あやかしかしや――春――
春も夏も秋も、冬が来ても布団の中で。
咲き誇る花も目映い日差しも染まる紅葉も、降り積もる雪すらも見ることがなく。
発する言葉と咳のどちらが多いか。ひがな一日ゼェゼェとか細い声をあげ、真っ白な肌に虚ろな瞳で天井を見上げるだけ。
神様仏様
最早この際なんでも良い
可愛いこの子に、生まれてきて良かったと、せめて一度くらいはそう思わせてやってください。
りん、と店の鈴が鳴ったのは今から半時前。
扉から恐る恐るといった様子で店内に足を踏み入れたのは、質のいい着物に身を包んだいかにも清楚といった女性。珍しい客層に、算盤を弾いていた店主が思わず手を止めた。
きょろきょろと忙しなく周囲を伺い、特に背後にすら視線をやっているあたり、店に入るところを見られたくないのだろうか。
人の事情などそれこそ人それぞれ、とりわけ特殊な店なのだから人に見られたくないと思う者もいるだろう。
「いらっしゃい」
居心地悪そうに所在なさげに扉の前に立ち尽くす女性に、見かねた店主が驚かさないようにとゆっくりとした口調で声をかけた。
大概の客は、扉を開けるや店主が声をかけるまでもなくズガズガと店内に踏み込んでくるのだ。一見ならば物珍しそうに周囲を見回しつつ、常連であれば勝手にそこいらに腰を下ろしたりもする。どちらにしろ遠慮はない。
だが今目の前にしている女性はそういった客とは違い、店主の声に僅かに肩を揺らし、慌てて深く頭を下げた。
手入れのされた美しい黒髪がゆったりと落ち、細かな飾りのついた髪留めが乱れを防ぐ。
その一礼だけで、身につけている品も、身のこなしも、なにもかもが上質だと訴えていた。
珍しい客だ。
そう店主が内心で呟き、腰をあげた。
「何かご用ですか?」
「あの……ここは、不可思議なものを扱っていると聞きまして」
おどおどと言った様子で言葉を濁す女性に反し、店主がはっきりと頷いて返した。
この店で扱っているのは妖怪。
人ならざる者。
とすれば、ただの人間であろう彼女からしてみれば『不可思議なもの』以外にない。そこをムキになって否定したところで、所詮は人間と妖怪なのだ。
相成れぬ、とは言わないが、同じとも言えない。
「それで、どういった不可思議なものがご入り用ですか?」
「いえ、その……用と言いますか……。もしよろしければ、話を聞いては頂けませんでしょうか」
困ったように眉尻を下げ弱々しい瞳で見上げてくる女性に、店主が僅かに目を丸くした後、了承の意味で椅子を引いた。
「ご挨拶が遅れました。私、小松屋の使いで参りました」
「小松屋……あぁ、あの料亭の」
聞き覚えのある店名に、店主がはたと気付いたように再度女性に視線をやった。
小松屋といえば、ここいらで知らぬ者の居ない老舗の料亭だ。
何代にも続き、今もなお右肩上がり。庶民から上級階級までその客層は幅広く、噂では海の向こうにまで手を広げているという。
名乗りこそしなかったが、記憶の限りではこの女性はその料亭の女将だ。
なるほど道理で、上質の着物を着こなし一つ一つの所作に品を感じさせるわけだ。あの小松屋ならば納得がいく。
「えぇっと、それで……料亭の女将がどうしてこんな店に?」
幾度か小松屋の前を通ったことがあるが、代々続く料亭だけあり見事なものだった。店と隣接する母屋も立派で、豪邸と言えるだろう。
……といっても、周囲を高い塀に囲まれており見えたのは建物の屋根と客用の玄関口だけであったが、それでも立派の一言につきる。そもそも、手を伸ばす気すら起きない、それどころか木の頭半分さえ隠しかねないほど高い塀など、ここいらでは小松屋くらいなのだ。
塀の高さでさえ、よその小料理屋とは一線を画している。
そんな料亭の女将が、いったいどうして妖怪が集う店に用事があるというのか。料理の美味い妖怪でも貸してほしいのか……いや、そんなまさか。
それを問えば、女将はしばらく顔を伏せた後ポツリポツリ言い難そうに話し始めた。
曰く、今日この店に足を運んだのは一人娘のことで相談があったからだという。
「娘の桜子は今年で八つになりますが、体が弱く、生まれてからずっと床に伏しております」
「噂程度にはお聞きしております」
「長時間動くことも出来ず、屋敷の外には出ずに過ごしているのですが、ここ最近あの子が不思議なことを言い出しまして」
毎夜、必ず決まった時間に男が現れ、塀越しに話をしてくれるという。
「いつも塀の上から顔を覗かせて、外の話をしてくれると、そう娘が言うのです」
「随分と親切な方じゃないですか」
病におかされ外の世界を知らない娘に、外の世界の話をしてくれる……。
夜という時間が気になるのかもしれないが、仕事終わりに寄っているのかもしれない。そう怪しむこともないだろう。
だが女将はそれでも表情を曇らせたまま視線を泳がせ
「塀越しに、です」
と、改めて強調するかのように呟いた。
言いよどみつつも拒絶を露わにするような頑ななその態度に、これには店主も首を傾げるしかない。
毎夜現れ、床に伏せる娘の話し相手になってくれる人を、どうしてここまで怪訝そうに語るのか。
料亭小松屋の娘と知って狙っているとでも思っているのだろうか?
