9話 彼の世界が変わった日
偉大な人間には三種ある。生まれた時から偉大な人、努力して偉大になった人、偉大になることを強いられた人。
~シェイクスピア~
あの日は雨が降っていた。
不運が重なりに重なって、オレはもう一つの世界が見えるようになった。
あの時……何を求めたのか今でも良くわかっていない。
理性の全てを埋め尽くす程の殺意とソレを実現する力。
潰れた右眼は焼けるように熱く、血によって視界が塞がっている。確かに失明していた。
雨が降っていた。
目の前には、ヒトだった肉が倒れている。
外傷は無く、眠るように動かないその肉は確かに死んでいるのだ。
泣きながら抱きつくレンは震えていた。
今日からお前はお兄ちゃんだ。ちゃんとレンを護るんだぞ。
レンが産まれた時、母さんがオレにそう言った。
ジン! レンを護れ!
村に魔物が流れ込み、オレ達を逃がす際に父さんはそう叫んだ。
無力だった。あの時は何も出来なかった。
ユルセナイ……
父さんと母さんを殺した魔物が、レンを見捨てようとした奴隷商人が……そして何よりも――
力のない自分が許せなかった。
全部殺す。オレの大切な人を、家族を、妹を奪うやつは全部死ねばいい。
根幹は猛烈な殺意。心が冷えて行くのを感じる。感情は制御できないほどに荒れ狂っているのに、右眼に見える世界だけが明確な殺意を現実にする。
もしも、この世の理不尽がオレの家族を傷つけるのなら、世界を殺し尽くしてやる――
発現した『相剋』を使い、ヒトを殺した。この時、彼は境界を踏み越えたのだ。
そして、一度境界を越えてしまった事で、彼の中の殺意は容易く常識の隔たりを越えてしまうようになる。
スベテノ魂ハ……『霊界』ヲ介シテ容易ク切リ離セル……
「――いずれ全て居なくなる」
レヴナントの言葉は目の前の現実を正しいモノだと告げている様だった。
何が正しくて何が間違っているのか。
ソレ判断するのは難しい。しかし、ジンにはソレを判断するのは確固たる基準があった。
家族を害が及ぶかどうか。
彼が悪だと決めるのはそれだけが理由だった。
右眼は色のついた景色を白黒に写し――
「レヴ、貴女は少し言葉を選びなさい」
マリーの声のがジンの理性を引き戻した。
「お嬢。レヴは簡潔に話しただけだ。マスターも時間を取らせない事が第一だと言っていたぞ」
「それでも誤解を与えたら本末転倒よ。ジンくん、少しだけ時間を貰っていいかしら?」
彼女の言葉で少しだけ冷静になった。波が引くように右眼の光景が色を取り戻していく。
「ああ、構わない」
マリーは余計な事を言わないようにレヴナントを配給作業に戻らせ、彼女の視界に写る位置で会話を再開した。
「街の様子は見た?」
マリーからの切り出しにジンは街に入った時の事を思い出す。
「特に変わった様子はなかった。彼らの存在も含めて」
何も変わっていない。10年前に自分たちがゴミを漁っていたあの時から。
オレ達はナタリアが見つけてくれた。しかし、彼らはどうだ? この配給の列に並ぶ者達は世界の仕組みから弾かれたのだ。
「そう。でも、ゴミは落ちて無かったでしょ?」
マリーは別の観点を口にする。
人の多い場所は廃棄物が出ることは必然なのだ。無論、それを何気なく道に捨てる者もいる。
言われて見れば、街を歩いても目立った所にゴミは落ちていなかった。
「彼らは労働力なのよ。それも誰もやりたがらないような仕事を任せているわ。街の清掃はその内の一つね」
マリーが言うにはスラムの浮浪者達は市民が寝静まった深夜から起き始める早朝までの間に街の中を清掃しているのだと言う。
「そんなことはあり得ない」
彼らが理不尽な現状に満足しているとは考えづらかった。
