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ワイズテイマー:~フェルマーの最終転生~  作者: 槙弘樹
第1章「フェルマー」
4/10

最初の戦闘

 変成と呼ばれる転生から既に一八時間が経過していた。

 最初の夜が訪れ、明けて二日目の朝。

 朝靄のたち込める中、はれて狗神召喚に成功したのが小一時間前になる。

 キイチはそれから現在に至るまで、フェルマーとの相互理解に務めた。


 その手段として考えたのがY&N式だった。

 理屈は単純明白。

 まず、地面に石を二つ置く。

 片方を「イエス」。もう一方を「ノー」に割り振る。

 質問をぶつけ、相手に該当する方を選ばせる。

 これだけである。

 結論から言えば、この試みは大成功だった。


 質問、お前は子犬か?

 答え、イエス。

 質問、普通の犬と同じように成長するか?

 答え、ノー。

 質問、狗神の生態は普通の犬と同じか?

 答え、ノー。

 質問、嗅覚や聴覚など知覚力は普通の犬と同水準か。

 答え、ノー。

 質問、それは、ただの犬より優れるという意味か。

 答え、イエス。

 質問、食事や睡眠はどうか。普通に必要か?

 答え、ノー。

 質問、戦闘時に大型化や一時的な身体強化ができるか。

 答え、イエス。

 質問、具体的にはどちらか。大型化?

 答え、ノー。

 質問、身体強化?

 答え、イエス。

 質問、噛みつきやひっかき以外に、特殊な攻撃法を持つか。

 答え、イエス。

 質問、防御においても普通の犬を超越するか。頑丈か。

 答え、イエス。

 質問、ならば不死身か?

 答え、ノー。

 質問、限界を超えたダメージを負うと、狗神も死ぬか?

 答え、イエス。

 質問、死んだ狗神は復活させたり、再召喚が可能か?

 答え、ノー。


 キイチの小さな狗神は、疑いの余地なく人語を理解していた。

 質問すればたちどころにその意図を把握し、前脚で石をすっと指す。

 幾つかの問いには悩む素振りをみせたが、これは解釈に幅があったためだろう。

 むしろ、キイチの訊き方の問題と言えた。


「ようし、よし。お前は本当におりこうなんだな」

 わしわしと頭を撫でながら褒め称える。

 フェルマーは旋風が発生しそうな勢いで尻尾を振って上機嫌だ。

「こうなると、できれば戦闘時に使えるっていうスキルを確認しておきたいところだが――消耗が大きくて日に何度も使えないとかなら、無駄撃ちするわけにもいかないしな。お前はどう思う? 温存しとくべきだと思うか」


