最初の召喚
誰かに呼びかけられたような気がして、ジョウジマ・キイチは目を覚ました。
静かに瞬きを繰り返す。
意識も視界もすぐにクリアになった。
寝覚めとしては悪くない部類に入る。
むしろ最良と言って良い。
「……続性EMGとα波により判定はステージW。脳波および各種バイタル正常。覚醒状態を確認しています。――おはようございます。私の声が聞こえますか? 脳波およびバイタル正常。覚醒状態を……」
柔らかな女性の声が呼びかけ続けている。
それで完璧に目が覚めた。状況をすっかり理解した。
「あ――」
「私の声が聞こえますか?」
声に再び問われた。
だが相手の姿は見えない。
理由は明白だった。
これはシステムだ。
執政官が言っていた異世界での案内役。
AIの合成音声だった。
「ああ、聞こえる」
「おはようございます、ジョウジマ・キイチさん。私はHAL12型――通称〈ハル〉。当ポッドに搭載された初期案内用の人工知能です」
「分かるよ。よろしくな、〈ハル〉」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
そこは前世で乗り込んだカプセル型ポッドの内部だった。
寝椅子のような座席シートに横たわり、今まで眠っていたらしい。
ポッドはキイチの足を下向きにして、斜めに地面に突き立っているようだった。
とはいえ、地中に埋まっているのはごく一部分だ。
ミサイルの発射台よろしく、見えない部分に土台があるのだろう。
キイチの眼前は、透明度の高い風防天蓋に覆われていた。
表示画面を兼ねているらしく、そこには既に様々な情報がグラフィカルに踊っていた。
「あー、〈ハル〉だっけか。早速で悪いけど、軽く状況を説明してくれるか」
「はい。ここは異世界〈オルビス・ソー〉です。あなたは無事に転生を完了しました。すぐにでも当ポッドから退出し、第二の人生を開始することができます」
キャノピィごしには、その異世界の風景が見て取れる。
見事なほどの密林地帯が広がっていた。
視界を埋め尽くすのは、天を衝くような巨樹の森だ。
頭上高く四方八方に伸びる枝葉が空の大部分を覆い、樹冠を形作っている。
そのせいで、差し込むのは曙光のようにうっすらとした木洩れ日ばかり。
おかげで周囲は薄暗い。
夜でないこと以外、時間帯を知る術はなかった。
地表は波打つように起伏が激しかった。
これでは、樹海ではなく山林という可能性すら疑われる。
苔むす巨岩。倒れ朽ちた古樹。
敷き詰められた新旧の落葉。
鬱蒼と茂る見たこともない種の下草。
地表を割って毛細血管のごとく縦横無尽に走る、人間の胴体ほどもある太い木の根……。
様々な物に埋め尽くされ、文字通り足の踏み場もない。
一〇歩歩くだけで重度の捻挫を負いそうに見えた。
「おい……これ、ヤバイ方の五%引いたんじゃねえのか」
苦笑めかして声にする。だが、口内はからからだった。
「〈ハル〉、教えてくれ」
すがるように呼びかけた。
「ここはどこだ。辺りはどれくらい危険なんだ?」
「ここはオルダ地方の南方域です。〈オルビス・ソー〉最西南の地で、気象条件は地球でいう亜熱帯に近く、内陸部は高温多湿傾向。雨期がもっとも長い地域として知られています」
「いや、そういうことじゃねえって。ここが森か山かとかさ。街が近くにあるかとか。どこの領地だとかだ」
「周辺の詳細な地理情報に関してはお教えできません」
「そうかよ」
思わず、吐き捨てるような口調になった。
もちろんAIは気にした風もない。よどみなく続ける。
「危険については、このポッドの内部に留まっている間に限って、他者からの襲撃の恐れはほぼありません。当機は強力な認識阻害機能を有しています。極めて希有な例外を除き、当ポッドの存在を感知できる存在はありません」
「すげえ迷彩シート使って、忍者みたいに隠れてる感じか」
「正確ではありませんが、近しい理解です」
「そりゃありがたいな。このまま引き籠もりになっちまいそうだ」
