第17話 掴めない空
「春になったとはいえ日が暮れると寒いわね」
魅月は更に体をくっつけてくる。外に出た途端に寒かったのでこうなるだろうとはある程度予想できていた。だから、あまり動揺はしなかった。
「魅月、少し歩きにくい」
「わたし、寒いのは苦手なのよ。だから、我慢して。……それにこうしてたら落ち着くのよ」
魅月のその言葉を聞いて恥ずかしさを感じる。
少しくらい歩きにくいのは別にそれほど気にしていなかったのでそれ以上は何も言わないでおいた。
それに、くっつかれているおかげで暖かいと思っているのはオレも同じだしな。
「涼樹」
ふと、真琴の声が聞こえてきた。
「ん?なんだ?」
オレは真琴の方を向く。
「ほらほら、見て。星が、綺麗だよ」
真琴はそう言って空を指差した。オレはそれにつられて上を見る。
そこに見えたのは真っ黒い空に浮かぶ、小さな光。しかし、それは一個や二個などではない。それに、光は小さいくせに弱々しくは見えない。
「こんなところでも星ってけっこうたくさん見えるんだね」
星に見惚れているのか真琴の声は惚れ惚れとした感じだった。
「そうだな」
オレも星に見惚れているようだ。視線を下に戻すことが出来ない。
そういえば、星を見たのはどれくらいぶりだろうか。最近になって星を見た記憶は全然ない。
「ほんと、綺麗ね」
魅月もオレたちと同じように星を見ているようだった。
「あたし……」
真琴がぽつり、と独り言のような声で言う。
「空が好き、って言ったよね」
オレは声に出さずに頷く。
「あたしが空を好きな理由ってね。時間によって姿を変えてるからなんだ。ふと気がついて見てみたらいっつも違う姿をしてるんだよ」
真琴はオレに絡めた腕をほどいてオレから少し、離れる。そして、自分の手を自分の胸にあてている。
「朝は徐々に光を強める太陽が昇って、昼は雲が空を踊ってて、夕方は、夕日で真っ赤にそまる。そして、夜になったら星が瞬く」
真琴は詩人のように言葉を紡いでいく。
「雨が上がった後は虹が出来る、曇ってても雲の隙間から光が漏れてくる。雨とか曇りはあんまり好きじゃないけど、こういう空も見せてくれるから嫌いにはなれないんだ」
そうやっていく真琴の横顔は安心しているのとは違う性質を持った穏やかな顔。心が綺麗にされて邪な心が全くないような人だけが浮かべられるようなそんな見ていて気持ちのよくなるような穏やかな顔だ。
そんな顔にオレは見惚れている。胸が高鳴ってきているのを感じる。
理由なんてわからない。けど、理由なんて要らないんじゃないだろうか。そう思うほどの心地よさをも伴っている。
「今日の空に浮かんでる星はそんなに多くないけど、それでも、こうやって手を伸ばしたら――」
胸にあてていた手を離して空へと向けてを腕を伸ばす。
「届きそうな気がするんだ。つかめそうな気がするんだ。あんなに綺麗なんだから一回くらいは触って感じてみたいって思っちゃうんだ……」
手を伸ばしても何もつかめなかったからなのかその声は残念そうだった。そして、空へと向かって伸ばされていた手は力が抜けたように地面に向く。
「驚いたわね、真琴。なんでそんなに詩人っぽいことが言えるのよ」
魅月は真琴が残念がっているようすに気がついていないようだ。もしかしたら、驚きが大きいのかもしれない。
「驚くほどのことじゃないと思うよ。あたしが感じたままを言っただけだよ」
「感じたまま言っただけじゃ詩にはならないのよ。真琴はそれがわかってるのかしら?」
「わかんないよ。だってあたしはいたって普通だって思ってるよ?」
二人のそこまでの会話を聞いてオレはやっと我に返った。真琴の表情に見惚れすぎていた。
真琴のあの穏やかな顔がオレの脳裏に焼きついて離れない。
なんで真琴はあんな表情が浮かべられるんだろうか、なんで真琴の心はとても綺麗なように感じるのか、そして、なんでオレはこんなに真琴のことを気にしてるんだ?
