フェルマーの冒険
のちに〝フェルマー〟と名付けられる狗神は、かつてただの子犬だった。
名もなき山中、名もなき山犬の三子として、とある冬の日に生を受けた。
名もなき雑種だった。
きょうだいは二匹とも姉。
歳の離れた大姉は母に似て賢く、落ち着いた女性だった。
物静かで物知り。
積極的には遊んでくれないが、とても優しく、そして優秀なハンターだった。
子犬はそんな大姉が大好きだった。
すぐ上の小さな姉は、どちらかと言えば勝ち気でおてんば。
大して歳も変わらないのに子犬のことを子分扱いだったが、二本の矢のごとく一緒に駆け回り、ひとつの毛玉のように取っ組み合って喧嘩する相手だった。
子犬はこの小さな姉のことも大好きだった。
父親に関しては、よく分からない。
というのも、山の野犬たちにとっては父親がいないの日常こそが普通だからだ。
父親とは群れのボスであり、ボスは一匹で多くの家族を持っている。
――その家族にもボスがよく訪れる偉い家族と、滅多にボスが寄りつかない弱い家があるの。
大姉はそう教えてくれた。
子犬は、父親の姿を遠目に――ほとんど点にしか見えないところから――しか見かけたことがない。
「ほら、あれが父様よ」
いつだったか母に教えてもらったことがあったが、子犬にはよく分からなかった。
子犬は足下でぴょんぴょんしている虫の方が気になったし、父の方もすぐ樹冠の向こうへ行ってしまったからだ。
ただ、自分たちの家族が――どうやら偉くない方らしい、ということは何となく分かった。
だから他の家族と交流が少なく、端っこの方で暮らしているのだろう。
もっとも、姉たちはそんなことを気にした様子はなかったし、それは子犬も同じだった。
母も「あなたたちのおかげで毎日にぎやかよ」といつも言ってくれた。
その母は、小柄な犬だった。身体の大きさは大姉とほとんど変わらない。
それどころか見劣りするくらいだった。
「母様は少しだけ身体が弱いのよ。あなたを産む時も大変だったんだから。命懸けだったの」
大姉が言うところ、母は昔から右の後ろ脚が上手に動かないのだという。
すぐ疲れてしまうし、ご飯もたくさんは食べられない。
だから狩りも得意ではなく、家族のエースは大姉だ。
子犬は自分も早く大きくなって、母様のためにたくさん獲物をとろうと思った。
もっとも、母は乳もあまり出せないので、また赤ちゃんだった子犬はちびのひょろひょろだった。
いつもお腹は空いていたが、子犬は優しい母が大好きだった。
†
そんな子犬が、乳以外の物も少しずつ栄養にできるようになった頃だった。
山に〈渡り〉が起った。
周囲がにわかに騒がしくなり、母や姉たちも神経質になった。
子犬にはよく分からなかったが、山の奥の〈めいきゅう〉というものが生まれたのだと、小さな姉が得意げに教えてくれた。
もちろん、彼女はそれ以上のことを知らなかったので、子犬は大姉に教えを請うた。
彼女はこう教えてくれた。
「迷宮は、私たちのような獣が強くなれる場所なの。〈陰相〉という怖い力に満ちた場所で、長くいると死んでしまうことも多いけど、生き残ることができれば魔物に変わることができるのよ」
魔物になれば、獣だった頃の何倍もの力を手に入るのだという。
陰相に墜ちるかわり生物としての〝格〟があがる。
だから、生まれたての迷宮には、たくさんの獣が集まってくる。
山や谷を越え、遙か遠くの地からも。
それが〈渡り〉だ。
余所者が大挙して押し寄せれば、以前から住んでいた者たちの縄張りは荒らされる。
結果、多くの争いが起こる。
