5パーセントのはずれクジ
まだ近くで何か見つかりそうか。
その問いに、狗神が申し訳なさそうな顔を見せたのは、夕闇が迫り始めた頃だった。
「そうか――じゃあ、今日はこの辺にしとくか」
岩壁に背を預け、だらしなく横たわったままキイチは言った。
傍らには、フェルマーが拾い集めてきた装備品が並べて置かれている。
穴の空いたバックパックに残っていたのは、撥水性マントを含めた数点のみだった。
多くは、やはり滑落中に方々へばらまかれていた。
幸運にも近くに落ちはしても――鉄串がU字にひん曲がっていたように――用を成さなくなっている物も多かった。
特に、衝撃に弱い〈イレスの雫〉――火の魔石はほぼ全滅だった。
半分は散失。
もう半分は粉々になっていた。
閉じ込められていた火でバックパックが炎上しなかったのは、水筒が破裂したからだ。
三つある革水筒は、二つが無事だった。
破れた一つにも、目薬の容器を満たせるくらいは中身が残っていた。
無事だった方の片方は、朝露を集めた分だった。
全てを合計すると、水筒一つと二口分の飲料水がキイチの手元には戻ったことになる。
もっとも、二口分は方この数時間で既に飲み干している。
すなわち残りは水筒一本。
六〇〇ないし七〇〇ミリリットル。
普通に飲めば一日。
節約すれば三日もつかもしれなかった。
食糧に関しては、バラバラになった干し肉が幾らか見つかった。
かき集めると約二枚分になり、これも三日分くらいにはなるだろう。
せっかく作った予備の魔物ステーキはどこにも見当たらなかった。
装備品は、腰に吊していた鉈が鞘だけ残して消えていた。
ナイフの方は無事で、これは右手がすぐ届く場所に置いてある。
だが、恐らくそのことに意味はほとんどなかった。
「火は、もう起こせねえな。五円玉でもありゃ別だが」
あの世にも珍しいデザインの貨幣が一枚でもあれば、状況は違っただろう。
穴の部分に水を張ればレンズになるからだ。
後は理科の実験の要領である。
太陽光を集め、炭を塗った枯れ葉や油分を含んだ樹皮を熱する。
うまくすれば火が付いたはずだ。
だが、この世界の貨幣に穴あきモデルはなかった。
存在自体はするのかもしない。
が、少なくともキイチが受取った路銀の中には見当たらなかった。
「こうなると、残りの食糧と水じゃ三日がやっとだ。それも、動かずに省エネモードでいれば、な」
キイチは三日分の備えの方を、ぞんざいに顎でしゃくる。
フェルマーが哀しげに小さく鼻を鳴らした。
「まあ、俺はこのザマだし? 動きたくても動けやしねえ。嫌でもしばらくは省エネモードやってるしか選択肢はないわけだが」
自嘲的に笑ってみせたが、もちろんその程度でフェルマーの表情を晴らすことはできない。
しかたなく続けた。
「周りは四方八方、高い崖。緑は毛が生えた程度のちんけな林ときてる。ロープが無事だったなら、お前を先行させて、引っ張り上げてもらうって手も試せただろうが――」
初期配給のロープは、滑落の際に失われている。
フェルマーが方々探し回ってくれたが、発見できずじまいだ。
狭い雑木林で長く、丈夫なツタでも見つかれば話も変わってくるが、そんなご都合主義は期待できなかった。
「近くに獣が住み着くスペースがないのは結構だが、それは自然の恵みを期待できないってことでもある。つまり、補給はないと思った方が良い。ようは俺は今、デカイ落とし穴に嵌まって、全身大怪我。水も食糧も三日で干上がるってシチュエーションだってことだ」
キイチは嘆息して相棒に呼びかけた。
「なあ、フェルマー氏。現実的に言ってこれは――」
親愛なる狗神と目が合った。続きは言うな。そう訴えているような気がした。
だが、キイチは言った。
「控えめに見ても王手かかってねえか?」
もう一手で詰む。言い換えるならチェックメイトだ。
否、現時点で既に投了と判断する者も大勢いることだろう。
「薄々気づいちゃいたが、本当に俺は五%組だったらしいなあ……」
フェルマーがへたり込むようにうずくまる。
空耳を疑うほど小さく「くぅん」という鳴き声が聞こえた。
