表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
子兎とシープドッグ  作者: 篠原 皐月
【本編】
17/26

(17)怒れる虎

 土曜の昼過ぎ、綾乃はいつも買い物をするスーパーに立ち寄り、必要な食材を購入してから白いビニール袋片手に電車に乗り込んだ。そして約二十分後、降り立った駅構内から表通りへ抜け出た綾乃は、携帯のナビ画面と周囲の景色を交互に見ながら、目的地に向けてゆっくりと歩き出す。


「えっと、幸恵さんから教わった住所だと、高木さんが住んでるマンションはこの道をまっすぐ……」

 最初は見知らぬ土地を歩く事に緊張していたものの、目指す場所に近付くにつれ、徐々に自分の行動自体に怖じ気づく綾乃。

「うぅ……、でもやっぱり手料理作りに行くなんて恥ずかしいんだけど、はっきり口に出すのも恥ずかしいし……」

 頭の中でそんな堂々巡りになりかけた考えを、綾乃は右手に提げたビニール袋を見下ろす事で「うん、頑張ろう」と自分自身に気合いを入れて断ち切った。そして携帯画面の地図を確認してから、道路の反対側に目を向ける。


「じゃあここを渡って、あそこの角を曲がった所に……、え? 高木さん?」

 向かい側の歩道に見慣れた姿を見つけた綾乃は、一瞬表情を明るくしたが、すぐにその顔に戸惑いの色を浮かべた。明るい色彩のシャツにデニムパンツ姿と言う、ラフな姿の祐司を見て戸惑った以上に、横に並んで歩いている女性が存在していたからである。

 しかも祐司は綾乃が持参したのと同様の、食材らしき物を詰め込んである半透明のビニール袋を両手に提げており、連れの女性と談笑しながら綾乃の視界を横切り、曲がり角を曲がって綾乃が目指す方向へと進んで行った。


「えっと……、ひょっとして、近くに住んでいるお知り合いの荷物を持ってあげてるとか?」

 半ば呆然としながら綾乃が呟いた言葉は、この場に第三者が居たならば「そんな訳無いでしょう、この大ボケ娘!」と盛大に突っ込みを入れられる事確実だったが、綾乃は幾分混乱したまま、目の前の信号が青に変わった事を受けて目的地に向かって再び歩き出した。


「後を付けるわけじゃ無いけど……、進行方向が同じだし、不可抗力だよね?」

 そんな弁解じみた独り言を漏らしつつ、何となく前方を進む二人に気付かれない様に、あちらこちらの電柱やら看板やらにさり気なく姿を隠しながら進む姿は、端から見れば不審者扱いされても文句が言えない代物だったが、綾乃はそんな事に構っていられる心境では無かった。

 そしてあれよあれよと言う間に、二人は綾乃が目指していた低層マンションに辿り着き、迷う事無くエントランスから奥の通路へと進んで行った。それを入り口のガラス戸越しに確認した綾乃は、見てはいけなかった物を見てしまった様に、気まずそうに来た道を引き返し始める。


「ここって単身者様の賃貸マンションだって幸恵さんが言ってたし……、やっぱり高木さんの部屋に行ったんだよね。お料理、作ってくれる様な人が居たんだ……」

 そこまで言って、思わず綾乃は足を止めた。

「私、からかわれてたのかな?」

 その真剣な呟きは、すぐに涙声に取って代わられた。


「……ううん、高木さん真面目そうな人だし、違うよね。単に私がぐずぐずして返事を先延ばしてたから怒っちゃって、他の人と付き合い始めたんだよね。当然だわ」

 祐司が耳にしたら「何を曲解している!」と怒鳴りそうな事を、綾乃は涙ぐみつつ独りで納得して再び歩き出した。そして更に自分の考えを、変な方向に向けて進めていく。


「良く良く考えてみたら……、幸恵さんみたいな美人と別れちゃったのも不自然だけど、私と付き合おうとしたのはもっと不自然だもの。あれは多分、ちょっとした気の迷いだったのよ。だって今の人、幸恵さんと比べても遜色ない落ち着いた感じの美人で、とてもお似合いだったもの」

 そこで綾乃はあっさり乗り換えられたという事実(勿論見当違い)にも関わらず、人の良さ丸出しで祐司の心情を推察して溜め息を吐き出す。


「きっと高木さん、新しい恋人ができて、私の事をどう断ろうかって困ってるよね?」

 そんな事を呟きながらトボトボと駅に戻る綾乃は、思わず途方に暮れた声を出した。

「どうしよう……。あの人の事を言わないって事は、一応私が傷付かない様にって、気を遣ってくれてるんだよね? それなのに私の方から『もう新しい恋人ができたみたいですから、あの話は無かった事にして下さい』なんて正直に言ったら、高木さんが気を悪くするかもしれないし……」

