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賃貸退去時立ち会い点検

作者: 春名功武

 その2階建ての一軒家は、賃貸であった。郊外ということもあり、広さはそこそこあったが、南欧風の外観は一昔前のバブル期を想像させた。井ノ原家という4人家族が15年間住んでいたのだが、隣町に建った新築のマンションに、本日引っ越していった。


 引っ越し作業を終えた室内には、父親の井ノ原信夫が一人残っている。これから退去時の立ち会い点検が行われる。家具や荷物などが何もなくなった室内は、一見して綺麗に見えた。しかし数カ月前は違っていた。いくつも問題を抱えていた。


 リビングの壁にはタバコのヤニで出来た黄ばみ、床には犬のオシッコのシミ、傷なんかも無数にあった。ドアは立てつけが悪く、開け閉めの度にキーキーと音がした。


 台所もかなり消耗していた。ガスコンロには焦げ付いたしつこい油汚れ、シンクには水垢やサビが媚びりついていた。排水口のぬめり、つまり、臭いも気になった。


 リビングの隣の和室においては、畳は変色し、障子やふすまの滑りが悪くて、開け閉めするたびにガタガタと音がする。


 さらに2階の子供部屋は、壁に大きな穴が開いていた。玄関、ベランダ、庭、洗面所、風呂場、トイレに関しても似たような問題を抱えていた。


 賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある。このままでは修繕費をいくら請求されるか分かったものじゃない。だから井ノ原家は家族一丸となって修繕作業に取り組んだ。


 修繕作業は意外に上手くいった。ヤニの黄ばみも犬のオシッコのシミも消えた。ドアの開け閉めもスムーズになった。台所の油汚れも、シンクの水垢やサビも綺麗になった。排水口のぬめり、つまりも無くなり、臭いも気にならなくなった。和室の畳と障子とふすまは、知り合いに紹介してもらった畳業者に、安く張り替えてもらった。障子とふすまの開け閉めの際のガタガタという音はしなくなった。ただ、ふすまの柄が若干違った。ふすまの柄なんて、どれも似たようなテイストだし、気が付く事はないだろう。最大の難関だと思われた子供部屋の壁の穴も、何とか塞ぐ事が出来た。玄関、ベランダ、庭、洗面所、風呂場、トイレの問題も全て解決した。家が見違えたように綺麗になった。


 井ノ原信夫は玄関のドアを開けて、管理会社の松田という男を迎え入れる。顔が小さく長身で手足が長かった。どことなく『天空の城ラピュタ』に出てくるロボット兵に似ていた。ロボットのように思えたのは、感情のこもらぬ話し方と、何を考えているか分からぬ無表情な顔のせいもある。見るからに癖のありそうな男だ。


 管理会社の松田は玄関で靴を脱ぐと、持参したマイスリッパに履き替えて、リビングに足を踏み入れる。


 これから、退去時の立ち会い点検が始まる。


 松田は壁の前に移動する。特徴的なギョロとした目が、ロックオンとばかりに壁に照準を合わせると、入居前の状態と変わりないかを隅々までチェックしていく。井ノ原は松田の取り組み方に正直驚いた。点検といっても名ばかりで、サラッと見る程度だと思っていた。これまで何度か退去時の立ち会い点検の経験はあるが、ここまで真剣な調査員は初めてだった。


 数日前なら壁はタバコのヤニで黄ばんでいた。しかし、わざわざ海外から取り寄せた業務用の超強力クリーナーを使って、せっせと綺麗に拭き取った。その超強力クリーナーは、タバコのヤニ以外にも油汚れ、黒ずみ、手垢など色々な汚れに広く効果がある優れもの。松田がどんなに食い入るように見ようが、何も見つかりっこない。しかし…