 フェルマーは「わふ」と指したのは、肯定の石だった。

「乱発はできないタイプ。切り札って認識か。OK、把握した。じゃあ、もう一つ相談だ。俺はあと六時間くらい、あのポッドを緊急避難所に使える」

 キイチは〈ハル〉を搭載したカプセル型ポッドを指し、詳しく事情を説明した。

 幸い、フェルマーにもポッドは見えてた。

 身内である狗神は知覚阻害の対象外であるに違いなかった。


「つまり、三時間の範囲なら探索して、何かあっても逃げ戻って来れる。なんで、ここを拠点に辺りを見て回ろうと思うわけだが――お前は賛成してくれるか?」

 ひとつ吠え、フェルマーはイエスを指した。

「そっか。ありがとな」

 また頭を撫でてやり、続ける。


「じゃあ早速だけれど、ついてきてくれるか。時間は無駄にできねえ。あと、石使って毎回〝ハイ〟か〝イイエ〟かはできないから、意思表示の方法を変えよう」

 キイチは全部で三通りを提案した。

 まず、一回吠えると「イエス」。

 二度で「ノー」のパターン。

 第二に、通常の「ひゃん」という鳴き声で「イエス」。

 鼻を鳴らすような「くぅん」というのを「ノー」。

 そして首を縦に振って肯定。横に振って否定の無言式だ。

 中間、「どちらでもない」も用意したくはある。が、これは追々煮詰めていくことで合意を得た。


「じゃ、頼りにしてるぜ。改めてこれからよろしくな、相棒」

「ひゃん!」

 隊列は当面、先頭をキイチ。

 すぐ後ろにフェルマーという形に落ち着いた。

 進みやすそうな方向を見定め、とにかく前進を開始する。


 ここにきてにわかに輝きを放ったのが(なた)の存在だった。

 まさにフル回転。

 むしろ、これなしでは話にならないほどの活躍ぶりだった。

 原生林とはそれほどの難所だった。

 根本的に、人間が歩き回れるようにはできていない。

 むしろ拒まれている感すらある。

 進路を妨げる草木や枝葉を鉈で切り払いながらでなければ、同じ距離を行くにも平気で三倍の時間がかるのである。


 そしてもう一つ。

 出発からものの五分で痛感させられたことがあった。

「こりゃ……駄目だ。やべえ」

 キイチは(はえ)(いと)うように、眼前の朝靄を払う。

 出発したばかりだというのに、もう軽く息切れしていた。


「方向感覚が一切ねえ。山じゃ迷ったら動くなっつうらしいけど、ありゃマジだよコレ。こんもん速攻で遭難するぞ」 

 凶悪なのはなんと言っても足下の起伏だ。

 斜面を登ったかと思えば、向こう側には巨大な窪みが広がっている。

 朝靄も相まって、視界がまったくきかない。

 全方面、三〇メートル先がどうなっているのか分からない。


 足場が悪すぎて、少々の傾斜はまったく体感できないのも頭痛の種だった。

 平地を歩いているつもりが、気づけば驚くほど登ってる。

 逆に下っていることもあった。


「しかも、このくそデカい木がにょきにょき邪魔くさくて、ただの一〇歩たりとも真っ直ぐに歩けねぇ!」

 キイチは腹立ちまぎれに、手近な巨樹に蹴りをたたき込む。

 もちろんびくともしない。脚に重たい痺れが走るだけだった。

 苛立ちは同じなのか、後ろでフェルマーも唸り声をあげ始めた。

 だが、それは同調や追従などでなかった。


 そちらを振り返った瞬間、狗神は突然キイチの足下を駆け抜け、素早く前方に出た。

 尻尾をピンと立て、毛を逆立たせて(やぶ)の向こうを睨みだす。