かつては彼らも人並みの生活をして生きていたのだろう。それが何の因果かここに流れ着いてしまった。
街で暮らす者達を見て昔を思い出さない方が難しい。何かしらのトラブルは起こるハズだ。
「彼らにもメリットはあるの。例えば朝と夜で配給は無料で行ってるし、彼らは彼らで互いを監視してる。働かないヒトがご飯を食べるのは働いたヒトからすれば理不尽でしょう?」
「……食事は大事だと言うことは解る。だが、その程度では彼らは満たされないだろう?」
日々を生き延びているだけではこれから続いていく日常は変わらない。彼らはここに落ちた時点で生涯を通して浮浪者でしかないのだ。
「だから真面目に働いて三年以上問題を起こさず、市民の皆から支持された者にはこの街で市民となる権利が与えられるわ」
「……な、そんなことは――」
「あり得ない?」
領地を納める程の貴族ならばヒトの価値を違う角度で見る。彼らは余計な体力を使うことを極端に嫌い、自らの領域に入る不純物に強い嫌悪感を抱くのだ。
しかし、この領地ではソレを許容していると言う。
「良く言われるらしいわ。ヘクトル公は貴族らしくない、品格が備わってないと」
ジンも今日初めてヘクトルと対面したとき、ナタリアから聞いていた貴族像とは大分違っていると印象を受けた。
「その都度、彼は『金や食べ物はヒトが集まれば生まれてくる。しかし、ヒトの上に立つのであれば、凡愚の中に紛れる輝きを見逃す事こそ真の凡愚であろう?』と口にするわ」
彼は貴族にくくられる者達のなかでも異質な存在であるらしい。
「けど、彼は10年前に一度だけ天秤に賭ける物を誤った」
「……何をだ?」
「領民と勇者への増援要請よ」
マリーの発した言葉は数少ない単語であったが、ジンは彼女の言いたい事が理解できた。
ナタリア曰く、10年前の魔災は『 魔獣パラサザク』が戦闘行動を開始したことで起こった事だと言う。
当時、勇者はパラサザクの討伐に国に増援を願いでて、国王はこれを承諾。各領地より兵が派遣された。
そして、地形を変えるほどの激闘の末にパラサザクを見事討伐。しかし、被害も尋常ではなく派遣した兵の七割は帰らなかったと言われている。
「ヘクトル領主は国王の勅命に従ったわ。けど結果は自らの領民に苦しみと悲しみを背負わせただけだったの」
兵士は戦うことが仕事だが死ぬことが第一ではない。生きて帰る事こそが兵士の有る意味。勇者はパラサザクの強さを測りかねていたのだ。
「それで……」
“当時は人手不足でね”
ヘクトルはそう口にしていた。彼がどんな心情でその言葉を選んだのかはわからないが、手を伸ばしたくても伸ばせなかったという解釈も出来なくはない。
「それで教訓にしているのか……」
改めて配給の列に並んでいる浮浪者達を見る。彼らは過酷な日々を生きながらもこの領地で安寧を得ることを目指している。
他の領地ではこんなことをやっているのかはわからない。しかし、目の前の彼らは領主を信じて精一杯、現状を変えようとしていた。
ジンは自分の価値観で勝手に判断し、物事を正面からしか見ていなかった。
“一人で考えてしまうと回り道になってしまうわよ”
「やっぱり、オレは一人じゃダメだ」
ヘクトルの事は良くわからない。しかし目の前の光景は、彼が今度こそ取りこぼさないように手を差し出している様に感じた。
少しだけ彼の事を信じてみよう。
「納得出来た?」
何か結論を得たジンの様子を見てマリーは安心したように微笑む。
「一つ聞いていいか?」
「いいわよ」
「君のミドルネームは、ヴァルター?」
話の流れからある程度は察していたものの、確認のためにその質問を行う。