「ここ、黄ばんでいますね。タバコのヤニですかね」

 松田が感情のこもらぬ口調で言った。

「え、そ、そんなはずは…」

 井ノ原は動揺しながらも松田の見ている辺りに視線を向ける。微かではあったが、確かに黄ばみの取り残しはあった。

「賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、壁紙の張り替え代は支払ってもらう事になります」

「いや、ちょっと待って。これぐらいの黄ばみなら、壁紙を張り替えるほどでもないように思うけど」

「つまり、黄ばみがある事については、異論はないと言うことですね」

「え、いや、まぁ、黄ばみかな」しぶしぶ言う。

「先程も申しましたが、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務があります。僅かな黄ばみだとしても、井ノ原様が入居される前にはありませんでしたので、壁紙の張り替え代は支払ってもらう事になっております」

「本当に入居前には黄ばんでなかったのかな。いや、黄ばんでいたよ。そういや、あったよ。ここに引っ越してきた時に黄ばみ見つけたんだった。今思い出した。黄ばみはあったよ」

 汗水流し必死に黄ばみを拭き取った。あの努力を無駄にしてたまるか。井ノ原のそういった思いを、松田は一蹴する。

「元々、黄ばみがあったと異議申し立てされるのでしたら、証拠を提示していただく事になります」

「証拠…」

「はい。もし証拠がないのでしたら、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、壁紙の張り替え代は支払ってもらう事になります」


 証拠なんてあるわけがない。泣く泣く壁紙の張り替え代を支払う事になった。この松田という男、相当やっかいだ。どうやら貧乏くじを引いたようだ。


 松田は既に移動して、リビングのドアの前で足を止めていた。ドアノブに手をかけると、何度も開け閉めを繰り返す。無表情で同じ動作を繰り返す姿はまさにロボット。


 ドアの開け閉めの際にギーギー、キーキーときしむような耳障りの音がした場合は、蝶番のオイルが切れている可能性が高い。だから注油するだけで解消することが多い。井ノ原は、スプレータイプのシリコンオイルを蝶番の隙間から、心棒に向かって吹き付けた。シリコンオイルは、オイルにシリコンが入っているのでより滑りが良くなる。


 どうやら、シリコンオイルが効いているようだ。松田がドアの開け閉めを繰り返していたが、スムーズに動いている。音もしない。ドアは問題ない。大丈夫だろう。しかし…


「音がしますね。とても耳障りだ」

 松田の耳には、ドアのきしむ音が聞こえたようだ。

「え、そ、そんなはずは…」

 松田は自身の発言の裏付けとばかりに、ドアの開け閉めを繰り返す。かすかにキーという音が耳をかすめる。

「やはり音がしますね。耳障りだ」

「え、音なんかしたかな。僕には聞こえなかったな。気のせいじゃないか」

 井ノ原は先程の失敗を踏まえて、音がした事を認めずそう言ったのだが、松田は聞く耳を持とうともせずに淡々と進める。

「賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、ドアの修繕費は支払って貰う事になります」

「ちょっと待って。音なんてしてないって」こんな小さな音のせいで、修繕費を払ってたまるか。

「音はしています」

「いや、してない。キーなんて音、していないよ」

「私は音がします、と言っただけで、キーという音だとは言っていません。それなのに、どうしてキーという音だと分かったんです。キーという音が聞こえたからでしょう」 

 まるで刑事が犯人を追い詰めているようだ。

「いや、それは、その…ドアのきしむ音といえば、キーじゃないか」何とか言い返す。

「それと、この蝶番のところにシミがあります」

 松田はいつの間にか蝶番に顔を近づけて見ていた。

「シミ!?」

「ドアの開け閉めの際にキーときしむ音が気になったあなたは、蝶番の隙間から心棒に向かってスプレータイプのシリコンオイルを吹き付けた。その時に垂れたオイルが乾燥してシミになったのでしょう。しっかりと拭くべきでした」

「シミがあったらどうだというだ」

「つまり、シミがある事については、異論はないと言うことですね」

「え」

「井ノ原様が入居される前には、蝶番にシミはありませんでした。ですので、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、ドアの修繕費は支払って貰う事になります」