「ただまあ、これはあくまで俺に限った話だ」
キイチは苦労して、フェルマーの背を撫でた。
狗神の頭部の毛はむやみに柔らかく、水に浸せばそのまま溶けそうなほどだ。
しかし、首筋から下は柔らかさの中にも芯がある。
どうやら内と外の二重構造になっているようで、それぞれ毛質も違うようだった。
「フェルマー。お前はすげえ奴だ。飲まず食わずで動けるし、根性もある。パワーもハンパねえ。俺に登れない崖だって、お前なら軽く登れるだろう。泣く子も黙る狗神様だ。だから――誤解しないで聞いてくれよ? もちろん、俺も諦めたわけじゃないからな。せっかく転生したのに、もう終了とか笑えねえし。
――でも、仮の話だ。仮に、俺とお前のどっちが長く生き延びれそうかを考えるなら、理屈の上じゃどうしたって答えはお前になるだろう? 誰に聞いても。違うか?」
フェルマーはすっくと立ち上がり、抗議するように頭をキイチをぐいぐいと押しつけた。
痛まない場所を心得ていて、的確にそこを選んでいる。
賢い子犬だった。
キイチは切り傷だらけの唇で、薄く笑みを形作った。
「召喚主である俺が――もし、いなくなったら、狗神契約のシステム的にどういう扱いになるのかは分からねえ。お前はこのまま残るのか。元いた狗神の世界とかに送還されんのか。ひょっとしたらフェルマーは知ってるのかもしれないけど、敢えて今は聞かないことにする。
もしも残れるっていうなら、別に気に病むことはないからな。俺のことは気にするな。お前はもう、狗神として立派にやってくれた。最高の相棒だった。会ったばっかなのにすげえ懐いてくれて、俺のために命張って戦ってくれさえしたんだ」
キイチは相応しい表現を考え、一度言葉をくぎった。
「もしお前がいなかったら……って、今まで何回も考えたけど。俺は多分、常に独り言を垂れ流し続けてただろうと思うよ。で、魔物に襲われて餌にされてただろうし、坂から転げ落ちて死んでただろう。お前がどんだけ俺の助けになってくれたか、多分、お前には分からないし、俺も伝えきれる自信がねえ」
フェルマーは一層強く頭を押しつけてきた。
ぐりぐりとねじりを加えたその動きは、まるで何かを拒むかのようにも見えた。
キイチは、口元にまた自然と微笑が浮かぶのを感じた。
「とにかく、お前には感謝しかない。だから、こんな状態でも――ひでえ負けフダ引かされたんだとしても、それほど悪い異世界生活じゃなかったって思えてんだよ。今のとこ。そういう気分なんだ。
それもこれも、なんもかんも、全部お前のおかげだ。お前ががいてくれたからこそだ。だからな、フェルマー。だから、もし続きがあるなら――お前は好きにやるんだぞ。自由に生きろ。俺が言いたいのは、そんだけだ」
†
三日目の夜が訪れようとしていた。
前日、キイチは夜空に月が二つ浮かんでいるのを目撃していた。
あれは夢か現か。あるいは幻であったのか――。
今宵それは確定されるだろう。
そんなささやかな思惑は、どうやら実現しそうになかった。
そもそも滑落後、大の字になっている時点で、見上げる空は灰色一色だった。
それは散乱した装備品を探すため、足下ばかり見下ろしているうちに黒雲へと変わっていた。
そして夜の帳がおりる直前、遂に空は泣き出した。
こうなると、もはや月見どころではない。
「やべ――っ」
ぽつぽつという断続的な雨音が、急速に間隔を密にしていく。
間もなくそれは完全に連なり、ザァという単音へと至った。
日があるうちは春の陽気だった。だが、打ちつける水滴は氷雨のごとく冷たかった。
一瞬にして芯から身体を凍えさせる、真冬のそれだ。
飲料水が降ってくるのはありがたい。
だが、ここで体調を崩すのはそれ以上に危険な予感がした。
今日で異世界生活も三日目。これまでの間、大小の傷をこさえて自然の中をうろつき回ってきた。
原生林など、雑菌や病原菌の天国だっただろう。
体内への侵入も相当数許してしまったに違いなかった。
免疫力が落ちれば、それらはキイチの体内で一気に勢力を強めるはずだ。
