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ワイズテイマー:~フェルマーの最終転生~  作者: 槙弘樹
第1章「フェルマー」
5/10

最初の試練

 三日目の朝は、顔を舐められるという特殊な感覚で明けた。

 前世を含め、キイチにこのような目覚めの経験はなかった。

 目蓋を開くと、ぬいぐるみのアップが視界いっぱいに広がった。

 柴犬の子どもと、たぬきのマスコット。

 両者をミックスしたような、丸さの際立つ奇妙な生物がそこにいた。

 キイチの与えた名はフェルマー。

 狗神である。


「ああ……」

 状況を把握しつつキイチは上体を起こした。

 途端、ざらざらと音を上げ、いずれも湿り気を帯びた落ち葉や黒い土が流れ落ちていった。

 迷彩と臭い消しに、寝る時かけていたものだった。


 毛布代わりのマントから残った土を払い、畳んだ。

 バックパックにしまうついでに、装備品の無事を確認しておく。

 それからようやく、キイチは薄暗い樹の(うろ)から這い出た。

 改めて昨夜の寝床に選んだ大木を見上げる。


 一人用テントなら張れてしまそうな穴が平気で収まる巨樹。

 周囲には、こうした目を剥くような化け物サイズの樹木がそこかしこに(そび)え立っている。

 とはいえ、原生林には今日も濃密な朝(もや)が立ちこめ、目算二〇メートルから上は全く見通せない。

 ほとんどビルか塔が雲海へ首を突っ込んでいるような光景であった。 


「とりあえず……どうにか二日目は生き延びたか」

 地べたに寝たせいで、背中のあちこちが痛んだ。

 首は右方向にほとんど倒せないほど凝り固まっている。

 ほとんど寝違えのレヴェルだ。

 ――だがそれだけだった。


 おぞましい蟲にたかられ気触(かぶ)れた所は見当たらない。

 火で焼くことでしか剥がすことのできない山(ヒル)に、鮮血を好き放題吸われた形跡もなかった。

 それだけでも充分過ぎる幸運であることを、キイチはもう知っていた。

 思い知らされたのは、昨日。

 探索中のことだ。


 夕方、そろそろ夜営の準備を、と思い始めた矢先だった。

 キイチは幸運にも小さな洞穴を発見した。

 神の恵みに思えた。

 ちょうど良い寝床だと小躍りさえした。

 だが、松明で内部を照らし出した瞬間、キイチの笑みは一瞬で引っ込んだ。

 それどころか即座に(きびす)を返した。

 そして全力疾走で飛び出した。


 天井の岩肌に、びっしり蠢く多足昆虫を見たからだ。

 何千。ひょっとすれば何万……。

 百足(ムカデ)か。ゲジゲジか。未知の生物だったのかもしれない。

 それは分からない。

 なんであれ詳しく観察しなかったし、知ろうとも思わなかった。


 重要なのはただ一つ。

 あれとは断じて関わらないことだけだった。

 キイチは朝の新鮮な空気を胸に吸い込み、ゆっくり吐き出す。

 深呼吸を繰り返しながら、昨日のおぞましい記憶を振り払った。


「――フェルマー、見張りありがとな」

 バックパックを背負いあげながら、気分を切り替えるように相棒へ相棒に微笑みかけた。

「ひゃん」

「俺が寝てる間、変わったことは?」

 狗神はなかった、と仕草で答えた。熟睡できたことも含め、昨夜はかなりの幸運に恵まれていたらしい。

 丸くなって寄り添ってくれたフェルマーのぬくもりが、これに一助(いちじょ)以上の働きを果たしてくれたことは議論の余地もない。


 不寝番を買って出たこの狗神は、キイチの肌の柔らかい部分を食いちぎるべく接近する害虫や害獣がいたとして、起こさぬよう追い払ってくれたに違いない。

 それを含めて「何もなかった」が報告なのだ。

 昨日一日の付き合いだけでも、フェルマーがそういう性格なのはもう分かっている。


