包拳奉脈
左手の拳を開き、そしてまた握り込んだ。
ぎゅっと少しずつ力を込めていった。かすかな関節の軋み。
手のひらに食い込む爪の感触。
懐かしい生身の感覚に、狗神ゼン=フゥ・ド・ナイレは思わずにやりとした。
だがいつまでも酔いしれてはいられない。
ゼン=フゥは首を大きく回しながら歩き出した。
向かう先は、巌壁に穿たれた人工の横穴だ。
視力は悪くない。そこに横たわっている召喚主の姿はよく見えた。
「――さて、坊主。まずは治療だな」
声をかけると、若き狗神使いは怪訝そうな顔を見せた。
手ぶらのお前が何を、という顔だ。
ゼン=フゥは微笑んだ。
「このままだとお前さん――多分死ぬぜ?」
「は……?」
「自分じゃ分からんだろうが、顔が土気色だ」
「そんな大怪我じゃねえよ」
少年の言い分はある意味正しかった。
実際、重傷ではあれ致命傷というほどではない。
「傷口から何か入ったんだ。見ただけでオウルの乱れが分かるほど陰相化が進んどる」
「――オウル?」
「まあ、その辺はおいおい話すとして。まずはちょっと診せてみろ」
もっとも、ジョージ・マッキーチの穴ぐらは何をするにも狭すぎた。
手始めに、肩を貸して外へ引っ張り出した。
地面に彼が所持していたマントを敷き、そこへ仰向けに寝かせる。
「どうする気だ?」
小さな風が当たるだけで傷が痛むのだろう。少年の額には脂汗が滲んでいた。
「言ったろ。治療だよ」
ゼン=フゥは傍らにしゃがみ込んだ。
「ま、悪いようにはせん。動くなよ、マッキーチ」
左手を広げ、ヘソのやや下に軽く置いた。
そこがオウルの流れを見るために最適なポイントなのだ。
「おい、切るとこ間違えてるぞ。俺はマッキーチじゃねえ。キイチだ」
苦痛のため、彼はそこで一度、呼吸を整えねばならなかった。
「ジョウジマが姓で、キイチが名だよ」
「そうなのか?」
「中学の頃、英文法教えに来てたアメリカ人教師にもまったく同じ間違え方された」
なんでも、彼の故郷には〝マッキーチ〟という姓が実在するのだという。
「ジョージって名は聞いたことないが、マ・キイチって姓はなくもない。
〝マ〟ってのは古語で一族や一門という意味がある。
キイチって地名はたまに見かけるから、そこの有力者なんぞにはマ・キイチ名乗ってる奴らがまだいるはずだ。訛りによっちゃマッキーチと発音することもある」
「マジかよ」
露骨に顔をしかめている。
「俺の世界では、マッキーチはマック・キーチを縮めたものだ。
〝マック〟とか〝マク〟ってのが、まさに一族とかそういう意味だった。
マクドナルドといえば、ドナルド一族。スティーブ・マックイーンといえば、クイーン家のステーブ君って意味になる」
「だが、坊主のキイチは名なんだろう? 何か特別ないわれがあんのかい」
なだめるように訊いた。
狗神使いは刹那、考え込むように黙った。
「特別かは知らねえけど、鬼一法眼っていう、伝説的英雄を元ネタに母親がつけたんだ」
ゼン=フゥは特に驚かなかった。
英雄から名をもらうというのは、こちらの世界でも珍しくはない。
「どんな英雄なんだ?」
「一言でいえば賢者だ。僧侶であり、陰陽師っていう――なんだろうな――呪い師というか占い師というか、そういうやつだったらしい」
今度は即答だった。
「兵法を極め、幻の秘伝書と言われた〈六韜三略〉を持ってたことでも有名って話だ」
「ほう、兵法!」
思わず声が高まった。
「なんだよ、そこだけすげえ食いつきだな」
「そら、兵法が剣術や武術を意味するなら、このゼン=フゥも他人事じゃあねえからな」
「あんた、バトル系なのか」
なんとも言えない顔だった。
