(3)コネと郷土愛
社内メールをコソコソと私用で使わせて貰い、弘樹や祐司と幾つかのやり取りを経てから数日後。綾乃は会社帰りに眞紀子と待ち合わせ、祐司から指定された場所に向かって歩いていた。
「……本当にごめんなさい眞紀子さん。こんな事に付き合わせちゃって」
綾乃は歩きながら恐縮して軽く頭を下げたが、眞紀子は豪快に笑い飛ばした。
「ここまで来て、今更気にしないの。だって一人で出向くのは嫌だけど、その連中が会社では有名人だから、下手に会社の同僚とか先輩とかに頼めなかったんでしょう?」
「はい……」
綾乃が(本当に私って意気地無しだなぁ……)と密かに落ち込んでいると、眞紀子が急に難しい顔になって言い出した。
「その二人、この前会った時、確かに顔立ちはそれなりに整っていたとは思うけどね。だけど綾乃ちゃんから経過を一通り聞いて、ちょっと気になった事があるんだけど」
「何ですか?」
キョトンとして拳一つ分程上背がある眞紀子を綾乃が見上げると、その視線を受けつつ眞紀子が確認を入れる。
「諸悪の根源の名前は、高木って言うのよね?」
「はい、高木祐司さんです。あの後社内メールで食事の希望内容を連絡した時、当日の事を返信で謝って貰いましたし、見た目はちょっとキツそうですけど、そんなに悪い人ではないんじゃないかと……」
考え考えそう口にした綾乃に、眞紀子が疑惑の目を向けた。
「もう一つ確認するけど、綾乃ちゃんが携帯を拾った時、『弟が失礼した』って電話で謝った人は『宇田川』って名乗ったのよね?」
「はい、そう言ってましたけど、それが何か?」
そこで眞紀子は素朴な疑問を呈した。
「どうして姉弟で名字が違うの?」
「それは……、お姉さんはもう結婚されてるんじゃないんですか?」
一番あり得そうな可能性を口にした綾乃だったが、そこで眞紀子が冷静に突っ込みを入れる。
「その高木とやらと綾乃ちゃんがメールで直接やり取りした時、『当日は姉の合コンに無理やり引きずり込まれた挙げ句、酔った姉を送る途中で携帯を落としたので、合コンでしつこく絡んでいた相手に携帯を抜き取られたと勘違いした』って説明してきたとか聞いたんだけど」
「はい、その通りですよ?」
「既婚者が弟同伴で合コンに参加するの?」
「…………あれ?」
思わず足を止めて首を傾げた綾乃を見て、同様に立ち止まった眞紀子は深々と溜め息を吐いた。
「『あれ?』じゃ無いでしょう……。やっぱり付いて来て良かったわ。何か簡単に騙されそうで、危なっかしくて……」
「ごめんなさい……」
思わずうなだれて謝ってしまった綾乃を眞紀子が慌てて宥める。
「ああ、もう良いわよ。私が付いている限り変な事にはさせないから。勿論、綾乃ちゃんには指一本触れさせませんからね」
「ありがとう、眞紀子さん……。あ……」
ニコッと綾乃が嬉しそうに笑い、眞紀子も釣られて表情を緩めたが、そこで自分越しに綾乃が視線を向けた人物に向かって勢い良く振り返り、睨み付けた。
「げ……」
「うっ……」
「何か?」
綾乃から同伴者がいるとは連絡を受けていたものの、てっきり社内の口の固い友人とかだと思い込んでおり、初対面の時に祐司に強烈な蹴りをお見舞いした眞紀子だとは予想していなかった二人が思わず呻き声を上げた。それを見た眞紀子が如何にも面白く無さそうに睥睨すると、弘樹が焦ってその場を取り繕おうと言葉を絞り出す。
「いや、ええと……、本日はお日柄も良く……」
「夜になってから何ほざいてんのよ。それとも寝言? 目を開けたまま寝言が言えるなんて器用なのね。羨ましいわ」
「眞紀子さん……」
「…………」
