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侯爵家の皆様、今さら私を家族と呼ばれても困ります

作者: シオン
掲載日:2026/09/04


第一章 役立たずの長女


「リディア、お前とアルベルト殿下との婚約は、妹のエレノアに譲ってもらう」


夕食の席で、父であるグランフェル侯爵は、天気の話でもするように言った。


長い食卓の上には、銀食器と色鮮やかな料理が並んでいる。だが、リディアの前に置かれた皿だけは、冷えたスープと硬いパンだった。


いつものことだ。


家族が上等な肉料理を楽しんでいる間、リディアには使用人の残り物が与えられる。それでも彼女は、背筋を伸ばしたまま静かに父を見返した。


「婚約を、エレノアに?」


「ああ」


父は面倒そうに頷いた。


「殿下もエレノアを望んでおられる。お前のような愛想のない娘より、社交的で愛らしいエレノアのほうが王太子妃にふさわしい」


向かい側に座る妹のエレノアは、薄桃色のドレスに身を包み、勝ち誇った笑みを浮かべている。


「ごめんなさい、お姉様。わたくし、そんなつもりではなかったのよ。でも殿下が、どうしてもわたくしがよいとおっしゃるから」


口では謝りながら、その瞳には少しの申し訳なさもなかった。


母のカトリーヌも、妹を庇うように微笑む。


「仕方がないわ。殿方は、明るく可憐な女性を好むものですもの。あなたは昔から地味で、可愛げがないでしょう?」


兄のヴィクトルはワインを傾け、鼻で笑った。


「それに、王太子妃には人前に出る華やかさが必要だ。帳簿を抱えて屋敷の奥に引きこもるだけのお前には務まらない」


リディアは家族の顔を順番に見た。


父は尊大で、母は無関心。


兄は嘲り、妹は喜びを隠そうともしない。


十五年前から、何も変わっていない。


六歳のとき、リディアは実母を病で亡くした。父は翌年、カトリーヌを後妻として迎えた。彼女が連れてきたのが、リディアより二歳年下のエレノアだった。


その後、弟のヴィクトルが生まれると、リディアは完全に家族の輪から外された。


ただし家族は、リディアを屋敷から追い出しはしなかった。


追い出せなかった、と言うべきだろう。


グランフェル侯爵家の領地経営は、長年にわたって悪化していた。


浪費癖のある父。


宝石と衣装に目がない継母。


賭博と遊興を繰り返す兄。


流行の品を際限なく欲しがる妹。


彼らの暮らしを支えるため、リディアは十二歳の頃から帳簿を整理し、領地の税制を改め、商人との取引をまとめてきた。


灌漑設備を整え、新しい作物を導入し、街道の通行料を見直し、職人の工房を誘致した。


その結果、赤字だった侯爵領は、三年で黒字に転じた。


だが、その事実を家族は知らない。


正確には、知ろうとしなかった。


父は領地から上がってくる利益を、自分の手腕によるものだと思っている。


兄は、侯爵家なら金があるのは当然だと言う。


母と妹に至っては、金貨が木にでも実ると信じているかのようだった。


リディアは冷えたスープに視線を落とした。


「承知いたしました」


あまりにもあっさりと答えたため、家族全員が拍子抜けした顔をした。


父が眉を寄せる。


「不満はないのか」


「婚約者であるアルベルト殿下が妹を望み、侯爵家当主であるお父様もそれを認めるのであれば、私に異論はございません」


「そうか。それならよい」


父は満足そうに頷いた。


エレノアは残念そうだった。リディアが泣き、取り乱し、自分に縋る姿を期待していたのだろう。


「お姉様、本当にごめんなさいね。殿下からいただいた首飾りも、わたくしが身につけることになると思うけれど」


「どうぞ」


「王宮でのお部屋も、王太子妃のための庭園も、わたくしのものになるのよ?」


「そうですか」


「怒っていないの?」


「なぜ怒る必要があるのですか」


リディアが首を傾げると、エレノアは唇を尖らせた。


祝いの主役になったはずなのに、相手が悔しがらなければ優越感を得られないらしい。


父が咳払いをした。


「それから、お前には別の縁談を用意した」


リディアは初めて、わずかに眉を動かした。


「どなたでしょうか」


「北方のヴァレイン公爵だ」


食卓に静寂が落ちた。


ヴァレイン公爵セドリック。


国境を守る北方軍の総司令官にして、王国随一の大領主。


若くして数々の戦功を挙げた英雄だが、社交界では冷血公爵と恐れられている。


三年前の戦で顔に傷を負い、右脚にも後遺症が残ったという。


また、北方領は雪と魔獣に覆われた不毛の土地だと噂されていた。


エレノアが扇で口元を隠した。


「まあ、お姉様にぴったりですわ。無愛想な者同士、気が合うのではなくて?」


母も楽しそうに笑った。


「公爵は三十歳を過ぎても独身なのでしょう? 傷もあって恐ろしい方だと聞きます。けれど、あなたなら贅沢は言えないわね」


「先方は、この縁談を了承されているのですか」


リディアが問うと、父は視線を逸らした。


「こちらから打診しているところだ。王太子殿下との婚約解消が成立すれば、すぐ話を進める」


つまり、まだ何も決まっていない。


父はリディアを厄介払いするつもりなのだ。


アルベルト殿下との婚約が解消されれば、リディアは王太子妃教育から解放される。同時に、王家との繋がりを失った彼女を屋敷に置いておく理由もなくなる。


それなら、恐ろしいと噂される北方公爵に押しつけてしまえばよい。


公爵が断った場合は、修道院にでも入れるつもりなのだろう。


「承知いたしました」


またしてもリディアが答えると、父は機嫌をよくした。


「お前もようやく聞き分けがよくなったな」


リディアは静かに微笑んだ。


それが別れの挨拶であることに、誰一人気づかなかった。


第二章 婚約破棄の夜


一週間後、王宮で建国記念舞踏会が開かれた。


リディアは、三年前に仕立てた濃紺のドレスを着て参加した。


新しいドレスを注文する費用は、家計簿のどこにも存在しなかった。正確には、母と妹が使い果たしてしまった。


一方、エレノアは金糸をふんだんに使った真紅のドレスを身につけている。首元には、アルベルトがかつてリディアへ贈ったはずのダイヤモンドの首飾りが輝いていた。


「お姉様、この首飾り、よく似合うでしょう?」


「ええ」


「殿下が、わたくしの瞳の色に合わせてくださったのですって」


その首飾りは、リディアの母方の祖母が王家へ預け、将来リディアが王太子妃となる際に贈られる予定だったものだ。