その闘争と、混沌と、死が陰相化を深め、迷宮は更に力をつけてゆく。
「そうなると、人間たちも迷宮に気づく。たくさんの彼らが魔物を狩り、迷宮を壊すために集まってくる。もう、山は私たちの知ってる場所ではなくなってしまう」
子犬は怖くなった。
難しいことは分からなかった。
だが、いつも穏やかで優しい母や大姉が、滅多に笑わなくなったのだ。
何か良くないことが起こっているのは間違いなかった。とても、途方もなく良くないことが――
実際、変化は子犬にも感じられた。
知らない生き物の匂いが増えた。
聞いたこともない怖い咆哮が轟くようになったし、遠くからだが、初めて人間という生き物を見た。
あちこちで、獣同士が殺し合いが演じるようになった。
奇妙な匂いがすると思って様子を見に行くと、無惨な死骸に出くわすことなどしょっちゅうだった。
その犠牲者として、仲間の姿を見かけることもあった。
母や大姉が言うには、野生動物やエインを餌にする危険な魔物が、奥地から少しずつ姿を現すようになったらしい。
――そして、最後の日は訪れた。
ある日の真夜中、姉たちの悲鳴のような唸り声で子犬は叩き起こされた。
目を開けた瞬間、子犬は飛び上がった。
周囲は既に狂乱ともいうべき喧噪に満たされ、金色と真っ赤な光で半分昼のように照らし出されていた。
瞬かない星のような小さく光る何かが、コバエの大群のように周囲を飛び回っている。
「山火事よ」
大姉は見たこともない、緊迫した顔だった。
聞けば、迷宮探索に来た人間のキャンプへ、外から来た同胞の群れが夜襲をしかけたのだという。
余所者は、こうした騒ぎを度々引き起こすのよ。
あの穏やかな大姉が吐き捨てるように言ったので、子犬は驚いた。
なんでも彼らは、賭けで迷宮を目指してきたものの、中途半端な力しかない。
溢れ者なのだという。
他の勢力に押し出され、なかなか迷宮に入れない。
そうなると、今度は地元の獣に縄張り荒らしと追い回される。
行き場を失い、飢えて――最後はなりふり構わなくなる。
目に付くものへ見境なしに襲いかかるようになる。
山火事は、そんな群れが起こした悲劇のひとつだった。
風があるというのに、人間を野営地を襲って引っかき回したため、周囲の木々に篝火が燃え移ってしまったのだ。
それは瞬く間に広がり、あれよという間に取り返しのつかない規模にまで育った。
事実、周囲は既に、噛みつけば感触が返ってきそうなほど厚みのある灰色の煙に覆い尽くされていた。
視界はほとんどきかない。
まるで空に浮かぶ雲に顔を突っ込んだようだ。子犬は思った。
そんな中、夜空を焦がさんとばかり、あちこちから高く煌々と火柱が上がっている。
様々なものが焼ける匂いで、鼻が曲がりそうだった。
これでは、どこに誰がいるのか嗅ぎ分けられもしない。
「急いで逃げないと」
「でも、どこに」
近くで、母と姉が喚き合っている。
彼女達だけではない。
山中の小動物や鳥、群れの仲間達。
騒ぎを起こした張本人たち。
焼き崩れた大樹のあげる、断末魔のような軋み音。
火勢を増す炎にあぶられ、ばちばちと爆ぜる梢と枝葉……
さまざまな叫びと悲鳴が、照り返しに赤く染め上げられながら周囲を埋め尽くしている。
とその時、オスの一際鋭い遠吠えが上がった。
「岩場だ」
盛んにそう呼びかけていた。
ひょっとすると、それこそ父の声だったのかもしれない。
「そうよ!」
「岩で囲まれた場所なら火も来ない」
家族の声にも、あからさまな喜色が浮かんだ。
子犬も嬉しくなった。
「聞いてたね? さあ、行くよ。逃げるの!」
