最後の勝利者
いつしか雨は、降っているかも微妙なほどの小康状態になっていた。
キイチがそれに気づいたのは、ふとした偶然からだった。
また一体、フェルマーによって異形の魔物が斃される。
その死体の手から、握られていた松明が転がり落ちたのだ。
それはキイチの視界に収まる位置で、持ち主の後を追うように動きを止めた。
だが火はぬかるみにはまり、雨に打たれても消えることはなかった。
そこだけ闇夜をくり抜くように辺りを淡く照らし出している。
――終わりの時が近づいていた。
松明を持つ個体は、遠巻きに周囲を取り巻いていた。
いわば予備戦力だった。
それが既に前線にかり出されている。
数が減っているのだ。
だが、その代償としてフェルマーが支払ったものはあまりに大きかった。
軽く曲げた後ろの左脚は、もう動いていない。
ダメージと消耗で体幹が大きくブレていた。
立っているだけでも姿勢を維持できず、そのシルエットは絶えず大きく揺らいでいる。
横穴前に立ち塞がる後ろ姿は、雄弁に限界を語っていた。
「もう、良い! 逃げろフェルマー」
キイチは怒鳴った。
だが狗神はそれを背中で振り切る。再び駆け出し、横穴に迫る個体の迎撃に向かう。
狂ったように激しくもつれ合う音が、視界の外から聞こえてきた。
その間隙を縫い、ついに別の一体が横穴に取り付いた。
最初に見えたのは、縁にかけられた四本の指だった。
獣のように長く鋭く伸びた爪は黒く、節くれ立った指は汚れたゾウを思わせる濃い灰色だった。
それから――唾液なのか――粘液の糸を口元にいくつも架けた、おぞましい化け物が顔をのぞかせた。
分厚そうな皮膚は、やはりゾウを思わせる皺と罅に覆われ、雨でずぶ濡れであるにも関わらずガサついていた。
頑丈そうな歯牙は黄ばみ、汚らしく濁っている。
爬虫類を思わせる血走った双眸が、キイチを見つけた瞬間、愉悦に歪んだ。
やはり猛禽のごとく鋭く分厚い爪をもつ脚が、一歩踏み出される。
その時だった。
フェルマーが弾丸さながらの勢いで戻り、丸めた全身でぶちかましをしかけた。
不意をつかれた小鬼は横っ腹へもろにその一撃食らう。
キイチの方を向いたまま、体を横向きの逆〝く〟の字にぐしゃりと曲げた化け物は、冗談のような速度で吹っ飛んでいった。
ビルの解体工事に見る巨大重機の鉄球で、横殴りにされたかのような勢いだった。
ただ全力の体当たりとなれば、フェルマーもリスクなしではいられない。
なんとか脚から着地は決めるも、たたらを踏むように二、三歩ふらつく。その隙を逃さず、数体の魔物がそちらへ群がっていくのが見えた。
「逃げろ! 逃げろフェルマーッ。もうよせ。お前一人なら逃げ切れるだろ!」
キイチは胃液で焼かれた喉を酷使し、血の味にもかまわず叫び立てた。
「俺のことは良い。逃げてくれ。俺はもう良いんだ!」
と、横穴の外、キイチの視界の外で何かかパッと輝いた。
5号玉の打ち上げ花火が、誤って地上で炸裂したかのような光。
そして爆音。
鼓膜を貫ぬくという表現があるが、本当にそのものだった。
うるさいではなく、痛い。
悶絶するほどの苦しみだった。
頭の奥にキィンという耳鳴りが残り、一向に去ろうとしない。
頬を殴られたように呆然としたあと、徐々に理解が追いついてきた。
今し方の爆発が、自分のいる横穴を作った時のものに酷似していることに、キイチは気づいた。
その意味するところまで理解したと同時、一気に鳥肌がたった。
「お前……あれは、続けて使えるようなもんじゃないって……」
言ってたじゃねえか。
続くその言葉は半分、音にはならなかった。
と、また閃光が周囲を真昼のように照らし出した。
だが、今度ははっきりと弱い。
伝わってくる振動も、最初のそれとは別物だった。
「何やってんだよ! やめろ、フェルマーッ」
馬鹿になった聴覚では、自分の叫び声さえほとんど聞こえない。それでもキイチはわめかずにはいられなかった。
「もうやめろ! もうやめろ、死んじまうぞ!」
狗神は、あきらかに限界を超えてそれを行使している。
命を削っている。
「フェルマ――ッ」