正式に縁談を申し込むこともできず、それならばと娘に近づいて……。
いやまさか、いくらなんでも小松屋の娘は八歳だ。女は若いほど良いと言えど、さすがに若すぎる。
なにより、あの豪邸を前にして娘にちょかいをかけようとする猛者がそうそういるとは思えない。
誰だって高嶺の花と諦めるだろう。格が違いすぎる。手が届かない……
手が届かない?
……それほど高い、屋敷を囲う塀。
そこから顔を出し、男はいつも桜子に話しかけていた。
「塀から顔を……」
ポツリと呟いた店主の言葉に、女将が深く頷いた。
そう、有り得ないのだ。
手の届かない、それどころか手を伸ばすこと自体無謀だと見て分かるほど高い塀の上から、件の男は顔を覗かせているという。
無理な話だ。
いくら高身長と言えど限度がある。
大人の二倍、いや三倍以上があっても出来る芸当ではない。
「ですが、例えば脚立を使っているとか?」
「いえ、塀を見ても何も立てかけた跡もありません」
「ならばぶらさがって……なんて、出来るわけがないですよね」
「えぇ、それに桜子の話では、これといって苦しそうな様子もないのです。ごく自然に、顔だけを出して話をして……無理な体勢とも考えられません」
「娘さん以外に、その男性を見かけた人は?」
「それが、小間使いに店の外を張らせたり、私が夜通し桜子に付き添ったりもしたのですが、そういう時にはまったく姿を見せないんです」
「なるほど。お嬢さんしか居ない時に、ですか」
「えぇ、しばらくは粘ってみたんですが、その方が現れないと桜子が寂しそうで……夫や店の者達は男の素性を掴めと言うのですが……」
床に伏せる幼い娘の唯一の楽しみ。いくら我が子の身を案じるがゆえとはいえ、それを奪うのは母として気が引けるのだろう。
それを察し、店主がなるほどと頷いた
「それでうちに相談に来たと。まぁ確かに、話を聞いた限りでは人の出来うることとは思えませんしね」
「つまり……その、妖怪……というものですか?」
女将の眉間にしわが寄り、怪訝そうな表情が更に訝しげになる。
妖怪、と。口にしたものの自分でも信じられないと言ったところか。
なるほど彼女は見えない人か、と、そう店主が内心で呟いた。
この時代、人間は大きく分けて『妖怪が見える人』と『妖怪が見えない人』の二種類に分けられる。
当然、見えない者の中には妖怪の存在自体を疑う者もいるわけで、女将は妖怪貸屋に来ておいてなお今一つ妖怪と言うものが信じられずにいるのだろう。
信じられないものを、それでも居ると想定して話を進めているのだ。
妖怪を否定する頭の固さを持ちつつも、娘の話を信じる母性が合わさってなせる技か。
「分かりました。さっそく、今晩お伺いしましょう」
「来ていただけますか?」
「えぇ……大体の目星はついていますから」
そう告げて、店主がニヤリと口角をあげた。
日も落ち周囲が暗くなってしばらく。
薄暗い夜道には、灯りを片手に歩く店主と、それに並ぶように足を進める黒猫の姿。
端から見れば夜の散歩と言ったところか。
だが店主には猫を愛でるような素振りはなく、それどころか歩幅の違いを気遣う様子もなくスタスタと足早に進んでいく。
黒猫もまた店主を見上げることも無く、漆黒の毛を夜闇に溶けさせながら店主の隣を歩いていた。
「それで、いったい何者なんだ?」
小さな四本の足を交互に動かし歩きながら、黒猫が店主を見上げて尋ねた。
「なにって?」
「そりゃ小松屋にでる妖怪のことだ。お前が動くんだから妖怪絡みに決まってる」
「そうさねぇ……」
ぼんやりとした口調で店主が言葉を濁す。
今言わずとも見れば分かる、ということだろうか。なんとも店主らしいその態度に、呆れた黒猫がふんと鼻をならした。
そうして数歩、足音もなく小さな足で道を歩き……
右の前足を地に付けたのを最後に、交わすように出した左の足を人の足に変えた。
歩きながら人の姿に化けるとは随分と慣れたものだ。もっとも、元々は人間なのだから人の姿に化けるというのも語弊があるか。
元は人、しかし今は化け猫。ならば人の姿になることを化けるというのか、いやしかし元々は人なのだから……。
そう考えを巡らせ、店主が肩を竦めて隣を歩く男を見上げた。頭一つ分以上高く体格もよく鍛えられたこの男が、つい先程まで自分の足下をちょこちょこと歩いていた等と、いったい誰が信じてくれようか。