戦闘意欲満々で容赦のなく切り捨てた眞紀子の台詞に、綾乃が流石に顔色を変え(やっぱり眞紀子さんにお願いしたのは間違いだったかも……)と、一瞬後悔してから慌てて弘樹と祐司の方に足を踏み出し、その場を取り繕おうとした。
「あの……、遠藤さん、わざわざご連絡頂いてありがとうございました。それに高木さんも、今日はご馳走して頂く事になって、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた綾乃に、男二人も救われた様に微笑んだ。
「いや、大した事ないから。それより、いきなりメールを送って驚かせてごめんね?」
「あの場合、悪いのは一方的に怒鳴った俺だし。お詫びの印に夕食を奢る位何でもないさ。しかしその詫びが、お好み焼きで良いのかどうか……。変な遠慮はしないで欲しいんだが……」
多少不本意そうな表情で言葉を濁した祐司に、綾乃が慌てて両手を振りつつ弁解する。
「遠慮なんかしてないです。あの、私、どうしても食べたくなってしまったもので……。でも住んでいるマンションの近所に、広島風のお好み焼きを出している所が見当たらなかったものですから、ネットで検索して食べに行こうかと思っていたので」
「それなら良いんだが……」
「何か最近、色々気弱になってた所にあんな暴言吐かれて、ホームシックになりかけてたのよね~」
「ま、眞紀子さ~ん」
「…………」
すこぶる非友好的な態度で皮肉をぶつける眞紀子に綾乃は狼狽し、祐司は下手に弁解せず黙り込んだ。そこで弘樹が唐突に口を挟む。
「あ、そうすると綾乃ちゃんって広島出身なの?」
「はい。ずっと地元に居て、大学卒業後に初めて出てきたので、知り合いとか友達も殆ど居なくて……」
幾分恥ずかしそうに綾乃が告げると、弘樹は笑顔で話を続けた。
「ああ、そうなんだ。でも入社してから、それなりに友達とかできたよね?」
「いえ、それがあまり……」
「そうなの?」
ちょっと驚いた表情を見せた弘樹に、綾乃が幾分気まずそうに続ける。
「でもそれは、半分は私が悪いと言うか……、何と言うか……」
幾分表情を暗くしてそんな事を言い出した綾乃に、弘樹と祐司は(別に性格が悪そうには見えないんだが)と思わず顔を見合わせ、眞紀子は険しい表情になって問い質した。
「どういう事? この前の話も歯切れ悪かったけど、何か社内で虐められてるとか?」
「そ、そういう事じゃなくって……」
どう説明すれば良いかと本気で困惑している綾乃に、ここで弘樹が助け船を出した。
「まあまあ、取り敢えずもうすぐ店だから、そこで食べながら落ち着いて話をしようか。俺達は部署は違うけど先輩なんだし、心配事があるなら相談に乗るよ? それなりにアドバイス出来ると思うし、一応社長令息の立場としては、こんな可愛い子が虐められてるのを放置できないしね」
「え? あの、そんな……」
弘樹に笑顔でウインクされながら言われた内容に綾乃が戸惑っていると、横から眞紀子の冷え切った声がかけられた。
「やっぱり付いて来て良かったわ。こんな危なすぎる男にのこのこ付いて行っちゃ駄目よ? 綾乃ちゃん。だけど立ち話も何だし、取り敢えずはお店に行きましょうか」
「え、えっと……」
「……そうですね」
眞紀子に促されて取り敢えず店に向かって歩き出した四人だったが、綾乃が先程眞紀子と話していた内容を思い出し、斜め前を歩く祐司に声をかけた。
「高木さん、ちょっとお聞きしても良いですか?」
「ああ、何かな?」
「高木さんから電話を受けた時、側に居たお姉さんの電話を借りたんですよね?」
「ああ、そうだけど」