最初、フェルマーは飛び出して行くことはあれ、すぐに横穴前へ戻ってきていた。その狗神が、一向に戻らない。
厳然たる事実が、キイチの胸の奥にざわめきを生んだ。
びくびくと内臓が痙攣しているような不快感があった。
吐き気がとまらない。
「フェルマー……」
その囁きとも呻きともとれない声を最後に、完全な静寂が世界を支配した。
聴覚はいつ戻るのか。それとも、すでに戻っているのか。
外がどうなっているのか。
もう、何も分からない。
視界の奥で燃えていた松明もいつしか火勢を極端に失い、今は消えかけたマッチのように頼りない。
がら空きになった横穴の入り口には、涎をしたたらせた魔物が現れることもなかったが、フェルマーが戻ることもまたなかった。
ただいたずらに時間ばかりが過ぎた。
それでいて、自分が静謐の底に沈んでどれくらい経つのか、把握することもできない。
そんな時だった。
ともすれば空気の揺らぎと間違えかねない――か細い音がした。
それで、キイチは耳が元に戻りつつあることを知る。
跳ねるように反応し――途端に全身を貫く激痛に声なき悲鳴をあげる。
だが、奥歯を食いしばった。
痛みをかみ殺し、音の方をうかがった。
暗がりの中に小さなシルエットが見えた。
「フェル……」
その正体を知った瞬間、喜色もあらわに叫びかけた。
そして言葉をのんだ。
狗神はずるずると左半身を引きずり、一歩踏み出すにもぶるぶると震えていた。
キイチの眼前、大きくバランスを崩し転倒しかける。
内壁に身体を預け、すんでのところでなんとかこらえはする。
だが、そこまでだった。
狗神はそのままずるずると崩れ落ちていった。
寄りかかっていた岩肌にはべっとりと――冗談のような量の鮮血が付着していた。
「フェルマーッ!」
ぶわりと全身から一気に冷や汗が吹き出た。
距離は一メートルもない。体勢を変え、芋虫のように這って進む。
それだけでも、恐らく三分はかかった。
唯一動く右腕でもがいた。
がりがりと不快な音と共に、爪が割れるか剥がれるかしたのが分かった。
それでも距離が縮まらない。フェルマーに届かない。
「くそっ……くそっ!」
最後は地面に頬まで押しつけて進んだ。
ようやく辿り着き、間近で見るフェルマーは生きているのが不思議な状態だった。
あの撫でると柔らかく、くにくにと不思議な手触りがする愛らしい耳は、右側の大部分が失われていた。
胴には深々と刻み込まれた傷が無数にあった。
体毛どころか肉ごとごっそり抉り抜かれ、骨が白く露出している箇所すらあった。
その全てが――致命傷に見えた。
キイチが触れると、水を含んだスポンジを押したように、じゅわりと鮮血が指に絡んだ。
フェルマーが閉じていた両の目蓋をゆっくりと開いた。
ひゅうひゅうという風を切るような呼吸だった。
「フェルマー……」
何度も唾を飲んで、キイチはようやくそれだけ言った。声は無様なほど震えていた。
対するフェルマーは驚くほど穏やかな表情だった。
そんな中に、不思議何かと誇らしげなものが混ざっているように、キイチには感じられた。
「ああ……大仕事だったな、フェルマー。何――っ匹いたのか、俺には分からないけど――」
声が震えて定まらない。どうあっても裏返るのを避けれない。
「おまえ、は――お前、全部、ぶっ倒してくれたんだよな……ったく……大した、奴だよ。ほんと……すげ、えよ。こんな、小さな身体で――さ」
フェルマーが柔らかく目を細めた。
狗神なりの微笑なのだと、分かった。
「頼りっぱなしだったな、俺……何から何まで、お前頼りで。ありがと、な……それしか、言えねえよ。言葉もねえよ……フェルマー」
荒い呼吸にあわせて忙しく起伏を繰り返していた腹部が、急速にその動きを鈍くしていく。
「おい、フェルマー……?」
思わず、右手で小さく揺さぶる。
狗神は応えず、ただ静かに、キイチを見つめていた。
それからゆっくりと目蓋を閉じ、同じくらいゆっくりと開いた。
また閉じ、そして優しく開く。繰り返す。
「お前――お前は……」
うわずった声でつぶやき、そしてキイチは急いで頷いた。
「ああ!」