アルベルトが選んだのではない。


だが、説明する気にはなれなかった。


やがて楽団の音が止み、王太子アルベルトが広間の中央へ進み出た。


金髪碧眼の美しい青年だった。華やかな容姿と柔らかな微笑みから、王都では慈愛の王子と呼ばれている。


もっとも、その慈愛がリディアへ向けられたことは一度もなかった。


「皆に伝えたいことがある」


アルベルトの声が響き、招待客たちが静まり返った。


彼の隣には、エレノアが寄り添っている。


「私は本日、リディア・グランフェルとの婚約を破棄する」


ざわめきが広がった。


リディアは一人、広間の壁際に立っていた。


この場で婚約破棄を宣言することは事前に聞かされていない。正式な書面も届いていなかった。


父を見ると、気まずそうに目を逸らした。


知っていたのだ。


「リディア、前へ」


アルベルトに命じられ、リディアは人々の間を進んだ。


彼の前で一礼する。


「お呼びでしょうか、殿下」


「その平然とした態度が、私は昔から気に入らなかった」


アルベルトは苛立たしげに言った。


「私はお前との婚約によって、常に息苦しい思いをしてきた。お前は完璧であろうとするばかりで、人の心を理解しない」


「さようでございますか」


「エレノアは違う。彼女は優しく、素直で、私を一人の人間として愛してくれる」


アルベルトが肩を抱くと、エレノアは頬を赤らめた。


周囲から感動したような吐息が漏れる。


リディアは何も言わなかった。


彼女が王太子妃教育を受け始めたのは、七歳のときだった。


毎朝五時に起き、歴史、法律、外交、語学、経済、礼儀作法を学んだ。食事中も姿勢を崩すことは許されず、熱を出しても授業を休めなかった。


アルベルトが遊び歩いている間には、彼の代わりに視察報告書へ目を通した。


彼が外国語の条約文を読めなかったときには、翻訳して要点をまとめた。


彼が予算会議を退屈がって抜け出したときには、財務官と協議して不足分を調整した。


それを彼は、息苦しいと言った。


「さらに、お前にはエレノアを虐げた疑いがある」


アルベルトが続けた。


「虐げた、とは?」


「とぼけるな。ドレスを買う金を与えず、使用人の前で叱責し、菓子を取り上げたそうではないか」


リディアはエレノアを見た。


妹は怯えた表情を作り、アルベルトの胸元へ顔を寄せた。


「本当は黙っているつもりでした。でも、お姉様がこれ以上罪を重ねる前に止めたほうがよいと思ったのです」


「なるほど」


リディアは小さく息を吐いた。


「エレノアのドレス代は、昨年だけで金貨二千枚です。侯爵領の学校十校分の年間運営費に相当します。これ以上は家計を圧迫するため、追加購入を認めませんでした」


「金の話をしているのではない!」


アルベルトが声を荒らげた。


「では、何の話でしょうか」


「姉としての思いやりだ」


「侯爵家を破産させてでも妹にドレスを買い与えることが、思いやりでございますか」


広間の端で、何人かの貴族が顔を見合わせた。


父が慌てて前へ出る。


「リディア、殿下に失礼だぞ」


「事実を申し上げたまでです」


「黙りなさい!」


父の怒声が響いた。


母がエレノアを抱き寄せ、涙ぐんだ。


「この子は、昔からこうなのです。家族へ冷たい言葉を浴びせ、金銭を盾に私たちを支配しようとするのです」


「お母様」


エレノアが震える声で母を呼ぶ。


完璧な茶番だった。


リディアは自分へ向けられる視線を感じた。


好奇。


侮蔑。


同情。


誰も真実には興味がない。


美しい王太子と、可憐な令嬢の恋物語。


その邪魔をする冷酷な婚約者。


大衆が好むのは、分かりやすい物語だ。


「リディア・グランフェル」


アルベルトが胸を張った。


「お前との婚約を破棄し、エレノア・グランフェルを新たな婚約者とする。異論は認めない」


「承知いたしました」


リディアは深く頭を下げた。


「これまで賜りましたご厚情に、心より感謝申し上げます」


「待て」


アルベルトの顔に、不満が浮かんだ。


「それだけか」


「ほかに何かございますか」


「謝罪はどうした」


「何に対する謝罪でしょう」


「エレノアを傷つけ、私を苦しめたことに決まっている」


リディアは顔を上げた。


「していないことについて、謝罪はできません」


「まだ自分の罪を認めないのか!」


アルベルトが手を上げた。


その手が、リディアの頬へ振り下ろされようとした瞬間だった。


「その手を下ろされよ、王太子殿下」


低く冷えた声が、広間を貫いた。


人々が一斉に道を開ける。


黒い礼装をまとった長身の男が、ゆっくりと歩いてきた。


左の額から頬にかけて、細い傷痕が走っている。銀灰色の髪と、冬の湖を思わせる青い瞳。


ヴァレイン公爵セドリックだった。


彼は杖をついていたが、歩みに弱々しさはなかった。


むしろ、戦場を制する指揮官の威圧感が全身から漂っている。


「これは公爵。何のつもりだ」


アルベルトが顔をこわばらせる。


「女性へ手を上げるおつもりなら、王族としての品位を問われると申し上げているのです」


「これは私と元婚約者の問題だ」


「先ほど婚約を破棄されたのでしょう。それならば、彼女はすでに殿下の婚約者ではない」


セドリックはリディアの前に立った。


まるで彼女を守る壁のように。


「グランフェル侯爵令嬢」


「はい」


「私は貴女との縁談を、本日正式に受ける旨を侯爵へ伝えるつもりだった」


父が目を見開いた。


「何ですと?」


「しかし、この場の様子を見る限り、侯爵家を通す必要はなさそうだ」


セドリックはリディアへ手を差し出した。


「リディア嬢。私とともに北方へ来ていただけないだろうか」


広間のざわめきが大きくなった。


エレノアが叫ぶ。


「公爵様、本気なのですか? その女は冷酷で、家族を虐げるような人なのですよ!」


セドリックは妹を一瞥した。


「貴女が着ているドレスを一着売れば、北方の孤児院が二年間運営できるな」


「なっ」


「なるほど。リディア嬢が購入を止めた理由がよく分かった」


エレノアの顔が真っ赤になった。


セドリックは再びリディアを見る。


「私の領地は寒い。王都ほど華やかでもない。私自身、この傷と脚だ。世辞にも理想的な結婚相手とは言えないだろう」


「公爵様」


「だが、貴女を侮辱しないことだけは約束する。貴女の言葉に耳を傾け、その能力に敬意を払い、一人の人間として大切にする」