「六の旦那も随分と化け猫が板についてきたね」
「そりゃ、こうなってしばらく経つだろ」
「あんたが人間だったのは何年前だったかね」
「忘れちまったなぁ」
なにせ幾百、それどころか幾千を生きる妖怪の身。
たった数年など数えるに値せず、それどころか、そもそも過ぎゆく年を数える習慣すら無いのだ。数年、数十年、百年くらいは過ぎただろうか……正月だ何だと季節行事にこそ参加しているが、人間の定めた『年月』など所詮はその程度にすぎない。
そんなあやふやな年月を明確に思い返す気など到底起こらず、店主も六も互いに顔を合わせて
「随分と経った」
の一言で片づけてしまった。
そうしてしばらく雑談を交わしていると、沿うように歩いていた道がガラリと景色を変えた。
今まではどこにでもある民家の並び。そこからまるで一線を画しているかのように、高い堀が続く。
言わずもがな、小松屋の敷地である。
この塀沿いにもうしばらく歩き、角を曲がれば店の入り口があるはずだ。
「さて、ここらへんかね」
伺うように周囲を見回し、店主がふぅと一息ついた。
予め女将に説明されていた『件の男』が姿を現す場所。この塀の向こうは小松屋の一人娘である桜子の部屋のはず。
病を負った儚い少女は、今この瞬間も苦しみながらも正体の定かではない男を待っているのだ。
店主と六は、道の反対側にある茂みに身を隠し『件の男』を待つことにした。
そうしてしばらく。
道の先に、ぽぅと灯りがついた。
ゆらゆらとまるで宙に浮いているかのように漂うその灯りは、小心者の女子供であれば鬼火とでも間違えかねない。
だが今更店主も六も恐れを抱くわけがない。その正体が手持ちの灯りだと分かりきっているし、仮に鬼火であったとしてもそれが何だと笑って終わりだ。それどころか「店の経費節約に良いかもしれない」と店主が声掛けしかねない。
それはさておき、今問題にすべきは灯りの持ち主だ。
ゆっくりとだが明らかにこちらに近づいて来る。
こんな時間に、いったい誰が?
店主と六が揃えたように顔を合わせた。
「あれが例の男か?」
「さぁねぇ、さすがにここからだと分からんよ」
「俺達には気付いてないみたいだな」
「おっと、こっちに近付いてきた」
草葉に隠れるように身を伏せ、店主が「ほら」と道の先を指さす。
夜闇の中に揺らぐ灯りが次第に大きくなり、やがてぼんやりとながら持ち主の姿を灯し始めた。
男だ。
男が一人、灯りを片手に小松屋の塀沿いに歩いている。
年の頃なら三十半ばだろうか――もっとも、この男が人間であればの年齢だが――顎と口元に生やした髭が落ち着きを感じさせ、きっちりと着こなされた異国の服装が随分と洒落ている。
灯りを受けてキラと光るボタン、袖口の刺繍、薄暗い中でも男の着ている衣服が一級品だとわかり、六が思わず感心するかのように息を吐いた。
「なんでぇ、随分と金持ちみたいだな」
この時代、海の向こうから色々と伝わり西洋かぶれが増えてきたとはいえ、流石に頭の先から爪先までどっぷり浸かるには金がかかる。
とりわけ男の身につけているものは遠目からでも質の良さが分かり、総額など計算する気にもならないほどだ。思わず頭の中で算盤を弾いた店主も、ベスト・ベルト・ズボンに靴…と加算されていく金額と店の稼ぎを比べてしまい、これ以上は悲しくなるだけだと脳内の算盤を放り投げた。
「ほら旦那、見てごらんよ」
「うん?」
「やっこさんの正体さね。ありゃ只の金持ちじゃないよ」
クツクツと笑いながら、店主が塀を見上げる男に視線を向ける。
肝心な部分を隠すその勿体ぶった口調に六はため息をつきつつも、それでもこれで正体が分かると店主の視線を追った。
男が塀を見上げている。
それは男がどれだけ背伸びをしようが、手を伸ばそうが、到底届きすらしない高さの塀だ。
例えば男が履いている質の良い革靴を蹴り上げたとて、塀の天辺に届くかどうかは怪しい。鞄を投げても同様だ。
それほどに塀は高く、風向きを考えれば中の桜子には声すら届かないだろう。
そんな塀を男はじっと見上げ、クイと一度小首を傾げると
するり、とその首を伸ばした。
そこから先は早いもので、一度伸び始めた男の首は止まることなく、するすると伸びていく。