 こうしてドアの修繕費も支払う事になった。


 松田は台所にやってくるとガスコンロをじっと凝視する。台所を担当したのは妻だ。


 妻はギドギドに焦げ付いた油汚れに重曹を塗り込み、10分程度置いてから、スポンジで汚れをこする。アルカリ性の重曹は、酸性の油汚れを中和して柔らかくする性質がある。重曹のおかげで、たいがいの油汚れは落とす事が出来た。しかし落ちない油汚れがあった。それでも妻は諦めなかった。通販サイトでセスキ炭酸ソーダを購入した。セスキ炭酸ソーダは重曹よりも強いアルカリ性で、頑固な油汚れに効く。油汚れが酷い箇所にセスキ炭酸ソーダスプレーを吹き付けて、5分ほど放置してから、スポンジでこすり落としていく。ビクともしなかった頑固な油汚れが綺麗に落ちた。


 ここのところ、妻とは子供の教育方針の違いで衝突する事が増えていた。だけど、こうやって家族一丸となり取り組み事で、絆が深くなったように感じた。油汚れも2人のわだかまりも綺麗に落ちていったのだ。


 松田はガスコンロに表情のない顔を近づけて、隈なくチェックをしている。重曹とセスキ炭酸ソーダの二段攻め。油汚れなどあるはずがない。松田は鼻をクンクンとさせて臭いを嗅ぎ始めた。視覚だけでなく嗅覚も使おうというのだ。そこまでするか、と井ノ原は不快感を示す。臭いなどするわけがない。だけど、臭いを感知したのか、とつぜん松田の顔が、ガスコンロの側面に近づく。四方を一辺ずつ丁寧にチェックする。壁側の側面に移った瞬間、何かを見付けたのか、松田の視線がピタッと停止した。一点をじっと見詰めている。そして…

「油汚れがありますね」

「え、まさか」

 井ノ原も見る。微かではあったが、焦げ付いた油汚れがあった。

「賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、ガスコンロの取り換え費用を支払って貰う事になります」


 妻の努力を無駄にするわけにはいかない。井ノ原が抵抗する。

「妻はセスキ炭酸ソーダを使い、頑固な油汚れまできっちりと取り除いた。これは油汚れじゃないよ」

「そうですか。確かにセスキ炭酸ソーダを使用すれば、頑固な油汚れも落ちるでしょう。これは、油汚れではないのかもしれません。ですが、油汚れでなかろうが、井ノ原様が入居される前にはこんな汚れはありませんでした。なので、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、ガスコンロの取り換え費用を支払って貰う事になります」

「これっぽっちの汚れで、取り換える必要なんてないよ。資源の無駄だよ」

「ああ、そうですね。資源の無駄ですね。井ノ原様が引っ越されなければ、そういう事にもならなかったのですが、引っ越されるという事ですので、明け渡しの際には、入居前の状態に原状回復する義務がある為、ガスコンロの取り換え費用を支払って貰う事になります」

「…っていうか、この汚れ、入居前にあったよ。覚えている」

「そうですか。元からガスコンロに汚れがあったと異議申し立てされるのでしたら、証拠を提示していただく事になります」

 やはりこうなるか。証拠なんてあるわけがない。井ノ原が黙っていると、松田は続ける。

「証拠がないのでしたら、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、ガスコンロの取り換え費用を支払って貰う事になります」


 その後も松田は、シンクの水垢、サビの取り残しを見つけ出し、排水口のぬめり、臭いも指摘して来た。そして感情のこもらぬ口調で言う。

「賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、台所全般の修繕費は支払って貰う事になります」


 台所が終わると、次はリビングの隣の和室。松田は部屋に入るやいなや、違和感を覚える。部屋中を見渡してから言った。

「畳、張り替えましたね。障子とふすまも張り替えたようですね。柄が違っています」

 ふすまの柄の違いには気が付かないだろうと高を括っていたのだが、一目で見破られてしまった。ここは認めた上で交渉してみよう、と井ノ原は思った。

「痛んでいたから、張り替えたんだ。張り替えたばかりだから、このまま使えないかな」

「確かにどちらとも綺麗です。ですが、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務があります。いくら綺麗でも原状回復ではありませんので、畳と障子とふすまの取り換え費用を支払って貰う事になります」


