323.延焼しました
その日、カルスト・レイズ・ヴェン・クリスタリアは静かに行き場のない苛立ちを抱えていた。
彼は古くから王国議会の議長を任されてきた由緒正しき王国貴族で、その家柄は王国がまだ大陸にあった頃から存続している。貴族制度が特権階級制度に移り変わり商人が台頭する今でも、国内で家柄トップ10に留まっている。
議長を歴任してきた実績と英知は彼の代でも健在であり、重要な法案にはほとんどクリスタリア家が関わっているなど、その立場は未だ盤石だ。
そんな彼には二人の娘がいる。
一人は長女ネメシア。
もう一人は次女エリシア。
カルストは二人の娘を愛しているし、男ではないから当主は継がせないなどと言う気もさらさらない。クリスタリア家の家系では女性当主の時代も幾度かあったし、性別の差が才能を左右するとも考えていない。
しかし、今まさに任務で起きたことを報告している長女ネメシアについては多大なる心配がある。
「――そのため、ナーガの天秤長ニャーイ氏はわが国の法律に並々ならぬ関心をお寄せでした。私としてもナーガの社会規範は興味深く、ぜひまたお会いしたいです」
「……そうか」
「また、建築長ドゥジャイナ氏は発明家でもあり、王家に贈られた『星読機』の製造もドゥジャイナ氏の作成です。その件ではヴァルナが……」
「……」
「い、いえ。なんでもありませんわお父様」
ヴァルナの一言が出た瞬間、カルストは思わず眉間に力を入れてしまった。ネメシアが申し訳なさそうに言葉を引っ込めるのを見て、自制が甘かったと反省する。娘を威圧する気などなかったが、娘がその名を口にするたびにカルストの心に冷たいものが奔る。
(娘を誑かす蛮人の平民め……この儂の幾星霜にも及ばん怒り、晴らす方法はないものか……)
当人は幾星霜とか言っているが、実際にはたかだか三年程度である。本人的には長いのだろう。なにせ彼が手掛けた法案で半年以上採決できなかったものは一つもないのだから。
士官学校に通い始めてから、ネメシアは学校の色々な話に交じってヴァルナという男の名を口にし始めた。当初はこの男が如何に無礼であるかという話から、娘が言うくらいだから相当な無礼者なのだろうと思いつつ話半分で聞き流していた。
しかし、時を追うごとにネメシアがヴァルナの名を呼ぶ口調から不快感の棘が抜け落ちていき、散々言った後に「でも……」とヴァルナを褒める言葉を恥ずかしそうに漏らしたり、どんどん態度が変化していった。
――いや、まさか?
あれほど平民と関わるなと幼い頃から言いつけてきた愛娘がそんな筈はないと言い聞かせながらも、消える事のない疑念。まさか愛娘は平民に毒されているのではないか――? その疑惑が確信に変わったのは、絢爛武闘大会終了後に彼女が家に戻った際のことだ。
カルストは試しに、ネメシアに婚約の話を振ってみた。
『わたしは未だ未熟の身、誰かと婚約できるほど立派な存在ではありません』
次に別の話を挟んで、ヴァルナという男は騎士に相応しくないのではないかという話に誘導してみた。
『えっ!? そ、その……ヴァルナは王国の伝統的な騎士としては適格ではないのかもしれませんが……自ら決定したことは必ずやり遂げる気概や、悩める者を捨て置かない思いやりがあります。そしてどんな時もブレない軸があって……私にないものばかり沢山持っていて……け、敬意を払うに値する人物であると、お、思います……』
頬を赤らめて落ち着かない態度で両手の指を組みながら、ネメシアはカルストの言葉を否定した。
ヴァルナの武勇には一切触れず、ただその人格を以てして父を否定したのだ。
――ぐあああああああああッ!! これは……これはぁッ!!
ネメシアは幼少期から父を尊敬し、立派な貴族になろうと努力を重ねてきた子だ。自分の判断に絶対の自信を持つカルストの言葉に逆らったり否定したことなど全くと言っていいほどない。
そんな愛娘が、妹のエリシア以外にこんな態度を取るなど考えられない。
疑惑は確信に変わった。
ネメシアは平民に懸想しているのだ。
このとき、カルストのヴァルナに対する恨みは頂点に達した。
――愛娘を誑かす不逞の輩、断じて許すべからずッ!!