濃霧のような白煙を割って、大姉がぬっと顔を突き出した。
しっかり付いてこい。
そう発破をかけるように、鼻先でちょんと子犬の腹をつついた。
山犬たちは走り始めた。
劫火に包まれた辺りは、世界の終わりを見るようだった。
空気そのものが燃えているとしか思えなかった。
毛皮を炙るような熱と、雨のように降り注ぐ火の粉の中、子犬は必死に母と姉たちついて行った。
途中、幾つもの小集団が合流し、いつしか大きな群れになっていた。
山犬だけではない。
気づけば、子犬のすぐ隣を角鼠が走っていた。
煙でシルエットしか分からないが、後ろの方には母と大姉を合わせたよりも大きな未知の獣がいる。
大小、周辺に住まう同胞や外様、全てが一緒くたになっての避難行列だ。
この時ばかりは諍いや争いもなく、誰もが一丸となった。
しかし、それでも事故は起る。
山犬は普段から集団で生活し、知能も比較的高い。協調や秩序を理解する。
だが、逃げ惑う獣の中にはそうでない者もいた。
むしろ、恐慌状態で我を失っている動物の方が多かった。
そして、運の悪いことに、子犬のすぐ近くにもその具体例がいた。
よりによって、背に人間を乗せても平気で走れそうな、巨大な偶蹄族だった。
尻尾に火が燃え移りでもしたか。
そうとしか思えないような狂騒状態だった。
目を血走らせ、涎をまき散らしながら、それは背後からみるみる子犬に近づき、駆け抜けていった。
避難する獣たちの列は無惨に切り裂かれた。
中には踏み潰される小動物もいた。
子犬は直撃こそ避けたが、その巨大な蹄がわずかに身体をかすめた。
だが、それで充分だった。
突風に吹かれた綿毛のように、子犬は吹っ飛ばされた。
丸い体はころころ転がって列から放り出される。
「ちびがいないよ!」
すぐに小さい方の姉が気づいてくれたが、それだけだった。
彼女はもちろん、母にも大姉にも、どうしようもなかったのだ。
避難の列にあって、山犬など川に浮かべられた木の葉と同じだったからだ。
止まろうとも周囲がそれを許さない。
自分の意思とは無関係に押し流される。
最悪なことに直後、近くで倒木があった。
山犬が何十匹も繋がらないと一周できないほどの巨樹だった。
それがどういう理屈でか崩れ落ちたのだ。
避難路を塞ぐように。
獣たちは悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
列は一瞬で無惨に崩壊した。
子犬もたちまちパニックに陥った。
火も怖かったし、死に物狂いで逃げまとう大人たちの形相も怖かった。
わけも分からず、無我夢中で逃げた。
気づけば周囲には誰もいなかった。
そこまでどうやって来たのか、道も方向も分からなかった。
引き返そうと踵を返すと、目の前には火の海が広がっていた。
大地全体が燃えているように見えた。
子犬は思わず後ずさった。
色んな方向へ走ってみたが、どこも煙と炎に囲まれて逃げ場はなかった。
不安で、寂しくて、怖くて、身体がぶるぶる震えた。
母を呼び、姉たちを呼んだ。
呼びながら、その場をぐるぐると走り回った。
ひとりぼっちはとても悲しくて、最後は動けなくなった。
きゅうきゅう鳴きながら、子犬は意識を失った。
それが山で過ごした最後の記憶だった。
†
次に目が覚めた時、子犬はどこか知らない場所にいた。
そこは家族と暮らした山ではなかった。
洞窟のように壁と天井がある、広くて明るい空間だった。
下は快適な寝床で、敷き詰めた落ち葉よりふかふかだった。
どれくらい寝ていたのか。
なぜ山火事の中、家族とはぐれてしまった自分が別の場所にいるのか。