 井ノ原はさすがに不審に思った。退去時の立ち会い点検において、原状回復を判断基準にするのは分かる。だけど、ここまで原状回復に拘る必要があるのか。原状回復にとらわれ過ぎだ。この男、何かおかしい。本当に管理会社の社員なのだろうか。


 松田は無言で部屋を出ると、階段をあがり2階へ向かう。


 2階には子供部屋と寝室がある。松田はまず子供部屋に足を踏み入れた。ここでは壁の穴に気付かれるかどうかだ。


 穴の補修には、ホームセンターで購入した壁紙の穴の補修キットを用いた。まず穴に、穴埋め専用クレー(紙粘土)を塗り込み、壁穴直しボンドで接着させ、バックアップシールを貼って、穴をふさいだ。その上から、元々の壁紙と全く同じデザインの壁紙を張り替えて仕上げた。


 問屋の通販サイトで、全く同じデザインの壁紙を発見したときは、運が味方してくれていると思った。ふすまの時とは違い、全く同じデザインだ。松田であろうが、さすがに気が付かないだろう。


 井ノ原はふと、穴があいた当時の事に思いを巡らせる。息子たちの取っ組み合いの喧嘩の末に穴があいたのだ。喧嘩の原因は何だったのかは、今となっては忘れてしまった。井ノ原が子供部屋に駆けつけると、息子たちは穴があいた事を相手のせいだと擦り付けていた。穴があいた事よりも、責任転嫁することを怒ったのを今でも鮮明に覚えている。


 井ノ原が壁の穴を補修している時、息子たちは祈るような思いで見守っていた。穴をあけてしまった事にショックを受けて、反省しているようだ。息子たちの気持ちを思うと、どうか穴には気が付かないでやってくれと思わずにはいられない。


 松田は部屋の中に視線を巡らせているが、やはり壁に穴があいている事には気が付いてない様子。しかし調査員としての勘が、この部屋には何かが隠されていると囁くのだろう。攻め方を変えた。松田の視線が、井ノ原の方に注がれる。人間やましい事があると、顔や態度に出る。視線を感じ取った井ノ原は、普通の態度を装うとする。しかしそれが不自然を招く。無意識に壁の方を見ないようにしていた。これでは壁に何かあると言っているようなもの。


 松田は表情を変える事なく壁の前に立った。井ノ原の眉が、ぴくりと動いた。確信した松田は、スーツの内ポケットからカッターナイフを取り出す。何故そんな物騒なものがスーツの内ポケットに。いったい何をする気だ。井ノ原の顔が強張る。


 カチカチとカッターから刃が出る。そしてカッターの刃を壁に突き立てた松田は、おもむろに壁紙を切り始めた。

「おい、何している」井ノ原は声を荒げる。

 が、松田はお構いなしにカッターで壁紙を切り刻んでいく。感情のこもらぬ顔で、カッターを振り回す姿は、猟奇殺人者のようだ。


 壁紙が切り刻まれていくと、穴を補修キットでふさいだ跡が現れた。松田が言う。

「壁に穴があいたので、補修したんですね。その上から、壁紙を張り替えて隠した」

 井ノ原はあまりの衝撃で、反応出来ずにいた。しばらくして絞り出すように言う。

「あ、あれだ…壁に穴があいたままだとみっともなかったから」

「それはそうでしょうね。ただ、もうお分かりだと思いますが、穴を補修したところで、原状回復にはなりません。というわけで、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、壁の修繕費は支払って貰う事になります」


 そのあと、玄関、ベランダ、洗面所、風呂場、トイレにおいても、松田の容赦のない点検は続いた。あらゆる箇所の修繕費を支払う事になった。


 屋内は全て終わり、あとは庭の点検を残すのみとなった。松田は、マイスリッパを脱いで、玄関から持ってきた靴に履き替えて、庭に降り立ち点検を開始する。わりと広めに造られた庭には、元から金木犀の木が植えられてある。


