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ワイズテイマー:~フェルマーの最終転生~  作者: 槙弘樹
第2章「ゼン=フゥ」
9/10

ファーストブリット

 閉じた眼に日差しが染み入ってくる。

 その痛みで、ジョウジマ・キイチは目覚めた。

 腫れ上がった目蓋は異様に重く、上手く開ききらない。

 おかげで視野がやけに狭かった。


 最悪なのは喉だった。

 一晩中の酷使がたたり、声が全く出せなかった。

 無理に発そうとすると、タバスコでガラガラうがいでもしたかのような痛みが走った。

 それが、四日目の朝の始まりであった。


 横穴から見あげる空は、昨夜の雨が嘘のような快晴だった。

 もう昼近いのかもしれない。

 燦々と降り注ぐ陽光はあたたかだった。

 横になったまま、身体の状態を確認した。

 やはり左肩の状態は厳しかった。少しでも動かそうとすると、正気を失うような激痛が走った。

 真っ赤になるまで熱した包丁を、いきなり根元まで突き刺されたような感覚だった。


 それでも微かに改善はしていた。

 関節が――ほんの数ミリだが――稼働したのだ。

 昨日は完全に凍り付いてた肉だったが、今朝は半解凍くらいにはなっている。

 しかし、芯の方はまるで()けていない。


 幸いなのは、右脚の状態が良かったことだ。

 あいかわらず足首は太さが二倍になったような腫れ上がり方だった。

 だがそれ以外は概ね良好だった。

 少なくとも動かない箇所はない。


 もちろん、全体的に傷だらけで無事な部分はないに等しく、恐らくかなりの痛みを発してはいるのだろう。

 だが、他があまりに酷すぎて、大した物には感じられない。

 (かゆ)くてたまらない虫刺されも、転んで骨折すれば存在すら忘れてしまう。

 理屈は同じだった。


 試してみると、昨日の倍はスムーズに()(ふく)ができた。

 大怪我中なりの身体の動かし方。そのコツが掴めてきた感じだった。

 キイチはそのまま腹ばいになって進み、横穴を出た。

 視界が開ける。

 そこに広がる光景に、キイチは息をのんだ。

 しばらく呼吸さえ忘れた。


 降り注ぐ陽光が、闇夜の元で行われた惨劇を暴き出していた。

 なによりまず、その(おびただ)しい死体の数だ。

 キイチから半径三メートル内にすら、四体が転がっていた。

 もっとも近いものはたった一歩半の距離だった。

 毛穴すらよく見える。


 その個体は喉笛を食いちぎられ、前のめりに倒れ込んでいた。

 最初に両膝をつき、そのまま顔面から地面に突っ込んだ形だった。

 キイチはそのおぞましい外貌に、改めて戦慄を覚えた。

 印象は昨夜と変わらない。

 地獄絵巻に描かれる餓鬼だ。


 子どものように小柄で、比率的に頭部が大きい。

 四肢は骨筋張ってひょろ長く、先端の爪はまさに鬼のごとく鋭く頑丈そうだった。

 顔つきは――ただ、邪悪としか形容のしようがなかった。