「バトルケイってのは分からんが、兵法者ではあるつもりだ。
統一前は長く乱世が続いてたからな。色んな戦場駆け回ったもんよ。
世界中、転戦につぐ転戦の毎日。俺から戦を取ったら何も残らんだろうな」
「なら、鬼一法眼と話が合うかは微妙かもな。奴は文武両道の代名詞として伝わってる」
「そういや、僧侶だ賢者だ言ってたな」
「俺の名前も、その文武両道部分にあやかったって聞いてる」
そこまで言うと、ふと思い出したようにキイチは顔を上げた。
「あんたにはもう名前があるんだな。ゼン……だっけか。フェルマーの時は俺がつけたけど」
「名前はあったさ。坊主がフェルマーと名付けた狗神にも。
ただ、彼奴はそれにこだわらなかっただけだ」
狗神は小なり前の人生に心残りを持っている。
前世にこだわり、やり残したことを成し遂げたいと考える者は多い。
一方、心機一転して前世で出来なかったことに挑みたいと思う者もいる。
フェルマーは少なくとも前者ではなかった。
そういうことなのだろう。
「俺はこだわりを捨てきれなかったタイプだ。あの子犬と違って、随分長いことゼン=フゥ・ド・ナイレでやってきたからな。いきなり新しい名前と言われても、ジジイにゃそうそう馴染めんだろ」
「かもな」
若き狗神使いは苦笑交じりに口角をあげる。
「俺も、転生ついでにジョージ・マッキーチを名乗れと言われたら、相当戸惑いそうだ」
「だろう?」
ゼン=フゥは笑み、そして訊いた。
「――で、具合はどうだ」
「具合?」
つぶやいた直後、キイチの顔から表情がいきなり消えた。
時が凍てついたような沈黙がおりた。
次の瞬間、彼はがばと跳ね起きていた。
「は……?」
身体のあちこちに忙しく触れ、呆然とし、また触れ回って、最後にゼン=フゥに視線を向けてくる。
信じがたいものを見る目であった。
彼は何かを言おうと二度、口を開いた。
三度目の挑戦で、ようやくささやかな成功を得た。
「なにした? なんで……」
そこでまたキイチは絶句した。
今度は声のかすれ、喉の痛みが改善していることに気づいたのだろう。
「無理はするなよ」
ゼン=フゥは苦笑しながら言った。
「あくまで応急処置をしただけだ」
「もしかして魔法か――これが。癒やしの?」
キイチの表情が驚愕から好奇のそれへと変わっていく。
「言ったろう。俺は兵法者だ。オウル使いよ。だから、魔法も封貝も使わねえ。使えねえ。ただオウルを使う」
「オウル……」
「そう。オウルだ」
「さっき、バケモンを一撃でぶっ飛ばしたのも、そのオウルか」
「そうだ」
「癒やせるし、戦える?」
「おうよ」
若き狗神使いは、少し考え込むように黙った。
「俺を鍛えるって言ったよな? そのオウルを教えてくれるってことか。俺も使えるものなのか?」
「あまりいっぺんに聞くなよ。ジジイは一つ覚えると一つ忘れちまうんだ」
ゼン=フゥは再び苦笑しつつ、続けた。
「ご期待通り、俺は自分の知る全てをお前さんに授けるつもりで来た。この世界のこととか、こういう大自然の中での生き延び方とかな。だが、なんだかんだ言って俺はオウル使いのオウル馬鹿だ。八割九割はオウルの話になるだろう」
「俺には攻撃魔法や治癒魔法にしか見えなかったんだが――それとオウルはどう違う?」
「魔法やら魔術ってのはアレだろ。選ばれた奴だけが使える異能のこったろ? 誰でも使えるなら、そりゃただの技術だからな。
その意味で異世界では封貝使いこそが魔法使いだよ。
奴らは、とんでもない異能を秘めた神器を呼び寄せて使う召喚術士みたいなもんだ。
あれは何十人かに一人の特別な才能がないとどうにもならん」
俺がそんなもの呼び寄せてるように見えたか?