何も分からなかった。
ただ、隣に変な生物が眠っていた。
ここの主だろうか。怖い獣だろうか。
もしかすると魔物かもしれない。
子犬は警戒したが、すぐに落ち着いた。
その生物は小さな姉より大きく、しかし大姉よりは小さかった。
身体にはほとんど毛が生えていなかった。
どうやら、尻尾もなさそうに見えた。
だらしなく四肢を広げ、腹を見せて横たわっている姿は隙だらけだ。
なんだかとても弱そうで、もしかしたら自分でも勝てるのではないか。
そんな気さえしてくる。
子犬はなんとなく直感で、それが知らない動物の赤ちゃんだということに気づいた。
自分より大きいが、自分より幼い。
まるきり初めて見る存在だった。
それが人間の子どもだと知るのは、もう少し後のことだった。
結論から言えば、子犬を助けたのは人間の狩人だった。
名をダン・ヴォアストラ。
二四歳の若者で、一昨年に結婚し、去年一女を授かったばかりの男だった。
彼は、やはり狩人だった祖父や父に連れられ、幼少の頃から狩猟に親しんでいた。
子犬の住んでいた山にも、時折出入りすることがあったという。
そんなダンたち狩人は〈渡り〉の兆候から、迷宮誕生の可能性を察知。
領主に報告をあげた。
これを受けて調査隊が組まれたため、案内人として地元の狩人が雇われた。
そのひとりが、ダンだったというわけだ。
山火事の原因になったのは、言うに及ばず獣による人間の夜営襲撃だが、彼もその当事者だった。
襲われたのは、迷宮調査隊とガイドの猟師からなる一団であったのだ。
山火事の発生で彼らも計画の変更を迫られた。
調査は一時停止。
とりあえず逃げるほかなかった。
その避難のさなか、ダンは気絶している子犬を見つけたのだった。
「――他の時なら素通りしたかもしれない。でも、自分に子どもが生まれたばかりだったしね」
ダンは当時の話を誰かにせがまれた時、決まってそう話す。
子犬自身、何度か聞いた台詞だった。
「なんとなく、見過ごせなかったんだよ」
だからある意味で、子犬はとても幸運だったと言える。
ダンの妻、ミアも汚らしい野犬を邪険にせず迎えてくれた。
夫妻は子犬に〝ピッケ〟の名を与え、新たな家族の一員として扱ってくれた。
「この子ね、ニーアっていうの。妹だと思って仲良くしてあげてね」
残念なことに当時、ピッケはただの犬でしかなかった。
人間の言葉は半分も理解できなかった。
だから、ミアのお願いも雰囲気で解釈したにすぎない。
それでも、ピッケは眠る人間の赤ん坊を妹分として受け入れた。
これは不思議でもなんでもない。
山犬の間では、自分より幼い生き物は妹か弟だ。
年長者は幼き者を護り、慈しみ、そして導かねばならない。
一族であるのならニーアが妹なのは当然で、彼女を大切に扱うのは言われるまでもないことだった。
何よりピッケにとっては初めての年下だ。
自分が一人前になれた気がして嬉しかった。
もっとも、全てをすぐに受け入れられたわけではない。
ヴォアストラ家で目覚めてひと月近く、ピッケは悲嘆にくれるばかりだった。
なんとなく、もう母にも二匹の姉にも会えないことには気づいてしまっていた。
きっと、彼女たちからは遠く離れてしまったのだ。
匂いを辿ることもできはしない。
二度と、山には帰れない。
ピッケは心細くて毎日きゅうきゅう泣いた。
周囲をうろつく人間たちも、恐怖の対象だった。
ここは彼らの巣なのだ。なぜそんなところに自分を連れてきたのか。
これからどうする気なのか。
全く分からない。食べられるのだろうか。
大きくなるまで待って――?