「当ポッドには退去期限が設定されています。最大二四時間で、既にカウントダウンは開始されています」
右下に時計がある。言われて、キイチはそちらを見やった。
キャノピィ兼モニタの当該部分に、それはすぐ見つかった。
残り時間:23時間56分44秒。
デカデカとした表示だった。
見ている間にも二秒減少した。
「これがゼロになるとどうなるんだ?」
「当ポッドは消失します」
「さいですか。で、本当に今すぐ出られるのか?」
「全てが自由です。ですが、オススメはしません」
「なんか助言をもらえるのか?」
「夜間に行動を開始するのは避けるべきでしょう。あと三時間六分で日没です。それから約一四時間は光源を用意しなければ何も見えない暗闇が続きます」
「つまり、今出るとすぐ夜になって遭難確定。一七時間は中で大人しくして、明るくなってから出ろってことだな」
「そうです」
「なるほど。ま、俺は他人の忠告は聞くタイプだ。そうするよ」
「日が差し始めるのは、一七時間八分後の予想です。アラームを設定しますか?」
イエスと答え、続けて様々なレクチャーを受けた。
ポッドには当面の軍資金と初期装備品が用意されているというので、まずはそれを受取った。
こちらの通貨単位はグラティア。
なんでも数十年前、〈オルビス・ソー〉は大英雄に統一されたらしい。
その際に様々な規格が統一された。通貨もその一つだという。
現在、一グラティアの価値は――キイチの感覚で――一〇〇円ほど。
ただし〈ハル〉によれば、物の価値は地球のそれとはまるきり違う。
一〇〇円うんぬんは参考程度にしかならないらしい。
装備品の方は、まず二振りの刀剣だ。
いずれも鞘に収まった片手用で、長短に分かれている。
長い方は、おそらく鉈と呼ばれるものだった。
刃が四角い――いわゆる肉切り包丁を長く細く伸ばしたようなフォルムをしている。
刃渡りは、子どもの肘から手首くらいほどはあろうか。
ほとんど短剣の域だ。
とはいえ本来の用途は枝落としなどアウトドア用だろう。
武器とは考えにくい。
もう一方は、しっかりとした造りのナイフだった。
思い切り振れば指の一本や二本なら切断してしまえそうな、大きく肉厚の刃が怪しく煌めいている。
それからもちろん、水と食糧。これらは間違いなく最重要アイテムだ。
〈ハル〉によると普通に食べれば三日。
節約すれば五日前後が分量の目安になるらしい。
その内容は主として干し肉であった。
一口囓ってみたがとにかく塩気が凄まじく、しばらくむせたほどだった。
飲料水は革製のような水筒入り。
これが三つ用意されていた。
恐らく、動物の内臓を利用したものであろう。
それぞれ五〇〇ミリのペットボトルよりは少し多めに入っていそうなサイズ感であった。
他にも、火を発するという使い捨ての魔石が半ダース。
植物性の何か編み込んだロープ。
軟膏にもなるという、クリーム状の油。
それを収めた木製容器。
毛布としても兼用可能な、撥水性を持つ革のマント。
ファンタジィ感の演出を兼ねたような、細々とした雑貨類も用意されていた。
聞けば、この世界には怪我を癒やす回復薬の類いも存在するらしい。
ただ、残念なことにキイチの初期装備には含まれない。
代わりに与えられたのは、清潔な包帯である。
約一七時間後、キイチはこれらを収納したバックパックを担ぎ、ポッドを出た。
地面を踏みしめ、自らの姿を見下ろした。
こちらの世界の標準的な衣類であるに違いない。
身にまとっているのは、ごわごわした灰色の粗末な服だった。
転生前に来ていた私服は消えていた。
意外なのはスニーカーと強制交換されていた革製ブーツだ。
こちらは思いのほかの上物だった。
見てくれこそ野暮ったいが、履き込んだようにキイチの足にしっくり馴染む。
日本で買えば万札が数枚飛びそうなクオリティであった。
「そんじゃな、〈ハル〉。世話になった」
ポッドに指先で触れながら、キイチは言った。
「行ってらっしゃいませ。道中の幸運を祈ります。当機はこのまま規定時間まで――あと七時間ほど――この場に残存します。何かありましたら緊急避難にお使いいただけることを、どうかお忘れなきよう」