「お姉さんの名字は『宇田川』だったと思うんですが。メールで当日の説明を受けた時、ご結婚されて姓が変わったと思ったんですが、それなら合コンとかには行かないかなと、後から不思議に思いまして……」
控え目に疑問を呈した綾乃に、祐司は体を捻って綾乃の方に顔を向けながら小さく笑った。
「ああ、その事か。実は姉の両親は子供の頃離婚してね。姉は父親に引き取られて、母が再婚してから産まれたのが俺で、再婚相手の姓が高木。だから姉は異父姉で、未婚だけど当然俺とは名字が違うんだ」
「そうだったんですか……。すみません、変な詮索をしてしまったみたいで」
プライバシーに不用意に踏み込んでしまった気がした綾乃は、申し訳無く思いながら頭を下げたが、祐司はそれを笑って宥めた。
「気にしなくて良いよ。不思議に思って当然だし。姉は高校以降は向こうの親と折り合いが悪くて、良く俺の家に出入りする様になって、仕事を始める時も俺の父が保証人になったりしたから、普通並みに仲は良いんだ」
「それでさ~、携帯を落とした日、その仲の良い姉ちゃんに『ドタキャンで男が一人足りなくて盛り上がりにかけるから、ちょっとで良いから顔出して。奢るから』って懇願されて渋々出向いたら、こいつ肉食系女とニューハーフの巣窟で酷い目に有ったらしい。あ、どんな酷い目に有ったかは聞かないで察してやって? 何かトラウマになりかけてるらし」
「弘樹……、てめぇ、その回りすぎる舌を切り落としてやろうか!?」
「ちょ、ちょっと待て! ギブギブ!」
「…………」
茶化す様に横から口を挟んできた弘樹の首を、祐司が憤怒の形相で絞めにかかる。必死に解放を訴える弘樹の声を聞き流しながら、綾乃と眞紀子は祐司に同情の眼差しを送ったのだった。
それから店に到着し、お好み焼きにサラダとスープが付いたセットメニューを四人分、男二人はビール、女二人はソフトドリンクを頼んで一段落してから、早速運ばれてきたビール片手に、徐に弘樹が綾乃に声をかけた。
「……さて、と。じゃあ、綾乃ちゃん。頼んだ物が来るまで、じっくりさっきの話の続きを聞かせて貰おうかな?」
この件に関しては眞紀子も聞き出す気満々らしく、弘樹に異議を唱えなかった為、綾乃は諦めて口を開いた。
「その……、実は私、入社以来同期の人達から少し浮いてまして……。付き合いは悪いし流行にも疎いし、地方出身者ですし……」
「はぁ? 何でもかんでも画一的な人間でいなくちゃいけないって事は無いでしょう? 自分と違うから駄目だなんて勘違い女、ハナから無視してれば良いのよ」
素っ気なく言い捨てた眞紀子だったが、続く綾乃の台詞に顔色を変えた。
「それに……『鈍くさい地方出身のあんたが、何で入社できるの。私の友人の方が気が利くし見栄えも良いのに落ちたのよ? どうせコネで潜り込んだに決まってるわ』って……」
「それは……」
「流石にちょっと……」
言い過ぎだろうと非常識な社員に対する非難の表情を浮かべた男二人だったが、その向かい側の席で眞紀子が綾乃に迫った。
「何なのその女!? そんな誹謗中傷を公言するなんて、父に頼んで訴えてやるわ!!」
「眞紀子さん落ち着いて!」
「落ち着いてなんか居られますか! 綾乃ちゃんの名誉がかかってるのよ!?」
「だって私、多分本当にコネ入社なんだもの!!」
段々興奮してくる眞紀子に負けじと綾乃が声を張り上げ、一瞬店内が静まり返った。そして当然の如く、同席している三人が戸惑いの声を上げる。
「はぁ?」
「え?」
「どういう事?」
そしてつい自分が叫んでしまった内容が内容なだけに、肩身が狭い思いをしながら、綾乃がボソボソと話し出した。
