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子兎とシープドッグ  作者: 篠原 皐月
【本編】
1/26

(1)情けは人の為ならず?

 その日一日ついてない事ばかり続いた綾乃は、飲み会から通勤電車で帰宅途中、目の前の座席が空いたのにちょっと慰められた感じで静かに腰を下ろした。 

(はぁ……、やっと座れた。今日は嫌な事ばかり続いたから、これ位良い事がないとね…………。あれ?)


 深く座ろうとして身体の右側に感じた違和感に、首を捻ってその場所を見てみると、黒の携帯が座席の隅に存在しているのが目に入る。出入り口近くの角の席で、横の壁の部分に接する様に横向きで転がっていたそれを見て、綾乃は困惑した。

(さっき降りた人の物? どんな人だったっけ? スマホだったら大きいからそうそう落とさないと思うけど、ポケットからでも零れ落ちたのかしら?)

 無意識にそれを取り上げてしまってから、綾乃は途方に暮れた。


(困ったな、どうしよう……。見て見ぬ振りも出来ないし。このまま終点まで行って、そこで発見されたら、持ち主がそこまで取りに行くのかな?)

 どこで乗り降りしているにしろ、あまり遠くまで行ったら面倒そうだし、連絡が遅れたら落とした人が心配しそうだと判断した綾乃は、少し悩んでから結論を出した。


(電車には運転手さんしかいないし、渡せないよね? ちょっと面倒だけど、次の駅で降りて、駅員さんに忘れ物だって渡しておこう)

 自分の最寄り駅はまだ先だが、綾乃は次の駅でホームに降り立った。そして初めて降りる駅の為に戸惑いながらも、表示を見ながら改札口へと進む。


「えっと……、改札口に向かっていけば、駅員さんは居るよね?」

 その時、手にしていた携帯が、突如鋭い電子音を響かせ、綾乃は反射的に立ち止まった。そして驚いたものの、次に幾分安堵した表情で携帯を見下ろす。

(え? あ、落とし主かその知り合いかな? 知り合いの人でもその人経由で駅員さんに届けた事を知らせて貰えば、持ち主の人が安心できるよね?)

 そうして綾乃は気安く通話ボタンを押して応答したが、ここで予想外の事態が発生した。


「もしもし? あのこの電話」

「てめぇ! ふざけんじゃねぇぞ!?」

「え?」

 いきなり電話越しに罵声を浴びせられた綾乃は驚いて絶句したが、相手の容赦ない言葉は更に続いた。

「お前みたいなケバ女、死んでもごめんだっ!! 人様の携帯をパクリやがって、この恥知らずの女狐がっ!!」

「……私っ、携帯を盗んでなんか」

 幾ら何でもあんまりな言われように、何とか気持ちを奮い立たせて綾乃が抗議しようとしたが、電話の向こうの男は綾乃の台詞を一刀両断した。


「あぁ!? メアドも携番も教えてくれなかったから、ちょっと借りたとでも言うつもりか、このド腐れ女! それとも拾ってあげたお礼にデートしてくれとか、恩着せがましくいけしゃあしゃあと抜かすつもりかっ」

「ひ、酷っ……、私、そんなんじゃ……」

 律儀にまだ携帯を耳に当てながら泣き出してしまった綾乃を、ホームを歩いている者達が怪訝そうに見ながら横を通り過ぎて行く。漸くその視線に気付いた綾乃が、恥ずかしさと情けなさでハンカチを取り出して涙を拭こうとすると、電話の向こうが一層騒がしくなった。


