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蜘蛛の巣と鋏

作者: おと きいと

 全ての人間は糸で繋がっている。それぞれの体から伸びるそれは誰かと繋がり、その相手もまた誰かと繋がっている。赤や緑や黒のその糸を、私は天上から見ることができる。

 私はある日、下界に広がる無数の糸の繋がりの中で、一本の糸が緑に染まるのを見た。一人の少年から伸びるその糸は元々は青色で、絵の具が水に浸されて広がるように、その色はじわじわと緑色に染まっていった。青の糸は友情、緑の糸は憎しみを現す。つまりその少年は、友情で繋がっていた相手に憎しみを覚えたということだ。私は、ふと目についたその少年をしばらく観察してみることにした。


 風貌からしておそらく十歳程度であろうその少年は、小学校とみられる場所の廊下に立っていた。廊下の窓が少し曇っているところを見ると、季節は秋か冬なのだろう。廊下にはランドセルが無造作に放り投げられてあり、筆箱やら教科書やらがそこらじゅうに飛び散っていた。また、疲れからなのか、少年は肩を上下させている。そして、彼の向かい側には膝をつきながらうずくまり、両手で片目を覆うように押さえている男がいた。その男の体格は少年より大きいが、風貌からして彼と少年はおそらく同級生だろう。そして少年とその男の周りには恐怖や焦燥の表情を浮かべた大勢の児童が立ちすくんでいた。少年と児童らは黒と青の縞模様を描いた糸で繋がっている。黒は優しさを現しているため、少年と児童らの関係はそれほど悪いものではないことが伺える。

「ちょっと、何があったの!」

 走ってきて声を上げた先生らしき女性の声で、その場の沈黙は破られた。先生の声に応えるように児童らが声を上げる。

「義治が大介の目をぶったんです!」

「でも最初は大介君が義治君にいじわるしていました!」

「僕見ました。大介は義治のランドセルを取り上げて中身を廊下に投げていました」

 困ったような表情を浮かべた先生は、とにかく行動しなければならないという風に大介と呼ばれたそのうずくまっている男の元へ駆け寄った。

「先生は大介君を保健室に連れていきます。話は後で聞くから、みんなは教室に入って待っていて!義治君、君も教室に入っているのよ」

 この指示を受けて、児童らは動き始めた。そして、義治と呼ばれたその少年も俯きながら教室に歩を進めた。チャイムが鳴る頃には廊下は閑散としていた。

 太陽が大分西に傾いた頃、静かな教室に先生と義治は二人きりでいた。義治は俯き、先生は膝を曲げて義治と目線の高さを合わせている。

「そう、最初は大介君が嫌な事をしてきたのね。それで義治君はついかっとなって、手を出してしまった、と。」

 泣いているのだろうか、肩を上下させて鼻をすすりながら、義治は肯定を表すように首を縦に振る。彼と彼女を繋ぐ糸は黒と黄色の縞模様を描いており、黄色は愛情を現す。先生が再び口を開く。

「分かったわ、だけど、いい?よく聞いて義治君。どんな時でも暴力はふるっちゃいけない。今大介君は病院に運ばれて目の検査をしているの、もしかしたら目が見えなくなるかもしれないって。」

 その言葉で義治は目を見開いて先生を真っ直ぐ見つめた。彼の目は潤んでいて、今にも大粒の涙が零れ落ちそうだった。そして義治は声を震わせながら言う。

「僕が悪いの?」

 その言葉と同時に、義治と先生とを繋ぐ縞模様の糸は、義治側から緑に滲み始めた。

「最初は全部、あいつが!」

 声に詰まった義治は俯き、先生に背を向けて走り出した。歯を食いしばりながら走る彼を、先生は後ろから呼び止める。しかし、彼の耳には届いていない。彼から先生へと伸びる糸は、止まることなく緑に染まり続けた。

 

 完全に日は沈み、半円の月には薄い雲がかかっていた。義治邸で、義治の父親とみられる長身の男性は低い声で義治に話しかけた。その横には母とみられる人物が見守るように立っている。父と母は、運命を現す赤い糸で繋がっている。

「義治、今日先生から電話があった。生徒さんを傷つけたというのは、本当か?」

「僕が最初にいじわるされたんだ。僕は何もしていなかったのに、ランドセル取られて、逆さまにされて、中身を全部出された。ひどい、やめてって言ったんだ。それなのにあいつは笑っていた。周りの人も誰も助けてくれなかった。だから僕は、自分で取り返さなきゃって思って…」

「…そうか、…辛かったな。」

 そう言って父は義治を抱きしめる。気付けば、義治の目には涙が溢れていた。父は慰めるように優しい声で、義治の目を見つめて言う。

「いいか、でも暴力はよくない。暴力をふるったら義治も悪い人になってしまう」

 義治はうなずき、「ごめんなさい」と一言つぶやいた。義治から伸びる二本の糸─父と母、それぞれに伸びる糸─は、以前の先生と義治を繋ぐ糸と同じ、黒と黄色の縞模様を描いていた。

 

 

 

 再び太陽が昇り、その日差しが眠った義治の顔を照らす。家の玄関の辺りから何やら声が聞こえ、まだ登校には早い時間にも関わらず義治は目を覚ました。玄関から聞こえる声は男性同士の会話のようだった。義治は、寝起きでまだ若干重たさを感じる腰を上げ、足を動かして声のする方へ向かった。義治は部屋を出て、リビングを抜け、玄関へと繋がる扉をそっと開けて覗いてみる。玄関には義治の父と母、そして見知らぬ男がいて、父とその男が話していた。人と人とを繋ぐ糸はお互いがどこにいても繋がったままだ。リビングから玄関まで、距離があるにしても義治から伸びる糸にその距離は関係ない。壁を突き抜け、糸は最短距離で義治と父を結ぶ。ふとその糸の色を見ると、私は少なからず驚いた。昨日は黄色と黒の縞模様だったその糸からは黄色が抜け、黒色の糸になっていた。それは、今父は義治に対して全く愛情を感じていないことを意味していた。そんなことはつゆ知らず、義治は玄関で繰り広げられる会話に耳を澄ませてみる。