リディアは差し出された手を見つめた。


これまで、誰もそんな約束をしてくれなかった。


父は彼女を金を生む道具として扱った。


王太子は便利な補佐役として扱った。


家族は、彼女が働くことを当然だと思っていた。


大切にする。


その言葉が、胸の奥へ染み込んだ。


リディアはセドリックの手を取った。


「喜んで、お受けいたします」


第三章 侯爵家からの旅立ち


翌朝、リディアは侯爵家を出る支度を始めた。


荷物は少なかった。


亡き母の肖像画。


数着のドレス。


本と筆記具。


自分名義の預金証書。


王太子妃教育で受け取った修了証。


そして十五年間つけてきた、侯爵領の会計記録の写し。


「どこへ行くつもりだ」


玄関広間へ下りると、父が待ち構えていた。


「ヴァレイン公爵領へ参ります」


「縁談は認めるが、出発が早すぎる。婚礼の準備もあるだろう」


「準備は公爵家で行うそうです」


「勝手な真似をするな」


父は苛立たしげに杖を床へ打ちつけた。


「それより、今月の収支報告書が届いている。確認を終えてから行け」


「お断りします」


父は耳を疑ったように目を見開いた。


「今、何と言った?」


「昨日、私はアルベルト殿下との婚約を破棄され、侯爵家からヴァレイン公爵家へ嫁ぐことが決まりました。今後、グランフェル侯爵家の事業に関わる権限はございません」


「これまでやってきたではないか」


「これまでは王太子妃となる者の責任として、実家の財政を立て直す必要があると考えておりました」


「ならば、これからも続ければよい」


それが当然だという父の態度に、リディアは微笑んだ。


「なぜですか」


父は答えられなかった。


「お前は私の娘だ」


「昨夜、私を虚偽の告発から守ってはくださいませんでした」


「あれは場を治めるためだ」


「私が殿下に叩かれそうになっても、動かれませんでしたね」


「殿下に逆らえるはずがないだろう」


「ヴァレイン公爵様は逆らってくださいました」


父の頬が引きつる。


「お父様。私は侯爵家のため、十五年間働いてまいりました。必要な引き継ぎ資料は執務室に揃えてあります。今後は次期当主であるヴィクトルにお任せください」


ちょうど階段を下りてきたヴィクトルが、顔をしかめた。


「勝手に俺を巻き込むな」


「次期当主が領地経営を行うのは当然です」


「俺には社交がある。帳簿など、お前がやればいい」


「公爵領へ嫁ぐ私が、どうやって行うのですか」


「手紙を送れば済むだろう」


リディアは兄を見つめた。


本気で言っている。


侯爵領の会計記録には、毎月数百件の取引が記載される。農作物の収穫量、税収、街道整備費、商会との契約、災害対策費。


それを遠く離れた北方から無償で処理しろというのだ。


「お断りします」


「生意気な!」


ヴィクトルがリディアの腕を掴もうとした。


その前に、公爵家の護衛が間へ入る。


「リディア様への無礼はお控えください」


護衛隊長の声に、ヴィクトルは怯んだ。


母とエレノアも姿を現した。


「本当に行ってしまうの?」


母の声には寂しさではなく、不安が滲んでいた。


「来月、王宮でエレノアの婚約披露宴があるのよ。あなたが準備をしなければ困るわ」


「王宮の式典官へご相談ください」


「招待客への案内状は?」


「エレノア本人が書けばよろしいかと」


エレノアが声を上げる。


「そんなこと、わたくしにできるわけがないでしょう!」


「王太子妃になられる方なら、必要な仕事です」


「お姉様がやってよ!」


「私は冷酷で、人の心を理解しない女なのでしょう。そのような者に、大切な披露宴を任せるべきではございません」


エレノアの顔が歪んだ。


昨夜、自分が発した言葉が返ってくるとは思わなかったらしい。


リディアは父へ鍵束を差し出した。


「こちらは執務室、金庫、書庫の鍵です」


父は受け取ろうとしなかった。


「いつ帰る」


「帰る予定はございません」


「婚礼の後、一度は挨拶へ来るのだろう」


「必要があれば、公爵様と相談いたします」


「リディア」


父の声に焦りが混じった。


「お前は、この家を捨てるつもりか」


リディアは少し考えた。


幼い頃、家族に愛されようと努力した。


父が褒めてくれると信じて勉強した。


継母が微笑んでくれることを期待し、彼女の茶会の準備を手伝った。


兄が困らないよう、後継者教育の課題を代わりにまとめた。


妹に好かれたくて、人形や菓子を譲った。


何をしても、家族はリディアを愛さなかった。


利用価値があるから、そばに置いていただけだ。


「いいえ、お父様」


リディアは穏やかに答えた。


「先に私を捨てたのは、皆様です」


外には、公爵家の馬車が待っていた。


セドリックが自ら迎えに来ている。


彼はリディアに気づくと、杖をつきながら歩み寄った。


「荷物は、それだけか」


「はい」


「長年暮らした家から出るにしては、少ないな」


「大切なものは、すべて持ちました」


セドリックは彼女の表情を確かめ、静かに頷いた。


「では、行こう」


馬車が走り出す。


窓の外で、侯爵家の屋敷が小さくなっていった。


リディアは一度も振り返らなかった。


第四章 北方の公爵


王都から北方公爵領までは、馬車で十日ほどかかる。


道中、セドリックはリディアへ無理に話しかけなかった。


沈黙が苦痛ではない相手と出会ったのは、初めてだった。


三日目の夕方、宿の食堂で二人きりになったとき、リディアは尋ねた。


「公爵様は、なぜ私との縁談を受けてくださったのですか」


セドリックはカップを置いた。


「五年前、北方で麦が不作になったことを覚えているか」


「はい。夏の長雨が原因でした」


「あのとき、グランフェル領から通常価格の三割引きで穀物が送られてきた。おかげで大勢の民が冬を越せた」


リディアは記憶を探った。


確かに五年前、北方公爵領から穀物購入の打診があった。


当時のグランフェル侯爵領には、改良した貯蔵庫のおかげで余剰分があったため、利益を度外視して売却した。


「それを決めたのは、当時十六歳だった貴女だろう」


「なぜ、ご存じなのですか」


「契約書の文面だ。侯爵が書いたとは思えなかった」


リディアは思わず笑いそうになった。


「失礼ながら、私もそう思います」


セドリックの口元がわずかに緩んだ。


初めて見る笑顔だった。