「何だ? 今度は柄にも無く泣き落」

「あのっ! ごめんなさいね、この馬鹿がいきなり失礼な事を」

「何すんだ、姉貴。返しやがれっ!」

「これは私のでしょ!? 何勝手に使ってるのよ! 第一、盗ったの前提でいきなり罵倒するなんて、何考えてるの!」

 先程の男に加えて女性の声が割り込み、どうやら姉弟喧嘩をしているらしいと、綾乃は涙を拭きながら状況を判断した。


「元はと言えば姉貴のせいだろうが!? あんな場に引っ張り込んでおいて。しかも泥酔すんな! そして今頃正気に戻るな!」

「あんたの喚き声で覚醒したのよっ! それにそもそもあんたが上手く立ち回れば良かっただけの話でしょう!? 普段女を山ほど侍らせてる癖に何やってんのよ!」

「あんな姉貴と類友の、肉食女の群れに飛び込んだ事はねぇっ!」

「何ですってぇぇっ!?」

「……あ、あの。宜しいですか?」

 延々と続く罵り合いの間に頭が冷えた綾乃は涙も引っ込み、比較的冷静に電話の向こうに声をかけた。するとそれで我に返ったらしい女性が、慌てた様に問い返してくる。


「あ、ごめんなさい。何かしら?」

「あなたのお名前をお伺いしたいんですが……」

「あ、ああ、ごめんなさい。宇田川貴子です。それでその携帯ですが」

「私、これを車内の落とし物だと言って、駅員さんに預けて帰らせて貰います。宇田川さんの名前を伝えておきますので、申し訳ありませんが五分程したらもう一度これに電話して、駅員の方と受け取り方法の相談をして下さい。それでは失礼します」

「ちょ、ちょっと待って! ごめんなさい、さっきは弟がいきなり暴言を」

 もうそれ以上会話する気の無かった綾乃は、問答無用で携帯の電源を落とし、バッグに放り込んで再び涙ぐんだ。


「……もうやだっ、こんなとこっ」

 そんな泣き言を言いながらも綾乃は駅の窓口に向かい、事情を説明して電源を再び入れた途端鳴り出した携帯を駅員に押し付け、逃げる様にその場を後にしたのだった。


 そんな出来事があった日から四日後、綾乃は職場近くの居酒屋で、待ち合わせをして二人で飲んでいた。そして今回呼び出された理由を尋ねられた綾乃が、件の出来事を一通り話す。

「……って言う事が先週あったんです」

 それを聞いた眞紀子は当然の如く激昂した。

「何なの!? 人の親切を徒にする様な無神経、かつ恥知らずな言動の数々はっ! そいつ、一体どんな男よ?」

 親元から離れて暮らしている綾乃の、保護者を自任している眞紀子とすれば到底許し難い所業を聞いて、中ジョッキを乱暴にテーブルに置きながら迫ったが、綾乃は困惑しながら首を振った。


「それは……、携帯を駅員さんに預けて帰ったきりだから、どんな人かは分からないの。名前は……、お姉さんって名乗った人が宇田川さんって言ってたから、苗字は宇田川さんだと思うけど……」

「本当に預けて帰ったの!? 綾乃ちゃん、どれだけ人が良いのよ? そんなのは線路投げ落として、電車に引かせて粉砕させてしまいなさい!」

 六歳年上であり、医師としても独り立ちしている眞紀子が舌鋒鋭く言い放ったが、綾乃はたじろぎながらも常識的な事を口にした。


「で、でも……、眞紀子さん。そんな事をしたら、飛び散った破片で誰か怪我するかもしれないし、万が一脱線したら大事になっちゃうから……」

「まあ、それは無いにしても……、その電話で警察や消防とかにイタ電かけまくって、そのアホ~な持ち主がこっぴどくお灸を据えられたら良いのよ!」

「眞紀子さん、それ警察や消防の人に迷惑だから、絶対駄目!」

 鼻で笑った眞紀子に真面目に反論して窘めた綾乃を、眞紀子は苦笑しながら眺めた。


「もう……、綾乃ちゃんって本当に可愛い上、性格が良いんだから……。こんな可愛い綾乃ちゃんを罵倒したゲス野郎……、許せないわ」

 最後はブツブツと悪態を吐いていると、綾乃が口調を改めて眞紀子に声をかける。

「それでね? 今日は眞紀子さんにちょっと相談に乗って欲しくて、呼び出しちゃったの……」

「あら、何? 遠慮なく言って良いのよ?」

 上機嫌に微笑んで話の先を促した眞紀子だったが、綾乃は俯き加減で話を続けた。

「今回の事で、やっぱり私、都会暮らしに向いてないんじゃ無いかって思って……。辞表の書き方を教えて貰えないかと……」

 暗い表情でそんな事を言われて、眞紀子は面食らった。と同時に、綾乃に濡れ衣を着せた上、罵倒した相手に対する怒りが再燃する。


「はぁ? いきなり言い出すのよ? 偶々変な勘違いの自惚れ野郎に当たっただけで。人に礼の一言も言えないそんな奴、どうせうだつの上がらないチビでオタク野郎に決まってるわよ。そんなの気にしちゃ駄目よ? せっかく星光文具なんて大手メーカーに勤め始めたばかりなのに、実家にでも帰る気?」