 耳まで裂けた巨大な口は、死体になってまでも残忍で酷薄な笑みを浮かべているように見える。


 そんなヒト型の魔物が、一体何匹襲ってきたと言うのか――

「お前……こんなバケモノの大群を……」

 九匹まで数えて、キイチは残りのカウントを断念した。

 それでもまだ半分前後は残っていただろう。

 だが、視界が(にじ)み始めてどうにもならなかった。

 こみ上げてくるものを堪えきれず、キイチは顔を伏せた。


「そら――当たり前だろ。こんなの、ただで済むわけ……」

 キイチはまた這って横穴に戻り、内壁に寄りかかった。

 何の気力も湧かず、しばらくそのまま呆然とたたずんだ。

 そうしてどれくらい経った頃か。


 ふと、水筒の一つが近くに転がっているのが目に付いた。

 何となく手に取り、残り少ない貴重な水で喉を潤した。

 一息つく。

 それが何かのスイッチになったのか、途端にキイチは空腹を意識した。

 なぜ今まで気づかなかったのか不思議に思えるほど、猛烈な飢餓感だった。


「こんな時でも……腹は減るのかよ」

 咽頭部に走る激痛に構わず、キイチは声に出した。

 苦労して横穴の奥から背嚢(ザック)を引き寄せた。

 干し肉を取り出し、手に取った。

 黙ってそれを見つめた。


 その間も、腹の音がひっきりなしに鳴り続けていた。

 唾液の分泌が止まらない。

 だが、それら全てを無視した。

「なあ、フェルマー……」

 キイチは干し肉を持つ手をだらりと投げ出した。

 目を閉じて、顎をあげる。


 そしてまた、ぽつりととつぶやいた。

「俺はな、お前が嫌いだったよ。最初から」

 我ながらひどく(かす)れた、老人のような声だった。

「お前らはいつもそうなんだ。人間なんぞより、よっぽど真理に近いから……俺らが八〇年かけてどうにかしようってことを、一〇年やそこらであっさり悟りきって――この世で学ぶべきことがなくなっちまう」


 彼らは外見に囚われない。

 過去や未来を考えすぎ、身動きできなくなることもない。

 必要なものと、余分なものを見極められるからだ。

 だから自分の本心、望みを決して見失わない。


 生涯を楽しむ術。感情の示し方。他者の想い方を。他者との繋がり方を。

 それらの重要性を、生まれながらに知っている。

 彼らは寄り添う者だ。

 そして、時に何かのために自分より大きなものへと挑む者だ。


「――生まれてきた意味とか。生きる目的とか。愛だの、平和だの。俺らが永遠のテーマだと思ってるようことも、お前らからからすりゃ分かりきった話で。なあ、フェルマー。人間なんざ、賢いつもりで教えられるのが本当はどっちなのかも気づかない。お前たちには、さぞかしマヌケな生き物に見えてたんだろうな」

 だが、飛び級のお利口さんも完璧ではない。

 彼らは、いつだって低い方に合わせることをしないのだ。

 決して立ち止まらない。


「答えを見つけ終えたら、さっさといっちまう。お前らのそんなところが気にくわない。取り残される側の都合なんざおかまいなし。いつだって、そうだ。――だから、俺はむかしから犬が嫌いだった」