傷痕のせいで恐ろしいと噂されているが、笑うと意外なほど優しい顔になる。


「調べさせてもらった。グランフェル領の税制改革も、灌漑事業も、貴女が中心となって進めたものだった」


「勝手なことをしたと、父には叱られました」


「結果が出ている」


「父は結果に興味がありません。収入さえ増えれば、それがどこから来るのか考えないのです」


「優秀な娘を正当に評価しないとは、愚かな男だ」


あまりにも迷いのない断言に、リディアは目を瞬いた。


実の父を悪く言われているのに、不思議と腹は立たなかった。


むしろ、胸のつかえが少し取れた。


「北方には問題が多い」


セドリックは言った。


「魔獣への備え、医師の不足、冬季の物流、鉱山の安全管理。私は軍事には詳しいが、内政は不得手だ。貴女の力を借りたい」


「妻ではなく、文官をお探しなのですか」


リディアが尋ねると、セドリックは真剣な顔になった。


「違う」


「では?」


「領地経営を頼みたいのは事実だ。しかし、それだけなら高給で官吏を雇えばよい」


彼はまっすぐにリディアを見た。


「私は貴女と家庭を築きたいと思っている」


リディアの胸が大きく跳ねた。


「まだ知り合ったばかりです」


「分かっている。だから、すぐに私を信じろとは言わない」


セドリックは少し視線を伏せた。


「私は長く戦場にいた。気の利いた言葉も、女性を喜ばせる方法も知らない。婚約を受けてもらえたことは嬉しいが、貴女の意思を無視して婚礼を急ぐつもりはない」


「公爵様は私が嫌になれば、婚約を解消してくださるのですか」


「ああ。その場合も、貴女が独立して暮らせるよう責任を持つ」


「なぜ、そこまで」


「貴女がこれ以上、誰かの都合で人生を決められるべきではないと思うからだ」


リディアは膝の上で手を握った。


この人は本当に、自分の意思を尊重しようとしている。


その事実が嬉しい反面、怖くもあった。


慣れない優しさは、冷遇よりも心を不安定にする。


「それでは、お願いがございます」


「何だ」


「私にも公爵領の運営会議へ参加する権利をいただけませんか」


「もちろんだ」


「領内の資料をすべて拝見したいです」


「用意させよう」


「各地の視察も希望します」


「護衛をつける」


あまりにも簡単に認められ、リディアは戸惑った。


「反対なさらないのですか」


「なぜ反対する必要がある」


それは先日、リディアが妹に返した言葉だった。


思わず笑みがこぼれる。


セドリックが目を細めた。


「ようやく笑ったな」


「え?」


「貴女は笑うと、春の日差しのようだ」


今度こそ、リディアは何も答えられなくなった。


第五章 凍土に芽吹くもの


ヴァレイン公爵領の中心都市ノルディアは、噂とはまるで違っていた。


確かに雪は深い。


冷たい風が石造りの建物の間を吹き抜けている。


だが、街には活気があった。


市場には毛皮や鉱石、薬草、薫製肉が並び、頬を赤くした人々が行き交っている。


公爵家の馬車を見ると、住民たちは足を止めた。


「公爵様だ!」


「お帰りなさいませ!」


「戦勝祝いのとき以来だな!」


あちこちから声が上がる。


セドリックは窓を開け、一人一人に手を振った。


冷血公爵という噂からは、想像できない光景だった。


「領民に慕われていらっしゃるのですね」


「私は戦うことしかできない。民が自分たちで街を支えてくれている」


「領主が命をかけて守ってくれると知っているから、民も応えようとするのです」


セドリックは驚いた顔でリディアを見た。


「貴女は、すぐに本質を見抜くな」


公爵城へ到着すると、使用人たちが総出で出迎えた。


家令のオーウェンは厳格そうな老紳士で、侍女長のマーサはふくよかな女性だった。


「ようこそお越しくださいました、リディア様」


マーサは目に涙を浮かべていた。


「旦那様がご婦人をお連れになる日を、どれほど待ったことか」


「マーサ」


セドリックが困ったように制する。


「まだ婚約者だ」


「同じことでございます」


「違う」


「旦那様がお戻りになるたび、お嫁様はまだかと祈っていたのですよ。城の者は皆、首を長くしておりました」


周囲の使用人たちが一斉に頷いた。


リディアは少し笑った。


「期待に沿えるよう努力いたします」


「努力などなさらなくてもよいのです」


マーサは言った。


「ここはリディア様のお家になる場所です。どうぞ、お好きなようにお過ごしくださいませ」


お好きなように。


その言葉に、リディアは困ってしまった。


これまで一度も、好きに過ごしたことなどなかったからだ。


翌日から、リディアは領地の資料を読み始めた。


公爵城の執務室には、過去二十年分の会計記録が保管されていた。数字は正確で、不正の形跡もほとんどない。


ただし、北方特有の問題がある。


冬季に街道が雪で閉ざされるため、物資の価格が高騰する。


医師は中心都市に集中し、辺境の村では薬草師だけが頼りだった。


良質な鉄鉱石を産出する一方、その多くは原料のまま安く王都へ売られている。


リディアは一か月をかけ、改善案をまとめた。


第一に、主要街道へ雪避けの防壁を作ること。


第二に、村々へ小規模な診療所を設け、巡回医を派遣すること。


第三に、領内へ鍛冶工房を誘致し、鉄を加工品として輸出すること。


第四に、夏の間に食料を備蓄する共同倉庫を整備すること。


会議で提案すると、重臣たちは難しい顔をした。


「理想は分かりますが、莫大な費用がかかります」


財務官が言う。


「すべてを同時に行えば、三年で財政が行き詰まるでしょう」


「いいえ」


リディアは資料を配った。


「費用は三年以内に回収できます」


「どうやって?」


「現在、鉄鉱石の六割を王都のローレン商会へ卸しています。しかし、この契約価格は相場より二割低い」


重臣たちがざわつく。


「一方、輸送費は公爵家が全額負担しているため、実質的な利益はさらに低くなります。契約を見直し、複数の商会を競わせれば、年間金貨八千枚の増収になります」


「ローレン商会は王家御用達ですぞ。契約の変更は難しい」


「王家御用達であることと、不当に安い価格で購入することは別問題です」


リディアは続けた。


「また、北東部の鉱山で採れる石炭は、品質が悪いとして廃棄されています。しかし、精製炉の燃料としては十分使用できます。これを鍛冶工房へ安価に供給すれば、製造費を抑えられます」