ゼン=フゥは肩をすくめながら問う。
答えを待たずに言葉を継いだ。
「逆に、オウルは世界に満ちた当たり前の存在だ。空気や水と同じだ。俺は上手くそれを使ってるだけさ」
「じゃ、俺にも……」
「できるんじゃねえの? 異世界の人間に使わせたことなんてないから、はっきりしたことは言えんがね。
――どうだ、その気になってきたかい坊主」
†
よほど物珍しかったのだろう。
オウルの力を目の当たりにした狗神使いは、いちいち目を輝かせて反応していた。
だがゼン=フゥの目に、彼があえて明るく振る舞っているのは明らかであった。
自分を護って相棒が死んだ。
生き残るべき、そのための力を持っていた者が死んだ。
その事実が今、この若者を苛んでいる。
ゼン=フゥは、同じ経験をした者を戦場で大勢見てきた。
なぜ自分が生き残ったのか――。
彼らはどうしてもそれを考えてしまう。
意味を探してしまう。
そこに過失の有無は関係がない。
狂人がいきなり無差別殺人をはじめた事件でも、人々は同じことで苦悩する。
時に助かったことに罪悪感すら覚えてしまうのだった。
死んだのがより有能、優秀な人物であったならなおさらだ。
自分をかばって死んだ、守って死んだとなると、その自責の念はもっとも重く深刻なものとなる。
ゼン=フゥが見る限り、目の前の狗神使いのケースはその最悪の例の一つに入る。
これに限っては、年齢や経験が何かの助けになることはほとんどない。
誰もが傷つき、葛藤するパターンだ。
時間をかけて、自分の中に答えを見つけていくしかない。
「――俺はお前さんをいっぱしのオウル使いに育てるつもりだ。しかし、現状で訓練を始めるのは無理だろうな」
ゼン=フゥは告げた。
無理、という部分でジョウジマ・キイチは眉をぴくりとさせたのが分かったが、無視して続けた。
「もう言ったが、俺がやったのは応急処置だ。見える傷はふさがったが、深い部分までは癒えてない。坊主には栄養と、休養と、安全な場所が必要だ」
自覚はあるのだろう。
狗神使いは反論しなかった。
事実、支えがあれば立つまではできるが、歩くとなると厳しい。鍛錬となるとまず無理である。
「どれくらいかかる?」
少年が訊いた。
「そうよなあ……しばらくしたらもう一度、オウルを流して治療する。あとは食って寝れば、明日には動けるようになるかもしれん」
「軽く全治一ヶ月くらいはあった怪我って思えば、むしろ早すぎるくらいなんだけどな」
「肉体的な鍛錬を伴うものに打ち込んでりゃ、怪我との付き合いは嫌でも経験することになる。そういう時は、焦れたら負けだ。とにかく、今日は食って休め」
「食って、ね」
狗神使いは苦い顔で、ちらと横穴へ視線を投げた。
「あの干し肉、さっき食おうとして食わなかったよな。あれはなんでだ?」
ゼン=フゥはそちらを顎でしゃくりながら訊いた。
「なんで知ってる? 狗神使いの言動は、あんたらには筒抜けってことか」
「カァヒ神は全ての狗神使いの行いを映し出し、俺たち狗神に見せてくれるんだ。誰と契約するか選ぶためにな。
俺たちは条件が合いそうな奴をみつけると、そいつの行動をしばらく観察して見極めるんだよ」
そうして問題ないと思った場合にのみ、狗神使いの召喚にこたえるのだ。
「じゃ、俺はフェルマーやあんたのお眼鏡にかなったわけだ」
「ま、そういうことになるかね。――で、なんでだ?