「あんたの息子のせいでうちの息子は今大変な状況なんだぞ!この責任をどう取ってくれる!」

「本当に申し訳ありません、もちろん治療費は払わせていただき…」

「金を払うのは当たり前だ!元はと言えばあんたらの教育がなってないからだろ!分かっているのか!」

 威圧的な声で父を責めているのは、大介の父親のようだ。そして義治の両親は土下座をして深く頭を下げている。義治はそれを見て、この状況の全ては自分のせいであることを自覚したようだった。溢れてくる涙が零れ落ちないように堪え、義治はじっと事の成り行きを覗いている。

「学校の先生方ともよく話し合ってお前らの処分を決めるからな、覚悟しておけよ!」

 そう吐き捨てて大介の父は外に出て玄関の扉を強く叩きつけた。扉の閉まる轟音に大介や大介の父の深い怒りを感じ取った義治は、もはや涙が流れるのを止めることはできなかった。事が済んで義治の両親がのそりと立ち上がる。そして義治のいるリビングへと向かった。その時、リビングの扉からこっそり覗いていた義治と、リビングに向かって歩く義治の母の目が合った。

「義治、起きていたの?」

 母がそう言いながら義治に駆け寄る。義治は何か返事をしようとしたが、涙が溢れてくるせいか、うまく声を出せない。震える手を強く握り、深く深呼吸をして、彼はかろうじて言葉を発した。「ごめんなさい、僕のせいで…」

 母は義治の悲しみを全て包み込むような優しい表情で口を開いた。「…大丈夫よ義治、気に」彼女の声を遮ったのは父親の怒号だった。

「何が大丈夫だ!そんな保証なんて何も無いくせに、勝手な口を聞くな!」

 そして父は涙で顔をぐちゃぐちゃにした義治を一瞥した。母は父のその言葉に対して反論をし、両親のそれは口論に発展した。父親の、光の灯っていない目と、両親の、怒りを含んで飛び交う声に義治は胸が締め付けられる思いがした。「ごめんなさい、ごめんなさい」彼は震える声でつぶやいた。彼にはもう、それしか言えることが無かった。しかし彼の声は両親の声にかき消されてしまう。父と母を繋ぐ糸は、真っ赤な色から赤と緑の縞模様へと変わったいった。そして、義治から二人へと伸びる糸も同時に、じわじわと緑の色を深めていく。その時、父の言葉が針のようにするどく、義治の耳に突き刺さった。

「全く、余計な事をしてくれたな、義治!」

 突如、義治の糸は鮮やかな緑へと変わった。黄色や黒が立ち入る隙の無いくらい、純粋で悲しい緑色だった。気付けば義治は玄関を飛び出し、まだ朝早い住宅街を駆け抜けていた。肌寒い風が義治の頬を撫でる。彼が吐く息は白に染まり、空気に溶けるように消えていく。義治は何も考えられなかった。ただ、彼から伸びる、百を超える多くの糸─家族や先生、友人に伸びる全ての糸─は少しずつ、しかし着実に緑に染まり始めていた。義治は走り疲れ、荒れる呼吸を整えるように静かに歩き出した。そしてふと顔を上げると、そこは誰もいない河原だった。川のせせらぎと、風が草原を撫でる音だけが響くその場所で、義治は強い開放感を覚えた。彼から伸びる糸が緑に染まり続けているのと裏腹に、彼の表情は清々しさを浮かべていた。そして彼はふと、

「…一人っていいな。」

 と、ぽつりとつぶやいた。

 

 

 私はその時、彼に同情の念を抱いた。そして、彼の望みを叶えてあげようと心から思った。私の力にかかれば、人間同士を繋ぐ糸を断ち切り、彼を一人にするのは容易い。すでに緑に染まりきったその糸が切れるよう念じると、彼から伸びる全ての糸ははらはらと地に落ちて砂のように消えていった。

 突如、義治は糸が切れた人形のように脱力し、目から生気が失われた。そして、おもむろにその虚ろな目を川へと向けた。視線の先にあるきらきら輝く川に向かって、義治はゆっくりと歩を進め始める。それはまるで死へ向かうような歩みに見えた。足裏と草とを擦りながら彼はゆっくり、一歩ずつ川に近付いていく。義治は一体何を考えて歩みを進めているのだろうか、なぜ突然歩き始めたのだろうか、私には検討もつかない。いや、彼の真っ黒な目を見ると、今の彼は何も考えていないようにも思える。そして今の義治は、彼の周囲の草や川、風、頭上で空を切る烏、そのどれとも違う存在のように感じた。私の視界に映り込む人間の糸の巨大な繋がりの中で、唯一糸に繋がれていない義治だけが独立した別の生命体であるような感じがした。そのまま私は、彼が放つ異様な雰囲気に呑まれて彼の行動に釘付けになった。

 

 こうして私は、彼の最期を見届けた。

人間ごときには切る事はおろか見る事すらできない「人同士の繋がり」。それは、切られたら生きる気力を失ってしまうほど大切で繊細なもの。私達はそんな糸で繋がれているため、真の意味での「独り」の人間など、この世界には一人もいないのかもしれない。

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