この事実を彼の家族は知らないし、ヴァルナも知らない。そもそもヴァルナはカルストに会ったことすらない。余りにも個人的な恨み過ぎる事を自覚しているため普段は自制しているが、それでも愛娘を誑かす平民への怒りの炎は何度も再燃してしまう。
これを法的措置にて訴えてやろうかと幾度となく思った。しかしクリスタリア家の家訓、「法の秩序を貴び、秩序に溺れるべからず」という言葉に止められた。聖靴派という利権が絡むものに属していながらも国王に口を出されないのは、クリスタリア家がストッパーとして行き過ぎた利権拡大を抑制しているという信頼もあるのだ。
ちなみに、次女のエリシアはネメシアから聞かされた話を鑑みてネメシアに同意しているが、一方で騎士ヴァルナのことを「面白そうな人」と称している。エリシアが友人と茶会を開いている際に「お姉さまって実は騎士ヴァルナのことお慕いしてるんじゃないかしら」と興味津々な顔で話しているのを聞いた時、カルストは手にした本にくっきり指の形の凹みが残るほど握りしめてしまった。
騎士ヴァルナに関わるなとは言えない。
ネメシアとヴァルナは士官学校や任務で邂逅しており、それは立場上必然的なものだ。そのような指摘は正しいものではない。
騎士ヴァルナは関わるべき存在ではないとも言えない。
ヴァルナに対してカルストが知っていることはその殆どが噂話だ。オークの首を好き好んで狩る残虐な野蛮人だの、王家やスクーディア家に媚びて取り入ろうとしているだの、そんな根も葉もない噂を根拠に上げてはカルストの格が落ちる。
感情では平民を遠ざけたいのに、理論では遠ざけられない。
カルストは未だかつてないジレンマに襲われていた。
その一方で、ネメシアの側は父が苛立っていることを感じ取り、どうしたものかと困っていた。
(ナーガの話がお気に召さなかったのかしら。それとも危険な砂漠地域に派遣されたのを聞いて、私が騎士を続けることのリスクを考えていらっしゃるのかしら……ううん、やっぱりヴァルナの話なのかな)
カルストの娘として生きてきたネメシアだ。父の感情の機微くらい多少は感じ取れる。そしてヴァルナの話をすると父の機嫌が悪化するらしいことにも最近は気付いていた。
平民とはむやみに関わるなという忠告くらい彼女も覚えている。
しかし、自分の思い出を振り返ると、ヴァルナにずっと触れずにいるには彼の存在感は大きすぎる。隠し事や嘘の苦手なネメシアは、なるだけ簡潔かつコンパクトにヴァルナの話を流すよう努めてきた。
しかし、もうカルストはヴァルナの名前だけで反応している気がする。
何も言わない以上はネメシアが間違っている訳ではないのだろうが、彼女には理由が分からなかった。何らかの悪印象を抱いている可能性は十分ありうるが、こうも露骨ということは自分の知らない大きな問題があるのではないかと勘繰ってしまう。
(いっそ、もっとヴァルナの正しい面を知ってもらった方がいいのかな……それで誤解が解けるかもしれないし。お父様だってヴァルナの善行まで否定するとは思えないもの)
親の心子知らず、逆もまた然り。
二人の思いは、その場にいないヴァルナという特異点のせいですれ違うばかりである。
と――突然廊下が騒がしくなったと思ったら、突如として部屋に一人の少女が乱入してきた。
「よかった、いた!! ネメシア、お願い今すぐ力を貸して!!」
二人はぎょっとする。
その少女は、二人がよく知るスクーディア家令嬢のセドナだった。
カルストはヴァルナ関連で彼女の名はよく耳にしていたし、パーティ等で何度も顔を合わせたことがある。あの周囲を笑顔にする花のような令嬢が礼儀を忘れるほど慌てふためく様に、普段は礼儀を説くネメシアも慌てて駆け寄る。
「どうしたのよそんなに慌てて! 仕事? それともプライベート? 部屋を用意するからそこで落ち着いて話を――」
「そんな時間ないの! お願い、このままじゃ手遅れになっちゃう……!!」
ヴァルナの件での関係悪化以降あまり互いに積極的に近寄らなかったものの、根本的にいい子同士の二人はなんやかんや「喧嘩するほど仲がいい」の類の関係だった。その中でも意地を張りがちだったセドナが瞳に涙を浮かべて縋りついてくるなど、これは尋常ではないとネメシアは確信する。
そして、運命の一言が放たれた。
「ヴァルナくんが……ヴァルナくんがぁ……脅されて婚約させられちゃうのぉッ!!」
「こんやく……?」
