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子兎とシープドッグ  作者: 篠原 皐月
【本編】
14/26

(14)迷走する噂

 衝撃の懇親会から一夜開けた翌日。午前中の業務を終えた公子と香奈と綾乃が社員食堂に出向くと、ガラス戸を抜けて中に入った瞬間、ざわめいた食堂が静まり返った。


「はぁ……。視線がうっざいですねぇぇ~」

「別に悪い事をした訳では無いし、行くわよ」

「は~い」

「は、はいっ!」

 淡々と指示をして歩き出した公子に、小さく肩を竦めた香奈と、気後れ気味の綾乃が続く。その動きと共に食堂内の静けさが取り払われたが、代わりに居心地の悪い視線を三人が浴びる事になった。しかし公子と香奈はそれに怯むどころか綺麗に無視し、注文の品を受け取って空いているテーブルに腰掛ける。


「君島さん、一々気にしないの。人の噂も七十五日って言うわよ?」

「はぁ……」

「だけど笹木さんの告白にはびっくりでしたよ。もう朝から……、じゃなくて昨日の夜から、笹木さんを陰でコソコソ愛人呼ばわりしていた人達、顔が真っ青になってましたからね」

 まだうろたえつつ頷いた綾乃だったが、香奈は箸を取り上げつつ訳知り顔で頷いた。しかしそれにも別段感銘を受けなかったらしい公子が、焼きうどんを冷静に食べ始める。


「今更よね。誰が何を言ってたかなんて、とうに分かってるのに。それで腹を立てるなら、とっくにその人達は退職してるわよ」

「ですよね? 朝から変にゴマをするわお愛想笑いはするわ、鬱陶しくありません?」

「勤務評定を下げるだけよ」

 それを聞いた香奈は、左手で軽くテーブルを叩きながら笑い出した。


「やっぱり笹木さん、最高! このタイミングで会長との事実婚と正式入籍を公表しちゃったから、君島さんと荒川さんの噂も、どっちかと言えば二の次になっちゃいましたし」

「あのっ! まさか私達のせいで、公表する事にしたんですか!?」

 流石に聞き流せない内容に、慌てて綾乃が会話に割り込むと、公子は苦笑いしながら事情を話し出した。


「少しは関係が有るけど……、元々、そろそろ公表するべきかなとは思っていたのよ」

「あら、どういう心境の変化ですか?」

 思わず興味津々で身を乗り出した香奈にチラッと目を向けてから、公子は皿を見下ろしながら独り言の様に続けた。


「良子に……、娘にね、英幸さんに認知はして貰ってるけど戸籍上は親子じゃないし、見た目もそうじゃないから、人前では英幸さんの事は『おじいちゃん』って呼びなさいと言ってたの」

「えっと……、でもそれは……」

「まあ、変な目で見られない為には、それが無難でしょうが」

 余所様の家庭の事であり、どこまで口を挟んで良いのか咄嗟に判断が付かず、綾乃と香奈が顔を見合わせて黙り込むと、公子は小さく溜め息を吐いてから話を続けた。


「それに関して、良子がこれまで不満を口にした事は無いんだけど、この前英幸さんが風邪をひいて体調を崩して寝込んでいる時に言ってるのを聞いちゃったのよ。『ずっとお友達に嘘を言いたくないから、長生きして結婚式に出てね? 結婚式ならお父さんをお父さんって言ってもお母さんは怒らないと思うし』って。それを聞いてちょっと反省してね。自分が意地を張っているせいで、娘に余計な気を遣わせてたなって」

 そこで僅かに重くなった空気を払拭するべく、香奈が素朴な疑問を口にした。


「あの~、そもそもどうして事実婚だったんですか? 聞いた話では、会長の奥様って確か早く亡くなって、会長は二十年位前に独り身になってますよね? 娘さんの年齢からすると、そういう関係になったのは十数年前でしょうから、当時入籍しても問題は無いのでは?」

 その問いに、公子は顔をしかめた。

「単に、私のプライドの問題よ。ここに入社した時、一生勤め上げると自分自身に誓ったものでね。英幸さんと直接出会った時は三十四で、結婚なんかにはとうに見切りを付けて、仕事が面白くなってた頃だし。それなのに、当時社長だった英幸さんと結婚なんかしてみなさい。まともに働けなくなるでしょうが」