「――よし。じゃあ、まずは水を集めだ」

 ちびちびと干し肉を囓り、キイチは周囲に視線を巡らせた。

 (もや)の影響もあってか、低木や熊笹(くまざさ)に酷似した下草の葉には瑞々しい朝露(あさつゆ)が浮いていた。

 キイチ自身の服もかなり湿り気を帯びているほどである。


 チリも積もれば――の精神で、この朝露を集めて回る。

 それが、この日一番の仕事だ。

 容器に使うのは、今しがた空になったばかりの革水筒だ。

 二〇分ほどかけただろうか。

 紙コップ換算で、底から指二本分ほどの水が集まった。

 大した量とは言えない。

 喉が渇けばこんなものは一口だ。

 だが、いざという時に命を繋ぐであろう一口とも言えた。


「でもやっぱ、どこかで水源は見つけねえとな」

 キイチは水筒を振り、その頼りない水音に眉根を寄せる。

「ひゃん」

「ポッドも消えちまって戻る場所もねえし。今日からはとにかく進むしかない。食い物、飲み物……何でも良いから、使える物を探さねえとな」

「ひゃん」


「フェルマー、お前はこの場所を記憶しておいてくれ。何かあったらとりあえず戻って来れるように」

 使命を与えられた狗神は、一際勇ましく吠える。

 昨日もそうだが、キイチが大胆に動き回れたのは、フェルマーの帰巣能力があればこそだった。

 この頼れる相棒は匂いや動物的勘で、離れた所からでもスタート地点がだいたい分かるという。

 生きた方位磁針(コンパス)だ。


「基点がはっきりしてりゃ、迷っても戻ってリスタートできる。昨日も思ったけど、これはやっぱ安心感が違うよ。狗神さまさまだ」

 フェルマーはまた嬉しそうに「ひゃん」と鳴いた。

「今日の探索では、色々探しつつ登り坂を探して高いところを目指す。見晴らしがきく所に出られりゃ、周辺地理を確認できるからな。――こんな感じでどうだ、フェルマー?」


 とりあえずの方針は、フェルマーから見ても特に問題ない物だったらしい。

 賛同を得られたところで、早々に行軍を開始する。

「そう言えば――フェルマーって字は読めたりするか?」

 言いながら、キイチは(なた)を振るう。


 昨日は、重度の筋肉痛が残るほど酷使した。

 そのせいか、もう一〇年も使い込んでいる感覚だった。

 相棒感すらある。

「くぅん」

 先頭をとたとた早足に歩くフェルマーが、一瞬哀しげな顔で振り返った。

 無理ということだろう。


「そっか。上手くいけば、文章で会話できるかもと思ったんだけどな」

 感情表現という意味でなら、犬猫には耳や尻尾もある。

 しかしフェルマー曰く、あれは無意識で動かしているらしい。

 がんばれば意図的にも動かせはする。

 ただし、あまり器用ではなく、コミュニケーションに使うには難しいという。


「そういや、俺の故郷には〈バウリンガル〉なんて古いおもちゃがあったそうでな。犬の鳴き声を、人間の言葉に変換してくれるんだ」

 フェルマーが歩きながら相づちを打つように振り返った。

 声こそ出さないが、「ほう」という顔をしている。

「俺も写真でしか見たことないんだけどな。マイクで鳴き声拾って、それを解析して液晶付きの端末に文章で表示してくれるらしい。――その液晶ってのが白黒でさ。まあ、オリジナルは爺さん婆さん世代っていう、レトロ系小道具(ガジェット)だしな。解析も、何種類かの定型文からの大雑把な選択制だったらしい」


 あれが転生時の初期支給品に含まれてたら、面白かっただろうな。

 キイチは独り言ち、苦笑する。

 それから、ふと思いついて訊いた。

「話変わるけど、アレなんかは実際どうなんだ? 相手を見ながら、ゆっくり何回か(まばた)きするってやつ。あれ確か〝大好き〟って意味だって言われてたはずだけど、実際、犬的には正しいもんなのか?」