逃げようかと何度か思ったが、チャンスはほとんどなかった。
第一、どこへ行けば良いのかも分からなかった。
戦うことはもっと無理そうだった。
彼らはとても巨大で、子犬では精一杯戦っても勝てる見込みはない。
それに、もし失敗したらどんな酷い目に遭わされるか。
考えるだけで、ピッケはぶるぶる震えた。
大姉にお話をしてもらって、母と一緒に丸くなって眠りたかった。
小さな姉と冒険したり時々喧嘩したりしたかった。
彼女の元気な声が恋しかった。
ひとりぼっちだと思った。
そんなだから、しばらくは人間の足音が少し近くで聞こえただけでも、緊張で全身をこわばらせる毎日だった。
軽く椅子が引かれる音にすら、ピッケは飛び上がって反応した。
そして一生懸命逃げ回って、最後は部屋の隅で縮こまって身を守った。
夫妻は毎日エサをくれたが、子犬は蹴りが続いていつも元気がなかった。
――だが、傷を癒やしてくれたのは、やはりヴォアストラ家の人間たちだった。
彼らはピッケにやさしかった。
赤ん坊に尻尾を握られて離してもらえない時は、ミアがすぐに気づいて助けてくれた。
ダンは噛み応えのある枝をどこからか見つけてきて、遊んでくれた。
投げられた枝をピッケが咥えて戻ると、たくさん褒めてくれた。
程なく、ニーアが四本脚で這って動けるようになったため、これについて回るのがピッケの任務となった。
当時のニーアは幼すぎて、まだ危険を理解できなかった。
何にでもきゃっきゃと突進していく。
未知の物はとりあえず口に入れようとする。
ピッケはそんな妹分の問題行動を見守り、必要があれば事前にリスクの根を刈ってまわった。
時には身体を張って止めた。
だが、自分の尻尾をもぐもぐされたり、枕代わりにされてお腹を涎まみれにされることは防げなかった。
妹の多少のおいたを笑って許すのは、年長の度量なのである。
このようにニーアは手のかかる妹だった。
それでいて、家族と故郷を失ったピッケの心の穴を一番、埋めてくれる存在だった。
自分は新しい家族を得たのだと思った。
†
何事にも終わりがあること。
それは前触れもなく、唐突に現れることがあること。
どんなに頑張っても、どうにもならないことがあること。
ピッケはかつて全てを失った経験から、真理としてそれを知っていた。
妹分が頼れる相棒を〝ぴっけ〟と言えず〝っけ〟と不完全に呼ぶようになった頃――
それは、またしてもやってきた。
ピッケがようやく手にしたものを根こそぎ奪うために。
――全ては後で知ったことだが、要するに連中は野盗という存在だった。
縄張り争いというのは野犬だけではなく、人間の間でもあるらしい。
つまり、戦争と呼ばれるものだ。
山犬の戦いはすぐに決着がつくが、寿命の長い人間は争いごとも長い。
長引きすぎて途中で休んだりする。
膠着というやつだ。
戦争をしているのに戦わない。
そんな不思議な休み期間は、良いことばかりではない。
給料をもらえないので、雇われた兵士の一部はお金に困り始める。
偉い人たちが停戦を決めたり、急に戦争が終わってしまった時も同じだ。
食い扶持に困った兵士がどうするか。
あろうことか近くの集落や村を襲い始めるのだ。
要するに戦争屋と野盗は、人間の世界だと紙一重の存在なのだった。
ヴォアストラ家のある村に押しかけたのも、そんな奴らだった。
村は、都市と迷宮を繋ぐルートの途中にあった。
そのため、探索者などの往来が増えて、その年は少しだけ潤っていたと聞く。
だから目を付けられたのかもしれない。
ただの偶然だったのかもしれない。
ピッケには分からない。
どうでも良いことだ。
だが野盗は現れ、そして村はなす術なく蹂躙された。
それは事実だった。
不運だったのは、第何次だかの大規模迷宮調査と時期が重なったことだ。
案内役として駆り出された男衆は、ちょうど村を空けていたのである。
彼ら腕っこきの狩人がいれば、また状況は変わっていた可能性があった。
