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子兎とシープドッグ  作者: 篠原 皐月
【本編】
7/26

(7)恋に落ちる瞬間

 最寄り駅改札口付近で弘樹と待ち合わせ、その先導で綾乃と眞紀子は通りを進み、十分程でとある低層マンションへと辿り着いた。

 エレベーターで四階に上がってドアチャイムを鳴らすと、ポロシャツとジーンズに紺色のエプロン姿の祐司が出迎える。実家では父や兄達のエプロン姿など見たことが無かった綾乃は、それだけで軽く動揺したが、何とか平静さを保って中へと入った。


 玄関からリビングに到達するまでにキッチンの横を四人でぞろぞろと通り過ぎたが、その設備に綾乃のは目を丸くした。業務用かと思えるほど大きな冷蔵庫にガスオーブン、おそらく火力を違えてあるガスコンロが四つに焼き料理用の鉄板、作業台とシンクも一般の物と比べると倍以上のスペースがあり、整然と棚に並んでいる調理器具や調味料の数も圧巻そのものだった。

 台所を興味深そうに眺めてから、引き続き所々を洒落たインテリアで飾っているリビングを興味深そうに見回して綾乃がソファーに落ち着くと、台所に行った祐司が淹れた茶を手にして戻って来た。それを一口飲んで口の中を潤した綾乃は湯飲みをテーブルに戻し、向かい側に座った祐司に軽く頭を下げる。


「あの、えっと……、本日はお招きに預かりまして……。しかも面倒な事をさせる事になってしまってすみません」

「いや、これは俺が勝手に決めた事だから。むしろ俺の我が儘に付き合わせて、申しわけ無いと思ってる」

 恐縮しきりで綾乃が頭を下げると、祐司も真顔で応じて頭を下げた。それに戸惑いながら綾乃が確認を入れる。


「いえ、そんな……。でも本当に高木さんが作ってくれるんですか?」

 それを聞いた祐司は、小さく苦笑いした。

「ああ。この間、結構姉にしごかれたんでね。変な物は出さないから。……勿論食べられそうもなかったら、残して貰って構わないが」

「いっ、いえ! あの、この間はちょっと情緒不安定で失礼しました。今日はちゃんと頂きます」

「ありがとう。それで……、ちょっと並行して焼くのがまだ難しいので一枚ずつ焼きますから、少しお時間頂きます」

 綾乃に笑いかけてから祐司が眞紀子に断りを入れると、眞紀子は苦笑いで返した。


「構わないわよ? 先に綾乃ちゃんの分を焼いて頂戴。大人しくしているから」

「すみません。じゃあ早速取り掛かりますので」

 そこで立ち上がった祐司に、綾乃がすかさず頼み込む。

「あの……、作るのを見ていても良いですか?」

(う……、それは流石に緊張するんだが……)

 そうは思ったものの、目をキラキラさせて期待に満ちた表情で尋ねられた祐司は、とても断る事など出来ずに壁際を指差した。

「それなら、良かったらそこのスツールを持って来て、座って見てて」

「はい!」

 そうして綾乃が嬉々としてスツールを持って来て、それに座ってカウンター越しに鉄板の作業を見守り始めると、眞紀子は向かい側に座っている弘樹の方に、軽く身を乗り出して囁いた。


「だけど何なの? ここのキッチン。外観は普通のマンションなのに、設備が半端じゃ無いんだけど」

 その疑問に、弘樹は小さく笑って答えた。

「あいつの姉さんは最近メディアに露出が多い料理研究家でね。宇田川貴子って名前、耳にしたこと無いかな?」

「……ああ、あの。名前を聞いた時、何となく聞き覚えがあると思ったのよ」

 合点がいったと言う様に頷いた眞紀子に、弘樹が説明を続ける。


「試作の為に家でもこれ位の設備は必要だからって、ここを購入した時にキッチンを広げた上、徹底的に設備に手を入れたそうでね」

「なるほどね。じゃあそんな人に特訓を受けたって言うなら、少しは期待して良いのかしら?」

「良いと思うよ? あいつ元々結構凝り性の上、負けず嫌いだし。体型崩壊の危険性を冒した努力の成果を、みてやって欲しいな」

「……何となく意味は分かったわ」

 思わず遠い目をしてしまった眞紀子に、弘樹は嬉しそうに述べた。


「やっぱり眞紀子さん、俺好みなんだよな。体型も頭の回転が早い所も」

 しかしそんな口説き文句など、眞紀子は一蹴する。

「はっ! 警視庁に二度もイタ電かける、痛すぎる馬鹿は願い下げよ」

 はっきりきっぱりお断りされ、流石に弘樹は挫けそうになった。

「……お兄さんに聞いたんだ。何て言ってた?」

「久しぶりに顔を合わせた時、四方山話のついでに変な顔をしながら話してくれたわよ。重大事件勃発中じゃなくて、助かったわね。組織的な妨害工作と思われたら、発信者番号から辿られて、尾行が付いてたわよ?」