 前脚を突っ張り、後ろに重心を落とした構えは明らかに臨戦態勢のそれだった。

「――ッ!?」


 神がいて、精霊がいて――〝魔物〟がいる。

 刹那、執政官や〈ハル〉の忠告がキイチの脳裏をよぎった。

 周辺は腰まである茂みが九割を占める草むらだ。

 体育館ほどの広がりはあろうか。

 大型の獣が潜んでいても気づけまい。


 一瞬で血の気が引けた。

 ざあと音が聞こえた気すらした。

 と、唸るフェルマーの目線の先。

 雑草を荒々しく踏み分けるザザ……という擦過音が聞こえはじめた。

 凄まじい、破滅的な速度で近づいてくるのが分かる。


 もうそれだけで、全身の筋肉がこわばった。

 呼吸すら忘れた。

 右手に鉈を持っていながら、空いた手が反射的に腰のナイフを探る。

 指先がグリップに触れるが、そこで硬直した。

 自分でも何をしたいのか分からない。


 鉈を持つ手が大量の脂汗でぬるつき始める。

 思わず滑り落としそうになり、キイチは慌てて両手で握り直した。

 その狼狽の最中にもう、正体不明の何かは草むらから飛び出していた。

 あまりの速度に目視が追いつかない。

 確認できたのは黒っぽい斜線のみだった。


 それは弾丸が(かす)めるようにキイチの側方を通過。

 背後へ回り込んでいった。

 対応するフェルマーも一瞬で視界から消える。

 直後、後ろで殺し合いが始まった。


 骨と肉のぶつかり合う音が響き渡る。

 殺意の塊を浴びせ合う、両者の雄叫びが場の空気を震わせた。

 落ち着きなく動く血走った眼球。

 (よだれ)を飛び散らし、歯茎ごとむき出しにした歯牙。

 吹き出す鮮血。


 振り向かずとも目に浮かぶ。

 何としても指一つ動かせなかった。

 声帯まで硬直し、悲鳴も出てこない。

 キイチに許されたのはただ一つ。

 震える両手で鉈を握りしめ、無様に棒立ちし続けることだけだった。


 ――どれくらいそうしていただろう。

 耳元で盛んに繰り返される誰かの呼吸音に、キイチはふと意識を引き戻された。

 倒れ込むまで走った陸上選手さながら。

 それが自分の呼吸音だと理解するまでしばらくかかった。


 気づけば、キイチは力なく膝を曲げ、中腰でぜえぜえと(あえ)いでいた。

 構えていたはずの鉈の両腕は、だらりと力なく垂れさがっている。

 自分でも愕然とする姿だった。

 と、背後から覚えのある足音が寄ってきた。

 気のせいか、微妙に足を引きずる感じもある。


 ややあって、遠慮がちに小さな毛玉がすり寄ってきた。

 フェルマーである。

 全身ボロボロだった。

 泥や細切れになった雑草の欠片にまみれていた。

 自らの負傷によるものか返り血か。

 あちこちに付着した血飛沫が美しい毛並みを乱し、汚し、赤黒く固めていた。


「フェルマー……お前!」

 久しぶりに出した声は、滑稽なほど震えていた。

「大丈夫なのか? 怪我は」

 全身を丹念に確認していく。

 だがこのごに及んで、キイチは右手の鉈を手放せずにいた。

 心臓を鷲づかみにされるような感覚は、まだ身体の芯に残っている。

 もう二度と消せない気すらする。

 呼吸もまだ整ってはいない。


「なんで、俺は――戦ってすらいねえのに……」

 一瞬手が止まるが、はっとしてフェルマーに注意を戻した。

 軽傷こそあれ、どうやら縫合(ほうごう)や手術がいるほどの重傷はないらしい。