こんにゃくは分かる。魂魄も分かる。しかしネメシアには一瞬こんやくがどういう意味の言葉だったか思い出せなかった。否、思い出すことを本能が拒否していた。
しかし、続くセドナの一言が本能の壁を強引にこじ開ける。
「物凄く重要な情報を握ってる商人がいて、その情報は騎士団にとってもすごく重要なもので!! ヴァルナくんはその情報を教えてほしければ商人の娘と婚約しろって脅されてるの!! ヴァルナくん今日の夜にはもうこの話の返事を決めるらしくて……すっごく悩んでるけど、ヴァルナくん優しいから情報の為に話を呑んじゃうんじゃないかって……!!」
「ああそうなんだ。完全に理解した」
冷静に情報を吟味したうえで、ネメシアの理性は火薬庫が吹っ飛ぶより酷い大爆発で粉微塵に砕け散った。爆風と地響きは今自分が父の前にいることもセドナの考え過ぎではという疑念も綺麗さっぱり叩き割り、気付けばネメシアの心の中には一つだけの感情が残っていた。
それは、優しさだ。
ヴァルナの優しさを良く知るが故にこそ、その優しさを利用する商人とヴァルナの下す可能性の高い決断はネメシアの心の中でほぼ決定事項となる。
そして優しさとは、それを奪う者には時として荒れ狂う嵐となる。
「行くわよセドナ!! 私たちがヴァルナを守るんだからっ!!」
「急いで! ヴァルナくんは今頃外対騎士団本部に戻ってる筈だから!!」
王都にて突発的に発生した二つの嵐は合体し、すべての障害を薙ぎ倒すように去っていく。ネメシアの偉大なる父、カルストを置き去りにして。
カルストはしばし無言で娘が先ほどまで立っていた場所を見つめ、何度か顎を撫で、そして黙考したのちに、通り過ぎた嵐の後を呆然と見つめる使用人に声をかける。
「私兵団を呼び出せ。呼べるだけ全員だ。同時進行で騎士ヴァルナと婚姻を勧めている商家を割り出せ。娘に手を出した挙句に他の女に現を抜かす愚か者に制裁を下す」
「え……はっ!! り、了解しましたぁッ!!」
使用人は、あらゆる疑問を飲み込んで即断した。
なぜなら、カルストの額に見たこともない量の青筋が浮き出ていたからである。
もうカルストの中ではヴァルナがセドナとネメシアの二人に手を出した挙句、それを見捨てて玉の輿を狙っているという偏見に満ちた決定事項が完成していた。
ありていに言って、人生初のブチギレによって彼の理性は消し飛んだ。
そのやり取りを廊下に隠れて聞いていた可愛らしい少女が、顔を真っ青にして口に手を当てる。
「お父様がかつてない過ちを冒そうとしてる……!!」
彼女の名はネメシアの妹、エリシア。
ネメシアに髪色や顔立ちが似たツインテールの少女だ。
彼女もまたクリスタリア家の人間として強い正義信を持っているがゆえに、このまま事を起こさせては多方面に惨事が発生すると確信する。暴走する姉と暴走する父、そして今は不在の母。もはやこの惨事を止められるのは自分しかいないという使命感が彼女の胸中を渦巻く。
彼女は即座に、この件を王宮の頼れる人物に相談することを決めた。
王国でも幾つかの家は私兵を抱えている。
当然、彼らは騎士や衛兵のように治安維持のために武装を許された人という訳ではない。故に便宜上は護衛の従者ということになり、兵として行動するには厳しい制約がある。この平和なご時世でも持っている家は持っている私兵は、数を揃えられない分選りすぐりであることが多い。
クリスタリア家の私兵ともなれば、非殺傷武装でも衛兵の詰所の一つくらいは簡単に落とせる精強揃い。そんな連中が王国最強騎士と万一にでも衝突したら、その先は外対騎士団対クリスタリア家とそれを支援する聖靴騎士団。いや、下手をすれば筆頭騎士に手を出したことで王国に弓引いたと取られる可能性さえなくはない。
戦いの勝敗など問題ではない。
衝突することそのものを絶対に避けねばならない。
父を止めることも考えたが、もし説得に失敗した場合、絶対に私兵の出撃を止められないタイミングになるとエリシアは予想した。故に彼女は即座に説得を諦めて屋敷の外に飛び出し、家の馬車を使って移動する。
更に、既にこの時点でエリシアは私兵移動の時間稼ぎに出た。
まだ屋敷内の喧騒を何も知らない使用人と馬車の従者に「この贈り物をあの家に大至急届けてほしい」「予約した商品を代理で受け取りに行ってほしい」などと理由を着けて可能な限り屋敷の馬車の数を減らしたうえで、私兵を運ぶための大型馬車を操る従者にわざわざ王宮行きを命じる。
(これでお父様が即座に使える馬車が減って時間稼ぎになる筈……!!)