「工房の職人はどうするのです」


「グランフェル領から招聘します」


会議室が静まり返った。


セドリックが尋ねる。


「グランフェル領の職人が、こちらへ来るのか」


「すでに三つの工房から問い合わせを受けています」


「いつの間に?」


「王都を発つ前、知り合いの職人へ手紙を出しました。グランフェル侯爵家では、来年度から工房への補助金が打ち切られる可能性があると伝えたのです」


「なぜ、そんなことが分かる」


財務官が問う。


「私が管理をやめたからです」


リディアは淡々と答えた。


「侯爵家に、補助制度の仕組みを理解している者はいません。早ければ三か月、遅くとも半年で支払いが滞ります」


部屋の全員が言葉を失った。


セドリックだけが、口元を押さえていた。


「笑っていらっしゃいますか」


「いや」


明らかに笑っている。


「貴女を手放したグランフェル侯爵の愚かさを、改めて実感していただけだ」


その日、リディアの提案は正式に採用された。


彼女の予測は、すぐに現実となった。


工房の職人たちが次々と北方へ移住してきたのだ。


彼らはグランフェル侯爵家から補助金を受け取れなくなり、事業を続けられずにいた。


「リディア様がいなくなってから、役所へ何度申請しても返事が来ないのです」


鍛冶職人の親方は言った。


「若旦那に直訴したところ、鉄を打つだけの仕事に金を出す価値はないと言われまして」


若旦那とは、ヴィクトルのことだ。


北方へ移住した職人たちは、良質な鉄と安価な燃料を得て、優れた農具や武具を作り始めた。


雪避け防壁の工事も始まった。


診療所には、王都で職を得られなかった若い医師たちを好待遇で招いた。


一年も経たないうちに、北方の税収は増え、冬季の物価は安定した。


領民たちはリディアを「春を呼ぶ奥方様」と呼ぶようになった。


まだ婚礼前だと説明しても、誰も呼び方を改めなかった。


第六章 崩れ始めた侯爵家


一方、グランフェル侯爵家は混乱に陥っていた。


最初の一か月は、誰も深刻に考えていなかった。


父は家令に命じれば何とかなると思っていた。


家令は帳簿の保管場所すら知らなかった。


ヴィクトルに任せると、彼は数字を見るのが面倒だと言って、知人の男を管理官に雇った。


その男はヴィクトルの賭博仲間だった。


新しい管理官は農民への税を二倍にし、商人から賄賂を受け取り、侯爵家の金庫から金を抜いた。


職人への補助金は停止された。


街道整備の予算は削られた。


備蓄倉庫の穀物は安値で売り払われ、その代金はヴィクトルの借金返済に使われた。


三か月後、領内の工房の半数が北方へ移転した。


半年後、長雨で橋が崩れた。


修理費がないため放置され、商人たちはグランフェル領を避けるようになった。


通行料収入は昨年の三分の一まで落ち込んだ。


その頃、エレノアも王宮で苦労していた。


王太子妃教育が始まったのだ。


「もう嫌です!」


エレノアは教本を床へ投げつけた。


「どうして一日中、勉強しなければならないの!」


教育係の老婦人は冷ややかな目を向ける。


「王太子妃となられる方には、必要な知識でございます」


「舞踏会で笑っていればよいのでしょう?」


「外交使節との会談、慈善事業の監督、王宮予算の確認、地方視察、請願書への対応もございます」


「そんなの、官吏にやらせればよいではない!」


「最終的な判断を下すためには、ご本人にも知識が必要です」


エレノアは毎日のように泣き、癇癪を起こした。


アルベルトへ訴えると、最初は慰めてくれた。


「無理をしなくてよい。君には君のよさがある」


だが一か月もすると、王太子自身が困り始めた。


これまでアルベルトの公務を陰で支えていたのは、リディアだった。


外国から届く書簡の翻訳。


予算書の要約。


会議前の資料整理。


視察先との日程調整。


それらが一斉に滞った。


「リディアに手紙を書けばよい」


アルベルトはエレノアに命じた。


「何と書くのですか?」


「以前と同じように、私の仕事を手伝えと」


「なぜ、わたくしがお願いしなければならないの?」


「君の姉だろう」


「殿下の元婚約者でもありますわ」


二人は初めて口論した。


結局、エレノアは渋々手紙を書いた。


お姉様へ。


王太子妃教育が難しくて困っています。


お姉様なら、妹を助けるのが当然でしょう。


すぐに王都へ戻り、わたくしの代わりに課題をしてください。


殿下のお仕事も遅れています。


公爵様には、わたくしから説明してあげます。


返事は一週間後に届いた。


エレノア様へ。


私はヴァレイン公爵家の人間として、北方領の運営に従事しております。


王太子妃教育および王太子殿下の公務に関与する立場にはございません。


ご自身の責任においてお務めください。


リディア・ヴァレイン


婚礼はまだだったが、リディアは公爵の許可を得て、ヴァレイン姓を名乗っていた。


手紙を読んだエレノアは、怒りのあまり花瓶を壁へ投げつけた。


「何様のつもりよ!」


しかし、リディアはもう侯爵家へ戻らなかった。


第七章 遅すぎた使者


リディアが北方へ来てから一年が経った頃、グランフェル侯爵が公爵城を訪れた。


事前の連絡もなく、わずかな従者だけを連れている。


かつての尊大な姿は見る影もなかった。


頬はこけ、高価だった外套も薄汚れている。


リディアは応接室で父と向かい合った。


セドリックも同席していた。


「久しぶりだな、リディア」


「ご無沙汰しております、グランフェル侯爵閣下」


あえて父とは呼ばなかった。


侯爵の顔がわずかに歪む。


「堅苦しい呼び方はよせ。親子ではないか」


「ご用件をお聞かせください」


「実は、領地のことで少し問題が起きている」


少し、という言葉に、リディアは心の中で首を傾げた。


事前に調べた報告では、少しどころではない。


税収は半減。


商人と職人の流出。


農民の反発。


橋の崩落。


備蓄食料の不足。


おまけにヴィクトルが作った多額の借金。


侯爵家は破産寸前だった。


「お前が戻れば、すぐに立て直せるだろう」


侯爵が言った。


「戻る、とは?」


「侯爵領へ帰り、以前のように帳簿を管理するのだ」


「お断りします」


即答だった。


侯爵は机を叩いた。


「話を最後まで聞け!」


セドリックの目が鋭くなる。


護衛が扉の外で動く気配がした。


侯爵は慌てて声を落とす。


「もちろん、悪いようにはしない。お前の部屋も元に戻す。食事も家族と同じものを出そう」


リディアは言葉を失った。


彼にとって、それが特別な報酬なのだ。