 妻が庭いじりを趣味にしたいと言ったので、庭付きの一軒家を借りたが、結局一度も庭に美しい花が咲く事はなかった。庭はもっぱら子供と犬の遊び場となった。友人を呼んでバーベキューをした事があったが、ご近所さんからクレームが来たので、一度きりで終わった。有効活用してなかったのが功を奏したのか、庭の修繕作業は草抜き程度で済んだ。ガーデニングなどしていたら、厄介だったに違いない。


 松田の鋭い視線が庭を見回すが、指摘してくるような所はなかった。ホッと胸を撫で下ろし、室内へ向かおうとしたところで、松田は突然足を止めた。エアコンの室外機を見下ろしている。室外機はハウスクリーニングのプロに洗浄してもらったから綺麗になっている。付け入られるような所はないはずだ。松田は腰をかがめると、室外機の下を覗く。するとそこで蜘蛛を発見した。ピンセットで蜘蛛を掴むと、井ノ原の顔の前に差し出す。「うわぁ」と井ノ原は顔を背ける。「な、何するんだ」イラついたように言う。蜘蛛を顔に近づけるなんて、どういう神経しているんだ。


「毒蜘蛛です」

 松田は謝ろうともせず、平然とそう言った。毒蜘蛛を顔に近づけたのか。冗談にも程がある。井ノ原は顔をしかめる。


 この毒蜘蛛は、この地域にはまだ生息していない特定外来生物の『セアカゴケグモ』。松田が言う。

「よく見かけるただの蜘蛛なら、井ノ原様の入居される前からこちらの物件に侵入していたという事もあるでしょうが、セアカゴケグモは、ここ数年で生息域が広範囲に拡大されているとはいえ、この辺り一帯で確認された事例はありません。という事は、井ノ原様が入居される前には、庭にセアカゴケグモはいなかった事になります。となると、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、毒蜘蛛の駆除代は支払って貰う事になります」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。蜘蛛が勝手に庭に入ってきただけだろう。そんな事まで責任持てるかよ」

「確かに蜘蛛が勝手に侵入してきたのなら、井ノ原様に何の責任もありません。しかし、この辺りに生息していない特殊な蜘蛛が庭にいたのは、井ノ原家の誰かが生息地から庭に持ち帰ったと考えるのが妥当でしょう」

「ハァ!?誰が蜘蛛なんか持ち帰るんだよ」

「無意識に持ち帰る事もあるでしょう。例えば、傘、衣服、おもちゃ等に付着してしまって、持ち帰ってしまったなんて事もあるんじゃないでしょうか。というわけで、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、毒蜘蛛の駆除代は支払って貰う事になります」

 まさか蜘蛛の駆除代まで支払う羽目になるとは…


 リビングに戻ってきた。一通り見回って分かったのは、苦労して取り組んだ修繕作業が無意味だったという事だ。余計な事はせず退去時点検に臨んでいた方が、修繕作業代は掛からなかった。余分な出費だったと井ノ原は後悔する。


 これで点検は終わりかと思ったが、松田は床に置いていたバッグを開け、トランシーバーのような機械を取り出した。電源を入れると、機械から「ブーン」というハウリング音がした。まだ何かあるのかと、井ノ原は眉をひそめる。


 松田はその機械を手に部屋をゆっくりと歩いていく。機械を振りかざして、音が反響する場所を特定しているようだ。


「いったい何しているんだ?」井ノ原は聞かずにはおれない。

「ああ、盗聴器がないか探しているんです」

「え、盗聴器!?そんなのあるわけないよ」

「はい、私もそう思います。現に井ノ原様が入居される前にはありませんでしたので」

 嫌な言い方だ。盗聴器が発見された場合は、何かしらの修繕費を請求してくるのだろう。それでもさすがに盗聴器なんてあるわけがない。


 リビングでは盗聴器発見装置が発する「ブーン」というハウリング音に変化はなかった。隣の和室に入っていく。和室の角に差し掛かった松田は、盗聴器発見装置を壁に設置されているコンセントに近づける。すると「キーン」という音がした。明らかに音が変わった。コンセントを取り出すと、盗聴器が見つかった。井ノ原は驚きと恐怖の表情に変わる。