「おう。ヤバくなったら遠慮なく逃げ帰ってくるわ」
キイチは背嚢型の鞄を担ぎなおした。
肺に深く空気を吸い込んだ。それから改めて異世界を見渡す。
朝靄たちこめる、一種神秘性すらたたえた大自然がどこまでも広がっていた。
ここが森か山かは分からない。情報は何もない。
いずれであれ、周囲を取り巻く原生林はすこぶる賑やかだった。
耳を澄ますまでもない。
頭上から降りそそぐ葉擦れ。
競うようにあがる虫の音。
せわしない鳥類の羽音。
遠くからは、未知の生物があげる甲高い咆哮さえかすかに響き渡ってくる。
「しかしこれガチでやべえよな。三日分の食料とナイフだけで、遭難状態からスタートとか……普通に日本でも生還絶望だろ」
思わず凝り固まった右手を見詰めた。それと分かるほど小刻みに震えている。
「捜索隊も救助も期待できないから、それ以下か。援軍が来ない籠城戦とかもう最初から詰みじゃねえか。投降の選択肢すらねえし。どうすんだよコレ」
左手で介助し、無理やり指を折りたたんで右手を拳に変えた。
「希望があるとすりゃ狗神ってやつだが」
召喚術とはいうが、特に作法のようなものはない。
〈ハル〉曰く、ただ念じればスキルが発動する。
条件がクリアならば、それで狗神は呼び出される。
それ以上のことは非開示だった。
肝心の条件についても詳しいことは何も聞き出せていない。
「戦力の逐次投入は下策――」
己に言い聞かせつつ、キイチは目を閉じた。
説明によれば、召喚スキルは最大で生涯三度まで使える。
「一気に行くぞ。頼むから来てくれよ」
閉じた目蓋に力を込め、「狗神来い」と念じた。
狗神。狗神来い。
念というよりほとんど祈り。懇願だった。
狗神来い。来てくれ。
三匹分、呪文のように繰り返す。
ひたすらに願った。
気付けば奥歯を噛みしめていた。
「狗神来い、イヌガミ来い――」
最後は小さく声にまで出していた。
どれくらいしてか。
だしぬけに「ひゃん」という愛らしい鳴き声が聞こえた。
確かに耳朶を打った。
はっとして目を開く。
果たして、そこには小さな動物のシルエットがあった。
ぬいぐるみさながら。幼児でも一抱えできそうなサイズの四足動物が、巨大なしっぽをぶんぶんと振っている。
三角形をした獣の耳。
長く伸びたひげ。
軽く開かれた口元には文字通りの犬歯が覗き、隙間からは丸っこいピンクの舌が小さく垂れ下がっている。
確かにその生物は、犬科の特徴を完全に備えていた。
「い……って言うか、たぬ……?」
特殊なタイプでなければ、間違いなくまだ幼体――
子どもだろう。
頭部は綺麗な丸形。
その中にあって、三角耳とつぶらな黒い瞳がやけに大きく見える。
胴のサイズはその頭部と大差がない。
良いところ三頭身といったところか。
そこから伸びる四肢は短く、太かった。
成犬の脚は通常、人間同様に腿から先端へ向かうにつれシャープになっていく。
だが、この犬は棒のように直線的だ。
動かなければ本当にぬいぐるみと誤認されかねない姿だった。
「――って言うか、これたぬきだろ」
特徴的なのは、ほとんど胴体に迫ろうかというスケールの丸く巨大な尻尾だ。
綿毛かというほど繊細で、とろけそうなほど柔らかなのが触れるまでもなく見て取れる。
「まあ、たぬきも確かに犬科だけどさ。お前……狗神か?」
一歩踏み出しながら問う。
すぐに、例のひゃんという迫力皆無の鳴き声が返った。
もちろん、その狗神はたぬきそのものではなかった。
まず、全体的に毛色がそれほど濃くない。むしろ明るい。
柴犬を彷彿とさせる小麦色と白のツートンだ。
目の周りもたぬきのように黒くなかった。
顔の造りにしても同様。
下顎がはっきりと見える犬のそれだ。
「しかしまあ、狗神っつうか、ペットの子犬って感じだな。三体一気に召喚したつもりなのに、一匹しかいねえし」
キイチはすぐ側まで歩みより、かがみ込む。
「触っても良いか? イヤじゃないか?」
