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Defenders  作者: 石原健司
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第一章 赤い太陽の下で・6

     6



 

 衛は足早に歩いていた。目線はずっとコンバースの爪先に落としっぱなしだった。このまま俯いていれさえすれば、頭上のあの忌まわしい太陽を忘れられるかのように。

 あの謎めいた消えた少女のことも今ではどうでもよかった。あの太陽は、衛の眼底を突き抜け、脳に焼きつくような恐怖を彼に与えた。

 あの赤はヤバい。

 衛は本能的に悟っていた。

 衛の小学二年生の頃のクラスメイトに、タカシーというアダ名の男子がいた。そのタカシーは担任の教師に「押すな」と注意されれば、その次の休み時間にでも火災報知機のボタンを押すような子供だった。当時、二年生の教室は校舎の一階にあった。タカシーは休み時間になると、限られたスペースしかない校庭をサッカーをするのに必要充分なだけの場所を占有すべくショートカットのため教室の窓からヒョイと出入りしていた。教師に何度注意されてもまったく悪びれず、窓の下には抜け目なく下履きまでも隠してあったくらいだった。まもなく三年生に進級しようという時期、クラスメイトにタカシーは言われた。三年生の教室は二階になるからもう窓から出入りするのは無理だな、と。そのセリフにタカシーは鼻で笑って応えた。そしてそのまま階段を駆け上がって行くと、あろうことか最上階にあたる三階の窓からヒョイと飛び降りたのだった。結果的に彼は幸運だった。現在は衛とは別の高校に通っているはずだ。しかし、もし地面が柔らかい土ではなく、硬いコンクリートだったら、潰えたのは彼のプロサッカー選手になるという夢ではなく、彼自身の命だったろうが。その事件の時、衛は校庭にいた。なんのためにそこにいたのかは忘れたが、校舎のそばに立っていた。背後でなにか音がして何気なく振り向いた。七歳の子供が三階から落ちたときの音は案外小さい、と後になって思った。衛の視界に、赤い水溜りの上に一家族分の洗濯物が積み上げられたようなものが入ってきた。初め見ているものがなんなのかわからず、戸惑った。やがて意識の焦点が目の前の物体を認識し始め、赤い水溜りは血であり、洗濯物の山は体育座りをしたまま眠ってしまったような姿勢のタカシーであると理解した。テレビだったらここで悲鳴でも上げるんだろうなと思いながら、衛はタカシーを見つめ続けた。目の前の現実があまりにも凄絶なため現実の認識がまともにできなくなっていた。どこか白けた気分のまま観察していると、タカシーの膝から白く細長いものが飛び出ていることに気づいた。それが生きたタカシーの身体の中にあった骨であると理解したとき、ようやく衛の精神に恐慌が訪れた。腰が抜け、その場にペタンと座りでしまった。手のひらにやけに湿った土の感触があった。右手を目の前にかざすとべっとりと赤く染まっている。地面が吸いきれないままに流れ出たタカシーの血だった。人間の体内にあったときは生き生きとした鮮紅色であったろうそれは、衛が見ている前でみるみる赤黒く変色していった。

 あの太陽の色はそのときの血の色だった。命が抜けきってしまう寸前の血の色。目にしたのは一瞬だったが、あの不吉で禍々しい色は一生忘れることはないだろう。

 だがそれがどうした?

 歩みを緩めることができないまま衛は思った。

 それでなにがどうなるもんでもない。夕日のように空気の屈折率がどうかなったかしてああいう色に見えたというだけだ。教科書に載っていないような現象だからって現実にありえないというわけじゃないだろう? 夕方のニュース番組かなにかで気象予報士とかなにかが科学的なそれっぽい解説をしてそれでオシマイってなるだけの天文ショーに過ぎないさ。

 心の中では怯える自分を妙に居丈高なもうひとりの自分が諭し、さらに別の自分が恥じ入るという脳内騒動を経て、ようやく足を止めることが出来た。自分を鼓舞し、視線を通常の位置まで上げる。

 途端に後悔した。

 風景が赤く染まっている。夕日のように。いや、夕日のように物悲しいような懐かしいような茜色などではない。もっとどぎつくて下品な赤だ。見慣れた校内が、まるで色調の狂ったテレビで観るホラー映画の一場面のようにひどく落ち着かない光景と化していた。