 やがてそう判断したキイチは、気抜けしてへたりこんだ。

「勝った……勝てた、のか?」


 ようやくその確認がまだであったことに思い至る。

 すぐに、ひゃんと小さな声が返った。

 その意味するところが脳に浸透するまで、しばらくかかった。

「そうか」

 随分遅れて、キイチは天を仰いだ。

「そっか……」


 深く嘆息し、視界を塞ぐように目元へ手をやる。

「悪い、フェルマー」

 そちらを見ることもできなかった。代わりにまくしたてた。

「ごめん。ほんとゴメン。俺、なにもできなかった……しなかった。お前ばっか、がんばらせて……。見捨てたようなもんだ。見捨てたも同然だ。ほんと最低だ」

 最後はほとんど叫びになっていた。

「自分かわいさに逃げたのとなんも変わんねえ」


 不意にぺろと手を舐められるのを感じた。キイチは驚いてそちらを見やる。

 少し首を傾げるようなフェルマーがそこにいた。

 人なつっこく大きな瞳がキイチを真っ直ぐ映している。

 それから狗神は、土ごと根こそぎ雑草を握り固めたキイチの左手を、また二度、三度と舐め始めた。


「……許してくれるってのか?」

 力なき問いに、狗神はひゃんと元気に応じた。

「そっか……」

 なぜだか、強い虚脱感に襲われてキイチはうなだれた。

「なんでいきなりそこまで懐いてくれるのか、俺には……ちょっと分かんねえけど」

 キイチはようやく鉈の握りから右手を引き剥がした。

 そうしてフェルマーの頭にぽんと置く。親指で耳の付け根をゆっくり撫でた。


 ありがとな。

 小さく囁いた。

「――ただ、俺は自分に失望したよ。お前には許してもらえたみたいだけど、やっぱ無理だ。あんまり過ぎる。自分で自分が許せねえ。情けねえよ」

 この勇敢な狗神の宣言した通り、戦闘は無事終了したのだろう。

 少なくとも見える範囲に先ほどの生物の死骸はない。

 追い払ったのか。あるいは、草陰に仕留めてあるのか。


 いずれにせよ、フェルマーは記念すべき初の戦闘を勝利で飾ったのだ。

「それも狗神使いの手柄のうちってか?……だとしたら最悪の授けられし者(ギフテッド)だな。狗神使いってのは」

 キイチは両目を閉じ、静かに顎をあげた。

「くそッ!」

 上空を睨みつけ、解放するように怒号をあげた。

 それから手とズボンの土を払い、荒々しく立ち上がる。


「あー……自分にこれだけムカついたのは久しぶりだ」

 放り出していた鉈を拾い上げる。

 こちらも、グリップの汗が大量に土を付着させていた。

 服の裾で拭い去る。

「要するに、俺は戦場にゲーム感覚で出てきたマヌケ野郎だったってわけだ。遭難だ、詰んだと騒ぎたてはするが、理屈ばっかでリアルな危機感は持ててなかったアホだ」


 同意を求めるわけでもなく、キイチはフェルマーを見下ろす。

 聡明な狗神は静かにキイチの言葉に耳を傾けていた。

「だよな。最初から、ここは戦場だと思ってなきゃいけなかったんだ。ナイフから銃から、下手すりゃバズーカ砲的な物まで持った実戦経験バリバリの軍人がうろついてて、見つけ次第、躊躇なく頭狙って撃ってくる。

 俺はそういう場所に紛れ込んだ、ナイフと軍用犬を与えられただけの素人のガキだ。襲いかかられて、いきなりガンガン銃声が轟きわたりゃあ、パニクって頭抱えるのが精々に決まってる。リアルに置き換えれば分かりきってたのに……」