 マンガで得た知識だと断りつつ、うかがいを立てる。

 意外にも、フェルマーはきょとんとした顔だった。

「ん――あれ? 知らねえか?」

 キイチは思わず藪を払う鉈の手を止めた。

 しばらく考え、そしてミスに気づく。


「あ……そっか、スマン。ありゃ猫の話だったかもしれねえ」

 我がことながら思わず吹き出す。

「やっべ、うろ覚えで色々ごっちゃになってるわ」

 ――まあ、色々そう甘くはねえか。唇の上だけでつぶやいた。

 他にも、モールス信号のようなものを使う手もあるが、実現には充分な準備と訓練が必要だ。

「ゴリラみたいに手話ってのも無理だし。難しいもんだな」


 とその時、不意に右手の茂みがざわめいた。

 そんな気がした。

 実際、耳の良いフェルマーは反応しなかったのだ。

 キイチの空耳だった可能性が高い。

 もしくは、音はしたものの風の仕業程度の話でしかなかったのか――。


 事実がどうあれキイチは足を止めた。

 正確には、身動きが取れなくなった。

 意思とは関係なく、何としても身体の制御が効かない。

 全身の肌が(あわ)立つ。体温と心拍数が一気に上昇し、ぬるつく汗が大量に脇の下を伝っていった。


 異変に気づいたフェルマーが、怪訝そうにしながらに戻ってくる。

 キイチは音がした方を向くこともできず、ひたすら次の展開を待った。

 ――だが、当然何も起らない。

「ああ……大丈夫だ」

 キイチはようやくそう言った。

 額の脂汗を拭う。

 カラカラになった口内を唾液で湿らせ、取り繕うように続けた。


「わりい。何でもないんだ」

「くぅん」

 何でもないことはないだろう。狗神は目で語っていた。

 ペットの子犬ならまだしも、人間と同等以上の知能を持つ狗神は適当な言い訳では(けむ)にまけない。

「まあ、なんて言うか――」


 キイチは観念して白状した。

 ただ言葉を探す風を装って、視線は合わせなかった。

「あー、つまり、だな。ちょっと、昨日のことでちょっと神経質になってるみたいだ。自分で思ってたより」

 それだけで通じたらしい。フェルマーは元気づけるように、キイチのブーツに前脚でぽんと触れた。

「ああ、分かってる。その辺で草が揺れる度にビクついてたんじゃ、身がもたねえ」


 もう大丈夫だから。

 キイチは繰り返し、笑って見せた。

 うながすと、狗神は渋々また歩き出した。

 心配そうにチラチラ頻繁に振り返ってくる。


 フェルマーに先導を任せるのは、昨日の戦闘を経て確立された新しい陣形だ。

 キイチが前だと、どうしても緊急事態への対応が遅れる。

 索敵と危機察知に長けた狗神が前衛を担当するのは、考えればしごく合理的な話なのだ。

 そうして探索を続けることしばらく。前方に緩やかな上り勾配の斜面が見えてきた。


 どうやら、周囲の様相が大きく変わろうとしていた。

 緑で埋め尽くされた原生林は唐突に途切れ、かわりに剥き出しになった黄土色の地肌が広がっている。TVで見た砂漠のように、大小の丘が無数に連なりながら続いているのだ。

 砂漠との違いは二つだけ。

 下が砂ではなく土であること。

 そして、全体として登り坂になっていることだ。


「これはまた――難儀そうだな」

 キイチは中腰になり、足下の(つち)(くれ)を手に取る。

 ここまで土壌は黒っぽく、空気と湿り気を含んでいた。

 対して手のひらのそれは干物のように乾燥しきっている。

 硬質で固まりやすくある反面、触ればパラパラと音がし出すほどに(もろ)くもあった。


 その乾いた地表を割り、あちこちから新芽の如く顔を覗かせているのは自動車サイズの巨岩群だ。

 小さなものは軽がボンネットだけ残して埋まっている程度だが、逆は超大型トレーラーが全身を突き出しているようなスケールだった。

