青年シェフの忘れもの
なかなかの達筆。よく日替わりメニューなんかを書いて立てかけておく、A3ほどの小さな黒板に、白いチョークの縦書き。
『すみません
忘れてました』
厨房の端でロールキャベツがことことと煮こまれている。トマトソースの香りが、そこはかとなくカウンターに漂う。愛想が良いほうではない、しかし誠実そうな佇まいの青年は、菜の花の茎の太い部分を小ぶりなナイフでピッピッと削いでいる。丁寧な下ごしらえ。そして、振り返って、ぐらぐらと煮立った鍋にそれを放り込む。
カウンターのみの小さなビストロ。小さな町の、さびれた商店街。彼はこの町の郊外の出身で、幾つかの職を転々としたのち、この店をオープンした。その経緯は地元新聞に取材され、わたしも読んだ。わたしは偶然にも、彼が修行したビストロ(仮にPとしよう)のリピーター(というには間遠だが)で、知人からPで修業した人が独立したらしいよという噂を聞きつけ、Pのシェフに場所を訊きだし、この店に辿りついた。以来、時折、足を運んでいる。
店に入った時から、その黒板が目に飛び込んできた。
『すみません
忘れてました』
カウンターの正面の棚に、賞状のように立てかけられているのだから、否応なしに視界に入る。しかし、寡黙な青年は尋ねる隙を与えずで、スープを私の前に置いた。
今日は新玉ねぎのポタージュ。白いポタージュスープにオリーブオイルで三日月が描かれている。掬うと、三日月のカーブが深くなる。
新玉ねぎの甘みがぐっと押し出された、なめらかなポタージュだ。おそらく使っている野菜は玉ねぎだけ、新玉だけが持つあの甘みが凝縮されている。しかし甘さだけではない、本来玉ねぎの持つつんとした臭み、辛みが、凝縮された甘みのレースで包み隠されているからこその力強さ。
思わず美味しいとつぶやくが、店主の青年はつれなく淡々としている。こちらも構わず美味しい美味しいと洩らしつつスプーンでスープを皿からこそぐ様に食べる。
メインは、ロールキャベツのトマトソース煮込みに季節の野菜添え。
ふんだんにあしらわれた野菜でロールキャベツが覆いつくされている。艶々と色よく茹でられた菜の花、スナップエンドウ、葉物野菜、それらの下に、焼きタケノコ、焼きラディッシュ、大根のマリネ。
店主の青年、前述したがこの町の郊外の出身で、野菜は実家から仕入れているらしい。それで、新鮮な野菜が贅沢に使われるという。食べているうちに、躰の奥からぐわっと、老廃物が排出される感覚がきた。旬の野菜によるデトックス効果なのか。
どれも旬の野菜の濃い味がして美味しかったのだが、特に出色なのは焼きタケノコだった。穂先の部分を贅沢に半割りしたものをオーブンで焼いただけ(後で聞いたら下茹でしてから焼くとのこと)、なのに甘い。旬のものに特有の甘さ。なんと、今朝自分で掘ってきた、とのことだった。「これも若松産ですね」という言葉の裏には、誇らしさがにじむ。市内には有名な筍産地がある。そのブランド筍よりも美味しいと確信した言葉だ。
もうこの筍がメインでいいわ、と思ったところで、ようやくロールキャベツに辿りつく。よくぞこの価格のランチでこんな手の込んだものを、と頭が下がる。
ロールキャベツは、しっかりした牛肉の味。そこにスパイス(おそらくナツメグ)ががつんと利かせてある。日本人は肉もあっさり好みだが、その反対をいく感じだ。明確な肉の味が主張し、スパイスとしのぎを削っている。
堪能していると、ようやく二人目の客が来た。常連らしい女性で、
「久しぶりですね」
「外に出る用事があったから、寄ろうと思って。潰れたら困るから、来たよ」
心の中でうんうんとうなずく。潰れたら困るなら食べに来なければ。
気さくな女性で、料理のあれこれについて言葉を交わした。
「ところで、」
我慢しきれず、わたしは、店主に声をかける。
「あの黒板の、『忘れてましたすみません』って何を忘れてたんですか」
まあ、デザートを出し忘れたとか、コーヒーを出し忘れたとか。
店主の青年は、洗い物をした手を拭きながら答えた。
「笑顔を忘れてたんです」
世の中は、コロナウイルス禍の渦中。相次ぐ外出自粛、営業時間短縮の呼びかけ。補償は示されず、暗いニュースばかりが駆け巡る。
だが、私は、つい、声を立てて笑ってしまっていた。
「え?笑顔……!?」
思い返せば、この前来たときには、消費税増税後で、客足が遠のいたと言っていた。潰れていないということは、ぼちぼち、客足も戻っていただろうに、この追い打ち。
だが、淡々としていて、真面目で愚直そうなこの青年の、黒板に(笑顔を)「忘れてましたすみません」と掲げる、このずば抜けた諧謔はどこからくるのか。
弁明しておくが、私だけでなく、先ほどの女性客も笑っていた。
青年は若干はにかんだように、早口で付け足した。
「こんな状況だから、なかなか笑顔が出せなくて、お客さんに辛気臭いと言われてですね」
世界中が泥沼から脱せない、そんな暗雲にのみこまれた状況でなかなか前を向けないのは当然だ。彼のせいではない。
「しょうがないですよ、でも応援したいというのがここに二人いるから、ねえ」
「そうそう。思いはおなじよ、ねえ、てことでデザートもください」
この店のデザートは、かわいいミニデザートではない。メインと同じサイズの皿に、堂々としたボリュームのものが盛り付けられる。巨大なバスクチーズケーキには、きれいに皮を外した柑橘と柑橘のゼリーがたっぷり添えられていた。
この物語は、ほぼ実話です。
小説内では伏せていますが、場所は、北九州市若松区のぐらんどじゃるだんというお店。シェフが修行したのは、小倉北区のポトフというお店です。
日常のふとした出来事、Twitterや俳句では収まり切れない小さな物語を、楽しんでいただければと思います。