 一息にしゃべり立てて、額を手で覆う。

 そんなキイチのブーツに、フェルマーが肉球をぽふと置いた。

 元気出して。

 そんな声が聞こえてきそうな、人間めいた仕草だった。

 これには思わず笑みが漏れた。

「まったく……お前は」



 それからしばらくは事後処理に追われた。

 まずは戦闘の結果をフェルマーに問い、明らかにした。

 結論として敵は逃げたのではなく、倒されていた。

 フェルマーはごく近くの草むらへとことこ消えていき、自分より一回り大きな獣を咥えて、引きずり戻った。これ以上ない物証である。


 改めて見る魔獣は、完全な未知の生物だった。

 大きさは四つん這いになった幼稚園児並。

 体重も同水準で、一五キロから二〇キログラムの間といったところであろう。

 灰色の毛皮に覆われており、全体のフォルムを含めネズミに似た部分があった。


 一方で違いも大きい。

 まず前脚が二本に対し、後ろ脚は真ん中に一本しかない。

 戦闘で切断されたのとも違う。

 構造的に元から三足歩行の生物らしかった。


 代わりに大変な発達を見せていたのが尻尾だ。

 キイチの知る範囲で近い物を挙げるなら、サソリだろう。

 毛皮の生物なのに、そこだけ蛇腹状の甲殻に覆われているのだ。

 ただし先端に毒針はない。

 トカゲのように自然に細まっていた。


「これ、解体して焼いたら肉は食えるのかな?」

 試しに意見を求めると、フェルマーは曖昧に「ひゃん」と鳴いた。

 肯定とも否定ともつかない微妙な声音だった。

 現在、食糧の残りは三日から五日分しかない。

 一週間を超えると餓死が見えてくる計算だ。


「――お前が食えそうなら譲ることも考えるけど、食事はいらないんだよな?」

「ひゃん」

「なら、まあ……実際、選択の余地はないんだよな」

 フェルマーの助言もあり、解体はポッド付近で行うことになった。

 血を嗅ぎつけてくるもの。獲物の横取り。

 いずれも当然のように存在するだろう。

 襲撃のリスクに備えねばならない。


 とはいえ、運搬は大仕事だった。

 まず、得体の知れない怪物の死体に触れねばならない。

 どこを持つかの決定すら散々時間をかけた。

 いざ尻尾と決めても、腹に力を入れ、覚悟を固める必要があった。


 そして言うまでもなく、二〇キロ前後の死骸は物理的に大変な重荷だった。

 抱え上げずとも引きずっていけば――。

 甘い思惑は三分で瓦解した。

 足場の悪い森の中で、そんな横着が通るはずもない。


 たっぷり小一時間はかけただろう。

 ポッドが見えた時は、思わず歓喜の声が出た。

 もっとも、直後には解体作業が待っていた。

 まず、何としても腹をかっさばかねばならなかった。

 キイチは極力顔を背けながら、死体にナイフを走らせた。


 溢れ出す魔獣の血は赤かった。

 これが紫や緑であったなら、その時点で作業は中断されていただろう。

 嘔吐(えず)きつつ、臓腑(ぞうふ)をひっかき出す作業からも逃れられなかった。

 流し見ですら、湯気をあげるそれらが地球上の生物とはまるで別物であることは知れた。

 だが、これは断じて解剖学の実習ではない。

 食肉を得るための解体作業なのである。


「こんなの、慣れまくって流れ作業でやれるようになってから追求すりゃ良いよな?」

 言い聞かせるようにして、押し切った。

 要した時間は二時間四八分。

 ポッドの〈ハル〉に恥を忍んで聞き出した数字だ。

 改めて見おろせばナイフは勿論、服まで血塗れだった。


「やっべえ」

 なんでこんなところまで。

 そう驚かされるような背中側にも血痕がついていた。

 だが、問題は両手だ。

 地肌の色が見えないほど赤一色に染まりきっている。

「どうすんだこれ……全然考えてなかったぞ」


 余分な布などない。

 水も飲料用のみだ。

 土。枯れ葉。木の幹。

 考えた末、様々な物になすりつけて回ることで汚れをとった。

 無論、洗浄とはほど遠い。

 不快なベトつきは少なからず残った。


「こういう妥協の連続になるんだろうな、これからは……」

 漏らしたつぶやきに、フェルマーがくぅんと鳴く。

 同情の多分に感じられる声音だった。 

「ありがとな、相棒。しかし――考えてみりゃ、尻を拭く紙すらないんだよ。どうすんのか考えたくもねえ」


 重たいため息が漏れる。

 慌ててかぶりを振った。

 負の思考を振り払う。