「その……、東京に出てから、榊のおじさまの所に挨拶に行ったら、『星光文具の遠藤社長とは友人だから、綾乃ちゃんの事は良く頼んでおいたから。頑張りなさい』って言われて。榊のおじさまと遠藤社長とは、大学時代からの友人みたいです」
「あんのクソ親父、余計な事を……」
眞紀子が鬼の形相で歯軋りすると、その迫力に気押されながら弘樹が綾乃に確認を入れた。
「榊のおじさまって……、ひょっとして榊総合弁護士事務所所長の榊亮輔氏の事?」
「ええ、私の父よ」
綾乃が何か口にする前に、横から眞紀子がズバッと答える。それに幾分顔を引き攣らせながら、弘樹は果敢に話を続けた。
「お父さんは会社の顧問弁護士だし、家でも色々お世話になってるから何度か面識は有るけど、こんな美人な娘さんが居たとは知らなかったな」
「私はあの切れ者の遠藤社長に、こんな間抜け面の息子が居るなんて、一生知らずにいたかったわね」
「…………」
完全に八つ当たりの台詞に、弘樹は賢明に口を噤んだ。横の綾乃が(私が余計な事を言ったばかりに!)と今にも泣きそうな顔で、無言で謝っていた為である。それで基本フェミニストの弘樹は、甘んじて眞紀子の悪口雑言を受けようと、密かに気合いを入れ直した。
「それで……、父と榊のおじさまは大学時代からの親友ですから、当然父と遠藤社長も知り合いですよね?」
しかしその問いかけに、弘樹は本気で当惑した。
「いや……、君島って人の話は、本当に父から聞いた事が無いんだけどな……」
「そうですか? でも確かに、私も父から遠藤社長の話を聞いた事は無いですね」
「それなら親のコネでの入社ではなくて、偶々入社が決まってから、それを知った榊先生が、うちに一言『知り合いの娘さんだから宜しく』と挨拶を入れただけの話じゃないかな? 同じ大学出身って言っても、同学年全員と知り合いって事も無いだろうし」
「そうか……、そうかもしれませんね」
「第一、コネで入社が決まったなら、絶対親父が俺に君の面倒を見るようにとか言いそうだけど、そんなの今まで皆無だったよ? 現に今回のこれで、君の事を初めて知ったし」
「そうですね。私も遠藤さんの事は全然知りませんでした」
「だよね? 社内では結構有名人だと自負してたんだ」
「すっ、すみませんでした!」
「いやいや、気にしなくて良いよ」
そんな話をしているうち段々安堵したらしく、綾乃の表情が目に見えて改善した為、周囲の者達も揃って胸を撫で下ろした。ここで祐司が、何やら考え込みながら口を開く。
「でも……、確かに地方大学出身で、いきなり東京本社勤務になったら、よほど強力なコネがあるのかと勘ぐられても仕方がないな。偶々運が良かった訳だから、それ位の邪推は甘んじて受けないと」
「そうですね。あまり気にしない事にします」
「だけど、地元で就職しようとは思わなかったの?」
「地元で就職先を探すと、百%コネ入社になりますから。現に普通に採用試験を受けたら、二十社から内定を貰いました」
「はぁ?」
「この不景気に何の冗談だ?」
予想外の話に男二人は目を丸くし、眞紀子は一人、頭を抱えた。それを見ながら、綾乃が恐縮気味に話を続ける。
「そんな明らかに利益誘導を狙った採用は嫌だったので、せめて大阪で就職しようと思ったら、近くに頼れる人間が皆無の所は駄目だ、せめて東京で就職しろと言われまして……」
そこで弘樹は、半ば呆れながら率直な感想を漏らした。
「気持ちは分かるけど……、それはちょっと贅沢だね。今時、それだけ内定を貰えるなんて、落ちまくってる連中に聞かれたら刺されるよ? コネだろうが何だろうがありがたいと思って、適当に腰掛け程度に働いていれば楽……って!」
