むだけでよく、立后の儀の際に祭壇前に少し動く程度だ。さすがに大丈夫だとは思うが、今後のことを考えると所作のことは学ばざるを得ないのはわかる。
(……しかし本当に私が皇后で構わないのかな)
考えなしに与える位ではないことは理解しているし、皇太后と燕月妃の全面協力があるならなんとかなるということも理解できる。
だが、本当に皇后に相応しい人物はほかにたくさんいるのではないかと思う。
何せ自分は盃を手に取る動作すら修正に時間がかかる状態だ。
燕月妃や静花とは、やはり違う。
「何か真面目な考え事をしているみたいだな」
「あ、陛下。お疲れ様です」
「疲れているのはそちらに見えるがな」
暁綺が夜にやってくるのは大祭準備期間中も変わらない。
「大祭当日の早朝だが、琇家を呼んでいる」
「え? どうしてですか」
「立后の儀の前に形式的な挨拶があるからだ」
堂々と形式と言われることに少し笑いそうになったが、実際意味があると暁綺も思っていないのだろう。
「琇家宛の手紙には、養女の参内も許可する旨を記載しておいた」
「え」
「実質来いというようなものだから、会えるだろう」
それは静花に会うための口実を作ってくれたのだということはすぐにわかる。
「あ、ありがとうございます」
「別に、ついでだ」
「陛下、こういうときは素直にお礼を受け取ってくださった方がいいですよ」
事実、彩花としては心底感謝している。
雲海だけであればどうでもいいが、静花の姿を見ることができるのはありがたい。
元気な姿を見られれば、それだけで安心できる。
そう思い、彩花は翌日から作法の訓練にも気合が入った。
※※※
そして、大祭当日の夜明けすぐ。
彩花は暁綺の隣、つまり高さがある場所に座り、それなりの距離を置いて雲海と静花と対面することになる。
「ーーこれからも皇后陛下にご多幸があらんことを、お祈り申し上げます」
長い祝辞の最後にそう言った雲海は、とてもぎこちない様子であった。
(……まあ、そうなるわよね)
予想はしていたが、身代わりに差し出した邪魔者が皇后になるなど想定していなかっただろう。罵りたい気持ちもきっとあるのだろうが、そんなことをすれば破滅するのは自分だということは十分理解できているらしい。
一方、静花は静かに微笑んでいた。
体調も良いらしく、化粧だけの顔色ではないことがわかる。
「本日お越しいただいたこと、感謝致します。寒い季節が近づいておりますが、どうぞご自愛くださいませ」
表向きは雲海に声をかけるように。
けれど本心は静花に語りかけた。
そしてどうか幸せになってもらえますように、と。
※※※
彩花の前を辞した後、雲海は大祭の参列のため静花のそばを離れていた。
一人屋敷に戻っても構わないが、早く帰ればなぜ催しを見て来なかったのかと侍女たちから不思議に思われることは避けなければならない。
(でも、見たいなど微塵も思えない)
そもそも、この場になど来たくはなかった。
(……やはり腹立たしい)
心を無にして礼を尽くしたが、見下ろされて話されるのは気分が悪い。
相変わらず自分のことを慕っていることはわかるが、それが心地よく感じることなどもはやない。
なにせ、彩花がまったく不憫に見えないのだから。
そう思いながら歩いていたからだろう、気が付くと式典の会場からはそれなりに離れた場所へ移動してしまっていた。
下手に動き回るものでもないかと静花が会場近くへ戻ろうとしたその時「クソッ」という下品な声と共に何かが壊れる音がした。
(灯籠を倒したの……? なんて野蛮な男がいるのかしら。でも、お召し物の銀糸の紋章は……)
おそらく皇弟だと、静花は把握した。
祭典用の男性用の着衣には皇帝は金糸で、そのほかの皇族は銀糸の紋章が入る。
姿を見る限り、年齢と併せて考えれば皇弟でまず間違いがない。
「あの女が皇后……? あいつのせいで、春も祭典が行われた。あれさえなければ、とっくに失脚させられていただろうに……」
あの女、というのが彩花を指していることはすぐに理解できた。
宝花の栽培成功は彩花の立后理由の一つだ。
(そして、皇弟は中止を望んでいたから恨んでいる、と。……下手をすれば皇弟が花を切っていたということかしら)
彩花が褒められるだけではなく、一部の皇族の怒りを買っているというのであれば少し落ち着く気もするが、同時に皇弟のことは考えが足りないと考えた。
人がいないと思ったにせよ、他人を蹴落とす願望など不用意に口にすべき言葉ではない。
しかし、それを注意する義理も静花にはない。
下手に気付かれても面倒だと、何も見てないふりをしてできるだけ音を立てずに戻ろうと思っていると、皇弟は声を張り上げた。
「誰かおらぬか!」
現段階では静花に気づいている様子ではないが、ここで無視をしては余計に面倒ごとに発展するかもしれない。
こんなところに来たのもすべて彩花のせいかと恨みながらも、静花は声が届けられる位置まで移動した後体勢を低くし、礼をとった。
「皇弟殿下、いかがなさいましたか」
「水を持って来い……と、お前は女官ではないのか。面をあげよ」
「かしこまりました。おっしゃる通り、私は女官ではございません。しかしながら女官に殿下のお望みを申し伝えさせていただくことは可能でございます」
そしてそれを伝えたら早々に立ち去ろう。
そう静花が思っていると、皇弟は急に動き、静花の腕を掴んだ。
「い、いかがなさいましたか」
急なことにはさすがに静花も動揺する。
しかし驚いていたのは皇弟も同じだ。
「貴様……。いや、あの女は今祭典にいるはずだ。貴様は、誰だ」
「わ、私は琇 彩花と申します。琇 雲海の養女でございます」
「琇家の養女……? あの女と同じ顔で、その話が通用すると?」
「私は琇静花が自分の顔に似ているとのことで、拾われた身でございます」
果たしてこれで信じてもらえるのかどうかはわからない。
だが、事実だ。
彩花の振りをする必要があることは鬱陶しいと思うが、乗り切れば問題もない。
だが、皇弟からの返答がない。
下がるに下がれず、様子を見るしかない静花は、やがて皇弟の口の端が歪むのを目にした。
「そうか。お前があの女の代わりになればいい」
(え?)
「あの女も暁綺も“事故”で死ねば良い。そしてお前が暁綺だけが死んだと証言すれば何も問題はなくなる。代わりに私の皇后の座はくれてやろう」
一体何を言っているのか。
理解が追いつかない中でも、静花はとんでもない状況に巻き込まれたことだけは理解できた。