馬鹿みたいに上下に振りまくった。
「ああ、分かる。分かるよ、フェルマー! 分かってる。俺もだ。俺もだからな。だから――」
フェルマーの腹部の動きは、もう目視では見分けられなかった。笛の鳴るような呼吸音も静まっている。
今となっては、身体に刻まれた無数の傷痕の何もかもが嘘であったように落ち着いていた。
そんな中、瞬きだけがゆっくり、ゆっくりと繰り返されている。
「だから、いくな。頼む。頼むから……違うだろ……俺なんかじゃなくて、お前みたいな――お前みたいに優しい奴が! 良い奴こそ――フェルマー……頼む……死ぬな」
うわ言のように懇願し続けた。
それらが耳に届いていないかのように、フェルマーはただただ優しくキイチをその瞳に映していた。
そして最後に一度、例の瞬きを見せ、一際ゆっくりと目蓋を閉じていった。
それきり、動かなくなった。
「おい、フェルマー……? フェルマーッ!」
二度目の呼びかけは、ほとんど絶叫だった。
力任せに揺さぶった。
召喚者に与えられた権能のひとつなのか。
その時になって、キイチは自分が狗神との繋がりを常に感じながら過ごしていたことを知った。
絶たれたことで初めて、そ特別な感覚の存在に気づいた。
ようやくにして、気づいた。
「フェル……」
言葉を喉に詰まらせ、キイチはその場に崩れ落ちた。
自分の中から、何かが一瞬にしてごっそり失われたような気がした。
首の据わらない赤ん坊にように、もはや頭の重さにすら耐えられなかった。
額と地面がぶつかる鈍い音がしたが、痛みも含めて気にならなかった。
それでも、いくらもしないうちに顔を跳ね上げたのは、光を感じたからだった。
真上から強烈なスポットライトの照射でも受けているかのように、フェルマーが全身純白にきらめいていた。あまりの眩さに、輪郭すら霞むようだった。
それが気のせいではなかったことに、キイチはほどなく気づいた。
霞むよう、ではない。
本当に輪郭が失われつつあった。
末端部から、フェルマーの身体が光へと分解されていく。
昇華されていく。
まるで炭酸水の泡の群れを見るようだった。
揺らめきながら立ち上り、弾けるように消えていく。
しゅわしゅわと音さえ聞こえてきそうな光景であった。
「……ぁ」
口が半開きになる。
解体し、切り分けて焼いた魔物の死体には、このような現象は発生しなかった。
横穴の外には夥しい数の死骸が転がっているはずだが、それらは爪の先ほども光る気配など見せない。
「なんで――待っ……」
慌てて手を伸ばす。
だが触れることはできても、指の隙間から大量の粒子がこぼれていく。
重力に逆らい、煙のように立ち上っては消えていく。
「待ってくれ……こんな――まだ、俺は……何だよこれ!? 消えろ、おい消えろよ! 消えろって」
粒子を払うように右手を振り回す。最後は指を閉じて、押さえ込むように被せた。
全ては無駄な抵抗だった。
それはキイチもどこかで理解していた。
事実、むしろ粒子化は加速し、フェルマーの小さな身体をあまさず埋め尽くしていく。
「フェルマーッ……フェルマー、待ってくれ! 待っ――」
最後は突風が灰の山を吹き散らすようだった。
無数の煌めきへと姿を変えたフェルマーは、一気に拡散し、見えざる何かにさらわれていった。
あとには存在していたはずの血溜まりすら残っていなかった。
「ぁあ……ああ――ッ」
気がつくと、取りすがるようにフェルマーがいた場所に突っ伏していた。
遅れて、自分が狗神の体温の残滓を探そうとそうしたことを理解した。
だが、キイチに触れるのはただ冷たく乾いた地面だけだった。
一切合切が夢であったかのように、フェルマーがそこに存在した痕跡は忽然と失われていた。
ただ虚空だけがあった。
「あぁ――」
自分でも訳の分からない叫びが溢れ出して止まらない。
肚の奥底。
止めどなくこみ上げてくるものを抑えきれず、キイチは震えと共にそれを吐きだし続けた。
ただ獣のように吠え散らかし、収まることのない戦慄きに身を委ねた。
内側から身を焦がすような灼熱感は、いつ果てるとも知れず、キイチを震わせ続けた。