お前さん、さっき肉を食うか迷ってたろ。なのにしばらく睨めっこした後、放り出した。盛大に腹の虫が鳴ってたのに」
「くだらねえ、感傷だよ」
狗神使いは自嘲的に鼻を鳴らした。
「フェルマーは、俺にこの干し肉を食わせるために死んだようなもんだ。そう思うと、なんかムカついてきてな。食いもんに八つ当たりってわけだ」
「気持ちは分からんでもないが、まぁ食っとけ。感傷というからには理解はしてるんだろ? そんな意地通しても、あの子犬は喜ばん。むしろ逆だ」
「ああ――」
顔を逸らし、短く応じる。
「俺は周辺の地理を確認してくる。それまでに朝食を済ませとけ。
狗神召喚は主従契約に近いが、絶対性はない。
俺を師と仰げとは言わん。そんなガラでもねえしな。
だが稽古をつける都合上、指示にゃある程度は従ってもらわねえとな」
「ああ、分かってる。分かったよ、ゼン=フゥ」
言って、坊主は顔を上げた。
ゼン=フゥは鷹揚に頷いた。
「結構、けっこう」
「でも周辺地理ってどうすんだ。周りは三〇メートル級の崖だぜ?」
「おいおい、こんなもんに苦戦するのは人間くらいだぞィ?」
言いながら、ゼン=フゥは深く膝を曲げた。
大腿部に力を込める。
筋繊維が軋むような、撓むような独特の感覚を束の間、味わう。
屈んだまま頭上を仰いだ。
息を止め、一気に地を蹴る。
三〇メートル級。
人間の少年がそう表現した巌壁は、一瞬で八割ほどが眼下に消えていった。
ゼン=フゥはすいと右脚を前に出し、壁面の出っ張りに爪先を軽く引っかけた。
それを足場に再び跳躍する。
次の瞬間には崖の頂上に辿り着いていた。
むしろ高く飛びすぎたほどだった。
落下が始まるまで、ゼン=フゥはしばらく待つ。
その間、周囲の景色を見渡した。
じっくり観察する時間があった。
そうしてようやく自由落下が始まる。
崖の上に着地した時、どの方向を探るかで悩む必要はもちろんまったくなかった。
まずは水場を探しからはじめた。
上空からは川も泉もそのものは見えなかった。
しかし、存在しないとは考えにくい。
地形から、ありそうな場所には予測がついていた。
そちらへ向かう途中、ここがどの国、どの地方であるのか植生から判断材料を得ていった。
マーキングや糞。足跡。匂い。気配。
あらゆる情報を手がかりに、周辺の情勢の把握にも努めた。
戦闘は全て避けたが、一度だけ際どい場面があった。
遠くに、無視できないオウルの流れを感じたのだ。
恐らくは〈オツォ〉と呼ばれる大型の獣であった。
全身を毛皮で覆われ、四足歩行し、尻尾、鋭い鉤爪、牙を持つ。
犬と共通点を多く持つ生物だ。
ただサイズは桁違いで、成獣は人間を背に三人乗せられるほど大きい。
時に、小屋ほどのサイズの個体に出くわすこともある。
前脚で軽くなぎ払われるだけで、ジョウジマ・キイチあたりなら原型を留めないほどぐちゃぐちゃにされてしまうだろう。
狩猟神カァヒは地上に降臨する際、しばしばこの〈オツォ〉の姿をとる。
そのため一部では神聖視され、信仰の対象にすらなっている存在だ。
狗人族のゼン=フゥにとっても敵対はしたくない相手である。
だが、向こうも既にゼン=フゥを察知していた。
〈オツォ〉探知能力に優れ、その意味では狗人族にも決して劣らないのだ。
走力も高く、あちらがその気ならば戦闘への突入は避けられないかもれしない。
そんな状況であった。
もっとも彼らは基本的に無用な争いを好まない。
自分より遙かに小さな相手でも、自分から距離をとることすら珍しくなかった。
幸いなことに、今回もそのパターンだった。
のそのそと遠ざかっていく気配にゼン=フゥは胸をなで下ろした。
〈オツォ〉と遭遇したということは、この一帯で〈オツォ〉以上に危険な獣に遭遇する可能性は低いということだ。
そこからは、比較的安心して探索を続けることができた。
充分な成果を得て、狗神使いの元へと戻った。
†
「意外と早かったな」
狗神使いは待つのを苦にしないタイプなのかもしれない。
帰ったゼン=フゥの出迎えは、存外そっけなかった。
「まだ一時間経ってないんじゃねえか」
「異世界の時間の単位は分からんが、まあ、あまり待たせても心配させると思ってな」
言って、ゼン=フゥは土産の品を投げ渡した。
少年はごく無造作に、軽々と受け取る。
反応速度は悪くない。
回復は順調らしい。
気のせいか、顔色も随分良くなっていた。
「なんだこりゃ」
手のひらの黒い果実をまじまじと眺めている。
「木イチゴだ。オルビス・ソーなら、ほとんどの土地で育つ。あまり大量でなけりゃ人間でも生で食える。味も悪くない」
言うと、果実を口に放り込んだ。まったく躊躇がない。
「酸味が強いが――微かに甘みもあるな」