犬はまたひゃんと元気に吠えた。尻尾をふりふり上機嫌だ。それどころか、自分から身をすり寄せてくる。野性味や警戒心がまるで見えない。
キイチはぬいぐるみ然とした小柄な身体を抱き上げた。
「うわっ。もっふもふの、ふわっふわだな」
狗神だからか獣臭さはまるでなかった。
毛玉めいた胴に鼻先をうずめると、干した布団のような太陽の匂いがした。
下に降ろす前、キイチは高い高いするように狗神を抱え上げた。
性別確認のつもりだった。
ところが、これが何としても分からない。
下腹部がふさふさした白い毛に覆い隠されているのだ。
かき分けても何がなんだか判然としない。
まるでひよこだった。
キイチは無言で首をかしげる。
あくまで生物的な犬とは違うということか。
単にこの個体が特別なのか。
判断がつきかねた。
「まあ、いいや」
狗神を地面に戻しながら言った。
「とりあえず、お前は狗神ってやつで、俺の相棒になってくれると思って良いのか?」
すかさず「ひゃん」と一吠え返る。
無邪気な瞳が、じっとキイチを見詰めていた。
「そっか。そんじゃまずは名前だな。名前は大事だろ」
それとも既にあるのか。
ためしに訊いてみると、狗神はそれと分かる困惑顔を見せた。
尻尾もしゅんとしている。
くうんと弱々しく鳴いた。
「ないのか? まあ、あっても伝えられねえって話だよな」
「ひゃん」
だったら、とキイチは周囲に視線を巡らせた。
足下には地肌が覗く箇所がほとんどない。
それでも探せば例外は何とか見つかった。
キイチは無言でそちらへ足を向ける。
途中、適当な木の枝を拾った。
もちろん、狗神は尻尾をふりふり後をついてきた。
「既に名前あるなら悪いけど、俺との間だけのあだ名とでも思ってくれ。これから思いつく限り色々書いていくから、気に入ったらリアクション頼む」
断りを入れ、キイチは棒でガリガリと候補を刻んでいく。
土は黒っぽく湿り気を帯びていた。
字を書くにはいささか柔らかすぎた。
だが贅沢は言えない。
ポチ。コロ。ハチ。ハナ。
まずは定番所で攻める。
だが、狗神の反応はかんばしくなかった。
「そう言やお前、確実に俺の言ってること理解してるよな」
キイチは手を止め、ふと問いかけた。
狗神はひゃんと鳴いて、明らかな肯定を示した。
「よし、じゃちょっと実験だ。言葉が分かるなら、試しにその場で三回まわってみてくれるか?」
言うと、狗神は即座に応じた。
短い足を一生懸命動かし、三度時計回りに走る。
そうしてピタリと停止。
得意げな顔でキイチを見上げた。
目が言葉以上に「ほめて」と物語っていた。
「すげえな、数字も理解できんのかよ。賢いんだな、お前。流石は狗神だ。えらいぞ」
両耳の間を撫でてやると、嬉しそうにしている。
「となると、名前も賢そうな感じがいいか。偉人系から拝借していくか? たとえば――シャラク、ベル、アインシュタイン?」
狗神は響きの変化に興味を持ったようだった。耳がぴくぴくしている。
「コウメイ、マツ、サリヴァン、ケイティタウ、オイラー、ホーキング、ノイマン、レオナルド、ブリードラヴ……エジソンは、ちと怪しいからやめとくか。となるとノグチもスルーだな」
たちまち、書き込めるスペースが名前でいっぱいになる。
「どうだ。まだしっくりくるのないか?」
くぅんと申し訳なさそうな声が返された。
「気にすんな。ここは妥協するとこじゃねえし。――でも、どうすっかな。消すと今までの候補忘れてダブらせちまうだろうし。他に書けそうな場所あるか――?」
と、腰を浮かしかけたところで、閃いた。
「そうだ。〝余白がない〟でお馴染みのフェルマーはどうだ?」
たずねた瞬間、狗神は一際大きく耳を震わせた。
それから「ひゃん!」と明らかに威勢の違う声をあげる。
「おっ、フェルマー気に入った感じか?」
「ひゃん」
喜びいっぱいに飛びついてくる狗神を、キイチは抱きとめた。
「ようし。じゃ、俺は今からお前をフェルマーって呼ぶな。俺の方はキイチだ。ジョウジマ・キイチ」
狗神は了解の意か、ぺろりとキイチの頬を舐める。
「よろしくな、フェルマー」