「よしっ。こうなったら、ファンタジィで気分変えるぞ」

 己へ暗示をかけるように宣言し、バックパックに手を突っ込んだ。

 取り出したるは魔石である。

 笑顔でフェルマーに見せつけると、空気を読める狗神は景気づけにひゃんと一声くれた。


 ――魔石。

 人工知能〈ハル〉によれば、正確には宝貝。

 古語においては〈ジ・ショルズ〉と呼ばれる物質が、その正体だ。

 異世界オルビス・ソーでは非常にありふれた存在で、全世界的に広く浸透しているという。

 代表例はなんと言っても回復薬。すなわちポーションである。


 ただし、単に回復効果を持つ魔石という形で流通しているわけではないらしい。

 なんでも、癒やしの魔石を瓶などの小さな容器に加工し、水を入れる。

 すると、ただの水が回復薬に早変わりする。

 こうしてできあがった物が一般に知られるポーションであると言うのだ。

 まさにファンタジィそのものである。


 今、キイチが手にしている火の魔石は、そのポーションに比肩する生活必需品として出回っている代物である。

 日本人に見せれば、多くの者が第一印象を一致させるだろう。

 すなわち氷砂糖だ。


 サイズは共通してあめ玉程度。

 名の通り、石さながらそれぞれで形状が違う。

 透明だが、氷ほどではなく全体的には白っぽい。

 何より目を引くのは中身だった。


 石の中心部に、雨粒ほどの大きさの火が閉じ込められている。

 比喩ではない。

 間違いなく火炎そのものが揺らめいている。

 信じがたい光景だった。


「よし。そんじゃ、まずは火を移す(まき)を探さないとな」

 チュートリアルを思い出しながら言う。

「そうだ、フェルマー。お前、もしかして燃えやすい木とか心当たりあるか?」

 試しに訊くと、フェルマーは元気にひとつ吠える。

 肯定のサインだ。


 狗神は素早く反転すると、尻尾をふりふり軽い足取りで歩き出した。

 数歩行ったところで振り返る。

 聞かずとも分かった。

 ついてこい、の意だった。


「OK。案内頼むぞ」

「ひゃん」

 薪探しの視線から見れば、樹海はまた一風違って感じられた。

 種の違い。若木か枯れ木か。

 同じ太さの枝でも、鉈で簡単に切れるものもあれば、しなって歯が立たないものもある。


 キイチの素人考えでは、枯れ枝ほど燃えそうに思えた。

 実際、単独ならそればかり集めたであろう。

 だが、フェルマーのお眼鏡にかなった物の中には、若くみずみずしい樹皮なども含まれていた。

 もちろん、キイチは己の浅学より狗神を信じた。


 戻ると、さっそく火起こしに入った。

 オルビス・ソーにいわゆる魔力は存在しない。

 魔石は誰でも使えるという話であった。

〈イレスの雫〉と呼ばれる火の魔石も例外ではなく、教えられた使用法も単純そのものだった。


 要は、石を割って中の火をむき出しにする。

 それだけである。

 一般家庭では魔石を平らな物の上に置く。

 ハンマーのようなもので叩く。

 以上が基本である。


 力さえあれば最悪、指で潰し割っても使えるという。

 キイチは平べったい石を土台にし、ナイフの柄で叩き割る方法を選んだ。

 実際に力を加えた魔石は、プラスティックのような手応えだった。

 あっさりとかち割れ、マッチを灯したような小さな火が現れる。

 持続時間もマッチ程度というのが〈ハル〉の事前情報だ。


 キイチは急いで、フェルマーが(くわ)えてきた樹皮を受け取った。

 摘まんだ感触で分かった。

 明らかに乾燥しきれていない。

 生木の一部だ。


 思わず、近くに詰んだ枯れ枝に眼がいった。

 だが、すぐ視線を戻す。

 樹皮の先端を慎重に火へと近づけた。

 果たしてそれは、あっさりと燃えだした。


 蚊取り線香の着火よりよほど早かった。

 拍子抜けを通り越し、目を見張ってしまう。

 キイチはこの段に到りようやく気づいた。

 湿り気と思っていたものは油分であったのだ。

 狗神はそれ知っていたのである。


「すげえ」

 思わず叫んでいた。勢い込んでフェルマーへ視線を投げた。

「ウチの子、賢い! めちゃくちゃ頼りになるじゃねえか。俺より遙かに頭良いぞ」

「ひゃん!」

 汚れた手で大事な狗神に触れるのは戸惑われた。

 代わりに前脚を握って握手のように軽く振った。


 喜び勇んで、まずは()き火を作った。

 松明(たいまつ)もどきも二本ほど用意する。