「時期が良いと、もっと甘くなるんだがな」
「しかし、この崖をジャンプで軽く飛び越えるとはな」
木イチゴを咀嚼しながら、少年は巌壁を見上げる。
「あれもオウルか?」
「いやいや、ありゃただの身体能力だ。俺は犬の上位種の〈ク・ェリ〉って種族だが、あれくらいは普通よ」
異世界に獣人は存在しないらしい。
「マジか」
目を剥いて驚愕している。
「それより、水場を見つけた。近くに夜営できそうなポイントもあった。どうする?」
「どうするって言われてもな」
「今日はここで休んでも良いし、なんなら俺が見つけた所まで運んでやっても良い」
「運ぶって、どうやってだ?」
口で説明するより遙かに伝わりやすい手段を選んだ。
実行である。
まず、肩を貸して狗神使いを立たせた。
その背中側から腕を回し、彼の腰紐を引っつかむ。
千切れないよう軽くオウルを通した。
「いくぞ」
「は? いや、ちょ……」
ゼン=フゥはすかさず跳躍した。
人ひとりを抱えている分、微妙にだが前回より距離が伸びなかった。
崖の中程のところで壁を一度蹴る。
今度は飛びすぎるということもない。
まず自分から着地した。
腰紐を握った腕で勢いを殺してから、狗神使いをゆっくりと降ろした。
「……ぉ……」
いきなりのことに、彼は言葉を失っている。
人間とはそうしたものだ。
自分の背の高さの物すら飛び越せない。
獣人であらば、その一〇倍の高さまで軽々と飛び越えられる。
種族としての限界の差だ。
この人間の召喚主は、今回のような経験をこれまで一度もしたことがなかったのだろう。
「いつまで固まっとるんだ。行くぞ、坊主」
「ぉ――おう」
軽く背を叩くと、少年は慌てて頷いた。
「つか、いきなり飛ぶなよ。心臓止まるかと思ったろ。荷物とか置いてきちまったし。何にでも準備ってのがあるだろうよ」
「心配するな。後でとってきてやる」
「つってもなぁ……」
「それより移動するぞ。肩貸してやるから歩け。動く方が治りも早い」
「水辺ってのは遠いのか?」
「俺と一緒なら、日が暮れるまでにはつくよ」
周囲はしばらく乾燥した土壌と岩場が続いたが、徐々に緑豊かな原生林へと様相が変わっていった。
先ほどの崖に比肩し得るような大樹が散見され始め、頭上に張り巡らされる枝葉によって、屋根のような樹冠が形成されるに至る。
テレモ草のささやかな群生地は、そんな場所にひっそりと広がっていた。
「こいつはテレモっていう、多年草だ。世界中に分布していて、森に入ればどこでもすぐに見つかる」
言いながら、足下のそれをまとめて千切り取った。
「こうして生のまま草を揉んで患部に貼ると、打ち身や腫れに効く。
乾燥させて煎じると、弱いながらも止血剤に使える。
人間は含嗽にも使うが、俺のようなク・ェリやコロパスには効果がない」
「ガンソー?」
「うがい薬だ。乾燥して粉にして、水と一緒に口に含んでブクブクやってる人間を見たことがある。口内のでき物なんかに効くんだと」
「へぇ」
「こういう場所を歩く時は、遠くじゃなくて近くを見ろ。 地形や植生を頼りにエリア単位で把握するんだ。
行きたい場所が見えていても必ず足下を見ろ。
下草や茂み、高低差で幻惑されて、方向感覚や距離感は容易に狂う。
直進しているつもりでも、ぐるぐる同じ場所を回ってしまうことは珍しくない」
「兵隊はそういう時どうするんだ?」
「土地をよく観察する。そして知識と照らし合わせて状況を把握する」
「たとえば?」
「たとえば、草や苔の育ち方からは、日照時間や日の差し込む角度が分かる。それを手がかりに方角を計算できることも多い。それから――」
あれが見えるか。
言って、ゼン=フゥは二〇歩ほど先を指さした。
「どれだ?」
顔を突き出し、目をすがめている。
「一部だけ樹皮が変色して見える樹だ。分かるか」
「あー、言われてみればなんとなく」
「ありゃ〈烽爪樹〉つって、世界のどこにでもある木だ。
昔から狼煙に最適と言われてきたモンでな。
軍事施設には、どんな小さな所にも必ずあれを貯蓄してる蔵と、狼煙台とかセットである」
「へぇ」
「変色して見えるのは、そこだけ樹皮が剥かれて中身が露出してるからだ。
〈オツォ〉っていう大型の獣の仕業だよ。縄張りを示すためのフィールドサインだな。
頑丈な爪で引っ掻きまくったんだ」
「オツォ?」
小首を傾げる狗神使いに、特徴を説明してやる。
聞いた彼は開口一番、ぽつりと言った。
「――クマ?」
「おっ、異世界にもオツォがいるのか」
「いや、地球のクマが建物レヴェルまでほいほいデカくなることはない。似て非なるものだろうな。実際見たら別物かもしれねえ」
そこまで言うと、この辺にいるのか?