 こちらは文字通りに(いわお)そのもの。

 形も配置も不規則であるため、迂回しながら進むしかない。


 他には所々に(かん)木が見られるのみで、見上げれば澄み渡った蒼穹(そうきゅう)が広がっていた。

 異世界にも太陽はあり、夏ほどギラつきもせず、冬ほど頼りなくもない日差しが降り注いでくる。

 と、立ち止まって斜面を見上げていたフェルマーが、キイチに一瞥くれた。

「進むか?」という確認らしい。


「おう。立ち止まってもしょうがねえ。行こうぜ、相棒」

 キイチが言うと、フェルマーはさっそく坂へ取り付いていった。

 小柄な狗神にとっては、この程度の地形など平坦も同然らしい。

 ひょいひょい身軽な足取りだ。


 一方のキイチはそうもいかなかった。

 いざ踏み込んでみると、登りは見た目以上に角度があった。

 常に中腰を強いられ、所々では地に手をついてバランスを整える必要さえあった。

 しかも脆く、乾いた足場は崩れやすく、また滑りやすい。

 踏ん張りがきかないため、重心の移動には細心の注意が必要だった。

 ものの五分もせず、キイチの額からは汗が噴き出し始めた。


 想定以上に厄介という意味では、大岩の存在も同様だった。

 間近に迫ると、落とされる影がすっぽり自分の身体を覆ってしまうのが分かる。

 その威圧感、圧迫感は筆舌にしがたいものがあった。

 土壌のもろさを身をもって知っているだけに、大丈夫だろうとは思いつつ、「もしこれが崩れてきたら」という不安は常につきまとった。


 サイズの分、迂回も難儀した。

 急斜面での横移動は重労働だ。

 しかも岩を避ける度、ルートがどんどんズレていく。

 しばらくして眼下を見下ろした時、スタート地点が五〇メートルは向うに見えることにキイチは思わず口を半開きにしたほどだ。


 そんな中、起るべくして事故は起った。

 事実上の登山であるというのに、足下はアウトドア用でもない革製のブーツ。

 衣服は汗を吸いうばかりで、乾きの悪い麻風。

 ピッケルもなければ杖もない。

 野外活動のプロに見つかれば、本気の叱責を受ける装備だ。

 むしろ、ここまでよくもったと言うべきだろう。


 あっと思った瞬間、踏ん張っていた左の足場が崩れた。

 ずるりという嫌な感覚と同時、一気に体勢が傾く。

「や……ッ」

 ――やばい。

 その三字を言い切る間すら与えられなかった。

 気づけばもうキイチは宙に放り出されていた。


 一瞬の浮遊感。

 ぶわりと毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出るのを感じた。

 直後、前後も上下も分からなくなる。

 取り落としたヴィデオカメラの映像さながら。景色がでたらめにシェイクされ始めた。


 あとはもうメチャクチャだった。

 上から。横から。斜めから。

 狂った通り魔が金属バットを振り回すかのごとく、地面で全身を滅多打ちにされた。

 しかも有刺鉄線でも巻き付けてあったのか。

 突き刺すような、引き裂かれるような痛みも重ねて襲ってきた。


 挙げ句、異世界の大地はダイナマイトの罠まで仕掛けてきた。

 肩と背中に一つずつ。導火線の長さが違ったのだろう。

 爆発は時間差でキイチを襲った。

 その衝撃は悪夢をそのまま形にしたものだった。

 人体など容易にバラバラする狂気的な破壊エネルギィだ。


 実際、当に肉体は爆散し、残った頭部だけが宙を舞っていたとしてキイチは何ら驚かなかっただろう。

 声も出ないまま翻弄され続け、最後はドンという一際重たい一撃にとどめをさされた。

 劇震は内臓の芯まで響き渡った。

 皮肉にもそれで、まだ自分の頭が胴体に接続されていたことを知る。