 これらを大きめの石を補助に地面に突き刺すと、準備は完了した。

 いよいよ切り分けた肉の出番である。


 ここで光ったのが、支給の雑貨にあった鉄串だ。

 約三〇センチ長が二本。

 約二〇センチ長が二本。

 計四本をフル活用し串焼きを試す。

 当然、火は念入りに、確実に通す。


 だが魔物だからか、肉は比較的火が通りにくく時間がかかった。

 手に持って(あぶ)った物はなかなか焼けず、逆に当て過ぎて焦がした。

 無造作に焚き火へ放り込んだ物の方がよほどうまく焼けていた。 

 既に周囲へ充満しきっている匂いは、なんとも言えないものだった。

 文字通りの意味で、悪臭でもないが食欲をそそりもしない。


「正直、腹はかなり減ってんだが、これを食う気になるほどかって言うと――」

 焼き上がった魔物のステーキを凝視して、キイチは唸る。

「まあ、非常食だよなあ」

「ひゃん」

 フェルマーも特に異存はないらしい。

「じゃあ、予備ができたってことで」


 いそいそと支給の干し肉を取り出し、齧り付いた。

 貴重な飲料水にも口をつける。

 ここまでのあれこれで、自分で思っていた以上に消耗していたらしい。

 気づけば、どちらも予定よりかなり多めに減らしてしまっていた。


「まあ、予備もできたしな。予備も」

 強引に自分を納得させ、早々に思考を切り替える。

「フェルマー」

 居住まいを正して呼びかけた。

「こっからの方針について相談したい」

 真面目な話だと察したのだろう。

 フェルマーは無言でお座りの体勢を取った。

 じっとキイチを見上げている。


「現状、ここが森なのか山なのかも分からねえ。街が近いのかも、どれくらいで抜けられる広さかもだ。正直、どういう想定で動いたところで死ぬしかないってこともありえる」

 狗神は静聴の構えだった。

「正解が分からないなりに、方針は二通り考えられる。食える物や水場を探し出して、拠点を作ってじっくり長期戦の構えでいくか。それとも移動を続けて最短でここからの脱出するか。この二つだ。――今のところ、俺は後者の脱出路線で行こうと思ってる」


 フェルマーはすぐ「ひゃん」と吠えた。

 肯定の意だろう。

 キイチは自らも一つ頷き、続けた。

「正直、長期戦はジリ貧で積む可能性が高いし、精神面でも怪しい。怪我や病気のリスクもあるしな。根本の部分で無理があると思う。

 ――で、だ。さっきの魔物との遭遇で俺も色々考えさせられたんだけどな。これからも、ああいうことはあると考えた方が良いと思うんだよ。そこでフェルマーに聞きたい。お前が倒した魔物は、この辺で強い方に入ると思うか?」


 この問いに、フェルマーは珍しく即答を避けた。

 やがて躊躇いがちに発した声は、否のそれであった。

 難問に悩んだというより、キイチを気遣ったのだろう。

「そっか。やっぱりな。まあ、それは覚悟してたよ。――じゃあ、ついでにもう一個訊くけど。あれが集団で襲ってきたり、もっと強いのが出てきた場合、()抜けて棒立ちになってる腰抜けの相棒を、お前一人で守り切れるか?」


 キイチはすぐ、遠慮せず事実を言ってくれ、と付け加えた。

 それでもフェルマーはやはり間を取った。

 ややあって、逡巡を重ねた末――申し訳なさそう――に、再びノーの回答を示す。

「うん。だろうな。それを踏まえると、最短脱出ルートにも方針が二通り考えられる。一つは、ひたすらコソコソと隠れ回って、モンスターとの遭遇を極力避ける消極策だ。

 もう一つは逆。俺も戦うなり、最低でもさっさとトンズラできるように、弱い敵を探して経験を積みながらいくパターンだな」


 フェルマーがあからさまな困惑顔になる。

 見ようによっては、叱られてしょげかえった表情のようでもあった。

 いずれであれ、キイチは構わず続けた。

「まあ、消極策とか頑張ったところで上手くいくとは限らないけどな。それコミで、俺的にはどっちが良いか、もう決めてある。でも、それはあえて言わないことにして、だ。お前の意見を聞かせてほしいんだ、フェルマー。最終決定は俺がするから、結果どうなろうとお前が責任を感じる全く必要はない。だから、忌憚(きたん)のない意見を頼む」


 狗神はさらに困窮を深めたように見えた。

 そこを押して、キイチは選択を迫る。

 フェルマーが観念するまで、睨み合いはしばし続いた。


挿絵(By みてみん)

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