「イタ電じゃなくて間違い電話だって! それにそもそも間違えるつもりは無かったんだから」

「姑息な事を考えてる方が悪いのよ」

 弘樹と眞紀子がソファーでそんな事を延々と言い合っているうちに、祐司は慣れた手付きで熱した鉄板の上に手早く混ぜた生地を流し込み、時間と焼け具合を判断しながら次々具材を重ねていった。その一連の流れを凝視していた綾乃は、心の中で感心した呟きを漏らす。


(うわぁ……、具材が本物、キャベツも細いし麺も良い茹で上がりっぽく見える。豚肉も良いのを使ってるし、それにソースはやっぱりこの香り……)

 ウキウキとしながら焼き上がりまでの時間を過ごしていた綾乃だったが、祐司は焼きあがったそれを慣れた手付きでヘラを返し、用意していた皿に危なげなく乗せた。

「よっと、お待たせ。本当なら冷めにくい様に、鉄皿も準備すれば良かったんだが」

 そう言いながらカウンターを回り込んでテーブルに皿を乗せた祐司に、綾乃は驚いて手を振った。


「えぇ? このお皿で十分です!」

「そうか。それなら今、他の物も出すから」

「他の物?」

 そう言いながら再び台所に入った祐司に綾乃が怪訝な顔をすると、祐司は片手鍋が乗ったコンロの火を点けてから冷蔵庫を開けた。その中からガラスの器に入った野菜サラダと手製らしいドレッシングが入った容器を取り出し、テーブルに戻って綾乃の目の前に置く。


「ああ、これ。せっかくここまで来て貰ったのに、お好み焼きだけじゃなんだと思って、用意しておいたんだ」

 そうして次に温め直したワカメスープを器によそい、再度綾乃の前に置く。

「さあ、どうぞ」

「はい、頂きます」

 促された綾乃は素直に頷き、鰹節が踊っているお好み焼きに箸を伸ばした。そして一口大に切り分けたそれを口に運び、黙って味わう。

 そんな綾乃を祐司は黙って見守っていたが、綾乃がごくりと食べていた物を飲み込んだのを見て、祐司が恐る恐る声をかけた。


「……どうだ?」

「美味しいです!」

 すかさず満面の笑みで評してくれた綾乃に、祐司の顔も綻んだ。

「そうか、それは良かった」

「広島の味がしますっ!」

「しなかったら困るな」

「でも東京の方に、ここまで美味しいのが作れるなんて、正直思っていませんでした!」

 手放しでの誉め言葉に、流石に面映ゆくなった祐司が多少ひねくれた物言いをする。


「……出身は千葉だけどな」

「凄いです。本場にお店を出してもやっていけますから!」

「幾ら何でも、それは本職の人に失礼だろう」

「そんな事はありませんよ! それに調理を職業としていない男の人が、ここまで美味しい物を作れるって凄いって事を表現したかったんです」

「そうか?」

 力一杯訴えてくる綾乃に、祐司が照れながら気分良く問いかけると、綾乃はそのままの勢いで話を続けた。


「はい! 高木さんの恋人とか奥さんになる人が羨ましいです! 時々こういう美味しいものを作って貰えるんでしょうから」

 にこにこと笑いかけられながらそんな事を言われ、真正面からその笑顔を受け止めた祐司は、絶句してから思わずぼそりと呟いた。

「……羨ましいか?」

「はい、私、高木さんみたいなお料理上手な人と結婚したいです!」

 殆ど何も考えずに綾乃がそう口にしてから、再び上機嫌で箸を動かし始めると、祐司が先ほどよりも低い声で呟いた。


「…………そんなに食べたいなら、作ってやっても良いぞ?」

「え? 今、何か仰いましたか?」

 口に入れていたお好み焼きを飲み込んでから、綾乃が聞き漏らした内容を祐司に問いただしたが、祐司は僅かに頬を赤くして立ち上がった。


「何でもない。榊さん達の分も焼き始めるから、ひとりで食べていてくれ。一巡してまた食べたかったら、食材は多目に用意しておいたから、小さ目に二枚目を焼くがどうする?」

「是非お願いします!」

「分かった」

 嬉々として頭を下げた綾乃に笑いかけ、祐司は口元を押さえて台所に向かった。綾乃は目の前のお好み焼きに意識を集中していた為、祐司の些細な変化などには無頓着だったが、ソファーから生温かい視線で二人のやり取りを見守っていた弘樹と眞紀子にしてみれば、顔を引き締めても耳を赤くしている祐司の心境などもろバレである。


