第二時限目 桜の園にて
「ここの感想はどう?」
突然、目の前に現れて僕のことを寝ぼすけ認定した、白い服装の少し儚げな印象の女性は、僕に了解を取ることもなく当然のように同じベンチに座ると、前方の桜に視線を向けて僕に尋ねた。
吐息がかかる位に彼女との距離が近い。
何故、この人はこんなに無防備に見知らぬ人間であるはずの僕に近づいてくるんだろう……と頭の隅で思うのだけど、僕自身の視線は話しかけられたその時からもう、彼女の表情に釘付けだった。
「とても素敵な所だと思います。綺麗で明るくて暖かくて、そして時間がゆっくり流れてるみたいな静かさや穏やかさがあって、楽園って言い方が本当に似合うなあ……って」
少し年上の綺麗な女の人に近づかれてどぎまぎしてしまっているのを気付かれないように、とりあえず感じたことを全部そのまま繋げてみた。
僕の言葉を聞くと、彼女は目を細めて微笑んで頷いた。
「ここ、私のお気に入りの場所なの。いつもは一人なのだけど、今日は初めてのお客さんが居てくれてとても嬉しいわ」
瞬きをする度に彼女の長いまつげが上下に揺れる。
笑うと目尻が下がって、少しタレ目がちにも見える黒い大きな瞳が僕を見つめている。
瞳の中に僕の姿が映っているのがわかった。見ていると吸い込まれてしまいそう。
彼女の表情を見つめていてふと気付いた。さっきから僕が感じていた彼女の無防備さの大きな原因が、化粧している気配が殆ど感じられないせいだということに。
”この人。本当にものすごく綺麗な人なんだ……”
「綺麗な桜でしょう」
ちょっとした発見に僕が内心で驚いている間に、彼女は桜についての話を始めていた。言葉を紡ぐ彼女の唇はとても柔らかそう。僕の思考は相変わらず明後日の方向をむいたままだ。
「え、ええ。そうですね」
桜ではなく、彼女のことばかり見とれて考えていたことを気づかれないよう、僕は慌てて応えを返す。
「この子たち、前は5kmほど東の公園で毎年ずっと咲いてたのよ」
彼女が続けたその言葉は、なんとか会話に戻った僕を充分に驚かせるものだった。
確かにこの桜たちは枝ぶりから見ても何十年ものだ。
できて数年のこのヴィレッジに、これほど立派な桜の園が自然に出来上がるわけはないのだった。
「東に5kmって、もしかして『SG1』ですか?」
「そう、以前あそこにあった小金井公園は東京有数の桜の名所だったの」
そう言いながら彼女がたおやかな手を伸ばして指差した先、春霞の向こうには高層ビル群の姿がうっすらと浮んでいた。
特別養護老人ホーム集中運用施設第一群、通称SG1。増え続ける首都圏の高齢者問題を、一時的にせよ一気に改善する目的で作られた施設群に付けられた名前だった。
30階建てくらいの巨大建造物が十数棟集まっていて、その総ての部屋にもう自分では動くことも殆どままならない重度(4認定)以上の要介護者が入居している。首都圏近郊に突如生まれた21世紀のニュータウンだ。
「公園用地に施設が建つことになったからってことで、ここに引越しさせられて来たの。
担当の人が懸命に世話をしたのだけど、枯れてしまった木も相当な数出たそうよ」
「そうだったんですか」
この桜の園にそんな由来があったとは、驚きの事実だった。
「ここの桜の密度がもの凄く高いのも、公園指定のエリアがここまでと定められていたせいなのよ」
「えっ、でも僕が学園から歩いてきたところは、ずっと公園みたいな場所で他に何もありませんでしたよ?」
「貴方がここまで歩いてきた広い芝生の領域は第二期の造成予定地なの。まだ計画が固まってないせいで工事が始まっていないだけ」
溜息を吐きながら彼女は言う。
なんだか、次々と武蔵野ヴィレッジの内幕が露にされているような気がする。
「ここは、仮初めの『楽園』なの」
この素敵な光景の種明かしをしてくれる彼女の表情は少し哀しげだった。
「だから今この時の景色の美しさを、私と貴方だけでも出来る限り覚えていないとね。