その時左脛に強烈な衝撃と痛みを感じた弘樹は、向かいの席の眞紀子を涙目で睨んだが、殺気混じりの視線に怒りを抑えた。そんなやり取りを横目で見ながら、祐司が質問を続ける。
「東京になら、頼りになる親戚とかが居るとか?」
「榊のおじさまとは昔から家族ぐるみでお付き合いしてましたし、会期中は議員宿舎か別宅のマンションに父が居ますから。四月からは時々、私のマンションにも泊まりに来てます」
サラッと綾乃が説明した内容に、男二人の顔色が変わった。
「ちょっと待って。議員宿舎?」
「会期中って、まさか……」
ある可能性を考えて青ざめた二人だったが、眞紀子は淡々とその考えを裏打ちする事実を述べた。
「綾乃ちゃんのお父さんは、広島県選出の君島東志郎代議士よ」
「あのバリバリタカ派の君島議員が、君のお父さん?」
「胆力迫力は国会議員随一と名高い、あの?」
「……はい」
少々居心地悪そうに頷いた綾乃を見て、絶句した二人は、(それなら地元企業は、内定を出すよな)と納得した。そして何秒か沈黙が漂った後、祐司が結論を出した。
「そうなると結局、お父さんや榊さんが社長に君の就職を頼んだ可能性は、低いんじゃないか? 明日から、職場で堂々としていれば良いよ」
「それは、そうなんですけど……。最近課長に怒られる事もしてしまいまして」
「何か失敗でも?」
「職場で、これと同じ物を使っていたんです」
歯切れ悪くバッグから取り出した物を見て、思わず祐司は無言になった。それを横から覗き込んだ弘樹と眞紀子の間で、再び論争が勃発する。
「普通のボールペンじゃない。これがどうかしたの?」
「榊さん、これ、何だかご存知なんですか?」
「知ってるわよ。クラウンのナイスディシリーズでしょ? 使い易いから、私もずっと使っているもの」
「うちのライバルメーカーの商品なんですが?」
「…………」
溜め息を吐きつつ指摘してきた弘樹に、流石に眞紀子が無言で綾乃を眺め、そんな三人の視線を一身に浴びながら、綾乃が恐縮気味に説明を始めた。
「職場でそれを使っていたら、同期の人にいきなり腕を掴まれて上に上げられて、『ライバルメーカーの商品を、堂々と使ってる人が居ますよ? 信じられない!』と大声で叫ばれました」
「何よそれ! 注意するにしても、晒し者にする事は無いでしょう!?」
「それで、『私はちゃんと売り出したばかりのライティを使ってますよ? 愛社精神の欠片もない部下なんて、迷惑なだけですよね?』と課長に話を振って」
「それで? 大勢の人の前で叱られたわけ?」
「……はい」
それを聞いた祐司と弘樹は揃って額を押さえて項垂れ、眞紀子は難しい顔をして考え込んだ。
「綾乃ちゃんは、どうしてそのライティって商品を使っていないの?」
「会社からの支給品を使ってみたんですけど、軽すぎて、今一つ書き味が良くない気がして」
「それなら今、現物を持って無いわよね?」
「ええ」
「持ってるよ? 良かったらどうぞ、差し上げます。ついでに書き味を試してみて?」
「あら、ご親切にどうも」
すかさず鞄から、見本として持ち歩いていたレモンイエローのメタリック調のボールペンと、白い紙を取り出した弘樹に、眞紀子は僅かに眉を寄せながら素直に受け取った。そして一瞬考え込んでから、数字の羅列をサラサラと書いて、手の動きを止める。
「……軽い」
「だろう? 書き仕事に従事している女性をターゲットに、色々試行錯誤して」
「軽すぎるわ。しかも細くて持ちにくい」
「え?」
吐き捨てるように断言した眞紀子に弘樹が思わず絶句したが、それに構わず彼女が二人を睨み付けた。
