400. SS:天使か悪魔か分かりません
その日、バーナードは廊下の騒がしさに耳を刺激され、いつもより早く目を覚ました。普段なら肉体的、精神的な疲れからベッドを抜け出すのが億劫になる彼だが、先々日から最低限の訓練以外の騎士の仕事がストップしているせいでその日は目覚めることに抵抗がなかった。
たった二日、日常から離れて普段と違う生活をしただけ。
それだというのに、バーナードは目覚めの爽やかさに困惑さえ覚える。
「昨日の朝もそうだったけど、なんでこんな……」
騎士団に入ってから肉体のケアを怠ったことはない。しかしこの二日、バーナードはどんな健康法を試したときよりもすこぶる快調だった。今の状態で演習に参加していればもう少し頑張れたと思えるほどだ。
原因は、一つしか考えられない。
先々日に任務がてら久々にスラムに戻って旧友達と再会したこと。
そして先日、騎士団内で虐めをしていた多くの騎士がそれどころではなくなり、誰にも理不尽な扱いを受けることなく廊下を歩けたこと。
つまり、ストレスの緩和だ。
ただそれだけのことなのに、バーナードの肉体は嘘のように活性化している。一つのミスが頭から離れなくなったり、血の混じった排泄物が出たり、充分寝た筈なのに倦怠感が取れなかったりといった数多くの症状が快方に向かっている。
「そんなに……か……」
バーナードはショックを受けた。
自ら望んでやっていた筈の騎士の仕事が、ここまで自分にダメージを与えていたとは思わなかった。確かにここには理解者も尊敬できる人間も少なく、腐敗した部分を垣間見る度に失望と諦観を覚えていたが、バーナードはそれを我慢できると思っていた。
しかし、所詮それはやせ我慢。
いざ嫌な生活から離れてみれば、体は実に喜んでくれている。
そういえば、とバーナードは先々日会えなかったルルを思い出す。
『何でよりにもよってあんな腐った騎士団なんかに行くのよッ!! スラムにいればいいじゃないの!!』
あの時以来、ルルは拗ねてしまったが、今更になってその言葉を思い出す。
あのとき、彼女は何も分かっていないと思っていた。
しかし現状を鑑みれば、どちらが正論だったのかを考えてしまう。
「俺には、あのスラムこそがお似合いだったのかな……」
スラムにいると大出世の道は大きく遠のく。
皇都内でも邪魔者扱いの、最底辺だ。
しかし、あそこにはルルもミリオもシュタットもドルファンも、苦楽を共にした全ての信頼出来る人間がいる。あそこにいることは確実にバーナードの精神を安定させるだろう。少し前までの悪質な虐めを受けることも、無能な上司にこびへつらうことも無い。
果たしてどちらが幸せなのだろうか。
あの閉塞的な町で知恵を回す悪童として駆け回った日々が、酷く眩しく思えた。
しかし、いよいよ廊下の騒がしさが気になってきたバーナードは身支度を整え、顔を洗って部屋の外に出る。すると、比較的上級の騎士たちを中心に人が慌ただしく動き、部屋部屋を開けては何やら指示らしいものを飛ばしている。
騎士の一人が部屋から出てきたこちらを見て一瞬何かを考え、意を決して近づいてくる。
「貴様、いま出られるな? 出撃準備だ!」
「はっ!」
即座に敬礼し、状況の確認はしない。
出撃準備と言った以上は大ホールに集合してそこで説明があるという意味だ。一人一人に状況確認するほど相手が暇そうでないのも、確認しなかった理由の一つである。
集合場所に向かう途中、自分より格上だが比較的面倒見のいい方の先輩を見つけ、並走しながら話しかける。
「おはようございます、先輩。しかしこれは一体何事でしょうか?」
「ん、おはようバーナード。私にも分からんが、お前はどんな風に声をかけられた?」
「廊下が騒がしいので部屋を出たら見つかり、そのまま出撃準備だと」
「ふぅむ……すると多分、お前には元々声をかける気はなかったんだろう。お呼びのかかっている連中がベテランばかりだが、別に数が増えても損はないから一応指示を出したといったところか。今回の出撃、少しキナ臭さがある」
「と、言いますと?」
「偉い人間の息がかかった命令かもしれんということだ。碌でもないものじゃなければいいが、お前も身の振り方を考えておけよ」
先輩はそれ以上多くを語らなかったが、バーナードも流石に先輩の言うことが分からない訳ではない。
(新体制の指示か、それとも旧体制の指示か……身の振り方を考えろってことは、関わらない方がいいレベルもあり得るってことか)
今こそ辞め時ではないか、と悪魔が囁く。
逆に出世への近道だと天使が囁く。
しかし、バーナードの迷いは目を曇らせ、どちらが天使でどちらが悪魔かも見分けがつかなくなっていた。或いはそれは最初からすり替わっていたのかも知れないと疑うほどに。
「先輩は、どう身を振るかとか……先のことを考えてるんですか?」
「そりゃ誰だってそうだ。幾ら騎士団が大きな組織でも、底に穴が空いた豪華客船じゃ意味ないだろ? いま騎士を辞めた同僚がギルドで新しいこと始めようとしててな。もしかしたらそっちの方がいい波に乗れるかもしれん」
「でも、それで失敗したら……」
「当然そのリスクはある。でも、ただ待って我慢してるだけじゃ永遠に掴めないチャンスってのも、あるんじゃないか?」
そう言って笑う先輩の顔に陰はなく、むしろ清々しさが浮かんでいる。
そのとき、バーナードは先輩がもう騎士を辞める準備をしていると悟った。
先輩はだらだら地位にしがみつくより、新天地にやりがいを求めている。
(だからこそか。そういう人だから面倒見がよかったんだ!)
