プロローグ
アラームが鳴り出す十分以上も前。日差しの中での、自然な目覚めだった。
この世で過ごす最後の日。城島鬼一の朝は清しく明けた。
上体を起こすと、鬼一は室内をゆっくり見回した。
それから立ち上がりベッドを整えた。
前回、いつやったかも思い出せない作業だ。
最後に、クローゼットへ向かった。
二〇秒ほど考え、結局シャツとジーンズに着替えた。
部屋を出る。
後ろ手にドアを閉めかけて、思わず振り返った。
鬼一にこの部屋が与えられたのは一〇歳かそこらの時だった。
もう八年。
だが、九年目はない。――永遠に来ない。
向かったダイニングルームには両親が揃っていた。
居間のガラス戸越しに朝日が差し込んでいる。
それは白い壁紙とフローリングに弾かれ大きく増幅されていた。
部屋いっぱいに光が満ち、まぶしいほどだった。
世界そのものが輝いているようにさえ感じられた。
「おはよう、鬼一」
キッチンカウンターごし。母のり子の声だった。
エプロンを脱ぎながら近づいてくる。
いつもなら、挨拶などろくに顔も合わせず交わされる。
だが今朝だけは違った。
「ああ、おはよう。母さん」
「朝食、食べるだろう?」父、修平が微笑んだ。「皆で……一緒にいただこう」
「だな」
いつもの席に着き、全員で手を合わせた。
白米に納豆。脂ののった豚汁。
マヨネーズで風味をつけたスクランブルド・エッグズ。
チリ・ソーセージ。
ささみを添えたシーザーサラダ。
鬼一の好物ばかりが並んでいた。
豚汁を一口飲んだ瞬間だった。
ツンと鼻の奥に刺激を感じた。眼球の奥が熱い。
慌ててコーヒーカップに手を伸ばす。
苦みと一緒に感傷を胸の奥へ流し戻した。
のり子に味を問われる。
咳払いしてから最高だと応じた。
それから、父を交えて天気の話をした。
電線から飛び立つ鳥の微かな羽音を、家族みんなで聞いた。
和やかなひとときが流れた。
皿が空になり、コーヒーを飲み干してもしばらく、鬼一は両親とたわいのない話を続けた。
どれくらいそうしていただろう。
いかに抗おうと時は流れる。
終わりの瞬間は訪れる。
「――そんじゃ、そろそろいくかな」
会話の谷間。
不意におりた沈黙を割って、鬼一は言った。
たちまち母の表情が凍りついた。
彼女も分かってはいたことだ。
覚悟も決めていたはずである。
一八年前から、今日という日が来ることは皆が知っていた。
のり子は黙って鬼一を見詰めていた。
固く結んだ唇がわなわなと震えている。
やがて、その頬にひとすじ涙が流れていった。
「本当に送らなくて良いのか?」
父が穏やかに訊いた。
「最後だしな。ひとりでのんびり――自分が暮らしてきた街を見ながら歩きたいんだ」
「……そうか」
修平は寂しげに笑む。
親子で玄関に向かった。
最初、のり子は足が動かない様子だった。
夫に背を支えられなんとか歩きだした。戸口を出る。
城島家の部屋は、集合住宅〈メゾン・ボヌール〉の201号室だ。
ドアを出てすぐの階段を三人で下りた。
狭いエントランスを抜ける。
先頭を歩いていた鬼一はそこで足を止めた。
振り返ると、両親は並んで立っていた。
大きく三歩分の距離を隔て、鬼一と向き合っている。
鬼一は両目を閉じた。深呼吸する。
一度では落ち着かなかったため、繰り返した。
それから慎重にまぶたを開いた。
「あの、今までありがとな」
口から出たのは、そんな言葉だった。
応えたのは父だった。
「変成日、おめでとう。鬼一。お前を失うことは身を引き裂かれる以上の痛みを感じるが、でも、それは誰もが通る道だ」
「――ああ」
「こちらこそ、ありがとう。父さんと母さんのところに生まれてきてくれて。たくさんの素晴らしい想い出をくれて」
その言葉を聞いたのり子が、ついに泣き崩れた。
「きいちぃ……」
「母さん」
鬼一は歩み寄って、母の背を撫でてやった。
のり子は一瞬顔をあげると、すがるように息子のシャツを握りしめてくる。
修平も入れて三人で抱き合った。
「今までありがとう。ほんと、ありがとな」
自然とそんな言葉が口をついた。
左手に母の背を。右手に父の背を感じた。
「ほら、のり子。もう、行かせてあげないと」
鬼一の服を握りしめて離さない妻に、修平が諭しかけた。
そして、彼女の拳をやさしく両手で包み込んだ。
すると魔法がかかったように、のり子の身体から力が抜けていった。
するり。鬼一のシャツが隙間から抜け落ちる。
くしゃくしゃにされた服は皺だらけのまま戻らない。
それを苦笑交じりに見下ろしつつ、鬼一は三歩後ろ向きに下がった。
「じゃあな。ふたりとも、その……元気で」
「ああ。お前も。しっかりやりなさい」
修平が笑った。
だが、どんどんと赤く変わっていく目の色は隠せていない。
「俺、三人で家族だったこと、絶対忘れねえから」
「あぁ……」
力強く頷く修平の言葉は、涙混じりの嘆息にも聞こえた。
「行ってきます!」
再び、後ろ向きに距離を取り始める。
顔を上げたのり子と修平が、無理に笑みを浮かべた。同時に言った。
「いってらっしゃい」
鬼一は駆けだした。
加速して一気に視界から両親を消し去る。
そのまま呼吸の限界まで無酸素領域で走り続けた。
この日、城島鬼一は変生日を迎えたのだった。