祈るように頭を抱えるエリシア。
ここからが大きな問題だ。
なにせ行先は王宮なのでアポなしで入れるものではない。かといって父が暴走して私兵を率いたなど門番に言おうものならクリスタリア家の信頼が失墜する。幸い王宮には一つだけ伝手があるので、それに賭けるしかないだろう。
現在、法規の番人クリスタリア家で最も冷静に行動してるのが末の娘という意味の分からない状況。教育の賜物というべきか、末子が一番しっかり者と取るべきか。ともかく王宮に辿り着いたエリシアは、門番の前に立つなりこう告げた。
「王宮メイドのノマちゃんに至急伝えることがあるんですが、今すぐ会えませんか!?」
王宮メイド長ロマニーの妹であるノマは、実は彼女が王宮メイドになる前から見知った人物だ。当時、クリスタリア家の近くの喫茶店に「めちゃくちゃ可愛がりたくなる子がいる」という風変わりな噂が流れて興味本位で向かった際、エリシアはノマと面識を持った。
きちんと特権階級に敬意を払い、その上で癒し系の頑張り屋だったノマはエリシアにとっても接しやすく、更に同年代だったために他人の気がしなかった。あの後も何度か会っているし、こちらのことは覚えているはずだ。
実は、彼女が王宮メイド試験を受けることになったのはエリシアが手を回したからであったりする。
あまりにも彼女目当ての特権階級が集まり過ぎて、このままでは彼女の身に何か間違いが起きるかもしれないと危惧したエリシアは、ノマをより安全な場所に移す為に周囲をそれとなく誘導して彼女がメイドになる流れを作ったのだ。
それを追いかけてきた彼女の姉ロマニーがそのまま妹を追い越してメイド長になったときは、流石に何の冗談かと思ったが。
ともあれ、エリシアはその伝手に賭けた。
当初は門番達も困惑していたが、幸いにしてここでクリスタリア家の令嬢であるという部分が上手く作用し、なんとかノマを呼び出すことに成功したエリシアは即座に事情を説明し、上手く事態を収束できる人間に心当たりがないか相談を持ち掛けた。
「そんなことが……うん、任せて!!」
自信満々に返事したノマは少しだけ待ってほしいと王宮に戻り、そう時間を置かずに戻ってきた。その背に二人の人物を引き連れて。
「暇そうな人を連れてきたよ、エリシアちゃん!!」
「手に負えない問題はお姉ちゃんに任せなさいと妹にいつも言い聞かせているので妹の頼みごとのときだけ暇を生み出す、メイド長のロマニーです」
「ヴァルナがヤバイと聞いて暇つぶしに駆け付けた第二王子アストラエだ! 前のパーティ以来だね、ミス・エリシア!」
「物凄い助っ人連れてきてるぅぅぅーーーーーーっ!?」
間違っても一メイドが連れてくるレベルではない援軍に、エリシアは急に自分の判断が正しかったのか自信がなくなってきた。大丈夫だろうか――いや、元々大丈夫ではないが。
ハチャメチャ大三角が動くとき、空前絶後の災いあり。
今、王都の歴史に残らないでほしい巨大な戦いの幕が開けようとしていた。
最近久しぶりにまとめサイトでこの小説が紹介されたらしく、ちょっと読者さんが増えた気がします。




