プール作戦
得美が来て四日目、この日は金曜日である。
そろそろ得美の雰囲気に恭二も慣れたのか、なぜ風呂の湯ごときに怯えていたのか馬鹿らしくなり、料理を作っているときなどに背中に得美がぴったりと抱きついていても。
「邪魔だよ?」
と優しく諭すほどの余裕が出来た。
朝御飯は急いで恭二が作った玉子焼きとご飯があり、彼は昼食のチャーハンを作り始めていた。
恭二の幸福度に大きな変化は見られない。得美が帰ってきた時には下がっていたが、それは帰ってから得美と触れあい、朝一緒にいることでなんとか取り戻せた。
得美がいない時間に減った幸せと、共に過ごすことで得た幸せは同じほどだが、時間的には遥かに前の方が短い。しかし取り戻せるのは充分稀有な例なのでよしとした。
(今結構幸せ、とは本当なのかもしれないっすね。ほどほどに楽しくて、大体は辛い。だからこんなに不幸が溜まっていく)
楽しい時は楽しくて辛い時は辛い、なんて誰にでもあてはまる当然の条件のように思えた。それなのにこれほど不幸なのは、彼の子供の頃の経験がよほど痛ましいからなのだろう。
「ごはん食べないの?」
「あ、頂きます」
恭二は普通というよりむしろかなり優しく真面目な部類の人間である。数日ともに過ごした得美は彼に恋愛とは別に好感を抱くほどである。
問題は一体どうすれば恭二が幸せに向かうか。幸人の言葉を信じ、ただの一般人が同居する形で行動すれば、とは考えるもののそれではやはり得美の収まりがつかない。
蝶子とさやかの二人には最大限働きかけるし、幸人とも相談をする。なのに当の本人である恭二に何もしないなど、本末転倒としか考えられない。
ごはんと玉子を口に荒々しく口にかきこんだ。
「そんなに急いで食べたら喉につまるよ?」
「そんな……ベタは……、しませんよ!!」
ちゃんと飲み込んで、得美は叫んだ。
得美は絶句した。幸人も普段なよっと垂れた眼を見開いた。恭二も少し驚いた。
「さっちゃん!」
「蝶子、おはよう」
呼び名が変わっていた。二人の表情も変わっていた。雰囲気がまるで違っていた。
何より、一人の親友というものを持っていなかった二人が、そう呼べるだろうものを持つようになっていたのである。
クラス全体としても賑やかというより驚きの方が大きかったらしく、沈黙している。
「なんだなんだなんっすかこれ!! どうして男より女の方が非現実的な動きするんすか!! くそくそくそっ!!」
非現実的な動きとは、仲が悪い女子が急に漫画みたいに仲良くなったことに対してであろう。自分が計画した漫画的ハーレムは全然上手くいかないのに、女子の方が漫画のように上手くいって、悔しいらしい。
たとえ今さやかが恋愛に乗り気になったとして、仲が良い状態の二人が恭二を取り合ってはすなわち修羅場であり、気の弱そうな恭二がそれで幸せになれるかどうか。
「得美、どうした落ち着け! 本当にどうしたんだ?」
「ああええ恭二、私はもう、もう駄目駄目ダメダメだっ! もうあんたを殺して私も死ぬぅ!!」
「それはやめて」
「ジョークだよ恭二、ジョーク、本気じゃないただのおふざけさ」
「嘘、か。それなら、別にいいんだ」
別に良いと恭二は言ったが、不用意な発言で幸福度は下がったらしく、改めて得美は後悔した。
して昼休み。食事は昨日と同じメンバーで、しかし。
「はい恭二くん! 今日もまたまた作って来ちゃったよ、いやぁ迷惑かけるね」
「それはこっちの台詞だけど……本当にいいの?」
「いや! 私が作りたくて作ってるんだから貰っちゃって食べちゃって感想聞かせちゃってよ!」
「昨日のは美味しかったよ」
「っきゃー!!」
と、叫ぶと蝶子は嬉々としてさやかの席に向かって走った。
弁当について、恭二は蝶子に迷惑をかける不幸と会話、食事による幸福が合わさった結果、幸福に落ち着いた。
得美が確認したところ、さやかは蝶子が恭二に弁当チックなものを渡すことはよしとしないらしく、複雑な面持ちをしている。
弁当問題はいずれ解決するとして、今は何をするべきか、である。
「幸人、恭二、五人でプールに行きましょう!」
「五人って、あっちの二人を合わせてかい?」
と幸人が顔をやったのは、さやかと蝶子の方である。
「そうっす、ドキドキ! プールで水着大作戦、どろりと出るよ大作戦です!」
「大作戦二回言っちゃったね」
「ぽろりは期待して言いのかい?」
幸人の言葉に得美は睨みつけるように。
「どろりです。主に幸人の口からどろりと何か出ます」
「公共の場でそういうことはやめようね、それと今は食事中だから」
「何を想像してるんすか? ブラッドですよブラッド」
「もっと駄目だよ?」
「待て待て二人とも、それ以前に問題があるぞ」
と幸人が注目を集めると、その親指はさやか達の方向を示していた。
「二人が本当に参加するかどうか……」
「それ以前に、もう十月が近いよ?」
二学期が過ぎてかなりの時間が経っている。そもそもプールに行く行かないは問題ではない。
確かに温室プールなどは冬でも入れるものだし、行くことが出来れば空いているだろうが、気分も乗らないだろうし、営業している場所もないに等しい。
「大丈夫ですよ、幸人にも説明しましたが、私の聖なるパゥワで」
「それって、藻が生えた二十五メートルもあるプールを綺麗にできるほどの力かな?」
と恭二が言うと、得美は閉口してしまった。
「で、どうする? せっかく計画したのにもう行かないなんて、俺の流儀じゃない」