私と見たこの桜の景色を忘れてはだめよ」
気を取り直すかのように彼女は僕に笑いかける。
「絶対に忘れないから大丈夫です」
忘れようがないのは、間違いなく彼女との出会いの方だろうけど、桜の記憶とセットだから問題ないはず。
「あと桜に関してなら、もう一つ貴方に言っておかないと」
ちょっと思いついたという感じで、彼女は言葉を付け加えた。
「もう少し先、桜の散る日が来るわ」
彼女の指摘はあたり前過ぎるものだったけど、今のこの景色がもうすぐ完全に失われるというのは、すごく残念に感じられた。
「その時が来たら、いつも私この場所に来て、桜が散って行くのを一人で見つめ続けるの。
風が強い夜だとすごいのよ。視界が遮られるほど、いいえ本当に目が開けていられないほど、花びらが散りながら舞って吹雪みたいな感じで辺り一面に降り注ぐの」
確かにこの密度で植えられている桜が一斉に散る日が来たら、その光景は壮絶なものとなるに違いなかった。
「その様子を見ていると、胸をかきむしられるようなとても狂おしい気分になるわ」
目の前にいる優しげな彼女からは、全然似つかわしくないと感じられる言葉たちが僕に語りかけられる。
彼女の言葉を否定することも出来ず、僕はただ彼女を見つめたまま同意の頷きを返した。
「絶対におすすめなんだから。見逃したら本当に勿体ないわ」
僕に向って笑顔で力説する彼女の表情には、やっぱり狂気の影なんか一欠けらも感じられない。
この世の中の綺麗な物だけを見つめて生きていけそうな彼女の人生に、一体何があるというのだろう……という疑問は、当然、言葉には出来なかった。
夢のような時間というのは、言葉の通り、あっという間に終わってしまうものらしい。
「貴方と一緒にもう少し桜を見ていたかったのだけど、お迎えが来ちゃった」
突然の彼女の言葉に、僕は殆ど固まっていた視線を無理やり彼女から外して、慌てて周囲を見渡した。
いつの間にか、僕たちから少し離れたところに、二十台後半くらいと思われる背の高いスーツ姿の男の人が立って、静かに僕らの様子を見つめていた。
「今日はもう時間切れみたい」
少しばつの悪そうな笑顔で彼女は笑った。男の人は近づいてくる感じではなかったけれど、もうこの時間が終わりなのは仕方のないことのようだった。
”ああ、やっぱりか……”
これまでの会話の中で薄々とは感じていた。彼女は上流階級の娘なんかじゃない。明らかにエリート然としたビジネスマン風の大人が、彼女を前に完全な上位者にかしずく様な姿で佇んだままでいる。彼女は間違いなく、ごく少数の指導者階層に属する特別な存在に違いなかった。
「今度は桜の散る景色を一緒に見ましょうね」
日時の指定のない約束というのは、さよならの挨拶の代わりに過ぎない。
頭で理解してはいても、立ち上がりつつある彼女をもう少しだけ引き止めたいと強く思った。
「あ、あの。良ければ名前を教えて貰えませんか?」
引っ込み思案で、人と積極的に関わりを持とうとしない自分にしては、精一杯の一言。
彼女は驚いたように少しの間目を瞬かせた後、楽しそうに微笑むと僕の唇に指先をあてて言葉を塞いだ
「だめ。言うだけで簡単に手に入るものなんて価値のない物だけよ。
答えはちゃんと自分で探して見つけないと。貴方が望むなら自然な形で私の前に立つその日までの過程が必要だわ……」
謎めいた言葉を最後に残して、僕に背を向けて歩き出した彼女はもう振り返らなかった。
会話の邪魔にならないよう少し離れた場所に立って待っていた、スーツ姿の男の人が無言で後に続き、彼女は風景に溶け込むかのように静かに桜の園の奥へと消えていった。
忘れがたい強烈な印象だけを僕に残して。
後に、21世紀のこの日本で『傾国』という信じ難い二つ名を冠せられることになる彼女と僕との出会いは、満開の桜に導かれたほんの偶然によるものだった。
(※妹オンラインを追加で5528文字登録しました 全215922字 12011字書き溜め)