それはまるで蛇がうねり進むかのように滑らかで、当然だが男の首に繋ぎ目など見られない。
正真正銘、男の首だ。男の首が伸びているのだ。
そうして気付けば男の首は彼の身長の三倍以上まで伸び、ついには顔が塀の天辺にさしかかった。
おかしな話だ。
いまだ身体は高い塀を前に立ち尽くしているというのに、男の顔だけが塀の向こうを覗き込んでいる。
それを繋ぐのは脚立でもなければ人の手でもなく、ただひたすらに長い首。
「なんでぇありゃ、化け物か……」
「旦那がそれを言うかね」
男の変わりようを見て唖然とした六に、店主が呆れたように彼を一瞥した。
猫の耳と尻尾を上手いこと衣服で隠した今でこそ六の見た目は人間そのものだが、その正体は人にあらず。化け猫だ。目の前の男とどちらが化け物かと聞かれれば、答えは一つ「どっちもどっち」である。
「彼はろくろ首さね」
「へぇ、ろくろ首。うちにゃ居ないな」
興味深そうに六が男に視線を向ける。
つられて店主も眺めていれば、二人の視線に気付いたのか男が驚いたようにこちらを向くと、慌てて首を引っ込めてしまった。
といっても、人ならざる長さの首を人並みの長さに戻したにすぎないのだが。
「夜分遅くに申し訳ない。ちょいと話を聞きたいんだけど」
「……どちらさまでしょうか?」
「そう身構えなさんな、私らは同類ですよ。もっとも、首は伸びませんがね」
冗談混じりに店主が自分の首を撫でて笑えば、男が虚を突かれたかのように目を丸くした。
店主の足下で黒猫が一度鳴いたのは、言わずもがな詰まらない冗談にあきれ果ててのことである。
男の正体はろくろ首。
普段は御坂玄朗と名乗り、貿易商の手伝い事をしているらしい。
「なるほど、貿易商ね。どうりで良いものを着てると思った」
「商いの真似事程度ですよ。ろくろ首であることも隠していますし」
「ふぅん、隠してるのかい。死なぬ老いぬの身じゃ隠し通すのも難しかろうに」
「昔はこの首も仕事に活かしてたんですけどねぇ」
最近はそうもいかなくなった、と男が昔を懐かしむように自分の首をさする。
その仕草に、店主はまったく同感だと深く頷いた。
妖怪を恐れ崇める時代から共存する時代を経て、今は無関心どころか否定派までちらほらと出始めたのだ。
見えぬ者の中には見えぬのならば居ない、居るわけがないと言い張り、果てには妖怪を名乗る者すべて詐欺だと訴える者までいる始末。
下手に自らを妖怪だと名乗ればそういった輩の目の敵にされ、証拠を出せと槍玉にあげられかねない。
――それにしても、見えぬくせに証拠を出せとは、いったいどうしろと言うのか――
そんな輩に絡まれることを考えれば、老いぬ死なぬことを誤魔化す手間はあれど人の名を名乗った方が得策だろう。
まったく生きにくい世の中になったもんだ、と店主が溜息混じりに呟けば、ろくろ首もつられて溜息をついた。
「それで、どうして小松屋のお嬢さんと?」
「あの道は仕事帰りに毎晩通っているのです。その度に、あの子の咳込む声が聞こえて……」
つい、覗いてみたのだという。
それを聞いた店主と六が目を丸くした。
あの高い塀を、見上げて手を伸ばしても到底届きそうにないあの塀を、”つい”で覗いてしまうのだからやはり彼はろくろ首である。
自分であれば覗く気にもならないだろうと店主が六に視線を向ければ、流石に猫でもあの高さは飛び乗れないと言いたげに六も首を横に振った。
それでもろくろ首は塀の向こうが気になり、覗き込んだのだ。
その長い長い首を伸ばして……。
「そこに居たのがあの子、桜子です。真っ白な肌と血の気の通っていないような顔色、骨と皮だけの腕を見て、これが人間かと驚いたのを今でも覚えています」
そう訴えるろくろ首の眉間に皺が寄る。
寿命どころか老いることすら忘れた妖怪の身からしてみれば、年若いのに大病を患い床に伏せる桜子の存在は異質でしかない。
彼女の年齢はまだ老いるにも早く、本来であれば年相応に生気に満ちあふれているはずなのだ。
「聞けば、あの子は十歳を迎えられないというではありませんか。残された数年を、ただあの部屋で咳込みながら過ごすだけだと思うと情がわいて……」
「それで話し相手になってあげようと?」
「天井を眺めるしかないあの子に、せめて話の上だけでも外の世界を教えてあげたかったのです」