「ええ、そうよ。身内贔屓だと、さっきの話は信用できない?」
「いや、判断するのはオレだ」
身内を擁護する為の言葉だとしても、ソレを聞き、最終的な判断をするのはジン自身である。
「ありがとうございます」
「敬語はいいわ。年齢は同じくらいでしょう? 父が領主なだけで私は何も権力のないただの子供だから」
「そっか。ありがとう、マリ――」
お礼の言葉を告げていた途中、彼の姿はマリーの視界から消えた。
正確にはジンよりも幼い少女が彼の死角からタックルを決めたのである。
思わず呆けるマリー。ジンは、がはっと空気を吐き出して少女ともつれるように仰向けに倒れた。
「早まるなー!! 駄目だからね! 私や皆を置いて、勝手に居なくなるのは!」
馬乗り状態の少女は意識が朦朧とするジンの襟首を掴んでガクガクと揺らしていた。
「お前……ふざけ……」
ジンとしては不可解なタックルを死角から決められた状況である。タックルのダメージと頭を揺らされて言葉を出そうにも中々上手くいかない。
「ジン君!? 大丈夫――」
「は!? はわわわ!!?」
心配したマリーに気付いた少女は、彼女から向けられる鋭い目つきから怒っていると察した。
「も、申し訳ありませんっっ! ウチの兄が失礼なことをしましたか!? 世界を滅ぼそうとしましたか!?」
相当混乱しているのか、少女は荒唐無稽な事を口走る。
「兄? もしかして彼の妹さん?」
「そ、そうです! 兄に悪気は無いんです! 目に傷がありますけど、ちょっとむっつりなだけで――」
その時、復活したジンに少女――レンは顔を鷲掴みにされた。
「お前……ほんっとふざけんなよ」
「痛い痛い痛い!!」
ジンは上体を起こし、レンを掴んだまま立ち上がると見苦しい所を見せたとマリーに詫びる。
「すまん。このうるさいのは妹だ。ほら、挨拶!」
「レン・マグナスです! 妹です! ごめんなさい!」
「おい、ふざけてんじゃねぇぞ」
レンは鋭い目つきが標準のマリーが怒っていると勘違いしていた。その様子にマリーはくすり、と笑う。
「そっくりね。兄妹揃って」
「え……怒ってないですか?」
「ええ」
頭に疑問視を浮かべるレンと、嘆息を吐きつつ後頭部を掻くジン。
賑やかな兄妹だとマリーは二人に対して微笑んだ。
「なんか騒がしいぞお嬢。トラブルか? レヴも居た方が良いか?」
と、レヴナントも三人の様子が気になって寄って来る。
「え? ナタリアさ――――じゃない。なんか若い」
レヴナントに対する第一印象はレンも同じであった。
「む、なんだこの女児は。少年、君の面影があるな」
「生物上は妹だ」
「あ、それ凄くひどい!」
漫才のようなやり取りにマリーは終始くすくすと笑っていた。
「問題はなさそうだな」
少し離れた所から四人の様子を見ていたフォルドとリリーナはレンが心配していたような事態にはなっていなかったと察していた。
「だとしたら、レンが焦っていたのは何だったのかしら?」
全てが丸く収まった様子からリリーナに当初の疑問が蘇る。野暮ではあるが、未知を探求することが当然である魔術師としては気になる所だ。
「ワシは二人が話してくれるのを待つ事にする」
「それじゃ、二人の事はお父さんに任せるわ。私だと変に勘ぐっちゃいそうだから」
二人の事を信頼すると決めたフォルドの判断にリリーナも異論はなかった。
ロイとジェシカは無事に王都へたどり着いていた。
道中、王都に近づく事に馬車や馬に乗った伝令兵が入れ替わるように慌ただしく行き交う。
そして、王都が見える位置まで来たときには唖然とした。
「おいおい」
「これは……どういう事?」
二人は予想だにしなかった王都の様子にそのような言葉しか出なかった。