「おー、これは一生の記念になるな。あとで自慢できるぞ」

 そうつぶやいてみたが、その語尾は消えてしまうほどに小さくなっていった。校庭の端に佇んだまま、衛は途方に暮れてしまった。

 その視界に動くものを認めた。

 土日返上で練習をしている野球部だ。昔はプロ選手を輩出したこともあるほどだったらしいが、現在では目標が一回戦突破というのが現状らしい。真面目に練習しているのに成果がともなわないというところに衛はシンパシーを感じるが、向こうにすれば一緒にするなと憤慨するかもしれない。

 見る限りその練習風景は普段通りだった。太陽の色が変わったくらいで大騒ぎするような部員はひとりもいないらしい。衛の手近にいる野球部員ふたりはそれぞれバットを弄びながらのんびりと談笑しているくらいだ。こんなに動揺している自分がバカみたいに思えてくるくらい変哲のない光景だ。

「いやいや! 変だろ、これは」

「太刀川くん」

「うわぁっ!!」

 いきなり背後から声をかけられ、衛は文字通り飛び上がった。

「ふわわわわわわっ?」

「ああ天神っ! 驚かすな!」

「驚かしてないよぉ、驚いたのかコッチだよぉ」

「そ、そか。すまん」

「わたし気が小さいんだから、心臓、パンク寸前だよぉ」

 凛はそうこぼすと、細身のわりに豊かな胸を両手で押さえた。こんな状況だというのに衛はその仕草に見蕩れてしまう。

「いや、そんな場合じゃない」

 自分に言い聞かせるように衛は凛に向き直った。

「太陽だよ! 見たろ? あの異常な色の」

「う、うん」

 凛が衛の勢いに飲まれたように頷く。

「なあ、あれ、どうなってんだ、いったい?」

「わかんない」

 当然といえば当然の答えに、衛はがっくりと力が抜けた。

「そうりゃそうだろうけど、もっと、こう……それっぽい反応とかしないのか、お前」

「ご、ごめん」

「悪い。天神にいっても仕方ないもんな。天神は悪くないもんな」

 衛は自己嫌悪のため息をついた。

「ね、青児くん見なかった?」

「は? 青児? 一緒じゃなかったのか?」

「うん、それがねぇ、青児くん部活終わったから一緒に遊びにいこうって話してたんだけど、青児くんが着替えているときに、太陽があんな風になっちゃって、わたし、ついふらふら〜って見に外に出ていたら、青児くんたちいつの間にかいなくなっちゃっていたの」

「ふうん……ってお前が勝手に青児から離れちまったってことじゃねえか!」

「そうだね」

 なぜか嬉しげに凛が頷く。

「天神、お前さぁ……」

 衛が今度は呆れ返ったため息をつく。

「だから一緒に探してよ」

「うん、まあ、良いけどさ」

「空も変だし、なにが起こるかわかんないような状況だからね、太刀川くんと一緒なら心強いしね」

「心強い? 歴代最弱の剣道部員の僕と一緒でか?」

 自分でも嫌になるほど卑屈な問いかけに、凛は、

「うん!」

 と、万全の信頼を置いているかのごとく笑顔で迎えた。

「しかしお前」

「だって小さい頃から守ってくれてたでしょ? いじめっ子とかからさ」

「ありゃ子供のときだったから……今はもう、お互い……」

「守ってくれるでしょ? ほら、衛だけに」

 そう得意げに言い切ると、凛はクックックとひとり笑う。

「そのネタ、百万回は聞いたぞ。それも、全部お前からだ」

 凛とは対照的に憮然としながら衛はツッコミを入れた。

「うくくくく……でも、守ってくれるんでしょ? 百万回目でも」

 凛はまだ笑いながら問い返してきた。

 衛の答えは決まっている。

「ああ、守ってやるよ。百万回目でもな」

「約束だよ。守ってね。あ、これも”まもる”だ」

 そしてまたクックックと凛は笑った。

「わかったよ。約束守るよ。……ったくもう」

 つられて苦笑しながら、衛はふと目を凛から逸らした。逸らした先に、さっきまで談笑していた野球部員ふたりがこちらに近づいてくる姿があった。

 野球部員たちはそれぞれ手に持っていた金属バットを肩に担ぎ、顔に談笑の名残のような微笑みを貼りつけたまま歩いて来た。

「なあ、アンタら」

「うん?」

 そう応えると同時に、衛は反射的に後ろに飛んだ。その寸前まで衛の身体があった空間を、野球部員のひとりが振るったバットが薙ぎ払った。警戒していたわけではない。日頃鍛えた成果の賜物といえる。