「……そう、しようかなって。周りの人が垢抜けてて、自分が野暮ったいのが気になってしょうがないし、仕事も最近ミスが続いた上に、ちょっとした事で上司に怒られてしまって。それに加えて、都会は怖い人ばっかりだし」

 それを聞いた眞紀子は(本当に間の悪い時に怒鳴りつけてくれたわね?)と心の中で怒りながらも、それを抑えて綾乃の顔を見据えた。


「綾乃ちゃん、ちょっと顔を上げなさい」

「眞紀子さん?」

「あのね、急に社会に放り出されて慣れない事ばかりの上、一人になって寂しいのかもしれないけど、仕事で色々悩むなんて事は当然よ? そんな最低男を理由に職場放棄だなんて、おじさまとおばさまが許しても、私は許しませんからね」

「眞紀子さん……」

 真顔で言い聞かせる眞紀子に綾乃も背筋を伸ばして、神妙な態度で聞き入る。その目の前で、眞紀子は小さく肩を竦めた。


「仕事が出来ない? 結構じゃない。まだ入社して三ヶ月も経過してないのよ?それで仕事が全部完璧にできるって豪語するなら、とんでもないKYの勘違い野郎よ。ベテラン職員の立つ瀬がないでしょう? ……どこの誰とは言わないけどね?」

「それもそうね」

 茶目っ気たっぷりにウインクしながら眞紀子が言うと、誰の事を当て擦っているのか容易に分かった綾乃は、小さく笑いを漏らした。


「寧ろ、ちゃんと出来ないって自分で分かってるだけマシよ? どっかの誰かさんと違って、《恥じる》って事を知ってるって事だもの」

「……ありがとう、眞紀子さん」

 自分を叱咤しつつ元気付けてくれようとしているのが充分理解できた綾乃は、眞紀子に心底感謝した。それを受けて眞紀子も笑顔でしみじみと告げる。


「本音を言えば、確かに綾乃ちゃんは都会向きじゃないとは思っていたけど、それは変にスレたりして欲しくないなって思ってたからなの。でも理不尽な罵倒を受けてもちゃんと携帯を届けた綾乃ちゃんにホッとしたわ。その携帯が《残念男》の物だったって事だけが残念だけど」

「酷い、眞紀子さん」

 堪えきれずにクスクス笑ってしまった綾乃に、眞紀子は笑みを深めた。

「職場で叱られたって事も、それだけ手をかけて貰ってるとも言えるから、変に萎縮しないで今までの綾乃ちゃんのまま、もう少し頑張って欲しいわ。辞表の書き方なんて知らないしね~」

 明るく言ってくれた眞紀子に、そこで綾乃は幾分照れくさそうに告げた。


「……うん、やっぱり私、もうちょっと頑張ってみるね? 眞紀子さん」

「良かった。愚痴とかだったら幾らでも聞いてあげるから、遠慮無く連絡してきてね?」

「えぇ? でも眞紀子さんだってお仕事忙しいでしょう? おばさまが『全然実家に帰って来ない』って言ってたもの」

「それはそれ、これはこれよ。第一帰らないのは、最近口を開けば『見合いしろ』の一点張りでウザいだけで」

「あの~、お取り込み中すみません」

「はい?」

「何か用ですか?」

 女二人で楽しく会話を再開したところで、唐突に男の声が割り込んだ為、綾乃と眞紀子は揃ってテーブルの横に立っていた男二人に怪訝な顔を向けた。

 二人とも濃紺のビジネススーツ姿であり、綾乃と同じ仕事帰りと思われた。どちらも上背があり、座っていると見上げる様な感じになっていたが、自分に近い方に立っている男を綾乃がキョトンとしながら見上げると、その男は僅かに狼狽した様に視線を逸らす。


「ほら、さっさとしろよ」

「…………」

 隣の男が苛ついた様に肘でつついたものの、その男が黙り込んでままなのに小さく舌打ちした。ここで眞紀子が不審人物を見るような目つきで二人を睨む。

「あの、何でしょうか?」

 その視線の鋭さに、怪しまれてはかなわないとばかりに、眞紀子側に立っていた男が恐縮気味に口を開いた。


「あ~、すみません。俺は遠藤弘樹と言います、こいつは友人の高木祐司です」

「それで?」

「俺達、君達のテーブルとは、そこの仕切りを挟んだ向こうのテーブルで飲んでたんだけど、さっきからなかなか面白い会話が聞こえてきて……」

 そう告げられた瞬間、女二人はチラリと高さ一・五メートル程の上部が半透明の仕切りを眺めてから、二人連れに視線を戻した。


「あの……、すみません、気が付かなくて。つまらない愚痴をお聞かせして、お酒を不味くしてしまいましたね。本当に申し訳ありませんでした」

「綾乃ちゃん! そんな事で一々謝らなくて良いのよ? 居酒屋なんだから好き勝手に話しちゃ駄目なんて決まりはないし、店内に響き渡る様な迷惑な事はしてないんだから。気に入らなければ他の聞こえない席に移りなさいよ!」