 囁くようにキイチは繰り返した。

「お前たちが嫌いだった」

 言って、ゆっくりと目蓋を開いた。


 もちろんそこには自分以外の誰もおらず、抗議の声もあがらなかった。

 ただ静謐だけがあった。(ほこり)の舞う音さえ聞こえるようだった。

 とその時、視界の片隅で何かが唐突に輝き出した。

 横穴の入口側。

 外から入り込んでくるものだった。


 ただ、昨夜の雨でできた水溜まりが陽光を反射した――等といったものではない。

 到底、その程度のレヴェルではなかった。

 キイチは弾かれるようにそちらへ顔を向けた。

 途端、網膜を焼くほどの光に襲われた。

 文字通り目が眩んだ。


「なん……っ」

 しばらく目蓋を閉じていても、視界が白く染まったままだった。

 シャンプーが入り込んだように眼が染みた。

 抗う術はなく、ただ時間の経過に身を(ゆだ)ねるほかない。

 随分と経ってから、恐る恐る目を開けた。


 光は消えてた。

 それどころか、記憶より横穴の内部は暗く感じられた。

 目が慣れてくると、自分の感覚が間違っていなかったことが分かった。

 巨大な人影が横穴を塞ぐように立っていた。

 あたかも昨夜のフェルマーのようだが、シルエットもサイズもまるで違う。


 それは完全なヒト型だった。

 キイチも約一八〇センチあるが、優に頭一つ分は上背がある。

 体躯はその長身に見合うがっしりとした骨太のそれで、凹凸から全身を分厚い筋肉に鎧われているのが分かった。


 身体は明らかに雄性。

 しかし、雑に背中へ流された後ろ髪は女性のように長く、肩甲骨あたりまで伸びていた。

 レザー製だろうか。

 光沢のある黒いロングコートを纏っており、足下はブーツを履いていることしか分からない。

 コートは袖がなく、丸太のように太い両の(かいな)が剥き出しになっている。

 異様に毛深い体質のようで、その腕は七割方が毛皮とすら表現できそうな剛毛に覆われていた。


「ん――」

 背を向け仁王立ちしていたシルエットが、小さく首をキイチの方へ巡らせた。

 それから身体ごと振り返った。

「おう、まあ驚くのは分かる」

 巨躯の男は、ずいと右手を突き出して言った。

「が、まずは聞いてくれい」


 キイチは言われるまでもなく無言だった。

 相手の意思に従ったのではない。

 単に言葉を失った――

 絶句である。


 男は明らかにキイチの知る生物ではなかった。

 言ってしまえば、ミニチュアシュナウザーと呼ばれる犬種のマスクを被った人間の巨漢だった。

 おそらく、彼を表現するのにこれ以上のものはないだろう。

 その顔面は、実に九五%以上が長い体毛でびっしりだった。

 上半分は黒に近い灰色。

 いわゆるチャコールグレイで、鼻から下はサンタクロースを思わせる豊かな白髭をたくわえていた。


 その鼻はと言えば真っ黒の球形で、完全に犬そのものである。

両目は、人間でいう眉にしか見えないものに覆われてほとんど露出していない。

 チャコールグレイの毛並みの中で一際存在感を主張している白眉だ。

 その圧倒的ボリュームは、レトロ趣味のキイチに実在した古い日本の総理大臣を連想させた。

 名前までは記憶になかったが。


「気づいてるかもしれんが、俺はお前さんの狗神だ」

「いぬ――がみ?」

「その反応も仕方がないんだろうな。なにせ、フェルマーと名付けた子犬のイメージが、お前の中の狗神の全てときてる」

 言って男は両肩をすくめて見せた。完全に人間の仕草だ。


「あんたが、狗神?」

「そうだ、ジョウジマ・キイチ」

「待て。――ちょっと待った。待ってくれ……」

 キイチは目を背けるように顔を伏せた。右手で顔を覆う。

「お前さんが知りたいことは、少なくとも狗神についてのことなら全て話せる。時間はかけていい。まずは気を落ち着けろ」


「なんでだ?」

 地面に向けて、吐き捨てるように言った。

「俺は、もう狗神を呼ぶつもりなんてなかった」

「だろうな」

「じゃ、なんであんたは現れたんだ」


「お前さんが呼んだからだ。今の話じゃない。最初の召喚の時、三体まとめて呼び出そうとしたろ。覚えとるか?」

 はっとして顔を上げた。

「え……あれ……あの時の……」

「お前さんの能力では、一度に一体の狗神しか呼び出せない。次と契約できるのは、前の契約が何らかの形で効力を失った時だ。なのに知らずとは言え、一気に三体分の注文をかけた。まあ、それ自体は受理されたというわけだ。発送も行われた。届いて受取るのは一体ずつだがね」