「なんだ! テメエらは?!」

 瞬時に持ちっぱなしだった竹刀を構え、そう怒鳴ろうとした衛の目に、もうひとりの野球部員が凛に向かってバットを構えたのが見えた。これから場外ホームランでもかっ飛ばしてやろうというような構えだった。想像外に事態に反応できず凛は棒立ちのままだ。

「おい! や……!」

 我が身のことも忘れ、衛は駆け寄ろうとした。

 

 ご。

 

 と鈍く重い音が響いてきた。

 以前、友人同士でボーリングに行ったとき、衛はストライクを出してやろうと張り切りすぎたせいか、ボーリングの球が指からすっぽ抜けてしまったことがあった。そのボーリング場で一番の重さを誇っていた球はレーンの上にほぼ垂直に落ちる破目になり、場内に響き渡るような音を立てた。

 そのときの音に、似ていた。

 そんな音が、人間から。

 あの、天神凛の頭部から響いてきた。

 凛の身体は、上部を弾かれたボーリングのピンのように、呆気無く、倒れた。

「凛!」

 そう叫ぼうとした衛の背中に激しい打撃が襲う。衛を狙っていた方の野球部員の二撃目だった。衛は押されたような形で凛の方へとたたらを踏む。

「くそっ!」

 衛は倒れている凛の身体の前で踏みとどまると、襲撃者たちの方へと振り向く。竹刀を構えることも忘れ、柄を潰れそうなほど強く握りしめていた。全身をアドレナリンが暴走し、背中の痛みなどまったく感じないほどだった。

「なんだお前ら! なんだってんだ!」

 衛に怒鳴られ、野球部員ふたりは顔を見合わせた。

「なんだ、っていわれても。なあ?」

「なあ?」

 今までの凶行など嘘だったような困惑した様子だ。

「俺らもなんかよくわかんないんだよ。なあ?」

「うんうん。なんでだろ?」

「はあ?」

 あまりにも予想外の反応に衛も唖然とした。コイツら、正真正銘狂っていやがる。

「なんでかわっかんないんだけどさぁ……」

「うんうん」

「ひとつだけわかることあるよな?」

「うんうん」

「それは」

「うん」

「コイツらを」

「うん」

「やっつけなきゃ、ってことだな」

「うん」

「うるせぇ!」

 話し込み無防備に突っ立ている野球部員のひとりの頭に衛の竹刀が振り下ろされた。校内でもトップクラスの腕力を誇る衛の力任せの一撃に、竹刀は割れ、野球部員は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。

「お? おお?」

 相方が倒され困惑しているもうひとりの野球部員に、衛は竹刀を手放し拳を振るった。その一撃は的確に相手の顎を捉え、野球部員はあっさりと倒れ込んた。

「おい、天神!」

 倒したふたりにも目もくれず、衛が凛に駆け寄る。凛の頭部の中心にして血がじわじわと広がりつつあった。

「あ……まーくん……」

 凛の目が微かに開かれた。

「大丈夫か?!」

「なんとか……」

 朦朧とした目付きのまま凛は微笑もうとしたようだった。

 白々しいやり取りだな、と衛は感じた。この状態がどれくらいヤバいかなんて、外科医でなくたって明白だ。

「待ってろ、すぐに救急車を呼ぶ」

 自分の携帯電話を取り出すため制服を探っていると、校庭で練習をしていた野球部員たちみんながこちらへ近づいて来るのが目に入った。あの連中がさっきの奴らのように狂ってなどいない、とは思えなかった。二十人近くの部員全部がどういうわけかバットを手にしていたからだ。

「ここじゃヤバい。安全なところまで移動する。ちょっと我慢してくれ」

「……ん」

 凛は同意を示すようにわずかに口を動かした。

 衛は慎重に凛の頭の下に右手を差し入れた。血でべっとりと粘着く髪の感触にも構わず、ゆっくりと手を進める。その指先が側頭部に触れた。

「う……!」

 思わず衛は呻いた。がっしりと硬いはずの頭部が、雨に濡れたマットのようにやわやわとした感触を返してきたからだ。そのあまりにも不吉な感触に、衛は泣き喚きそうになった。しかし、そんな余裕なんかない、と歯の奥を噛み締め、必死にこらえた。凛の両膝の下に左手を入れ、彼女を抱き上げる。

「いくぞ」


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