 知ったと同時、ショートするようにキイチの意識は途絶した。


 †


 奪われた五感のうち、最初に返還されたのは聴覚だった。

 切迫した犬の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。

 数秒か。数分か。短い間気を失っていたらしい。

 吠え立てる声は軌道を周回する人工衛星のように、あちこち位置を変えながら断続的に続いていた。


 意識は戻った。

 戻っている。

 体勢は仰向け。いわゆる大の字という状態だろう。

 それは把握できた。

 思考もだんだん巡り始めている。

 だが、目蓋を開ける気力は一向に()いてこなかった。


 といって、吠える犬――フェルマーをいつまでも心配させておくわけにはいかない。

「……ぅ……あ……」

 まず、声を出してみた。

 近くで、狗神がびくりと反応したのが分かった。

 硬直が解けたか、フェルマーがまた騒がしく吠えだした。

 ただ、先ほどまでとは声音が違う。


 それから狗神は、突進するようにキイチの側に走り込んできた。

 服の襟首辺りに噛みつかれ、ぐいぐいと引っ張られた。

 反応がないと見ると、今度は盛んに顔を舐めてくる。

 吠える。引っ張る。舐める。フェルマーは一連の動作をローテーションで繰り返した。


 ループが四度目あたりに突入した時、キイチはようやく目を開くだけの気力をかき集めることに成功した。

 右眼はすぐ機能した。

 灰色の空が見えた。

 問題は左だ。

 こちらは真っ暗だった。

 瞬きを繰り返しても、まるで視界がクリアにならない。


 心臓がにわかに早鐘を打ち出した。

 騒ぎ立てるフェルマーを放置して、キイチは一度両目を閉じた。

 ゆっくり三〇数えて開く。

 やはり右は普通に見える。

 左も今度は少し明るくなった。

 だが完全な暗闇から、遮光カーテンが引かれた室内くらいにはなった、程度だった。


 焦ったが、瞬きを繰り返すうち回復の兆しが見えてきた。

 徐々に視界がクリアになり始めた。

 ただどうあっても、いくら待っても、物が二重にブレて見えるのは解消されない。

「やべえ、複視だコレ」

 漏らしたつぶやきは――かすれ気味ではあれ――思ったよりまともな言葉になっていた。


「眼窩底いっちまったかな」

 唇を舐め、あえてまた声に出す。

 眼球を左右に振ってみた。

 スムーズではない気がした。

 しかし、動かないというほどではない。

「なんとか……セーフか?」


 安堵の息が漏れる。起き上がる気力もなんとか湧いてきた。

 だが、身体を起こそうとして、キイチは無惨に失敗した。

 まず左腕がまったく動かない。

 腕というより、根元――肩関節からして固着したように稼働しなかった。

 そして激痛だ。

 かつて経験したことのない灼熱感がキイチを襲った。


「もう二度と左肩を自分の物などと考えるな」。

 そう脳細胞に直接刻まんとするかのような痛みだった。

 (くずお)れて大の字に戻る。

 ただ起き上がろうとしただけなのに、激しく息が乱れていた。

 全身脂汗だ。

 相変わらず複視も治らない。

 フェルマーが心配げにか細く鳴いた。


 たっぷり二分ほどかけ、呼吸を整えた。

「落ち着け……落ち着け」

 自分に言い聞かせる。

 今度は慎重に――九〇歳の老人のごとく――ゆっくりと可動部を確認していった。

 結論として、四肢のうちもっとも軽傷であったのは右腕だった。


 それでも肘から指の付け根まで、(まん)(べん)なくおろし器にかけられたかのような有様で、血だらけだった。

 風邪を引いた時と同様、あまり力も入らない。

 動きもひどく緩慢であった。