「誰が盗聴器なんて仕掛けたんだ」

「さあ、そこまでは。ただ、こういったケースでは、井ノ原家の誰かに付きまとっているストカーの仕業と考えるのが妥当でしょう」

「え、ストカー!?」

「心当たりはありますか」

「ないよそんなの」

「知らない間に付きまとわれていたという事もあるようですけどね。とにかく、先程も申しましたが、井ノ原様が入居される前には盗聴器はございませんでしたので、盗聴器が仕掛けられたのは入居後になります。この部屋だけでなく、他の部屋にも仕掛けられている可能性もあるでしょう。なので、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、盗聴器の捜索費用、取り外し費用を支払って貰う事になります」

 盗聴器の事がまだ頭で整理しきれてないうちから、そんなものまで支払う羽目になってしまった。


「あ、そうでした」

 リビングに戻ってくると、松田が思い出したようにそう呟き、階段で2階へ上がっていく。まだ何かあるというのか。井ノ原も後を追う。


 2階の廊下の奥にある寝室のドアを開けて中に入る。松田のギョロとした目が忙しなく部屋の中を捜索する。寝室は退去時点検で、唯一何事もなかった部屋だ。やはりここにも何かあるのか。松田の視線が、部屋の隅に差し掛かったところで、ピタッと停止した。じっと凝視している。何を見ている。いったい今度は何だと言うんだ。井ノ原は訝しげな顔になる。すると松田は表情を変えることなく言う。

「幽霊がいます」

「え、ゆ、幽霊…」

「はい。女性の幽霊です。さっきこの部屋に入った時に薄気味悪い気配を感じたので、もしかしたらと思ったんですが、やっぱりいますね」部屋の隅を指差す。

 指差す方に視線を向けた井ノ原は、ゴクリと固唾を呑み込む。「…あ、あそこに幽霊が。何であんな所に…」

「さあ、そこまでは。ただ、こういったケースでは、井ノ原家の誰かがとりつかれて、家に持ち帰ってしまったと考えるのが妥当でしょう」

「ハァ!?またそれかよ」

「なので、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務があるため、除霊代を支払って貰う事になります」

「ちょっと待って。本当にあそこに幽霊なんているのか」幽霊がいるなんて思った事もなければ、気配を感じた事もない。でたらめだ。

「え、見えてないんですか」まるで見える事が当たり前のような言い方だ。

「見えてないよ」

「そうですか…あなたの方をじっと見ていますよ」

 背筋がゾワッとするが、井ノ原は屈せず言い返す。

「家族の誰かにとりついたと言っていたが、心当たりがない。とりつかれるような場所に行った試しがないし、何かの間違いじゃないか」

「間違いなどではありません。幽霊はいます。私にはちゃんと見えています」

「それなら、俺らが入居する前からいたんじゃないのか」

「それは考えにくいですね。なぜなら、幽霊がとりついた物件は、事故物件となります。不動産業者は、事故物件の場合は告知義務が課せられているのです。故意に事実を告げなかったり、不実のことを告げたりする行為は禁止されています。法律的なペナルティもありますので、私共はお客様に契約してもらう前には、徹底的に調査をいたします。その結果、この物件には幽霊はとりついてないと判断しました。なので、こちらの女性の幽霊は、井ノ原様の入居後にとりついた事になります」

「見逃してしまったという事もあるだろう」

「確かに。人間ですからなくはないでしょう」

「ほらみろ。入居前からとりついていたんだ。事故物件だったんだよ。除霊代なんて支払わないぞ」

「そうですか。入居前からとりついていたと主張されるのですね。そうなりますと、毎回の事で申し訳ないのですが、異議申し立てされるのでしたら、証拠を提示していただく事になります」


 寝室に幽霊がとりついている事を今知ったのに、証拠なんて提示出来るわけがない。井ノ原が黙っていると、松田は続ける。

「証拠がないのでしたら、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、除霊代を支払って貰う事になります」