ポツリポツリと呟きながら、ろくろ首がゆっくりと塀を見上げた。
この厚く高い塀の向こうでは、今も桜子が床に伏せ苦しんでいるのだ。病に昼も夜も関係なく、普通の子供ならば寝入っているこの時間ですら風に乗ってか細い咳が聞こえてくる。
可哀想に、と桜子を見たことのない店主でさえそう思う。
人間はどんなに健康だろうといずれ老いて死ぬ。長く生きても七十か八十だ。ならばせめて、それまでは生を謳歌させてやっても良いではないか。
誰がどうして人間を作ったかなど興味もないが、桜子に関しては文句を言ってやりたいくらいには不条理さを感じていた。
それはろくろ首も同じなのだろう、桜子を語る口調には哀れむような色合いと、それと同時に人間の不条理な作りに憤っているような色合いがみれる。握りしめた拳が震えるのは桜子の儚さを惜しんでか、それとも無力な自分を悔やんでか……。
どちらにしろ、彼が桜子に肩入れをしているのは間違いないだろう。
だが人の倍どころか老いることなく生き続ける妖怪にとって、短命の人間一人に固執するのはあまり褒められたものではない。
いずれ失うのだ、自分だけが置いていかれることを考えれば、人間との付き合い方など教わらずとも分かるだろう。とりわけ、桜子に残されているのはあと数年なのだ。
それまでの短い日々、そのうえ限られた時間を塀を挟んで過ごすだけか……。
そう考え、ふと店主がとあることを思い出した。
小松屋の女将がポツリと呟いた言葉だ。妖怪について無知に近い彼女に雑談混じりに色々と話をしていた際、つい口に出たといった感じのその言葉にギョっとしたのを覚えている。
だけど今なら、それも有りかもしれない。
そしてチラと隣を見れば、隣に座るのは一人の男。黒髪と体躯の良さに猫耳と尻尾が随分と不釣り合いな、言わずもがな六である。
そうさ、彼だって元々は……。
「ところで、ろくろ首の旦那」
例えばの話だけど、と前置きをして、店主がニンマリと口角をあげた。
「あんた独り身なら、可愛い女の子を娶る気はないかい?」
そんな夜があけ、更に数日。
満月が遮るものなく夜空に輝く丑三つ時、人気のない野原を一台の人力車が走っていた。
こんな時間に、おまけに客は頭から布を被って姿を隠している。これを怪しむなと言う方が無理な話ではあるが、そもそも怪しむ人すら居ない辺鄙な場所だ。
そんな野原を走り続けてしばらく。
小さな丘に差し掛かると、りん、と客の女が小さな鈴を鳴らし、それを合図に車夫が足を止めた。
だが見回したところで何があるわけでもなく、誰もいやしない、こんな時間ゆえに散歩でもないだろう。「いったいどうしてこんな所で」と不思議そうに車夫が首を傾げるも、それでも客の指示ならば従うほかないとゆっくりと車を傾けた。
「着いたには着いたんですが、本当にこんなところでよろしいんですかい?」
「ここで間違い有りません。ご苦労様です。……これを」
僅かに周囲を見回し、人力車から降りた女がそっと小さな小包を手渡した。
ここまでの運賃である。だがそれにしては量が多く、受け取り中を覗いた男がギョッと目を丸くした。乗せたのは女一人と少女が一人、夜中ゆえ料金を増して計算したとしても、これでは随分と多すぎる。
奮発を遥かに超えた金額に車夫が「どうしてこんなに」と口を開きかけるも、それを寸での所で飲み込んだのは、こんな夜中に母娘が遠出するなどそれ相応の理由があるに違いないと察したからだ。
ならば言わずもがな、手の中でズシリと重さを伝えるこの小包は口止め料である。となれば断るのは得策ではない。大人しく頂戴して、後日なにがあったとしても知らぬ存ぜぬを貫くだけだ。
「それじゃ、定刻になったら迎えに参りますんで」
「えぇ、お願いします」
小包を懐に収め、男が恭しく頭を下げる。
それを人力車から見ていた少女が、降りなくてはと察して恐る恐る足を伸ばした。
手摺に捕まる腕は驚く程に細く白く、地に着いてもなお力無げな足取りに思わず車夫までも心配してしまう。
走っている最中も何度も咳き込んではゼェゼェと息を荒げていたのを聞き、風邪でもひいているのかと思っていたが、これは元々体が弱いのではなかろうか。
ならばどうしてこんな夜中に、そんな娘を連れ出して……と、そこまで考え、車夫が首を横に振った。懐にしまい込んだ包みが「無用な詮索は止めろ」とズシリと訴えてくるのだ。