「それはそうでしょうね。第一周りがやりにくいです」

「だからそれを理由にプロポーズを断った上、一緒に暮らすなら家事分担をキチンと出来る人じゃないとねって言ってやったら、社長業の合間に家政婦養成所に通って、二年後に得意満面で修了証持参でまた口説きに来たのよ。しかも事実婚で良いし社長の椅子は息子に譲るって言ってね」

 半ば呆れ果てた口調で告げてから公子が食べるのを再開すると、香奈が如何にも楽しそうに笑った。


「うっわ、会長凄い! 執念ですね~。そして笹木さん愛されてますね~。家では会長が主夫してるんですか?」

「そうよ」

 その淡々と言われた台詞は香奈は笑いのツボに入ったらしく、香奈は右手で口元を押さえ、左手でテーブルをバンバン叩いて周囲の視線を更に集めた。それで香奈の代わりに綾乃が質問を続ける。


「それで、職場内には内緒で結婚したんですか?」

「主だった上司達には報告したし、幹部クラスは英幸さんから話を通したわ。結婚は諦めてたけど子供は欲しかったから、ギリギリ四十手前で良子を産んだの。因みに英幸さんが六十七の時よ」

「……会長、頑張りましたねぇ」

 香奈が思わず遠い目をしながら突っ込みを入れた内容を、公子はあっさりとスルーして小さく肩を竦めた。


「対外的には未婚の母になったけど、別に恥じる所は無いし後悔してもいないけど、娘の心情までは思い至らなくてね。母親失格だなと思わされたわけ」

「そんな事は無いと思います」

「昨日チラッと見ただけですが、仲の良いご家族だと思いましたよ?」

 真顔の後輩達からの真摯な言葉に、公子は嬉しそうに僅かに顔を緩める。

「ありがとう。そんなこんなで、いつまでも意地張ってないで、多少煩わしい思いをするけど、この際に公表しようと考えたのよ。『自分がされて嫌な事を人にしてはいけませんって言われなかった?』って賢しげに口にしたくせに、自分に関する事だけ保身の為に口を噤んでいるわけにいかないでしょう?」

 そう同意を求められた香奈は、何気なく食堂内に目を走らせてから、しみじみとした口調で言い出した。


「そうですよね~。もう一方の当事者の荒川さんも、相当好機の目線で見られてる事確実ですし。社員食堂に来てないみたいですけど、外に食べに行ってるのかな?」

「お弁当とか買ってきても、自分の机で落ち着いて食べる雰囲気では無いでしょうしね」

「ちょっとキツいかもしれないですよね? 企画開発部って殆ど男性で構成されてるますし。その中で徐々に頭角現してたのに、絶対『叔母のコネで入社して、社長に目をかけて貰ってる』とかやっかまれてますよ?」

「でしょうね。でもあそこの部長はしっかりしてる人だから、彼女の事は正当に評価してるわよ?」

「それはそうですけど、職場全員が正当な評価をしてくれるとは限らないじゃないですか」

「ちょっとした軋轢で潰れる位なら、所詮それだけの人間って事よ」

「これまで散々噂の的になってた笹木さんが言うと、重みがありますよね~」

 訳知り顔で先輩二人が話す内容を、綾乃は半ば呆然とした表情で聞いていたが、その様子を眺めた公子が唐突に話を振ってきた。


「それはそうと、君島さんはどうするの?」

「う、うぇっ!? はいっ! すみません、何がでしょうか?」

 ある事について考え込んでいた綾乃が、急に話し掛けられて慌てて尋ね返すと、公子は些か意地の悪い笑みをその顔に浮かべながら問い質してきた。


「だから、荒川さんのご実家とあなたの家の事は取り敢えず解決したし、高木さんとの事をどうするのかって事よ」

「あ、そうそう! 昨日の懇親会での衝撃度の位置付けは、『笹木さんが実は会長夫人』告白に続いて、『高木さんの告白&お預け』事件なんだから! 社内中の噂の的になってるのよ?」