娘に部屋を与え、家族と同じ食事を出すことが。


「あの部屋は、今どうなっているのですか」


「エレノアの衣装部屋にした」


「そうですか」


驚きはなかった。


「では、お前が戻るなら別の部屋を用意する。エレノアより広い部屋は難しいが、使用人部屋よりはましな場所を」


「侯爵」


セドリックの低い声が響いた。


「貴殿は、私の婚約者を何だと思っている」


「もちろん、大切な娘です」


「大切な娘へ、使用人部屋よりましな部屋を与えることが褒美なのか」


侯爵は言葉に詰まった。


リディアは深く息を吐いた。


「侯爵領へ戻るつもりはございません」


「ならば、ここから指示を出せ。多少の報酬は払う」


「その報酬を支払う余裕が、侯爵家にあるのですか」


侯爵の顔色が変わる。


「なぜ、それを」


「領地を去った商人から報告を受けています」


「お前が職人や商人を引き抜いたせいだ!」


侯爵が叫んだ。


「お前は家族を破滅させるつもりか!」


リディアは父を見つめた。


怒りは湧かなかった。


ただ、ひどく虚しかった。


「職人たちは、働きに見合った対価を求めただけです。侯爵家が契約を守っていれば、移住しなかったでしょう」


「それを管理するのがお前の役目だった!」


「いいえ」


リディアは静かに答えた。


「侯爵領を管理するのは、領主であるあなたの役目です」


「お前は私の娘だ!」


「娘である前に、一人の人間です」


「家族が困っているのだぞ」


「私が困っていたとき、皆様は助けてくださいましたか」


侯爵は黙った。


「王太子殿下に身に覚えのない罪を責められたとき、あなたは私へ黙れと命じました。殿下が私を叩こうとしたときも、動かなかった」


「あれは仕方がなかった」


「いつも、そうでしたね」


リディアの声は穏やかだった。


「私の食事が使用人以下でも、仕方がない。私の部屋を妹へ渡しても、仕方がない。私が家族の代わりに働くのも、仕方がない。私の婚約者を妹へ譲るのも、仕方がない」


「リディア」


「では、侯爵家が没落するのも、仕方がないのではありませんか」


侯爵の顔から血の気が引いた。


しばらくして、彼は震える声で言った。


「私が悪かった」


リディアは目を瞬いた。


初めて聞く言葉だった。


「お前を正当に扱わなかったことは認める。だから、今度こそ家族として迎えよう」


「領地が順調であれば、同じことをおっしゃいましたか」


侯爵は答えなかった。


それが答えだった。


「お引き取りください」


「待ってくれ」


「これ以上のお話はございません」


侯爵が縋るように身を乗り出した。


「このままでは侯爵家が取り潰される。ヴィクトルも、エレノアも路頭に迷うのだぞ」


「成人した方々です。ご自身で働かれればよいでしょう」


「侯爵家の人間が働くなど」


「私は働いていました」


侯爵の唇が閉じた。


「十五年間、無償で」


リディアは立ち上がった。


「私はもう、グランフェル侯爵家の道具ではございません」


セドリックが合図をすると、護衛が入ってきた。


侯爵は連れ出される直前、振り返った。


その顔には怒りと絶望、そしてようやく芽生えた後悔が浮かんでいた。


「リディア。お前は私を許さないのか」


リディアは少し考えた。


「恨んではおりません」


侯爵の顔に希望が浮かぶ。


「ですが、もう愛してもおりません」


希望はすぐに消えた。


「あなたは私にとって、過去の人です」


扉が閉じた。


リディアはしばらく、その場に立っていた。


体がわずかに震えている。


セドリックがそっと近づいた。


「つらかったか」


「分かりません」


「無理に分かろうとしなくていい」


彼はリディアを抱き締めるのではなく、両腕を広げた。


選ぶ権利を彼女へ委ねるように。


リディアは一歩進み、その胸元へ額を寄せた。


セドリックの腕が、ゆっくりと背中へ回る。


「公爵様」


「セドリックと呼んでほしい」


「セドリック様」


「様も、いずれは必要なくなると嬉しい」


胸元から伝わる声は、わずかに緊張していた。


冷血公爵も、こんなふうに緊張するのだ。


それがおかしくて、リディアは小さく笑った。


第八章 王太子の失墜


グランフェル侯爵家の没落と同時に、王宮でも大きな問題が起きていた。


アルベルトが隣国との交易交渉で、重大な失敗をしたのだ。


条約案には、北部の鉱物資源に対する関税を大幅に引き下げる条項が含まれていた。


アルベルトは内容を十分に理解しないまま署名しかけた。


これが成立すれば、王国の鉱山業は大打撃を受ける。


寸前で財務長官が気づき、署名は阻止された。


しかし、隣国との関係は悪化した。


国王は激怒し、アルベルトを呼びつけた。


「条約案を読まなかったのか!」


「読みました」


「ならば、なぜこの条項の危険性に気づかない!」


「以前はリディアが重要な箇所をまとめていたのです」


謁見室に、重苦しい沈黙が落ちた。


国王は息子を見つめた。


「お前は、自分の仕事を婚約者に任せていたのか」


「任せていたのではありません。彼女が勝手に」


「では、なぜ今はできない」


アルベルトは答えられなかった。


王太子妃候補のエレノアも、国王から厳しい評価を受けた。


教育係が提出した報告書には、授業の欠席、課題の放棄、使用人への暴言、備品の破損が記録されていた。


さらに、慈善院の視察でエレノアが発した言葉が問題になった。


「どうして、このように汚れた子どもたちに会わなければならないの?」


その言葉を、複数の貴族が聞いていた。


かつてリディアを冷酷だと非難したエレノア自身が、貧しい子どもたちを侮辱したのだ。


国王は二人の婚約を白紙に戻し、アルベルトの王太子位を停止した。


完全な廃嫡ではない。


一年間、地方行政へ携わり、能力と態度を改める機会が与えられた。


しかしアルベルトは、それに耐えられなかった。


「すべてリディアのせいだ」


彼は酒を飲みながら、エレノアへ愚痴をこぼした。


「彼女が私を甘やかしたから、自分で仕事をする習慣が身につかなかった」


「わたくしのせいだとおっしゃるの?」


「そんなことは言っていない」


「でも、いつもお姉様と比べるではありませんか!」


「比べざるを得ないだろう。リディアなら、こんな失敗はしなかった」


エレノアはアルベルトの頬を叩いた。


二人の関係は、急速に崩れていった。


思いやり深い王子と、心優しい令嬢。


そんな姿は、互いに都合のよい夢を見ている間だけのものだった。