「では、暗いのでどうかお気をつけて」
一礼して、車夫が空になった人力車を引っ張っていく。夜の暗さからかそれとも軽さからか、見えなくなるのはあっという間だ。
女はそれを見送ると、緊張した面持ちで周囲に視線をやった。
誰もいやしないだろうと探るようでいて、それでいて誰かを探すような顔つき。
だが事実、店の者どころか夫にすら何も言わずに娘を連れ出した女は誰かに見られてはまずいと周囲を伺い、それと同時に待ち合わせ相手を探しているのだ。
誰も来てくれるなと願う反面、心細さから早く来てくれと願う。相反する気持ちはどちらも抑えられず、そわそわと周囲に視線をやって酷く落ち着きが無い。
そんな状態なのだ、背後から声をかけられ、文字通り女の体が跳ねあがった。慌てて振り返れば、そこに居たのは貸屋の店主。
「どうも、お二人さん」
「て、店主さん……あら、いったいいつの間に後ろに……」
「さっきから居はしましたよ。こんばんは桜子ちゃん、はじめまして」
ニッコリと――らしくなく――笑い、店主が身を屈めて桜子の顔を覗き込む。
白く生気のない顔は、それでも初めて会う人物に対し微笑み「はじめまして」とか細い声を返してきた。
それを見て、「なるほどこれは」と内心で呟いて店主が僅かに目を細めた。それほどまでに、桜子の容体が悪いのは誰の目にも明らかなのだ。
人ならざるもの、それも死というものから縁遠い存在でも分かる。この少女はそう長くは生きられないだろう。
そう思えば人間の不条理さが哀れにも思え、だがそれも今日で最後だと店主が小さく首を横に振った。
「桜子ちゃん、綺麗な着物だね」
「お母様の花嫁衣裳なの。それを、私用に仕立て直してもらったんです」
華やかな着物を着られたことが嬉しいのか、桜子が弱々しい足取りながらもくるりと一回転する。
だが確かに、布の質も柄も細工も、どれをとっても上等な着物だ。料亭小松屋に嫁いだ女将の花嫁衣裳となれば当然だが、本来の半分程度の桜子用に仕立て直したのは些か勿体ないとさえ思える。
それでも、花嫁衣裳ならば今夜しかないと、むしろ一度でも着れるのならばと思ってのことなのだろう。チラと横目に女将を見れば、桜子を見る目には母の愛が溢れていた。
「桜子ちゃん、もう少し歩けるかな?」
「だいじょうぶです」
「寒くはないかい?」
「ねこちゃんがいるから、だいじょうぶ」
「……猫?」
桜子の言葉に、女将が不思議そうに桜子に視線をやった。
どこに猫がいるのかと、そう聞きたいのだろう。だが桜子はさも当然のように「くすぐったい」と小さく笑うだけで、これには女将も首を傾げるしかない。
見えないのだ。
女将には、桜子の足元にまとわりつく黒猫の姿が。
春先を想定した花嫁衣裳では今夜は寒かろうと、冷えないようにと細い足に絡んで歩く黒猫の姿が。
何一つ、黒い毛一本たりとも、影一つとして見えやしないのだ。
もちろん黒猫が「にゃぁ」と鳴いたところで聞こえるわけもなく、くすぐったそうに楽しそうに歩く桜子に対し、女将が首を傾げながらも手を繋ぎその隣を歩く。
そうして丘に差し掛かったところで、桜子が「わぁ」と小さく声をあげた。
ほんの少しだというのに疲労を見せ始めていた瞳が、目の前の光景に輝きだす。
「すごい、いっぱい人がいる。今日はお祭りですか?」
キラキラと瞳を輝かせる桜子に、店主が頷いて肯定する。
だが女将だけは不思議そうに目の前の光景と桜子を交互に見やり、わけが分からないと言いたげに店主に視線を向けた。
見えないのだ。
女将には、今日の為にこの丘に集まった人達が……いや、人ならざる者たちが。
提灯を模した灯りも、百年を経て自ら音を奏でられるようになった楽器たちも。
彼等の賑やかな声も、何も見えないし聞こえない。
ただ小さな丘の上に桜の木がポツンと立ち、月明かりに照らされ桜の花びらを舞わせている光景しか映っていない。
それはそれで趣のある美しい光景ではあるが、けして祭りとは言えないだろう。桜子のような幼い少女であれば、寂しさすら感じかねない光景だ。
だというのにどういうわけか、桜子は目の前のその丘に対し瞳を輝かせ「楽しそう」と笑っている。
「見て、お母さま。いつもお話をしてくれる方もいるわ」