 結局、除霊代も支払う事になった。


 毒蜘蛛に盗聴器に幽霊。とんでもないところに住んでいた。呆然とする井ノ原の事など、対岸の火事とばかりに、松田は更なる点検に向かう。


 2階の子供部屋の押し入れから、屋根裏にあがって行く。井ノ原も後について行く。屋根裏に入るのは初めてだった。松田はここでも入居前の状態と変わりないか、隈なくチェックする。家の構造材(梁・束・母屋)の内の1本の木が少し腐食していた。井ノ原家が入居する前は腐食などしていなかった。そうなると、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、修繕費用を支払う事になった。


 続いて松田は1階に戻ると、台所の床に備わっている点検口を開けて、床下に侵入して行く。井ノ原も後について行く。床下に入るのももちろん初めてだ。松田はここでも入居前の状態と変わりないかチェックしていき、基礎コンクリートのひび割れ、木材のカビ、腐朽を指摘してきた。それらは、井ノ原家が入居する前にはなかった。そうなると、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、修繕費用を支払う事になった。


 さらに松田は家の匂いを嗅ぎ始めた。家の匂いも、入居前の状態と変わりないかチェックしていく。

「ヒト(他人)の家の匂いがしますね」松田は言う。

 生活臭だ。どこの家でもその家ならではの匂いはするもの。しかしその匂いは、井ノ原家が入居する前にはなかった。そうなると、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、修繕費用を支払う事になった。


 立ち合い点検は終了した。保証金内に抑えられず、修繕費用を追加で請求される事になった。手渡された請求書を目にした井ノ原は、膝から崩れ落ちる。追加額は5千万円にも及んだ。新築の一軒家が買える額だ。

「何だよこれ。あんまりだ。5千万円なんて額、払えるわけがない」

「しかし、賃貸物件には、明け渡しの際に入居前の状態に原状回復する義務がある為、修繕費用を支払ってもらう事になっています」

「何回言うんだ。もういい加減うんざりだ。こんな悪質なやり口、認めないぞ。支払わないからな」

「そんなに支払いたくないのでしたら、方法はあります」

「え、そうなのか。教えてくれ。どうすれば払わなくて済むんだ」

「簡単です。こちらの賃貸物件から退去しないことです。そうすれば、修繕費用は支払わなくて済みます」


 このような提案を持ち掛けた松田は、実は管理会社の社員ではない。ましてや、退去時立ち会い点検の調査員でもない。この地域の自治体の一職員であった。


 どうして自治体の職員が、管理会社に成りすまして、退去時立ち会い点検をやっていたのか。


 人口減少に伴い、年々増加している空き家を減らすためであった。ある調査会社によれば、2033年頃には空き家数が2150万戸となり、全住宅の3戸に1戸が空き家になってしまうという予測が立てられている。


 国は2015年に地方自治体に空き家を減らすように要請した。各自治体は対策を練ってさまざまな取り組みを実地している。その中に、不動産業界の協力の元、内密に行われていたのが、退去時点検の厳格化であった。新たな入居希望者が現れていない老朽化が進む賃貸物件に限っての事であるが。


 井ノ原は、松田の提案に顔を歪める。

「ここにもう一度住むのか。毒蜘蛛はいるし、盗聴器はあるし、幽霊だってとりついているんだぞ」

「その点につきましては、お安く処理させていただきます」

「だけど、既に次の住まいの契約も済んでいるし」

「そうですか。ですが、そちらであれば住み始めて間もないので、明け渡しの際の原状回復にそれほど請求されないでしょう。こちらだと、修繕費用は5千万円になります。どうです?ここにもう一度住んでみては」


 こうして空き家になるはずだった賃貸物件は、ひとりの自治体職員によって救われた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 立ち合い点検の小説なんてなかなかないよな、と思い拝読しました。 難癖、カマかけ、幽霊まで持ち出す…。 ラピュタのロボに例えられるだけあって松田さん強すぎと思ってましたが、まさかのオチ。 面…
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