「そんな事言ったってどうしようもないんじゃない?」
幸人は断固行きたいようだが、現実はそううまくいかない。
「ま、なんとかしてみせますよ。二人を後で誘うので連絡はメールで」
「め、メール!?」
と驚いたのは恭二である。
それに得美もじっとりとした目線を送る。
「あなたには私が伝えますので」
「な! もしかしてお前携帯電話を!?」
恭二は倹約を主としているため、必需品と呼ばれるものしか買わない主義である。
しかし彼の性格が歪んでいるためか、それとも生まれてくる時代を間違えたのか、電話とテレビは必需品の枠にない。
得美もそれなりに忙しく行動し、家に戻るとぐっすり休むがそれでもテレビぐらいは欲しい。
朝食の間とかわずかな時間にも楽しめるものだし、そういったものがないために恭二の常識は身につかないのだ。
「得美、携帯電話はお金を沢山……」
「あーこの守銭奴! それくらい私がどうにかしてるっす。別に私が使って私が払っている分に文句は言わせないっすよ」
そこまで言われては恭二も口を閉じたが、まだ不服そうである。
微妙な空気の中幸人だけが口を開いた。
「じゃ、後はよろしくね」
して放課後、さやかと蝶子が別れを言う場面で得美が駆けつけた。
「お二人さん、ちょっといいですか?」
「なに? 私今から部活があるんだけど?」
と困ったような怒ったような反応で蝶子が言う。
「実は、プールに行く計画を立てまして、明日駅前に集合してくれませんか?」
「プール……だと……? 今?」
妙に神妙な面持ちで蝶子は言った。
「流石に季節外れね。水泳部でもないのに」
「でもでもっ、恭二くんや幸人くんも来るんですよ」
というや否や蝶子の表情が一変した。
「全く仕方ないなぁ! 本当に不本意に思うけれどまあせっかく得美ちゃんが誘ってくれたわけだし、まあたまには部活も休んでそういうスポーツに興じるというのも一興だしなんていうか運動は走るだけじゃないっていうか、まあ仕方ないかなぁ。で何時集合?」
ここまで見え透いた反応をされると、得美だけでなくさやかまで色々と勘繰ってしまう。
「そうね、蝶子がいくのなら、私も行こうかしら」
「えっ」
と驚いたのは蝶子である。
その様子を見てさやかはとても複雑な表情をした。
「もしかして、私が来たら嫌?」
「いやいやいやいやそんなことはないよ! ただあれ、びっくらこいちゃったのさ! ほらだってさっちゃんと色々出かけたけどあんまり外出とかイベントとかイメージないし!それにさっちゃん運動も苦手で泳げない……てことはないにしても」
「あ、泳げませんよ」
「マジかっ!」
とここで一段落した。
「ともかく、参加してくれるんすね。それじゃ蝶子ちゃんも忙しいみたいなので私もこれでお暇するっす。ばいばいっす!」
「あ、うん、ばいばい」
「ばいばいばいばいばいばいびー!! と、ちょっと待って」
得美は既にどこかへ走って行ってしまったが、さやかがちゃんと聞いていた。
「どうしたの?」
「さっちゃん、水着はある?」
「うん、授業ぐらいちゃんと出てるから」
「それってスクール水着だよね?」
「スクール? ……えっと、普通の学校の水着だけど」
「どうしてスク水が分からないの!? テレビとか見ないの!? 雑誌とか読まないの!?」
蝶子は本当に、異文化に触れるが如く驚きの連続である。それにさやかは力なく笑うだけだ。
「ごめんなさい、オシャレとかもよく分からなくって」
「おしゃれというより常識の範疇だよ」
もはや蝶子が礼儀正しくツッコミを入れるほどである。
蝶子は自身が学校や部活で奇妙奇怪なキャラクターであるという認識があったが、人付き合いの少ないさやかの強烈なインパクトに自分が霞むのではないかと思うほどである。
さやかは、沢山考えることができる。人の親身になれる。だから人間的な感情的なことは理解が早く人間として一種の完成に辿り着いていると思われた。
しかしなにぶん一般常識が圧倒的に欠けていた、それも経験的な部分で。
「うーん……それじゃさ、明日買いに行こうよ! 午前から買いに行って午後にプール行けば何の問題もないよ」
「えっ? でも水着はもう持って……」
「いつの? 高校で水泳なかったよね?」
クラスによってはあるところはあったらしいが、不幸にも彼女達は高校でいまだ水泳を経験していなかった。
「中学の時の、まだ入ると思うんだけど」
「まだ入る入らないが問題じゃないよ、それはもう関係ないよ。もっとさぁ、おしゃれしようと思わないの?」
と言って蝶子は少し物憂げな表情をした。さやかはそれだけ容姿に無頓着でありながら、蝶子より可愛い。
魅力の方向性は違うが、蝶子は同性に嫌われるタイプで、一部の男子からも好ましく思われてはいない。けれどさやかは、どこか万人受けするような、表現し難いところがあるのだが蝶子の考えではさやかは正道的な良さがあるのだ。
そして何より、胸が蝶子のそれと比べ物にならなかった。
(まだ入ると思うんだけど、だって? 絶対入らないね)
確信を持って蝶子はひとり頷く。
「どうかしたの?」
「いや、大したことじゃあないねぇ。なんていうか、劣敗。ところでツパイっていう島があって、そこにはツパイとかオオツパイっていうリスがいるんだって」
「それは知らなかったわ。今度見に行きましょう!」
「いや、外国なんだけどね……」
悲哀ここに極まれり。
「じゃ明日八時に学校前来てねー!!」
と走りながら蝶子は叫んだ。涙は零れていないものの、心は悲鳴をあげ哭いていた。