支配権を一度でも握られたなら――重症化は避けられまい。
「くそっ、よりによってこのタイミングで降るか? 敗血症も肺炎も死亡一直線コースって分かっててやってるだろ」
実在するらしい異世界の神に、心の中で散々悪態をつく。
動く右手を必死に動かし、クッション代わりにしていたマントを広げた。慌てふためきながら横たえた身体に被せる。
驚かされたのはフェルマーの動きだった。
この頼れる狗神は何を思ってか雨の中、唐突に走り出した。
キイチから距離を取るように崖沿いを遠ざかっていく。
もちろん何らかの意図があってのことだろう。
だが、キイチにはそれが何か予想もつかなかった。
「フェルマー?」
呼びかけたが、狗神は答えなかった。
そうこうしているうちに、二五メートルは離れただろうか。
狗神がようやく立ち止まった。
何を思ってか、岩壁に向かって威嚇するように低く構え始める。
直後、フェルマーが咆哮した。
いつもの子犬然とした、愛らしい鳴き方とは別物だった。
百獣の王たる獅子さながら。
他を圧倒する覇気の放出だった。
同時に爆発が起こった。
比喩ではない。
空間に亀裂さえ生みそうな大轟音が響き渡った。
地中を伝った振動が背中と臀部を通し、キイチの全身を揺さぶった。
衝撃は遠方まで伝播したに違いない。
おびえた鳥類の慌ただしい羽音が、崖の向こう側から聞こえてきた。
雨脚強まる中、それでも崖から濛々と土煙が舞い上がっている。
爆発から数十秒が経過しても、高く舞い上がった細かな石片は、雨粒に混じってキイチの頭上に相当数、降り注いでいた。
「おい……」
キイチは軽く咳き込み、その衝撃で発生した激痛にしばらく悶絶した。
必死に深呼吸を繰り返した。
痛みが去るのを脂汗を流して待つ。
痛みが落ち着いた頃、土煙も収まっていた。
雨の向こうから、フェルマーが意気揚々と引き返してくる。
「ひゃん」とキイチの前で上機嫌に吠えた。
「おい、なんだってんだ。今の、お前がやったのか?」
狗神はもう一度ひゃんと鳴く。
そうして服に噛みつき、キイチを引っ張り始めた。
「え、ちょ……フェルマー?」
ずりずりと爆発地点の方へ引きずられていく。
途中、爆散した岩の破片が幾つも、背中の下に入り込んだ。
その度に、石のナイフで突かれるような痛みが走る。
抗議の声をあげかけて、気づいた。
爆発した岩場に、ぽっかりと横穴が空いている。
無論、最初は存在しなかったものだ。
「フェルマー、お前があの穴、空けたのか?」
服を噛みしめているため、吠え返しこそしてこない。
だが、表情と気配で肯定しているのは分かった。
「もしかして、前言ってた奥の手の攻撃手段ってのは――」
これに関しては、もはや回答を待つまでもなかった。
一撃で岩壁に大穴を穿つ。
ダイナマイトでも持ち出さないと実現しない話だ。
それを生身の子犬が成したのだ。
問題の横穴は、浴槽を二つ並べられる程度の空間だった。
体勢次第では脚も伸ばせず、立ち上がるに至っては何としても無理そうだった。
だが、丸まっていれば充分に収まる。
奥行きがある分、少なくとも雨が降り込む心配は皆無だった。
不思議なことに、内部は燐光のようなほのかな明かりに照らされていた。
岩肌全体が淡く発光しているように見えた。光量としては、時計の針に塗られた蛍光塗料程度。
フェルマーの魔術の残滓なのか。あるいは、そうした特性を持つ岩なのか。
――検証の必要はある。だが、優先順位としては今のところ相当の下位だろう。
「俺のために、切り札使ってまで作ってくれたのか」
「ひゃん」
フェルマーは尻尾をふりふり、キイチに身を寄せてくる。
狗神のもふもふした身体は、あたたかだった。
「ほんと、ありがとなフェルマー」
†
横穴に避難してしばらく。
雨勢はやや落ち着きを見せ始めていた。
それでも小降りとは言ず、いつやむとも知れない。
そんな中、暖めるようにキイチに寄り添ってくれていたフェルマーが突然、横穴を飛び出していった。
すぐ何かを咥えて戻ってくる。
見ると、放り出したままの装備品であった。
穴の空いたバックパック。食糧。水筒。