と、不安そうにしだした。
「大丈夫だろ。さっき遭遇しかけたからな。今はこの辺にはいないはずだ」
「そら良かった」
「糞や足跡、それにああいうフィールドサインから生息している動物が分かれば、連中の習性から周辺の地理状況を知ることができる。鳥なんかにゃ、飛ぶ方向や時間帯、条件が決まってるのもいるしな。
〈オツォ〉は雑食で、活動圏内にかならず水辺を含む。
つまりあれを見つけたら、近くに川や沼があるのは確定ってワケだ」
「で、軍人ならそれを探すわけか」
「遭難時、水の確保は死活問題だ。その意味で水辺を探すのは正しい。
だが、その水が安全かは別問題だし、川に沿って歩くのは状況によっては最悪の選択だ」
どういうことかは、実際、水辺に辿りついて説明した。
ゼン=フゥが案内したのは、そこそこしっかりした川だった。
人間では到底飛び越えられないほどの幅があり、深い部分は少なくとも腰までは浸かるであろう水嵩である。
透明度はそこそこ高く、時折、泳いでいく川魚の姿を目撃することもできた。
「おお、マジで川だ……!」
開けた視界の先にそれを認めると、狗神使いははしゃぐように感嘆の声をあげた。
こんなに簡単に――
続くその言葉は、打って変わって囁きに近いものだった。
彼とフェルマーはこの場所を求めて何日も樹海を彷徨ったのだ。
そうして叶わず、力尽きた。
「そんなもんだ。逆方向にたった二〇歩進んでいれば。あと半日、がまんして進路を変えずに行っていれば。そういう紙一重の条件で、ゴールを逃す遭難者は多い」
「そう、なんだろうな……怖いな、自然ってのは」
「その怖さを知るのが、何につけても最初の授業だ」
「分かるよ。今なら」
「なら、ここでも授業だ。俺たちは川を見つけた。さて坊主、お前さんならどこにキャンプを張る?」
「そりゃあ――」
少年は途中見つけた太い枝を杖代わりに、よたよたと川辺に向かっていく。
「この辺だろ」
「そうか」
見届け、ゼン=フゥは踵を返した。
「ま、訓練された兵士なら誰一人、そこまでは近づかんだろうな」
言いながら、逆に川から距離を取り始めた。
森の入口付近まで戻り、そこでようやく立ち止まる。
「俺ならここだ」
「いや、遠すぎねえかそこ」
離れた分、狗神使いが声を張り上げた。
「もっと川に近い方が便利だろ」
「便利ならなんでも良いってワケでもねえのよ」
ゼン=フゥは指摘しながら少年の元へ戻った。
「近くの草を見てみい。普通なら真っ直ぐ立って生えるが、この辺のは全部斜めになってるだろ。物によっちゃ根元から折れてる」
その一つの近くでしゃがみ込み、指さした。
中腰になった狗神使いが感心したような声をあげた。
「そう言えば」
「よく見れば川の近くの草は全部そうで、離れていくと境界線が見つかる。そこから先は普通に真っ直ぐだ。
――コレを見て川が雨なんかで頻繁に増水、氾濫していると気づけるかどうか。草の境界線は、素人と慣れた者を分かつ境界線でもあるってワケよ」
「俺がキャンプ張るって言った場所は、見事に水浸しの圏内だな」
「そういうことだな。昨夜、雨降ったろ? あれを見れば、この辺じゃいきなり土砂降りになって、いきなり止むようなパターンがあると分かる。準備しとかないと対応できねえ。
特に氾濫は、気づいたら身動き取れなくなってる、なんて事がある。だから端から距離とっとくんだ」
「なるほど……。ってことは、ゼン=フゥ。あんたが境界線遙かに越えて、森まで入ったのにも理由があるんだな?」