困難に直面したとき、アルベルトは責任を押しつけ、エレノアは癇癪を起こした。


やがてエレノアは王宮を追い出され、侯爵家へ戻された。


だが、帰る屋敷も以前とは違っていた。


宝石も絵画も家具も、借金返済のため売り払われていた。


使用人のほとんどは暇を出され、広い屋敷には埃が積もっていた。


「わたくしのドレスは?」


屋敷へ戻るなり、エレノアは母へ尋ねた。


「売ったわ」


母は痩せた顔で答えた。


「宝石も?」


「すべて」


「そんな!」


「仕方がないでしょう。食べるものもないのよ」


エレノアは床へ座り込んだ。


「お姉様に頼みましょう」


母が言う。


「公爵夫人になれば、お金はいくらでもあるはずよ」


「でも、お父様が頼んでも断られたのでしょう?」


「あなたなら違うわ。妹ですもの」


二人はリディアへ何通も手紙を書いた。


病気になった。


食べるものがない。


ドレスを買えない。


家族なのだから助けてほしい。


返事はなかった。


正確には、公爵家の法務官から一度だけ回答が届いた。


今後、金銭を要求する書簡が送付された場合、恐喝行為として王国法に基づく措置を取る。


それ以降、母とエレノアは手紙を出せなくなった。


第九章 最後の舞踏会


リディアとセドリックの婚礼は、北方へ来てから一年半後に行われた。


公爵城の大広間には、領内各地から住民が集まった。


豪華さよりも温かさに満ちた式だった。


鉱山の職人が銀の指輪を作り、村の女性たちがヴェールを織った。


子どもたちは春の花を籠いっぱいに摘んだ。


セドリックは濃紺の礼装をまとっていた。


傷痕を化粧で隠すことはなかった。


リディアも、それを望まなかった。


彼の傷は、民を守った証だからだ。


「リディア」


祭壇の前で、セドリックが彼女の手を取る。


「健やかなときも、病めるときも、貴女の意思と尊厳を守り、生涯の伴侶として敬うことを誓う」


リディアの胸が熱くなった。


「セドリック。私はあなたと喜びを分かち、困難に力を合わせ、誠実な伴侶であることを誓います」


二人が指輪を交換すると、大広間が歓声に包まれた。


婚礼から二か月後、夫妻は国王の招きで王都へ向かった。


北方領の財政改革と産業振興が高く評価され、リディアに王国勲章が授与されることになったのだ。


式典の後、盛大な舞踏会が開かれた。


リディアは銀色のドレスをまとい、セドリックの腕に手を添えて広間へ入った。


かつて自分が婚約破棄された場所だった。


人々は今や、彼女を冷酷な令嬢とは呼ばない。


優れた統治者。


北方の賢女。


公爵の最愛の妻。


さまざまな称賛が聞こえてくる。


だが、リディアは他人の評価に心を乱されなくなっていた。


「疲れていないか」


セドリックが尋ねる。


「大丈夫です」


「無理はするな。帰りたくなれば、すぐに帰ろう」


「あなたは、いつもそう言ってくださいますね」


「妻の体調より重要な舞踏会などない」


当然のように言う夫へ、リディアは微笑んだ。


そのとき、広間の端に見覚えのある青年が立っていることに気づいた。


アルベルトだった。


王太子位を停止されてから一年。


派手な装飾品はなく、以前より痩せている。


アルベルトはこちらへ近づき、深く頭を下げた。


「ヴァレイン公爵、公爵夫人。少しお話ししてもよろしいでしょうか」


セドリックはリディアを見る。


決めるのは彼女だ。


「構いません」


三人は人目の少ない回廊へ移動した。


アルベルトはしばらく俯いていた。


「リディア。謝りたかった」


「何についてでしょうか」


「すべてだ」


彼は拳を握った。


「私は、自分が優秀だと思い込んでいた。だが実際は、君に頼っていただけだった。君がいなくなって初めて、それが分かった」


リディアは黙って聞いた。


「エレノアの言葉を信じ、君を大勢の前で侮辱した。手まで上げようとした。本当に、すまなかった」


「そうですか」


「許してくれとは言わない」


アルベルトは苦しそうに笑った。


「ただ、一度だけ伝えたかった」


以前の彼なら、許してくれと迫っただろう。


謝ったのだから受け入れろと命じたはずだ。


少なくとも今は、自分の望む答えをリディアに強制しようとはしなかった。


「アルベルト殿下」


王太子ではなくなった彼を、それでも敬称で呼ぶ。


「以前の私は、あなたに謝罪してほしいと思っていました」


アルベルトが顔を上げる。


「自分の努力を認めてほしい。間違っていたと気づいてほしい。そう願っていました」


「今は?」


「もう必要ありません」


アルベルトの瞳に痛みが走った。


「あなたが後悔してもしなくても、私の人生は変わりません。私は今、幸せですから」


セドリックの手が、そっとリディアの背中へ添えられる。


アルベルトはその手を見つめ、静かに頷いた。


「そうか」


「ですが、謝罪のお言葉は受け取ります」


「許してくれるのか」


「許すことと、元の関係へ戻ることは別です」


アルベルトの顔に浮かんだ期待が消える。


リディアは続けた。


「私はもう、あなたを恨みません。けれど、二度とあなたのために自分を犠牲にすることもありません」


「分かっている」


アルベルトは深く一礼した。


「どうか、お幸せに」


「殿下も、ご自身の務めを果たされますように」


それが、二人が交わした最後の言葉となった。


広間へ戻る途中、セドリックが尋ねる。


「大丈夫か」


「はい」


リディアは夫の腕へ寄り添った。


「驚くほど、何も感じませんでした」


「それでいい」


「冷たいでしょうか」


セドリックは足を止めた。


「過去に傷つけられた相手へ、いつまでも心を割く義務はない」


「あなたは、いつも私が欲しい言葉をくださいますね」


「欲しい言葉を考えているわけではない。私が思っていることを伝えているだけだ」


「それが嬉しいのです」


広間では、新しい曲が始まっていた。


セドリックは杖を持つ手に少し力を入れた。


「踊ってくれるか」


右脚に後遺症がある彼は、普段ほとんど踊らない。


「無理をなさらないでください」


「妻との最初の舞踏会だ。一曲くらいは格好をつけたい」


「では、ゆっくり踊りましょう」


二人は手を取り、輪の中へ入った。


完璧な踊りではなかった。


セドリックの足取りは少し不安定で、リディアもそれに合わせて速度を落とした。


それでも、これまで踊ったどの曲よりも楽しかった。


周囲の視線など、気にならない。


誰かに認められるためではない。


義務を果たすためでもない。