使いかけの包帯。
鉈用の鞘付きベルト。
財布代わりの巾着……
行っては戻りを繰り返し、狗神はようやく身を落ち着けた。
これも二層構造になった体毛の恩恵か。
ずぶ濡れだった身体は、ぶるぶると身震いして水気を払うだけで、もうドライモードだった。
実際、撫でてみても微かな湿り気しか感じなかった。
雨の中に長時間いたとは思えない。
大技の使用で消耗したのかもしれない。
その後、フェルマーはキイチの隣で丸くなり、静かに両目を閉じた。
〝睡眠は必要ない〟とは〝睡眠で回復する機能がない〟とイコールではないのだろう。
目を閉じ、動きを止めたフェルマーは、もはやぬいぐるみと全く見分けが付かなかった。
本当に生物なのかすら怪しく思えてくる。
しばらくその背を撫でるうち、いつしかキイチも眠りについていた。
とは言え、それはうたた寝程度でしかなかったらしい。
隣でフェルマーが全身をびくりとさせた瞬間、キイチはその気配ですぐに目覚めた。
狗神は既に立ち上がっていた。横穴の入口を見詰めている。
ピンと逆立つ耳が、微かな異音も逃すまいと小刻みに角度を変えているのが分かった。
外は既に闇夜に黒く塗りつぶされ、雨音はすれど雨を視認することもできない。
フェルマーは、その闇の向こう側に潜む何者かをじっと警戒しているように見えた。
キイチはフェルマーに呼びかけようと口を開きかけ、やめた。
代わりに自らも耳を澄ました。
一〇秒が経ち、二〇秒が過ぎた。
雨が草木と大地と岩壁を叩く音しか聞こえない。
風は凪ぎ、虫の音もしなかった。
しかしそれでも、狗神は正しかった。
だしぬけに、パラ……という微量の土砂が流れる音がした。
はっきり聞こえたわけではない。
確信はなかった。むしろ空耳を疑っただろう。
フェルマーの耳がピクと反応しなければ。
耳が痛くなるような沈黙を経て、再び同じ音がした。
前回より幾分大きく、音の輪郭もはっきりしていた。
今度は聞こえたと断言できた。
それで開き直った、と言うわけでもないのだろう。
しかし音は間隔を縮め、より明瞭に連続し始めた。
最初は粉末のパラつき程度であったそれは、すぐに小石の落下に。
土砂の固まりに。
最終的には小規模な落石を経て、ほとんど雪崩に等しい轟音へと育っていった。
もはや聞こえてくる方向まで特定できる。
頭上。
横穴のほぼ直上からだ。
キイチがようやくそこまで把握した時、フェルマーはもう横穴を飛び出していた。
慌てて手を伸ばす。
しかし、掴めたのは当然のように虚空だけだった。
同時、ギャギャギャという蛙の鳴き声をより醜悪に、より攻撃的にしたような濁声が降ってきた。
生物の発する――明確な意思と悪意を湛えた――威嚇の声だった。
しかも一つや二つではない。
険しく聳り立つ巌壁の上から、何者かが群れを成して降下してくる。
「フェルマーッ」
遂にキイチは叫び、狗神は一瞬だけそれに振り返った。
横穴の薄明かりではシルエットしか見えなかった。
それでも、こちらを一瞥したことだけは分かった。
次に分かったのは、戦端が開かれたことだった。
始まりは、フェルマーの普段からは想像も付かない、獰猛な咆哮。
対するのは狂気に染まった、この世のものとは思えない絶叫だった。
聞いているだけで精神が少しずつ歪んでいく。
そんな、断末魔とも雄叫びともつかない金切り声だ。
キイチは右手でナイフの柄を握りしめた。
息を止め、破裂しそうなほど血管を膨らませるまでして、ようやく上体を起こした。
それだけのために前髪からしたたるほど汗が出た。
沸騰したのではと思うほど眼球が熱い。
口の奥には血の味が広がっていた。
だが、それだけだった。立てもしない。
這って移動することもできない。
ナイフを握り、ただ身構えるだけが全てだった。
その間、外では戦闘が激化の一途を辿っていた。
横穴の出入り口に陣取るフェルマー。
そこへ四方八方から襲い来る異形の化け物、という構図だ。
狗神が位置取りを変えない理由は明白だ。
敵が横穴へ侵入するのを防ぐためである。