「これ、形状、色、共にファッション性重視で、書き手の事を考えて無いわね。幾らなの?」
「税抜きで、一本千五百ですが……」
恐る恐る祐司が販売価格を口にすると、眞紀子が明らかにバカにした口調で反論した。
「こんなのに千五百円払う馬鹿が、どこにいるってのよ!?」
「いや、しかし! これは特殊合金使用で、色々原価がかかっていて!」
「開発に金をかければ、良いって物じゃないわよね! 確かに仕事に使う物に愛着を持って、大枚注ぎ込む人は多いけど、こんなのに誰が注ぎ込む気になるのよ! この外見からして、最初は流行りに敏感な女子高生辺りをターゲットにしたけど、価格が高く設定しないと元が取れないから、後からOL狙いに方針転換したんじゃないの?」
「…………」
途端に黙り込んで微妙な顔を見合わせた男二人を、眞紀子は鼻で笑った。
「図星? そんなユルユルのコンセプトで、売れると思う方が間違ってるわ!」
「だが、社内でも対象の女性達に意見を募って、これはいけると判断して」
必死の形相で弘樹が反論しかけたが、眞紀子がそれを一刀両断した。
「社内で意見集約だぁ? そんなのちょっと見た目の良いイケメン社員が『君達、これどう思う?』とか聞いて回ったら、雪崩を打って『とっても良いです、最高です! 絶対売れますよ!』とお愛想振り撒くに決まってるわよ。勿論、よぼよぼの枯れた爺さんが聞いて回ったんでしょうね?」
「…………」
眞紀子のその台詞に、男二人は沈黙で応えた。それに不服そうに眞紀子が顔を顰める。
「何、揃って黙り込んでるのよ?」
「……眞紀子さん」
「何? 綾乃ちゃん」
「その……、確か遠藤さんは商品開発部勤務で、高木さんは営業部勤務で……」
それを聞いた眞紀子は、軽く目を見開いてから声を張り上げた。
「それじゃあ、まさかこの人達、こんなヘナチョコ商品作って、売り出してる張本人?」
「眞紀子さん、声が大きいですっ!」
二人を気にしながら、涙目で訴えた綾乃だったが、眞紀子は物騒に目を細めながら断言した。
「……読めたわ。綾乃ちゃんの同期は、こいつらに媚びを売る為に、綾乃ちゃんが他社のボールペンを愛用してるのをワザと暴露して、晒し者にしたのよ!」
「ええ? どうしてですか?」
ビシッと男二人を指差しつつ断言した眞紀子に、当事者二人は当然の事、言われた綾乃も目を丸くした。しかし眞紀子は腹立たしげに持論を展開する。
「綾乃ちゃんを悪者にしてこき下ろしておいて、自分を愛社精神旺盛な健気な社員として名前を売る為よ。そうでなければ常識的には、個人的に注意したり窘めたりする位よ」
「でも、そんな……」
すっかり動揺しつつも、おろおろと眞紀子を宥めようとした綾乃だったが、相手は聞く耳持たなかった。
「大方、コネ云々で因縁付けてたのも、同じ子じゃない?」
「確かにそうですけど……」
「やっぱりね」
そして些かわざとらしく溜め息を吐いてみせた眞紀子は、綾乃に言い聞かせた。
「綾乃ちゃん。この前は仕事を辞めるなんて止めなさいと言ったけど、前言撤回させて貰うわ。星光文具なんて辞めなさい。辞表の書き方位幾らでも教えてあげるから。こんなアホとその取り巻きが幅を利かせている会社なんて、長いこと無いわ。万が一、こいつが社長になったら、すぐに潰れるわよ? 好き好んで沈む船に乗り続ける必要は無いわ」
「あの、でも、眞紀子さん!」
「ちょっと! 幾ら何でも失礼でしょうが!?」
流石に弘樹が声を荒げて立ち上がり、眞紀子もやる気満々で立ち上がったところで、店員がお盆を捧げ持ちながら脳天気な声をかけてきた。
「お待たせしました~。こちら、おすすめセット四人分になりま~す」