「マジかよ……知らねえよ、そんなこと。言っとけよ」

 キイチは髪を掻きむしり、はたとその手を止めた。

 顔を上げる。

「あんた、狗神のことなら全て話せると言ったな?」

「言ったな」


「なら、聞かせてくれ」

 キイチは身を乗り出す。早口に訊いた。

「フェルマーはどうなった」 

「話はするが、一つ語る度に俺からもお前に話を一つ要求するが。それで構わんなら――」

 被せるように答えた。

「話せることなら話す。教えてくれ」


「なら、答えよう。どうなったかと言えば、この世からは消えた」

「死んだってことか」

「当たらずとも遠からずと言ったところか。俺たち狗神は、狩猟神カァヒの庇護の元にある。狗神ってのがそもそも何なのかは知ってるか、坊主(クィット)?」

 キイチは黙って首を振った。

「狗神は基本的に、非業の死を遂げた犬だ。犬と言っても幅広いし、ごく(まれ)に死なずに狗神になるやつもいるが――まあ、これは例外中の例外だから無視して良い」


「どういうことだよ。フェルマーもあんたも幽霊だとでも言うのか?」

「ある意味、そうだ。恨みや未練を残すような死に方をした犬類は、狩猟神カァヒに慈悲をかけられることがある」

「なんで犬限定なんだよ」

「そりゃお前、カァヒが旅、靴、冒険、雲、弓、そして狩猟を司る神だからだ。狩猟犬であり番犬である俺たちの守護者なんだよ。だから、ことさら目をかけて下さるし、俺たちもカァヒ神を篤く信仰してるってわけだ。海に住む奴らが、海神エプシガロアを崇拝するように」 


 続く話によれば、死者は通常、死の女神ユー=パスの元に導かれるのだという。

 だが狩猟神カァヒはユー=パスと交渉し、とある特別な許可を得ている。

 すなわち、不幸と絶望の中で生涯を閉じた犬の魂に限って、自分の管轄下に置くというものだ。

「狩猟神カァヒの元へ送られた俺たちは、生者でも死者でもない中間の存在に留め置かれる。やがては楽園〈ガンユ・ワリ〉に送られ、カァヒ神のもと永遠の至福に包まれるわけだが――その前に前世での未練を(そそ)いでおかにゃならんわけだ。しこりを残したままでは、楽園への門は潜れないからな」


「じゃあ、狗神ってのはもしかして――」

「そう。未練を残して死んだ犬族が、気持ちの整理をつけるための一時的な再生であり転生だ。特別に肉体と仮の生命を与えられ、この世に戻ってくる為のシステムだな」

「成仏するために期間限定で生き返った幽霊ってわけか」

「狗神は傷や心残りを持ってる。だから、それを癒やしたり埋めたりするための手助けができそうな奴の元に送り込まれる。そして共に過ごす中で色々なことに決着をつける」


「その使えそうな奴ってのが、狗神使いか」

「そうだ。狗神は癒やしを、狗神使いは強力な力を持つ使い魔を手に入れる。双方に損のない契約だ。だからこそ選定は慎重に行われる。狩猟神カァヒが直々に適性を見極め、引き合わせて下さるのさ。望む狗神は、自分で吟味して召喚主を決めることもできるようだがな」

 口ぶりから察するに、目の前の狗神は前者のパターンだったのだろう。


「――俺が、一体フェルマーに何をしてやれたって言うんだよ」

 キイチは吐き捨てるように言った。

「何から何までおんぶ抱っこで、最後は独りで戦わせて死に追いやった。また報われない一生にさせちまったくらいだぞ」

「それを決めるのは坊主(クィット)、お前じゃない。本人だ」

「あいつは報われたってのか、あんな終わり方で」

 キイチは食ってかかるように言った。


「ああ。あの子犬は浄化された魂として、〈ガンユ・ワリ〉の前庭に(かえ)ってきたからな。満たされ、清められていた。つまりお前さんは見事、狗神使いしての役割を果たしたってわけだ」

「なんなんだよ。どういう理屈なんだ。あいつの――未練ってなんだったんだ? フェルマーの奴は前世で何があったんだよ。なんであれで――俺なんぞのためにボロボロになって死んで報われるんだ!」