追撃のために刹那、討って出ることはあれ、次の瞬間には一撃離脱の要領で定位置に戻ってくる。この戦術上の制約も大きいのだろう。
フェルマーは苦戦を強いられているように見えた。
とにかく相手の数が多すぎた。
入口を塞ぐフェルマーと闇夜のせいで正確な把握はできていない。
それでも、前線で激闘を演じる者の他に、離れて静観の構えを取っている存在が見て取れた。
遠く、鬼火さながらに揺れている松明の明かりが如実にそれを物語っていた。
自らが掲げる光源に赤く照らし出されているのは、異形の魔物だった。
体長は四、五歳の子ども程度。
シルエットこそ四肢を持ったヒト型ではある。
だが、胴に対して異様に細く長い四肢の比率は、どこか蜘蛛を彷彿とさせるおぞましさがあった。
火と道具。明らかに知性を持った存在だった。
「こいつら――まさか、こいつらずっと狙ってたのか」
不意に、キイチはそのことに気づいた。
激痛が生むそれとは違う種類の汗が、背中を流れていく。
「俺が落ちて大怪我するのを見て、フェルマーがこの穴のために切り札使うのを見て……」
それは狩人のやり方だ。
発見と同時に獲物に飛びつくのではない。
距離を置いて観察し、最適なタイミングをはかる。
襲いかかるのは、仕留められると確信した時だ。
戦慄と同時に、キイチは戦況の変化に気づいた。
勇敢な狗神に返り討ちにされ、ぬかるんだ土に塗れながら狂ったようにのたうつ個体。
響き渡る悲鳴と断末魔。
ばしゃばしゃと水溜まりを荒々しく駆け回る足音。
肉と骨がぶつかり合う、鈍く驚くほど大きな衝撃音。
仲間を失い怒り狂う魔物たちの怒号。
囃し立てる外野陣の哄笑。
その中にあって、大きく毛色の違う音があった。
どんなに小さくとも、直接脳に響き渡るように届いてくる声。
徐々に頻度を増しつつあるそれが、被弾したフェルマーの苦痛の呻きであることに、キイチは最初から気づいていた。
入口前から姿を消し、戻る。
最初は瞬きするほどだった動作間のタイムラグが、だんだんと長くなりつつある。
乱れた呼吸音がキイチの耳朶を打つ。
なにより、血の臭いがベタつきを感じるほど強くなりつつあった。
もう何度目になるか。
加勢すべく立ち上がろうとして、キイチは無惨に崩れ落ちた。
チェーンソーで腹を串刺しにされた感覚だった。
そのままぐちゃぐちゃにかき回され、心臓と胃の位置を強引に入れ替えられたような激痛。
到底、正気を保っていられない。
怒濤のごとく逆流してくる胃液を堪えきれず、キイチは激しく嘔吐いた。
「くそ……くそッ」
呪詛のように繰り返しながらも、自分の声が遠くなっていくを感じた。
目がかすむ。
意識が遠のいていく。
――不意に、情景が浮かんだ。
喧噪が去り、しとしとと雨音ばかりが聞こえてくる静かな世界。
暗がりの向こうから、聞き慣れた軽い足音が聞こえてくる。
ぱしゃりと一度、水溜まりを踏み抜き、音の主は跳ねるように姿を現した。
フェルマーだった。
戦利品の松明を誇らしげに咥えている。
炎が狭い横穴を煌々と照らし出した。
大きく振られる尾の影が、何かの生き物のように揺らめき踊る。
キイチが松明を受取ると、狗神は上機嫌に吠えた。
あのどこか気の抜けたひゃんといういつもの調子で――
「ぁ……」
衝撃でキイチは我に返った。
身体が動けば、間違いなく跳ね起きていただろう。
今しがた見たものが何なのかは、既に理解できていた。
これまで〝趣味〟として〝占い〟と説明してきたもの――
だがそれは、必ずしも額面通りの代物ではない。
今回のように、意思とは無関係に見たくもないものを見せていくこともままあった。
たとえば白昼夢として。また明晰夢として。
いずれにも共通するのは夢という形だ。
「嘘だろ……嘘だ……頼む、こんなの……勘弁しろよ」
呆然とつぶやきながら髪を掻きむしる。
手にしていたナイフなど、気づけば放り出していた。
夢の中で、フェルマーは勝者だった。
生きて戻った。そしてキイチと再会を果たした。
だが、ヴィジョンには絶対の法則がある。
見えたものは決して現実にならない。
占いは、外れる。