ほら、と桜子が丘の上を指さす。
彼女の視界には、桜の木の下に見慣れた男の姿が見えるのだ。洒落た燕尾服を着こなし、桜子に気付くと柔らかく笑って手招きをしている。
それに対し、桜子が伺うように「行っても良い?」と女将を見上げた。
「え、えぇ……行っても良いわよ。気を付けて、走らないようにね」
「はい」
桜子が嬉しそうに笑い、丘の上に向かいゆっくりと歩きだす。
普通の子供であれば走り出しそうなところだが、数えるほどしか外出したことのない彼女はどこか恐る恐ると言った様子で、疲労を感じ始めているのか足元もおぼつかない。
それでも呼ばれていることが嬉しいのか徐々に足取りが軽くなり、そしてとうとう繋いでいた手が離れ一人で歩き出した。
「あ……」
名残惜しそうに、女将の手が桜子の小さな手を追う。
だが丘の上を目指す桜子がそれに気付くことなく、彼女はゆっくりと、それでも逸る気持ちを抑えられないといった様子で歩いていく。
嬉しそうなその表情に、対して女将は所在なさげに宙をかいた手で胸元を押さえ、悲痛そうに眉間に皺を寄せた。
「……私には、何も見えません」
「そうでしょう、ここに集まったのはみな妖怪ですから」
仕方ないと言いたげに女将の隣に立つ店主が肩を竦めた。
人間の中には『妖怪が見えない人』がいる。
目の前を通り過ぎても、それどころか目の前で化かされても、何一つ見えず聞こえず感じずなのだ。
もっとも、妖怪の中にはろくろ首のように人の姿を模す者もいるが、殆どは『見えぬならばそれでも構わない』と構えている。
ゆえに、今目の前の光景に対し女将だけが何も見えず、ただ殺風景な夜桜を眺めているのだ。
「私には何も見えません、どうか教えていただけますか」
「えぇ、構いませんよ」
「どれだけの人が……いえ、どれだけの妖怪がいるのでしょうか?」
「そりゃもうたくさん。祝い事ですから」
クツクツと店主が笑う。
店主の目の前には、桜子とろくろ首を祝い冷やかす野次馬たちが溢れているのだ。
門出を祝うは一人でも多い方が良いだろうと貸屋の面子はおろか知りあいの妖怪達にも声をかけたが、結果を見れば呼んだ倍近くが集まっている。
桜子の花嫁衣裳を褒めているのは北から、ろくろ首の肩を叩いているあの妖怪は西から、記憶の限りだと随分と遠方に住んでいたはずだ。わざわざ来たのか、と呆れもするが、今は素直に喜んでおこう。
そんな賑やかな光景に対し、女将だけが浮かない顔をしていた。見えないのだから仕方あるまい。
「桜子はお相手の……ろくろ首さんの元に着きましたか?」
「えぇ、今は二人で楽しそうに話しています」
「あの子の門出です、華やかに飾られていますか?」
「えぇ、人の技術では叶わぬほど鮮やかな灯りで溢れています」
「そうですか……私には見えませんが……」
言いよどみ、女将が着物の袖口で目元を拭った。
その肩が小さく震える。顔を上げていられないと言いたげに俯けば、大粒の涙が頬を伝って足元に落ちていった。
「私には見えませんが……そちらの世界は、桜子に優しいんですね」
嗚咽交じりの女将の言葉に、店主は彼女が見えぬことを哀れみながら、ならばせめてとはっきりと肯定してやった。
手入れのされた畳が敷き詰められた、やけに広い客間。
床の間には高そうな掛け軸と壺が飾られ、格調高いその並びに季節の花が色を添えている。
どう考えても場違いな部屋に通され、店主が居心地悪そうに居住まいを正した。流石は老舗料亭の小松屋とは思いつつも、どうにも落ち着かないのだ。
「……旦那、畳で爪研いだりなんてしないでおくれよ」
あまりの居心地悪さに隣に座る猫に話しかければ、彼もまた落ち着きなく毛繕いをしながら「んなことしねぇよ」と呟いた。
小松屋からの使いが来たのが数刻前。
呼ばれたのならば行こうと気軽に出向き、通された部屋の格調高さに唖然として今に至る。
「お待たせいたしました」
スっと音たてることなく開いた襖から顔を出したのは、店主をここまで呼んだ人物、言わずもがな女将である。
質の良い着物を着こなし、きっちりと結わかれた黒髪が店の風格を現している。一礼すると部屋に入り、店主と向かい合うように座る、その仕草だけでも品の良さが分かる。
なるほど、流石は小松屋の女将だ。気品あふれる優雅な所作は部屋の格調高さに見合っている。