「涼樹」
いきなり真琴に名前を呼ばれた。オレは何かを言おうとした。けれど、それよりも早く真琴が勝手に話を進める。
「あたしと、手、繋いでくれないかな?」
「別にいいけど。それでいいのか?」
今まで抱きついたり腕を絡めたりしていたんだからそれでいいんだろうか、と思った。手を繋ぐ、というだけで十分なんだろうか、と思った。
「うん、今はそれでいいんだよ」
真琴は頷くとオレの方に手を近づけてきた。どう繋ぎたいんだろう、と考えたけれど真琴が勝手に手を繋いだ。指を一本一本絡ませて。
その手の繋ぎ方は予想よりもはるかにオレを緊張させた。柔らかい真琴の手の感触がそうさせるんだと思う。
「えへへ、ありがと、涼樹」
照れたようにけれど、嬉しそうに真琴は笑った。
真琴もオレと手をつないで落ち着かず、恥ずかしがっているのかもしれない。なにか理由があるわけでもなくそう思った。
「でも、なんでいきなり手なんかつなぎたくなったんだ?」
「ん?……特に深い理由があるわけじゃないんだけどね。不安に、なったんだ」
「不安?」
どうしていきなり何に不安になったんだろうか。
「うん、そう。さっき、あたし空がつかめそうだって言ったよね」
「ああ、そうだな」
「でも、空なんかつかめない。すっごく遠くにあるんだから。それは、わかってるんだ。でもね、それと一緒にもしかしたらって思っちゃったんだ」
真琴の表情にかげりが差す。でも、それはただ単に街路灯の光の当たる向きが変わったからそう感じただけなのかもしれない。
「涼樹も実はすっごい遠くにいる存在で、あたしなんかじゃさわれないんじゃないだろうか、って夢なんじゃないだろうか、って思って不安になったんだ」
「……でも、今はちゃんと触れてるだろ?遠くの存在ってわけでもないし、お前の夢っていうわけでもないだろ?」
真琴を安心させるためにそう言わなければいけないような気がした。もう、安心しているんだろうけどそうしないと、真琴を本当に心の底から安心させることが出来ないような気がした。
「うん、そうだね。わかってるよ。だからね、あたしは嬉しいんだ。好きな空にはさわれることができないけど、それ以上に大好きな涼樹にはさわれるってことが」
真琴はオレの手を強く握り締める。こういうときオレはどうすればいいんだろう、って思ったけど何もできなかった。ただ、されるがままになることしかできなかった。
けど、それでいいんだと思う。何故なら、
「涼樹の存在をちゃんと感じられるっていうのがすっごく嬉しいんだ。これまで体験してきた人生の中で一番だよ!」
真琴は嬉しそうに笑っているから。だから、オレはされるがままでもいいんだと思う。余計なことをして真琴の嬉しさを壊してしまう方が無粋な気がした。
と、不意に魅月がオレから離れるのを感じた。
「魅月、どうしたんだ?」
「別にどうもしてないわよ。……まあ、しいて言うなら真琴に負けちゃったってことよ」
「どういうことだよ?」
「別に涼樹が気にすることじゃないわ」
魅月の言ったことの意味はよくわらなかった。けど、これ以上は話しかけて欲しくない、という雰囲気は伝わってきた。だからオレはそれ以上言及はしなかった。
その代わりにオレたちの間を沈黙が支配をする。なんだか気まずい。
オレはこういった雰囲気をどうにかする術など持っていない。こんなことになるんだったらもっと人と関わっておけばよかったな、と思う。もっと人と関わっただけでこの雰囲気をどうにかする術を手に入れられていたわけでもないだろうが、少しくらいは参考になるものがあったかもしれない。
そんな後悔を持ちながらオレは無言でいる真琴と魅月とともに駅への道を歩いた。