「え、えぇっ!?」

 途端に目をキラキラさせて自分に迫ってきた香奈に、綾乃が盛大に声を裏返させて狼狽すると、横から公子が冷静に話を続ける。


「てっきり高木さんに家まで送って貰ったと思ったのに、今日聞いたらお兄さんに送って貰ったんですって? 高木さん、意外に甲斐性無しなのね」

「笹木さん、それは仕方ありませんよ。まだ付き合ってもいないのに、お兄さんの目の前からかっさらって行くってあり得ませんから。その場で敵認定確実ですよ?」

「それはそうかもしれないけど、それをどうにかするのがデキる男ってものじゃないの?」

「笹木さん……、男女関係についてもシビアですね」

「あ、あの……、今すぐ返事をしないといけないでしょうか?」

 香奈と公子の会話に綾乃が恐る恐ると言った感じで割り込むと、二人は怪訝な顔で綾乃に顔を向けた。


「それはまあ……、早いに越した事は無いんじゃない?」

「断りにくくても、ビシッと言わなきゃ駄目よ? 曖昧に言ってると、男って自分に都合の良い方に解釈して、つけあがるから」

「こ、断るとかそうじゃなくて! まだ他に集中したい事があるので、それが済んだら改めてきちんと考えようかと……」

「え? この期に及んで何を考えるのよ?」

「荒川さんの事でしょう?」

 怪訝な表情を崩さなかった香奈とは対照的に、公子は分かっていると言う様に頷いた。すると綾乃が如何にも面目なさそうに、俯き加減で訴える。


「はい……。結果的に、私のせいで、職場内で気まずい思いをさせてしまっているみたいで……。申し訳無かったと」

「第三者の立場から言わせて貰えば、自業自得だと思うんだけど。しかも間接的に嫌がらせされてたのに、気遣う義理も必要も無いんじゃない?」

 僅かに腹立たしげに切り捨てた香奈だったが、公子は年長者の余裕で宥めた。

「まあまあ、それが君島さんの良い所だと思うし。それで? 荒川さんの職場での風当たりとかを弱めたいわけね?」

「そうなんですが……、これと言った対策が思い浮かばなくて……」

 益々面目なさそうにうなだれた綾乃を見て、公子は少しの間何やら考え込んでから、にこやかに提案した。


「それなら一つ、知恵を貸してあげましょうか? 今回の騒動は、私にも原因が有るしね」

「本当ですか? 是非お願いします!」

 そして嬉々として公子の案に乗ろうとしている綾乃を眺めながら、香奈は(良いのかな~、何か笹木さん、絶対面白がっている気がするんだけど)と一抹の不安を覚えたのだった。


 社員食堂でそんなやり取りがあった翌日。周囲からの居心地悪い視線を精一杯気にしない様にしながら仕事をしていた幸恵は、昼の休憩を取ろうと書類を纏めて重い腰を上げた。

(今日はどこに行こうかしら……)

 社員食堂での好奇に満ちた視線を避けるべく、外に食べに行こうとポーチを持って一歩足を踏み出しかけた時、廊下から室内に入ってくる人影が目に入る。


「……失礼します、すみません」

(この声……、まさか!?)