 そして今日の段取りを整えてくれた幸恵の事を思い出し、綾乃はとうとうポロポロと涙を零し始めた。


「ふうぅっ……、幸恵さんがせっかく考えてくれたのにっ……、無駄になっちゃった……」

 周囲からの好奇に満ちた視線など考える余裕も無く、盛大に目を擦りながら自宅まで戻った綾乃の顔は、本人の自覚は皆無だったが目の周囲が見事に腫れ上がり、酷い有り様になっていた。

 更に綾乃にとって間の悪い事に、翌日の昼は秘書の蓼原を連れて、父の東志郎が綾乃の部屋を訪問する予定になっていた。


「……いらっしゃい、お父さん、蓼原さん。お昼の支度は出来ているから」

「やあ、俺の可愛い兎ちゃ……」

「綾乃お嬢さん、お邪魔し……」

 玄関に迎え入れて貰った途端、不自然に黙り込んだ父親とその秘書を見て、綾乃は不思議そうに促した。

「二人ともどうしたの? 中に入って?」

「……ああ」

「……お邪魔します」


 前日から今朝にかけて散々「高木さんの顔を潰さない様に、どうやってお断りしよう」とか「幸恵さんにせっかく力になって貰ったのに、無駄足だったなんてどう説明しよう」などと独りで悶々と涙ぐみつつ考え込んでいた為、綾乃の顔は腫れぼったい上、血色も悪くなっていた。流石に朝には鏡を見て気になったものの、昼に父達が食事をしに来る事を思い出し、午前中調理に専念していた為、酷い顔になっているとの自覚はすっかり無くなっていた。

 しかし常日頃、人の表情の裏を読む事を生業としている二人の事、何か有ったのが明白な綾乃の様子に君島は密かに怒りを堪え、蓼原は無言で額を抑えた。


(どこのどいつだ、綾乃を泣かせやがったのは!?)

(お嬢さん……、だから素直なのは美点ですが、素直すぎるのは欠点ですから……)

 そんな内心を押し隠し、二人は綾乃に勧められるままテーブルに着き、表面上は綾乃の手料理に舌鼓を打った。そして当たり障りの無い世間話をしながら半分程食べ進めた所で、君島が徐に口を開く。


「そう言えば……、和臣から聞いたが、荒川家との顛末を聞いたそうだな。話すのが遅くなって悪かったな」

 その話題に、それまでどこか心ここに在らずと言った風情で受け答えしていた綾乃が、勢い良く反応した。

「ああっ! そうよ、お父さんもちぃ兄ちゃんも、そういう大事な事はもっと早く話してよ! おかげで色々大変だったんだからね!?」

「すまんすまん、それで幸恵さんとはその後どうだ? 仲良く出来ているかな? それに色々大変だったと言うのは、何が大変だったんだ?」

 その何気ない問い掛けに、綾乃の顔が僅かに引き攣った。

(えっと……、この話しぶりだと、お父さんは私が当初幸恵さんに邪険にされてた事とか、幸恵さん経由で身元がバレて、社内で爪弾きにされてた事とかは伝わって無いんだよね? ちぃ兄ちゃん、信じて良いよね!?)

 この場に居ない次兄の顔を思い浮かべつつ、綾乃は精一杯普通の笑顔を取り繕って答えた。


「う、うんっ! この前は幸恵さんの分もお弁当を作って持って行って、一緒に食べたのっ! それで『料理が上手なのね』って、誉めて貰ったし!」

「ほう? そうか、それは良かったな。彼女とはお義母さんの四十九日法要の時以降顔を合わせていなかったし、荒川家の方々も『あの子が未だに頑なで申し訳ない』と言っていた位だから、ひょっとしたら綾乃を目の敵にするかと思っていたんだが……」

 僅かに不思議そうな視線を向けてきた父に、綾乃は益々焦りながら言葉を継いだ。


「そんな事無いから! だって幸恵さんは私と比べ物にならない位、美人で仕事もバリバリできる大人の女性だよ? 幾ら気に入らないからって、職場で嫌がらせする様な事しないから。あの公明正大なお母さんの姪なんだし、有り得ないよ」

「まあ……、それはそうかもしれんな……」

 愛妻を引き合いに出されても、まだ納得しかねる様な表情を見せた君島に、綾乃は思うまま言葉を継いだ。

「本当に幸恵さんは親切だよ? 色々親身になって相談に乗ってくれたし、住所とか好きなお料理とかまで事細かく教えてくれたし!!」

「ああ、分かった分かった。綾乃、そう叫ぶな。お前と幸恵さんが仲良くしてるのは十分分かったから」

「そ、そう? それなら良いんだけど……」

 思わずテーブル越しに身を乗り出し、力一杯叫んだ綾乃を、君島は些閉口しながら宥めた。そして漸く納得してくれたかと綾乃が安堵した直後に、君島がさり気なく爆弾を落とす。