そんなことを考えていると、女将が恭しく頭を下げた。
「わざわざご足労頂きありがとうございました。本来であれば、私が出向くべきなのでしょうが……」
「いえ、お気になさらず。小松屋の女将となれば、そう立ち寄れる店でないことは自覚しています」
出されたお茶を一口啜り、店主が肩を竦めて笑う。
老舗料亭の女将が妖怪貸屋に入る姿など、なじみの客はおろか同業者にも見られたくないところだろう。どんな噂をたてられるか分かったものではない。
それを考えれば、彼女が初めて貸し屋を訪れた時にどれだけ心細かったことか。聞けば店の者にも夫にすらも話していなかったという。
戸惑いと、困惑と、それに恐怖もあっただろう。それでもと彼女を奮い立たせたのは、ひとえに愛しい娘のため。
その娘も、今は……。
「その後、桜子ちゃんは?」
どうしていますか?と店主が尋ねた。
もっとも、聞きたいところは『桜子がどうなったか』ではなく『桜子のことはどうなったか』である。
なにせ桜子が今どうしているかなど、女将より店主の方が詳しく知っているのだ。だからこそ今聞きたいのは、女将がどう桜子のことを身内に話したのか。
突如いなくなった、病弱な娘。
いくら部屋に籠っていたとはいえ隠し通せるわけもなし、誤魔化しが効くような問題でもない。
それをどうしたのかと尋ねると、女将はふっと遠くを見るように窓の外に視線を向けた。
「桜子は、私の遠縁の親戚の家で養生しております」
「へぇ、遠縁の親戚ですか」
「いずれはそちらで息を引き取る……と、そうなるでしょう」
偽りとはいえ愛しい娘の死を口にすると胸が痛むのか、女将の眉間に皺が寄る。
だがこれこそ最善の策ではないか。聞けば、彼女の夫――桜子の父――は妖怪が見えず、否定的な思考すら抱いているというのだ。
そんな者にどうして
桜子は妖怪になった、と
ろくろ首に嫁いで妖怪になった、と、
そんな説明ができるというのか。
鼻で笑われるか、馬鹿にされるか、下手をすれば誘拐したと疑われかねない。
見えない者には既に桜子の姿も見えず、となれば居ないと同じことなのだ。
だからこそ養生のために遠くにやったと嘘をつき、そしていずれはその地で息を引き取ったことにし帰らぬ人とするしかないのだ。
「死ぬことを忘れた身で疎くはありますが、さぞやお辛いことでしょう」
果たしてなんと言っていいのやら、死というものが今一つ理解できず、それでも店主が女将を気遣う。
流石に「これでもう桜子は死なずに済むんだから万々歳だ」とは言えやしないし、かといって女将に同情する気もない。
薄情と言うなかれ、死を忘れた人ならざる者にとって『死を想像する痛み』なんてものは理解すべきではないのだ。やたらめったら人間の死を嘆いていれば、いずれ我が身が滅びかねない。
とりわけ、店主はもちろん女将も桜子の死が偽りだと知っている。なにせ彼女は……。
そこまで考え、この場の空気が重苦しくて耐え切れないと、ついには我慢の限界がきて店主が「そういえば」と話題を変えた。
「第二子はお考えではないんですか?」
「次の子供、ですか……」
「小松屋には跡継ぎも必要でしょう。このお店はこれからも繁盛しますし」
「繁盛?」
「えぇ、これから忙しくなりますよ」
断言する店主の口調に、女将が不思議そうに首を傾げた。
確かに小松屋は年々右肩上がりだ。近年では海外事業にも手を伸ばしている。実際に繁盛もしているが、彼女の口調はそういった経営を見越してとは少し違うものがある。
繁盛することが分かっていると、確証を得ているような色さえあるのだ。
それが不思議でならず、女将が首を傾げて店主に視線を向けた。
桜子のことがまだ尾を引いているのだろう、化粧を施した顔にも疲労の色が見える。頬紅の赤さは顔色の悪さを誤魔化すためか。
妙に明るい色合いの着物は内情を知る者からしてみれば痛々しいほかないが、同時に見事だと感心すらしてしまう。
老舗料亭小松屋の女将として、娘を嘆いてばかりではいられないと気丈に振舞おうとするこの気高さよ。
それらに敬意を表し、店主が柔らかく笑って窓の外に視線を向けた。
「大丈夫です。これからはきっと良いことばかりが起こりますよ」
そう断言してやれば、窓の外で黒猫と楽しそうに遊びまわる座敷童の姿が見えた。