愛する人と、同じ時間を分かち合うために踊っている。


セドリックが小さく笑った。


「今、足を踏んだな」


「踏んでおりません」


「いや、踏んだ」


「公爵閣下の勘違いです」


「妻に嘘をつかれた」


「証拠はございますか」


「ない。だから私の負けだ」


二人は顔を見合わせて笑った。


第十章 侯爵家の終わり


翌年、グランフェル侯爵家は正式に爵位を失った。


農民への過剰な徴税、ヴィクトルによる公金横領、管理官の不正が王国の調査で明らかになったためだ。


侯爵は領主としての責任を問われ、地方の小さな屋敷へ移された。


贅沢を続ける財産はなく、年金で静かに暮らすことになった。


ヴィクトルは横領と賭博による詐欺で投獄された。


刑期を終えた後は、開拓村で労働に従事する予定だという。


母カトリーヌは遠縁の貴族を頼ったが、誰にも受け入れられなかった。


最後には平民街の小さな家を借り、自分で料理と洗濯をする生活を始めた。


エレノアは裕福な商人へ嫁ごうとしたものの、浪費癖と王宮での振る舞いが知れ渡っており、縁談はすべて断られた。


やがて母と同居し、針仕事で生活費を稼ぐようになった。


彼らの末路を聞いたリディアは、助けることも、嘲笑うこともしなかった。


ただ、一通の命令書に署名した。


グランフェル領の住民を救済するため、ヴァレイン公爵家から農業指導員と技術者を派遣する。


爵位を失った侯爵家の領地は王家の直轄領となり、立て直しが進められていた。


罪のない領民まで苦しむ必要はない。


「やはり、助けるのだな」


セドリックが言った。


「父たちを助けるわけではありません」


リディアは窓の外を見た。


北方にも、遅い春が来ていた。


雪の下から小さな花が顔を出している。


「私が守りたかったのは、最初から領民の暮らしです」


「分かっている」


セドリックは彼女の肩を抱いた。


「貴女を妻に迎えられたことは、私の人生で最大の幸運だ」


「私もです」


「それは、私が幸運だったという意味か?」


「いいえ」


リディアは笑った。


「あなたと出会えたことが、私にとって最大の幸運です」


セドリックは珍しく言葉を失い、顔を赤くした。


戦場では数千の兵を率いる公爵が、妻の一言で動揺している。


リディアはそんな夫の頬へ、そっと口づけた。


「愛しています、セドリック」


「私も愛している、リディア」


窓の外で、春を告げる鐘が鳴った。


終章 家族と呼べる場所


それから五年が経った。


北方公爵領は、王国でもっとも豊かな地域の一つになっていた。


鉄製品や魔導農具が各地へ輸出され、雪避け防壁によって冬季の物流も安定した。


各村の診療所には医師が常駐し、学校では身分に関係なく子どもたちが学んでいる。


公爵城の庭では、二人の子どもが駆け回っていた。


「お母様、見て!」


長女のアリアが、摘んだ花を掲げる。


その後ろでは、弟のルークが雪解け水の水たまりへ飛び込んでいた。


「ルーク!」


リディアが声を上げるより早く、セドリックが息子を抱き上げる。


「また泥だらけだな」


「お父様も一緒に!」


「私は遠慮する」


「どうして?」


「マーサに叱られる」


「公爵様なのに?」


「公爵でも、マーサには勝てない」


子どもたちが笑う。


リディアも声を上げて笑った。


かつて侯爵家にいた頃、食卓はいつも冷たかった。


失敗しないよう、怒らせないよう、役に立つように息を潜めていた。


今の食卓は騒がしい。


子どもがスープをこぼし、セドリックがパンを焦がし、マーサが全員を叱る。


けれど、誰かが失敗しても、居場所を失うことはない。


仕事ができなくても、愛される価値がなくなることはない。


それが家族なのだと、リディアはようやく知った。


ある日、王都から一通の手紙が届いた。


差出人は、かつてグランフェル侯爵だった父である。


手紙には、娘への謝罪が綴られていた。


自分は父親ではなく領主としても失格だった。


リディアの働きを当然だと思い、愛情を与えず、家族の責任を押しつけた。


今さら許しを求める資格はない。


ただ、残りの人生を使って、自分の過ちを考え続ける。


以前なら、リディアはその手紙に心を乱されただろう。


今は静かに読み終え、箱の中へしまった。


返事を書くつもりはない。


許さないからではなかった。


返事をしなければならないという義務から、すでに自由になっていたからだ。


「お母様!」


庭からアリアの声がする。


「早く来て!」


「今、行きます」


リディアは立ち上がった。


廊下へ出ると、セドリックが待っていた。


「仕事は終わったか」


「ええ」


「今日は街の春祭りだ。アリアが、母親と一緒でなければ行かないと言っている」


「ルークは?」


「すでに屋台の菓子を三つ食べた」


「まあ」


「四つ目を狙っている」


「急がなければなりませんね」


セドリックが手を差し出す。


リディアは迷わず、その手を取った。


侯爵家を出たあの日も、彼は同じように手を差し出してくれた。


違うのは、今のリディアがその手を取ることを、少しも怖がっていないことだった。


城の外には、家族と領民たちが待っている。


春の光が二人を包んだ。


かつてリディアを役立たずと呼んだ者たちは、すべてを失った。


だが、彼女はもう彼らの不幸を喜んではいない。


最大の復讐とは、相手を不幸にすることではなかった。


自分を傷つけた者たちが、二度と手の届かない場所で幸せになること。


過去に価値を決めさせず、自分の人生を自分で選ぶこと。


リディアは愛する夫の手を握り、子どもたちのもとへ歩いていった。


「リディア」


セドリックが彼女を呼ぶ。


「何でしょう」


「幸せか」


リディアは夫を見上げた。


そして、春の日差しのように笑った。


「ええ。とても幸せです」


その答えを聞いたセドリックも笑う。


二人の前で、公爵城の門がゆっくりと開いた。


そこに広がっていたのは、誰かに与えられた道ではない。


リディア自身が選び、築き、守ってきた未来だった。


もう誰にも、彼女の価値を決めることはできない。


もう誰にも、彼女の人生を奪うことはできない。


そして彼女が家族と呼ぶ人々は、決して彼女を道具として扱わない。


リディアは、自由だった。


何よりも愛されていた。


侯爵家の皆様が、今さら彼女を家族と呼んだところで、もう遅い。


彼女の帰る場所は、とうの昔に別の場所へ変わっていたのだから。


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