 それでも、関節が本来とは逆方向に曲がっている部分などはない。


 一方で、左右の脚はしばらく使い物になりそうになかった。

 履いていた長ズボンからして、少なく見積もっても三分の一は破れてしまっていた。

 ほとんどハーフパンツ状態で、左右共に(すね)から太股あたりまでが大きく露出している。

 丸見えの部分はどちらも血塗れで、元の肌の色が分からないほどだった。


 とりわけ左脚は目も当てられない有様である。

 膝の外側が広範囲にわたってドス黒く変色しており、そこ他人の皮膚を移植したように見えた。

 折れてはいないと思いたかったが、動かして確認してみる気には断じてなれなかった。

 右脚は足首をやられていた。

 フェルマーの手を借りブーツを脱いでみると、()れ上がって太さが二倍になっていた。

 肉まんを貼り付けたかのようなその冗談めいた光景に、キイチは思わず失笑したほどだった。


 だが、これでも奇跡的軽傷の類いであるに違いなかった。

 折れた骨が肉を突き破って外に出てきていたり、足首が一八〇度回転してブラブラしていても、決して文句の言えないミスを犯したのだ。

 仮にそうした怪我があっても、「しかし命は助かった」と、むしろ喜ぶべき状況なのである。


「だがまあ……ちょっと立つのは無理だな、こりゃ」

 ()って一メートル動くのすら、ガス欠の軽トラックを独りで押して歩く以上の重労働に思えた。

「フェルマー。どっか一番近いところでいい。こう――背中預けて、座った格好になれるような場所まで移動したいんだ。悪いけど、手を貸してもらえるか?」

「ひゃん」

 狗神が元気に一吠えする。


 改めて見ると、こちらは完全な無傷であった。

 愚鈍な人間とは違う。

 この程度の地形でドジを踏むような身体能力はしていない。

 そんな主張にすら見えた。


 フェルマーはキイチの周りをゆっくり一周し、やがて腰(ひも)のあたりに鼻先を(うず)めた。

 上着とズボンの重なり合った部分を噛みしめる。

 それから後ろ向きにずるずるとキイチを引きずり始めた。

 その安定感はさながらヘビィ級レスラーだった。

 ふらつく様子など微塵もない。

 むしろ足取りは淡々、軽々としていた。

 大型ペットボトル程度の体重しかない子犬とは、到底信じがたい怪力だ。


 数分か、ひょっとすると一〇分ほどかかったか。

 傷に(さわ)らぬよう、と慎重をきす狗神の配慮のもと、キイチは岩壁に辿り着いた。

 フェルマーから追加の介助を得て、体勢を整えてもらう。

 改めて、寝たきり老人のように、補助がなければ寝返りをうつことも難しい現状を痛いほど実感させられた。


「しかし……どこまで落ちてきたんだ、俺は」

 今更ながらに周囲を見渡す。

 今日の出来事からキイチは、斜面から滑落が公園のすべり台とは別物だという教訓を得ていた。

 これがボールなら真下に向かってそこそこ綺麗に落ちるものなのかもしれない。

 だが、人体はボールという名の胴から、四本の長く太い突起物が生えている。

 この突起――すなわち手足が揺れ動くことで、回転が複雑になるのだろう。


 斜面には起伏があることも忘れてはならない。

 キイチ自身、身体が大きくバウンドし奇妙な方向へ飛ばされる感覚を身体で覚えていた。

 なにより、灌木や岩の存在だ。滑り落ちながら、キイチはこれらにぶつかり、弾かれた。

 幾度もである。

 まるきりパチンコやピンボールだった。

 冗談ではなく、ほとんどそのものなのである。

 落ちるのが金属製の球体ではなく、人体であることだけしか違いはない。


「あ――そっか」

 不意にキイチは真理を得た。

「お前、滑ってく俺に追いついて、色々助けてくれたんだな? 岩とかにヤバイぶつかり方しそうな時に、体当たりで軌道ズラしたり」