「眞紀子さん!」
「……ったく」
綾乃に涙目で懇願され、眞紀子は渋々矛を収めても椅子に座ると、店員が二人がかりで素早く料理をセットして頭を下げた。
「それではごゆっくりお召し上がり下さい」
そして目の前の鉄板から立ち上る食欲をそそる香りに、弘樹は機嫌を直して祐司に向き直り、笑って礼を述べた。
「じゃあ色々言いたいことはあると思うけど、まず頂こうか。悪いな祐司、俺まで食わせて貰って」
「お前は単なるついでだ。黙って食え」
「じゃあ綾乃ちゃん、眞紀子さんも遠慮なく食べてね?」
「気安く女性の名前を呼ぶな! それにお前の奢りじゃないぞ……って、あの……、どうかしたのか?」
「え? ちょっと……」
「…………っ」
二人が何気なくテーブルの向かい側に目を向けると、それまで狼狽しながらも涙目だった綾乃が、堪えきれなくなったように無言のまま泣き出していた。当然動揺した二人が、口々に子細を尋ねる。
「綾乃ちゃん!? どうかしたの?」
「急に気分でも悪くなったのか?」
「……すみません、私」
「もう良いわ! 綾乃ちゃん、帰るわよ!」
そこでいきなり眞紀子が憤然として立ち上がり、綾乃の腕を引っ張った。
「眞紀子さん、でも!」
「こんな茶番に、これ以上付き合う必要は無いわ。さあ、行くわよ?」
「ちょっと待って下さい! 茶番ってどういう事ですか!?」
慌てて祐司が腰を浮かせながら問い質したが、眞紀子は冷たく言い捨てた。
「本当に謝罪したかったら、それなりの誠意は見せるのが筋よね? 綾乃ちゃんとは逆に私は大学が広島で、彼女の家に下宿させて貰ったのよ。その時の経験から言わせて貰うと、これは断じて広島風お好み焼きじゃないわ!!」
「え?」
「いや、だって」
眞紀子がお好み焼きを指差しつつ言い放った言葉に、男二人は当惑したが、彼女はそれには構わず綾乃を引きずって撤収し始める。
「さあ、綾乃ちゃん行くわよ! 故郷を想ってべそべそしてないで!」
「高木さん、すみません! あの、本当にもう謝って頂くのは結構ですから!」
「綾乃ちゃん、相手にしちゃ駄目よ! そんな無神経男!」
「でもっ!」
苛立たしげに言い聞かせる眞紀子に、綾乃が抵抗しながらも引きずられて店の外に姿を消し、呆然とその姿を見送った弘樹と祐司は、怪訝な顔を見合わせた。
「そうは言われても……、何が拙いんだ?」
「広島風お好み焼き、だよな……」
目の前でまだ温かいそれを見下ろしながら二人は途方に暮れたが、弘樹が祐司に確認を入れた。
「これからどうする? もう謝罪は良いって言われたけど」
「ここで『はい、そうですか』って引いてたまるか。あんな風に泣かせる羽目になって、気分が悪い」
「だよな? これは二重に、お詫びしないとな?」
弘樹がそう言って生真面目な友人に笑いかけると、祐司は真顔で現実問題を口にした。
「取り敢えずの問題は……、これを片付ける事だな」
「一気に現実に引き戻すなよ」
項垂れた弘樹に、祐司が尚も真顔で続ける。
「残す真似ができるか。勿体ないし失礼だ」
「多少残っても金を払うんだから、店も文句は言わないだろう?」
「店にもだが、食材と、それを作った生産者に対してだ」
そうきっぱり答えた祐司に、弘樹は彼の実家の家業を思い出した。
「お前の実家、今時珍しい専業農家だったな……」
「緑豊かな、近郊農場経営と言ってくれ」
「それじゃあ気合い入れて、二人分食べるさ。こんな事でお前に嫌われたく無い」
「頼む。明日以降仕切り直しをするから、また手を貸してくれ」
「了解」
もはや苦笑いするしかなかった弘樹は、久し振りに自分の胃袋の限界に挑戦する事になった。