「……ねえ、私、今、もの凄く珍しい光景を目にした気がするんだけど?」

「確かに……。女に手料理振る舞われて、胃袋掴まれて恋に落ちるってのは定番だけど、女に手料理振る舞って胃袋掴んだ挙げ句、自分が恋に落ちるってパターンは、滅多に無いよなぁ……」

 双方呆れ果てた口調でそんな事を言ってから、眞紀子が真顔で素朴な疑問を呈した。


「何なの? あいつ良さげな見た目に反して、そんなにモテないの? 実は性格悪とか?」

「あいつは良い奴だから、そんな事は無いって。言い寄る女捌くのに苦労してる位だし。……だからかな?」

「何が『だから』なのよ」

 一人で何となく納得している弘樹に眞紀子が怪訝な顔を向けると、ここで弘樹はしみじみと言い出した。


「気に入られようとして、女から計算ずくで褒めちぎられる事はあっても、あんな風に純粋に本心からの誉め言葉をかけて貰う事って、滅多に無い経験だろうし」

「……それはそれで、ある意味不憫ね。見た目が良いってのも考え物だわ」

「加えて、綾乃ちゃんには初対面から怯えられるわ泣かれるわ。通常では有り得ないシチュエーションで、保護本能がムクムクと盛り上がってただろうし」

「確かに、あり得ないでしょうねぇ……」

 そこで深い溜め息を吐いた眞紀子が何気なくカウンターの方に目をやると、何やらカウンター越しに楽しそうに会話しながら焼いたり食べたりしている二人を認め、黙ってそれを見守った。すると弘樹が結論付ける。


「この間頑張ってたのも、無意識に綾乃ちゃんに喜んで貰いたいって思ってたからだろうしね。そうでなかったら、幾ら自分に非があったとしても、『人が奢るっつってんのに、食べずに帰るような失礼な女なんて知るか!』って激怒して終わりの筈だし」

「……それは私も同感。今日の話を聞いて、『手料理って何?』って思ったわよ」

 眞紀子が小さく肩を竦めながらそんな事を言ったところで、些か脳天気な口調で弘樹が言い出した。

「これまでは無自覚だったみたいだが、さっきの綾乃ちゃんの笑顔で陥落及び自覚したとみた。いや~、めでたい」

 それを聞いた眞紀子は額を押さえ、呻く様に指摘する。

「……綾乃ちゃん、面倒そうなのを引き寄せちゃったわね。それに加えて、言っておくけど綾乃ちゃんの方にはそんな気は皆無よ? 今の所」

「まあまあ、あいつは良い奴だぜ? 俺が保証するから、長い目で見てやってくれないかな?」

 にこやかに頼み込んだ弘樹に、眞紀子は如何にも面白く無さそうに告げた。


「じゃあ一応、あなたから彼に忠告しておいて。『綾乃ちゃんに下手な事をしたら、怖いお父さんにコンクリート漬けにされて東京湾に沈められるから』って」

 眞紀子が物騒過ぎる台詞を淡々と口にした為、弘樹の顔が一気に強張る。

「は、ははっ……。眞紀子さん、冗談キツいな~。ある意味、そんな所も魅力的だけど」

 辛うじてそんな軽口を叩いた弘樹に、眞紀子は小さく舌打ちしてから尚も真顔で告げた。


「冗談だと思うなら、そう思っていて良いわよ? 綾乃ちゃんの彼氏いない歴=年齢は伊達じゃないんだから」

「…………マジですか」

「大マジよ」

 暗に(過去に綾乃ちゃんにちょっかい出そうとした男は、娘ラブの親父に悉く闇に葬り去られたに決まってんでしょうが、このボケがっ!!)との含みのある眞紀子の声音と視線に、弘樹の体感温度は一気に低下した。そこでいつの間にかソファーの方にやって来た祐司が、穏やかな声で眞紀子に話し掛ける。


「お待たせしました。榊さんの分が焼き上がりましたので、テーブルの方にどうぞ」

 眞紀子がチラリとテーブルに目をやると、お好み焼きの他にサラダとスープがセット済みなのを認め、静かに立ち上がった。

「ありがとう。さて、それでは綾乃ちゃん絶賛のお好み焼きをご馳走になりましょうか」

「弘樹、お前の分は次な。もうちょっと待っててくれ」

「ああ」

 涼しい顔をしてテーブルに向かった眞紀子を見送り、少し申しわけなさそうに断りを入れた祐司に笑って頷いてから、 弘樹は友人の恋路の困難さを思って、密かに頭痛を覚えたのだった。


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