もちろん、それでも傭兵崩れの野盗集団には敵わなかっただろう。
だが、助けが来るまで持ちこたえるくらいはできたかもしれない。
確かなのは、全てが仮定の話で終わったということだ。
夕闇迫る時分、ヴォアストラ家に踏み込んで来たのは、刃物を持った二人組だった。
爛々とした眼は、飢餓で血走っていた。
もう何日もまともな食事にありついていないのかもしれない。
頬はこけ、不潔な無精髭が汗と皮脂でぎとつく肌に汚らしく広がっていた。
連中は真っ先に若妻のミアに目を付けた。
舌なめずりしながら乱暴しようとした。
しかしそこは彼女も猟師の妻だ。
片付け中だった食器を手当たり次第投げ、その後は包丁を振り回して勇敢に戦った。
ピッケが許せなかったのは、侵入者のひとりがニーアに向かったことだった。
人質にする気だったのだろう。
無垢な赤ちゃんをだ。
不穏な空気を感じて、ニーアが泣き始めた。
これは断じて許せなかった。
ピッケは生まれて初めて本気で怒った。
大切な家族を――ミアと妹分を護るため、敢然と立ち上がった。
尻尾を逆立て、唸り声をあげた。
獰猛に盗賊の脚に噛みついていった。
吹っ飛ばされても、蹴っ飛ばされても、何度も食らいついた。
なのに、背中にドンという衝撃を感じてから、身体が途端に動かなくなった。
せっかく食らいついたのに、すぐ力が抜ける。
野盗が雑に脚を振るだけで、ピッケは簡単に吹っ飛ばされた。
「あぁー、クソっ。殺っちまった」
後ろで男の声がした。
ミアと野盗のひとりが取っ組み合っていた方だ。
「オイ、この馬鹿! お前なにやってんだよ」
ピッケを振り払ったばかりの男が怒鳴り声を上げる。
「しかたねえだろ。この女、素人にしちゃ妙に動けやがったんだ」
「もったいねえ。こんなババアばっかの鄙びた集落で、せっかく当たり引いたってのに。分かってんのか」
「うるせぇ」
「ああ、ついてねえ」
男は宙を仰いで、がりがりと乱暴に頭をかき回した。
「このクソ犬はクソ犬で、刺されてもやたらしつこく食らいついてくるしよ。痛ぇんだよ、クソが!」
怒号と同時に、お腹を思い切り蹴られた。
ピッケは吹っ飛ばされて、痛くて、苦しくて、動けなくなった。
「オイ、それよりそのガキなんとかしろや。うるせえんだよ。チンケな身体してギャンギャン大声で泣きやがって。頭おかしくなりそうだ」
「分かってる! お前は食糧でも探してろ」
野盗はあろうことか、クッションをニーアの顔面に強く押しつけ始めた。
あんなことをされては、赤ん坊など息ができずにすぐ死んでしまう。
ピッケは力を振り絞って、野盗の脚に噛みついた。
「このッ……!」
また蹴り飛ばされる。
「しつけえクソ犬が、さっさと死んでろ」
目がかすんだ。
ニーアを助けたかった。
大事な妹なのだ。
命の恩人たちに任された子なのだ。
動かない身体が恨めしかった。
どうして自分はこんなにちびで弱いのだろう。
大姉のように強く雄々しく戦いたかった。
強さが欲しかった。
ニーア。
ニーアが死んでしまう。殺されてしまう。
ミアはきっともう……ミア。
ダンが知ったら、どんなに悲しむだろう。
ニーア。
もう何も見えない。
なんで、こんなに思っているのに、身体はうごいてくれない?
どうしてこんなに寒いのだろう。
苦しくて息ができない。
ニーア……
こうして、ピッケは短い生涯を終えた。
だが、その魂はライヴストリームに還り、死の神ユー=パスの元へ導かれることはなかった。
その非業を哀れむ狩猟神カァヒによって、御許へと招かれたのだった。
そして、未練をすすぐ機会を与えられた。
――弱きもの小さきものの盾としてありたい。
自らに課した使命をまっとうしたい。
そう誓ったものを、今度こそ。
戦い抜きたい。今度こそ、護りきりたい。
ひたむきな願いは聞き届けられ、かつてピッケだった野犬はその名と引き換えに、狗神としての資格と異能を賜った。
そして、己を呼ぶ声を待ち続けた。
――やがて狗神は、ひとりの少年に出会う。