「答えても良いが、それは二つ目の質問だな。その前に俺の番――なんだが、さらに優先してやっておかにゃならんことができた」


「は……?」

 眉根を寄せるキイチをよそに、狗神は身体を反転させた。

「お客さんだ」

「モンスターか!?」

 思わず腰を浮かせかける。だが不自由な身体がそれを許さなかった。キイチは痛みに悶絶しつつ、なんとか続けた。

「昨日の――」


「違う」

 背中を向けたまま狗神は短く言った。

 それから半歩横にずれて、キイチの視角を確保する。

「ちと遠いが、向こう正面をよく見てろ坊主(クィット)。そろそろ現れるぞ」

 言われて目をこらした。


 横穴の正面には土壌が剥き出しになった平地が開けている。

 直進すれば、一〇〇メートル前後で岩の崖に突き当たる。

 その真下には雑木林が横に長く広がっているが、規模はささやかなものだった。


 程なく、その雑木林をかきわけ、のそりと何か巨大な物が現れた。

 否、よく見れば「かきわけ」といった可愛いものではなかった。

 なぎ倒している。

 まるで下草でも踏みつけるように、バキバキと木々をへし折り、愚直に直進を続けているのだ。

 動きはスローモーションのごとく非常に緩慢だが、質量が桁外れだ。


 戦車か巨大ブルドーザを見るようだった。

「なん……だ、ありゃあ」

「ありゃあ、食屍獣(アルゴル)だな」

 呆然とするキイチとは対照的に、狗神は花の種類でも教えるような口調だった。


  食屍獣(アルゴル)なる巨獣は、地球のどんな生物にも似ていなかった。

 四足歩行だが、首と尾はその脚と変わらないか、それ以上の太さと長さがある。

 サイズは恐らくアフリカ象クラスだろう。

 距離がある上、現実感を著しく欠くため確かなことは言えない。

 とにかく巨大としか表現のしようがなかった。


 太陽の下にさらされた化物の肌は、気色の悪い粘液に覆われてぬめぬめと気色の悪い(つや)を放っていた。

 遠目に見る限り体毛はない。

 全体的に、日本人を病弱に白っぽくしたような色をしており、静脈を思わせる青い筋がひび割れのようにあちこちに走っている。


 もっとも奇妙なのは、長い首の先端だ。

 そこにはあるべき頭部がなかった。

 刃物ですっぱり斬り落とされたかのようだった。

 だが、それが食屍獣(アルゴル)の本来の姿なのだった。

 断面にあたる部分が、丸ごと口になっているのがその証明であった。


 腔内にはギザギザしたノコギリ状の歯牙がびっしりと円形に並んでおり、喉奥に同じタイプの口と歯が更に備えられている。

 あるいは二重ではすまず、三重、四重と口が続いているのかもしれない。

 距離のおかげで、キイチはそのおぞましい真実を確かめずに済んだ。


「いや、おかしいだろ。周りの樹よりデケえじゃねえか」

 不条理とは分かっていても、非難がましい口調になってしまう。

 自分の声が軽く震えていることにキイチは気づいた。

「あんなデカイのが隠れられる場所なんてなかっただろ。どっから出てきたんだよ」

「わいて出たのさ。あれは、そういう存在だ」

 狗神がこともなげに言った。


「わくって……」

 と、のそのそと前進を続けていた食屍獣(アルゴル)が足を止めた。

 正面には餓鬼もどきの死体が転がっている。

 化け物は長い首を巡らせ、先端の口で(むくろ)を貪りだした。

食屍獣(アルゴル)は森の掃除屋だ。奥地に現れて、ああして大型生物の死体や腐肉を喰らう」

「凶暴、なのか?」


「いや、見た目に反して脅威は低い。生者を積極的に襲ってくるとはほとんどない、んだが――」

 歯切れの悪さに、キイチは顔をしかめる。

「あれは存在そのものが良くねえのさ」

 狗神はそちらを見たまま続けた。

(いん)(そう)が強い場所に自然発生して、更に陰相化を強める性質がある。呪われた、忌むべきものだ」


「いまいちよく分からねえんだが」

「死や苦痛は場の空気を悪くする。(よど)ませる。夜の墓地は、あまり気分の良い場所じゃないだろう? あれが極まっていくと、空気や雰囲気の悪さが固定化されて、自然には回復しなくなる。それを陰相(てん)()と呼ぶんだ」