「眞紀子さん! そんな喧嘩腰で言わなくても」

 咄嗟に立ち上がって頭を下げた綾乃だったが、向かいの席で眞紀子が吠える。すると遠藤と名乗った男は、二人に申し訳無さそうな顔をして再度口を開いた。


「いや、その……、やっぱり一言言っておかないと駄目かと思いまして……」

「何をよ?」

 眉をしかめて眞紀子が睨みつけると、若干たじろぎながらも相手が横に立つ男を綾乃の方に押しやった。

「こいつが先程話題に上ってた、《無神経》で《恥知らず》で《礼儀知らず》の上、《勘違いのKY野郎》で《うだつの上がらない》《オタク野郎》なんです」

「はい?」

「え?」

 あまりの事に咄嗟に二の句が継げず、女二人が固まると、遠藤は更に友人の背中をどついた。


「ほれっ! いつまでも、何つっ立ってんだよ、祐司!」

 すると『祐司』と呼ばれた男は、軽く息を整えつつ綾乃に視線を合わせてから、ゆっくりと頭を下げようとした。

「その……、この前は申しわ」

「いっ、やぁぁぁっ!!」

 そこで綾乃の絶叫が店内に響き渡ると同時に、彼女が渾身の力を込めて祐司を突き飛ばした為、祐司は通路を挟んだ向かい側のテーブルに太腿の辺りを打ち付け、テーブル上の皿やグラスを倒しつつ椅子に座っていた人物を巻き込み床に倒れ込んだ。


「うわっ!」

「げっ!」

「綾乃ちゃん!?」

「やだっ、怖い、もう実家に帰るぅぅっ!」

「綾乃ちゃん、ちょっと待って!」

 これまで散々悪口を言っていた相手が急に目の前に現れた事で、綾乃は報復を受けるかと思ってパニックを起こし、泣き叫びつつバッグを掴んで一目散に店から走り去って行った。それを追い掛けようとして同様にバッグを掴んだ眞紀子だったが、何を思ったか無表情になって、酒や料理にまみれて悲惨な事になっている祐司を見下ろす。


「おい、大丈夫か?」

「……っ、何とか。ぐあっ!」

 弘樹の手を借りて立ち上がろうとした所を、眞紀子から物凄い勢いで向こう脛を蹴りつけられ、祐司は再び足を押さえて床に座り込んだ。

「ちょっと! 何すん、がっ!」

 さすがに顔色を変えて抗議しようとした弘樹の顔面に、眞紀子が伝票を叩きつけた。


「綾乃ちゃんを泣かせてこれ位で済む事を感謝しなさいね。この屑野郎ども!」

 言うだけ言ってさっさと会計の前を素通りして行った眞紀子を見送り、弘樹は諦めた様に手の中の伝票を見下ろした。

「……払っとけって、事なんだろうな」

 そうして再び祐司に手を伸ばす。


「おい、大丈夫か?」

「ダメかもしれん」

「そんな事言っているうちは大丈夫だろ」

 苦笑いして祐司を引っ張り上げて立たせた後、テーブルをぐしゃぐしゃにしてしまった客に謝罪し、そこの支払いを自分達で済ませる旨を従業員に告げて自分達のテーブルに戻った二人は、席に落ち着いてから深い溜め息を吐いた。


「ホント、お前最近女難の相が出てるよな……。例の『あれ』と言い『これ』と言い、気の毒に」

 周囲の客の視線を浴びつつ、従業員が出してくれたお絞りで顔や服を拭きながら、祐司がぼそりと呟いた。

「……取り敢えず、もう少し手伝って貰えるか?」

 全て言わなくても分かった弘樹は、疲れた様に頷いてみせる。


「うちの会社で『あやの』って名前の新入社員を探すんだろ? それ位はやってやるよ。普段のお前の姿からすると、今のお前不憫過ぎる。ここの支払いも持ってやるよ」

「助かる」

 それから男二人は少しだけ静かに話し込んでから、早々にその店を後にしたのだった。



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