 首が上手く動かないため、キイチは目だけでフェルマーに視線を向ける。

 狗神は役に立てたことを喜ぶように「ひゃん」と大きく鳴いた。


「なんて奴だ!」

 天を仰いだ。

「どんな度胸と身体能力だよ。俺は滑落中の三分間で多分、軽く五回はお前に命を助けられたんだろうな? つまり、この軽傷は奇跡でもなんでもなく、お前のおかげってわけだ。フェルマー?」

 キイチは動く方――すなわち右の――腕をのろのろと持ち上げ、狗神の頭に置いた。

 三〇キロの重りをくくりつけたかのような重労働であった。

 また、脇腹や背中に、思わず呻き声をもらすほどの痛みが走った。

 だが、命の代価と考えれば安すぎるくらいであった。


「にしても、ここはどの辺なんだ……?」

 少なくとも、スタート地点に戻ってきたのでないことは確実だった。

 なにせ周囲は完全な岩場だ。

 先ほどまで昇っていた乾燥黄土の斜面はどこにも見たらない。

 キイチが背もたれにしているのは切り立った崖そのもので、高さは最低でも二〇メートル前後はありそうだった。

 そこで終わっているのか、踊り場のような段を経て更に(しゅん)(けん)に続いてるのかは分からない。


 それ以外の方向も、一〇〇メートルも歩けば必ず岩山にぶつかる地形であった。

 これらは背後の崖より幾分低く見えた。

 それでも優にビルの三、四階分はあるだろう。

 いずれも険しく切り立っており、やはり崖と表現して差し支えないように見えた。

 体調と気力が万全でもロッククライムの真似事は通用すまい。

 まして、今なら空を飛ぶも同然の試みである。


 巌壁の周囲には、申し訳程度の雑木林が広がっていた。

 昨日までの原生林と異なり見上げるような巨樹はなく、ほとんどが庭木の梅やマツ程度。

 たとえ(うろ)があっても、寝床にできるのはリスくらいだろう。

「はっ――」

 思わず笑いがこみ上げてきた。

「いよいよ、五%のハズレルート入りが確定してきたな」


 不穏な空気を感じたか、フェルマーが不安そうに小さく鳴いた。

 キイチは口元を皮肉に歪めたまま、傍らのバックパックに視線を投げた。

「見ろよ、フェルマー」

 上部にある本来の口とは別に、バックパックには大穴が空いていた。

 フェルマーが楽に出入りできるサイズの破れだ。


 滑落中、バックパックは衝撃吸収剤(クッション)として持ち主を救ったのだった。

 とりわけ丸めて入れてあったマントや、革製の水筒は大きな役割を果たしたに違いなかった。

 もちろん、それは代償と引き換えだった。

 穴からは多くの装備品がこぼれ落ち、大半が失われている。

 出発時パンパンに膨れていたそれは、今やしなびた風船だった。


 救いは、こぼれ落ちた物の中のごく一部が、拾って回収できる範囲に散乱していることだ。

 とはいえ――まだ精査していないが――少なくとも水筒の一つが死んだことは明白だった。

 そう考える以外、バッグがしたたるほど水浸しになる理由はない。

 キイチは最重要品の食糧と魔石を、奥に大切にしまっていた。

 そして穴とは、往々にして底――奥かその近くから空くものである。  


 キイチは目を閉じ、身体から力を抜いた。

 後頭部を巌壁にくっつけ、全体重を後ろに預けた。

 そしてゆっくりと息を吐いた。

 これまでのことを思い、これからのことを考えた。

 どれだけ思考を巡らせても、結論は一つしか得られなかった。

 どれくらいしてか、目を開き、そちらを見ずに言った。


「フェルマー……話がある」


挿絵(By みてみん)

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