 休憩に入ろうと同僚達が移動を始めてドア付近にかなりの人数がたむろしていたが、それらをすり抜けて綾乃が幸恵の元にやって来た。そして元気良く笑顔で挨拶する。

「幸恵さん、お疲れ様です!」

 それに対し、幸恵が疑わしそうな視線を向ける。

「あんた一体ここに何しに来たのよ?」

「お昼ご飯、二人で一緒に食べましょう!」

「は?」

「私、幸恵さんの分もお弁当を作って来たんです。良かったら食べて下さい!」

 そう言って手にしていたお弁当包みの片方を、幸恵に向かってまっすぐ差し出してきたのを見て、幸恵は一種呆気に取られ、次いで怒りの感情が湧き上がってきた。


「……あんた馬鹿?」

「え?」

 キョトンとした綾乃の様子に、益々幸恵の怒りが増幅される。

「どうして諸悪の根元と、同じお弁当を仲良く食べなくちゃいけないのよっ!?」

「私が、幸恵さんと一緒に食べたいからです。幸恵さんのお好きな物を取り揃えてきましたので、恐らく満足して貰えると思いますし」

「どうして私の好みがあんたに分かるのよ? 適当な事言わないで!」

「高木さんにお願いして教えて貰いました」

 そこで幸恵と、二人のやり取りを興味津々で見守っていた周囲の者達の顔が、揃って微妙に引き攣った。


「……祐司に?」

「はい」

「へえぇ? それはそれは。随分と従順な飼い犬に成り下がったのね、あいつ」

「は? 何がですか?」

 一人キョトンとしている綾乃だったが、企画開発部の室内では、囁き声が満ちた。

「おい……、幾ら言い寄ってる相手だからって、元カノの情報流すのって有りなのか?」

「と言うか、普通聞かないよな? 元カノの傾向なんて」

「容赦なさそうだな……。人畜無害っぽい顔なのに、流石荒川の従姉妹なだけはあるぜ」

 それを耳にした幸恵は、これ以上の問答は無用だとばかりに、勢い良く踵を返した。


「馴れ馴れしく名前を呼ばないで! 冗談じゃないわ、誰があんたなんかと食べるものですか!」

「あ、幸恵さん!?」

 反射的に引き止めようとした綾乃の手を振り払い、幸恵が足音も荒くその場を後にすると、呆然と彼女を見送った綾乃の肩に軽くポンと手が乗せられた。

「行っちゃったねぇ……」

「やっぱり行動が素早いですよね」

 苦笑いで話し掛けてきた弘樹に、綾乃も苦笑いで返すと、弘樹が続けて興味深そうに尋ねてきた。


「それで? どうして荒川にお弁当を作って来たわけ?」

「それが……、笹木さんに、今回の事で幸恵さんが変な目で見られてるから、お昼位リラックスして食べたいだろうから、暫くは社員食堂に出入りしないだろうって」

「……まあ、それは否定しないね」

 軽く相槌を打った弘樹に力を得た様に、綾乃が話を続ける。

「それで……、外食だと費用が嵩むし近場で済ませようとしてもワンパターンになりがちだし、お弁当を作って親近感をアップさせたらどうかと。一人で居るより二人で居た方が、より気まずい思いをしなくて済むだろうからって笹木さんに言われまして」

(確かに二人で仲良く食べれば周囲を気にしなくて済むかもしれないけど、集める視線は二倍以上って言ってあげた方が良いかな? 公子さんも何を考えて、綾乃ちゃんにこんなアドバイスを……)

 真顔で告げられた内容に、弘樹が苦労して溜め息を吐きたいのを抑えていると、綾乃が決意を新たにしながら言い出す。


「色々バレてしまったので、開き直って直接アタックしてみましたが、幸恵さんがそうそう簡単に打ち解けてくれる筈はありませんしね。また明日出直しますので」

 それを聞いた弘樹は、小さく笑ってからある事を指摘した。

「頑張るね。それはそうと、そのお弁当はどうするの?」

「流石に二つは食べられませんから……。勿体ないけど、持って帰って捨てようかと」

 かなり気が重そうに告げた綾乃だったが、ここで弘樹が真面目くさって言い出した。


「それは駄目だな、せっかくの綾乃ちゃんの力作を。よし、部下の尻拭いは上司の役目。綾乃ちゃん、良かったらそれを俺に食べさせて貰えないかい?」

「え? 遠藤さんにですか?」

 予想外の事を言われて目を丸くした綾乃に、弘樹は真顔で続ける。

「だって無駄にするのは勿体ないし。俺は別に食事は準備してないし。綾乃ちゃんが良ければって話だけど」

 理路整然と告げられた綾乃は、救われた様に安堵した笑顔を向けた。


「こちらこそ、申し訳ありません。それなら一つ食べて頂けますか? 私もその方が嬉しいです」

「うん、喜んで。じゃあそこの応接スペースに座って待ってて? ご馳走になるから、お茶位淹れるよ。一緒に食べよう」

「分かりました」

 そして周囲が驚きの視線を向ける中、弘樹の誘導で綾乃は弁当を二つ手にしたままソファーに収まり、弘樹はお茶を淹れるべく給湯室へと向かった。そしてこれから広がるであろう噂を推測して、茶を淹れながら一人でほくそ笑む。


(全く……、公子さん、これが狙いだったか? これが祐司の耳に入ったら、どういう反応を示すだろうな?)

 そんな事を考えてすっかり楽しくなりながらも、弘樹は幸恵に対するフォローをどうするべきかと、密かに冷静に考え始めていた。


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