「そうだ。森に入ったのは、樹冠――枝や葉っぱが屋根みたいになったもの――が、急な雨や朝露に対して一定の防御機能を果たすからだ。空を飛ぶ危険な敵に発見される心配も小さくなる」
狗神使いは無言で宙を仰いだ。
大きく嘆息し、顔を戻す。
「あんたはそういうことと、オウルを俺に教えてくれるって言ってるんだな」
「そうだ」
「それは、言っちまえば生きる術ってことだよな」
「その通りだ」
頷いて認めると、少年はまた短く沈黙した。
どこか遠くを見るような目だった。
「俺は――」
やがて足下の草を意味なく爪先で蹴りながら、彼が言った。
「もう、狗神は呼ばないつもりだった。フェルマーで充分だと思った。三度まで召喚できるとか、ありがたくもなんともねえ。他人に俺の無力のツケを払わせるのが召喚なら、もう二度とゴメンだと思っていた」
「俺の目にも、お前さんがそう考えてるように見えたよ」
ゼン=フゥが言うと、若き人間は一つ首肯した。
「でも、あのまま死ぬわけにはいかなかった。フェルマーがなんでああまでして俺を生かしたのか、未だに分からねえけど。
あそこで野垂れ死にしたんじゃ、どう考えても申し訳がつかねえ。
生かされた意味が分からないなら、せめて意味を作るのが俺のせめてもの、責任だと思った」
顔を上げ、彼は真っ直ぐにゼン=フゥを見つめた。
「案外、なんでもそうなのかもな。意味ってのは用意されてるもんじゃなくて、手前で持たせてナンボのものなのかもしれねえ。
もしそうなら、フェルマーのしたことが価値あることだったと俺の中で納得を得るためには――俺自身が価値のある生き方をするしかないんじゃないかって」
ゼン=フゥは黙って聞いていた。
自分が求めていた者が今、その資格の在り処を示そうとしているのだ。
口を挟む必要など、どこにもなかった。
「自分の生き方に価値を持たせるには、自分で立って歩くための方法を知って、力をつける必要がある。そのために、ゼン=フゥ。あんたが必要なんだと、思った」
少年が一歩踏み出した。
「俺の世界じゃ、こういう時、握手ってのを求めるんだが。こっちの――オルビス・ソーでは、何か作法あんのかな」
「敬意と友好を示す動作を言ってるなら、あるぞィ」
ゼン=フゥは手首を上にして、左の手のひらを胸の前へ差し出した。
その上に右の拳を乗せる。
パンと柏手のように景気よく音を上げるのが作法だ。
置いた右手を、左手で軽く握り込んで完成である。
「なんか、拱手みたいだな。中国の」
「こちらでは包拳奉脈という」
立場が同じ者同士の挨拶なら、双方がこれをやるのだ、と説明した。
地位に差があるなら、下の方が上の者に対して一方的にこの構えをとる。
「右の拳は武器。それを左手で包み覆い、無力化する。争う気がないことを示すわけだ。
そして、両方の手首を差し出すのは、腹を見せる、弱点を晒すという意味だ。
お前を信用し、全てを委ねるという意思表示になる」
「なるほど」
狗神使いは、すぐに真似てみせた。
「契約の成立や、話し合いで合意が得られた時は、包拳奉脈のあと右手を横にずらす。
で、お互いに左手で、相手の右拳を下から包み合う。
お前の拳は俺のもので、俺の拳はお前のものだ、という意味だ。
この場合、拳は心臓の象徴だとする説もある」
「ゼン=フゥ。俺は契約を望む」
すぐさま、少年は左の手のひらと右の拳を差し出した。
「生きていく術を得るために、あんたに教えを請いたい」
「――ああ」
ゼン=フゥは彼の左手に拳を乗せ、同時に左手で人間の小さな拳に触れた。
「俺もそれを望んでいる」