「前半の空気の悪さってのは分かるけどな……」


「ここは夜、悪天の中、多くの血が流され、数多の生命が苦痛の中で失われた。それらを嘆く大きな感情で満ちあふれた。陰相転化の条件を備えている」

「で、その陰相転化ってのになると、具体的に何が問題なんだ」

「邪神イスの支配領域になる」

 ざわりと狗神の雰囲気が変わった。声が半音低くなる。

「死者が亡者として蘇り、獣は魂を怪我され魔獣へと墜ちる。汚染された土地からは迷宮が生まれる」 


 亡者――

 すなわち夜の眷属(アンデッド)も、魔獣も生者ウォームを憎悪し、無差別に襲いかかるのだという。

 迷宮はそれらの巣として機能する。

 忌まわしき夜の眷属や魔物を増やしながら、自らもより広く深く肥大化していくらしい。


「そういうわけで、陰相化を進めないように食屍獣(アルゴル)は見つけ次第駆除しておく。これが生ある物に共通する使命だ。人間(エイン)も亜人も動物も、そこだけはズレがない」

 そんなやり取りの間にも、食屍獣(アルゴル)は食事を進めていく。

 キイチのカウント間違いでなければ、既に四体目を説く半分ほど平らげつつあった。


「どうするんだ? 俺は――このザマだし、ナイフで死ぬのかあの化け物は」

 キイチの言葉に、狗神が振り向いた。

 モップを貼り付けたようなもふもふした口髭と顎髭を割って、その口元が笑みを形作る。

「良い機会だ。これからお前が身につけることになる〝力〟の一端を披露してやる。じっくり観察しておけ」


「なに――?」

「いくぞィ」

 狗神は前を向くと、両膝を軽く曲げた。

 重心が落とされる。

 前掛かりではなく、やや後ろ荷重。

 右の拳が軽く引かれた。

 腰の横で構えられる。


「〝猟神の――〟」

 直後、狗神の後ろ姿がブレたと思った瞬間、凄まじい勢いで飛び出した。

 それは疾駆とも、飛行とも違って見えた。

 敢えていうなら滑空がもっともイメージに近かった。

 地表すれすれを滑るかのように、だが凄まじい速度で吹っ飛んでいく。

 残像さえ生みだすそれは、ほとんど瞬間移動の域だった。


 あれよという間に一〇〇メートル近い間合いを詰めた狗神は、標的の眼前で完全停止した。

 慣性をはじめとした一切の物理法則の影響を感じさせない、美しさすら感じさせる急制動。

 そして腰だめに構えていた右の拳が、無造作に突き出された。

 体重を乗せた渾身の一撃という動きではない。空手の型を彷彿とさせる、速度とキレだけの所作だった。


 その右手が直接、食屍獣(アルゴル)に触れたかは、角度と距離でキイチには分からなかった。

 だが、腕が伸びきった時、拳は開かれ、指が揃えられた(しょうだ)打のそれに近い形へ変わっていた。

「――〝魔弾〟!」

 狗神の裂帛の気合いが、キイチの耳朶を打つ。


 次の瞬間、食屍獣(アルゴル)の巨体が吹っ飛んだ。

 そうとしか表現のしようがなかった。

 膨らませた風船の空気を一気に抜いたかのような、爽快感すら抱かされる見事な飛びっぷりだった。

 一直線に雑木林を突き抜け、唸りを上げて背後に崖に突き刺さる。

 ずんという重たい爆音が響き渡った。


 冗談のような光景にキイチは瞬きも忘れる。

 そんな中、狗神は悠然とした足取りで戻ってきた。

 そして言った。

「俺はゼン=フゥ・ド・ナイレ。これからしばらくかけてお前さんを鍛えるために来た狗神だ。よろしくな、人間(エイン)坊主(クィット)


挿絵(By みてみん)

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