バーナードだっていつまでも騎士に固執する気はなかったが、目指していたのはあくまで既存の上流階級社会だ。しかしこの先輩は、挑戦者としてもうこの騎士団に面白みがないと感じていた。
地位より楽しさ。
バーナードからすれば目から鱗だ。
(そういう生き方もあるんだな……でも騎士団はこれから良くなるかもしれない。上の席を勝ち取るチャンスだって……)
先輩のような選択には確実性がない。
新しく飛び乗った船には欠陥があるかもしれない。
しかし、とバーナードは苦悩する。
今まで騎士団で様々な苦痛や屈辱に耐えながら努力を積み重ねてきても、一度たりとも美味い出世話は飛び込んでこなかった。結局はルルに怒鳴られたあの日から、自分は勝ち目のない勝負をしていたのかも知れない。
いっそ、夢を諦められれば悩まずに済むのに――そんな考え事をしているうちに大ホールに到着する。
そこには各部隊長と総隊長が勢揃いしていた。
ルネサンシウス騎士団長の厳かな声が響く。
「各員、傾注!! 本日未明、オークの大群が栄えある我らが皇都に向かっているとの知らせが入った! その数は尋常なものではなく、推定でも三〇〇以上!! 痛みを忘れるほどに猛り狂っているとのことだ!! 現在、騎士団は再編中で指揮系統が混乱しているため、騎士団長ルネサンシウスの判断により、このオークら全てを特例的に危険度三と仮定し、これを殲滅する為に陣を敷く!!」
騎士団内でざわめきが起きる。
意外なことに、騎馬隊長のアレインと重装歩兵隊長のゲデナンは初耳だったのか、訝しげに眉を潜めていた。しかし、その反応もむべなるかな。オークの危険度を一以上にするときはボスオークがいるときのみだが、今回は雑兵も含めて危険度を三と仮定するというのだから。
(そもそも三〇〇のオークの大群って時点で意味が分からん状況だけど、その意味の分からなさも含めての危険度三か。ってか、今更だけど……)
バーナードは周囲の騎士の顔ぶれに、謹慎を受けている筈の騎士がちらほら混ざっていることに気付く。中には自分を執拗に虐めていた人物もいて、そういう人物に限って何故か敵の詳細に対してリアクションが薄いか、逆にわざとらしい反応をしている。
隊長間でも認識に差がありそうだったことも含め、これはいよいよ怪しい。
そして、ルネサンシウスの作戦を聞き、バーナードは目を剥いた。
「――然るに、このオークたちは敢えて皇都内部に招き入れ、遮蔽物を利用して分散させてから各個撃破する!! 接敵位置を考えるに場所はスラムしかない! なお、スラムの住民には避難勧告を行い、これに従わぬ者は非防衛対象として扱う! 皇都全体のため、致し方ない!!」
(なにを……この偉いおっさんは、なにを言っている……?)
バーナードは、世界の全てがぐにゃりと歪み、自分から遠のいていくような奇怪な感覚に襲われた。
確かに、敵の侵攻ルートを考えるとスラムに直撃するのは理解できる。
皇都は嘗てこそ強固な防壁があったが、魔物の警戒網の構築と共に次第に防壁は交通を妨げるものとなり、今では見栄えだけであちこちに出入り口が出来ている。特にスラム近辺は住民が勝手に防壁の石材を持っていくために放置状態にあり、侵入を防げない。
でも、最初から防衛線を敷くのを放棄して市街戦に持ち込む意味が分からない。
否、分かっているが認めたくない。
スラムは今まで国に散々嫌がらせを受けてきた。
騎士団が避難勧告したところで逃げる者は少数だろうし、そもそも行き場がなくてスラムに辿り着いた人が大半だ。そんなことは騎士団とて百も承知の筈。その上でスラムで市街戦に持ち込むということは――彼らはスラムの人間を、同じ人間として認識していないということだ。
――スラムの連中など幾らでも巻き込んで構わん。
そんな本音が聞こえてくるかのようだ。
しかし、更なる衝撃が立て続けにバーナードを襲う。
「この戦いは我ら皇国騎士団の真の力を見せつけるものである!! 無事、皇都を守り切った暁には、作戦に参加した全ての騎士の栄光は約束されたものになるであろう!!」
それはすなわち旧体制の復権と、参加者の出世の約束。
ついこの間まで自分が待ち望んでいた活躍の機会、夢への階。
美味い話は、待ちに待った末にとうとう目の前に姿を現した。
ただし、それを祝福する人間の中に、大切な友達は含まれない。
「民の為に怒れ、誇りの為に奮起せよ!! この国に真に必要な剣を誰が握っているのか、世界に見せつけてやるのだッ!!」
「「「「ウオォォォォォォォォォッ!!!」」」」
(スラムのみんな……俺……どうしたら……)
出世と名誉回復に目が眩んで鬨の声を上げる騎士達に囲まれ、バーナードは自分だけが沈んでいくような感覚を覚えた。熱狂的なる騎士団は既にスラムの住民の命など眼中になく、バーナード個人の力では止めたくとも止められないだろう。
この期に及んで選ぶ道に迷う余地などない、と、心のなかで誰かが叫ぶ。
それが天使の声か、悪魔の声かさえ、虚脱したバーナードには分からなかった。