「それで? 幸恵さんに教えて貰ったのは、『誰の』住所で『誰の』好きな料理なんだ?」

「それは勿論、た」

 素直に綾乃が答えかけ、真っ青になって口を噤んだ瞬間、室内の体感気温が確実に五℃は下がった。

「それは勿論、誰だ? 綾乃?」

 表面上は穏やかな笑顔で優しく娘に尋ねる君島だったが、その眼光の鋭さで身内である綾乃や、長年側に使えている蓼原には、今の君島がどれだけ危険な存在か、嫌と言うほど理解できた。


「たっ……」

「た?」

 そして追いつめられながらも、何とか頭を回転させた綾乃が、精一杯のごまかしの台詞を口にする。

「たっ、助け合いの精神を発揮して、風邪で休んでいる同じ職場の女性の先輩の所に、食事を作りに行きまして! たっ、偶々、その先輩が幸恵さんと同期だったものですから、色々とご相談に乗って貰いましたっ!」

(高木さんに付き合ってくれと言われた事とか、返事代わりに食事を作りに行こうとした事とか、そうしたら別な人と既にお付き合い済みだったなんて言ったら、絶対お父さんが怒る! そして下手したら「そんな奴の居る会社なんか止めろ!」って切れて、強制送還になるかも!)

 無意識に立ち上がって必死の面持ちで一応それらしい話をでっち上げた綾乃を見て、蓼原は思わず彼女を感慨深く見上げた。


(お嬢さん……、親元を離れて社会人として働き出して、こんな口からでまかせが言える程度には鍛えられたんですね。ご立派になられて……。惜しむらくは、先生にはまだまだ通用しないレベルですが、これからもお仕事頑張って下さい)

 思わず涙ぐんだ蓼原の横で、綾乃のその場しのぎの嘘など見切っている筈の君島は、何故かそれ以上追及せず、あっさりと話を終わらせた。


「……そうか。職場内での人間関係も大切だからな。先輩なら仕事上で色々お世話になる事も多い。困った時はお互い様だろうしな」

「そっ、そうだよねっ!」

 そのやり取りに蓼原は驚いた様に君島を見やったが、君島は秘書を目線だけで黙らせ、何事も無かったかの様に食事を続行させた。


 そして無事に食べ終えた二人は綾乃に見送られてマンションを離れたが、乗り込んだ車が発車すると同時に、君島が低い声で隣に座る蓼原に問い掛けた。

「例の綾乃に関わる人物の、調査結果は出ているんだろうな?」

「はぁ……、出ておりましたが、臨時国会の会期が明けてからお見せしようかと考えて」

「と言う事は、お前は既にその内容を把握しているわけだな?」

 ギロリと睨まれた蓼原は、早々に抵抗を諦めた。

「……今、ご覧になりますか?」

「勿体ぶらずにさっさと見せろ」

「少々お待ち下さい」

 そうして蓼原が鞄から引っ張り出したモバイルPCを起動させ、数あるファイルから一つを選択した。


「あの口ぶりでは、絶対に綾乃が弁当を作って渡したり、自宅まで行って食事を作る様な人間が居る筈だ。しかも幸恵さんにアドバイスを貰ったのなら、同じ社内の人間だろうしな……」

 自分の横でブツブツと憤懣やるかたない口調で呟く雇用主に僅かに恐怖を覚えつつ、蓼原はある報告書を呼び出して君島の方に画面を向けた。


「おそらくこの人物では無いかと。遠藤社長の息子さんとも若干噂になっていますが、妹みたいに可愛がって貰っているみたいですね」

 話を逸らす様に蓼原はわざとらしく別な人物に対しての所見を述べてみたが、君島は報告書の一点を凝視したまま盛大に唸った。

「遠藤の息子なんぞ問題外だが……、この男も許せんな。絶対綾乃の様子がおかしかったのはこいつのせいだ。……しかも、幸恵さんと交際して去年別れているだと? 二重の意味で許し難い」

(……だから報告したく無かったんだ。これは確実に報復措置コースだな)

 そんな事を思ってうなだれた蓼原に、予想通りの声がかけられた。


「蓼原、事務所に戻ったら、すぐに人員を手配しろ。計画立案は長谷川に任せるから、お前は要請された人員と資金と物資を滞りなく長谷川に回せ。分かったな?」

「了解しました。早速、長谷川に伝えます」

 そして蓼原は携帯を取り出しながら、(一応、公設秘書も私設秘書も動員しないから、理性は残ってるんだよな? それなら高木とやらもあまり酷い事にはならないか。会期中だから流石に先生もプライベートの事に全力で取り組むわけにいかないと、自重しているらしい。命拾いしたな)などと考えつつ、君島には分からない様に小さく溜め息を吐いたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