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第68話:伝播する英雄譚


 北門近く、応急の板壁で塞がれた冒険者酒場には、夜が深まるにつれて人が集まり始めていた。


 天井の(はり)は歪み、壁には亀裂が走っている。だが、酒場の主人は「壁が一枚でも立ってりゃ営業する」と宣言して店を開けた。スタンピードで破壊されたカウンターの代わりに荷台の板を置いただけの急ごしらえだったが、冒険者たちにとっては、生きていることを確かめ合える数少ない場所だった。


 ドレナス・ガルシアは、カウンターの端で安酒を啜っていた。この酒場では連日、『Fランクの英雄』、『銀髪の女神』、『金色の暴風』というザラダスを救った三英雄の話題で持ちきりだ。


 いずれも実在すら疑ってしまうような話ばかりだが、少なくとも、ドレナスは『Fランクの英雄』については実在すると証言が出来る。グラスの中の琥珀色の液体を啜り、舌の上で転がすように味わいながら、脳裏にこびりついたあの日の光景を思い出す。


 血と塗れた北門。オーガの剛腕が振り下ろされる瞬間、死を覚悟した自分。そして——漆黒の閃光が、その全てを断ち切ったあの光景を。



「おい、ドレナス。聞いたか?」



 隣席の冒険者が、酒瓶を傾けながら身を乗り出してきた。同じパーティの仲間だ。あの日、ドレナスが囮になると言った時に「馬鹿言うな」と怒鳴った男でもある。



「あのFランクの英雄——カナメってやつだったか、騎士団からの報奨金を受け取らなかったらしいぜ。街の復興と遺族への補償に充てろって言ったんだとよ」



 仲間の言葉を聞いた全く見知らぬ冒険者が身を乗り出してきた。



「俺も聞いたぜ!しかも、五千体分の素材の権利まで手放したんだとさ!信じられるか?」



 騒がしかった酒場がいつの間にか沈黙し、その場に居た全員がドレナスの言葉を待っていた。



「……あの人なら、言うだろうな」



 ドレナスは驚くでもなく、淡々と頷いた。ザラダスのあちこちで同じような噂が囁かれている。

 騎士団の内部から漏れ聞こえてきた話だというが、この手の英雄譚は尾鰭(おひれ)がつくのが常だ。だが、ドレナスにとってはそれが決して飾られたものではないという確信があった。



「それに、金に目がない男を英雄だなんて呼びたくないな俺は。金に汚いのはゴズだけで十分だ」



「はっはっはっ!ちげえねーな!」



 ドレナスはグラスを置き、腰に差した剣の柄に手を添えて戦場での出来事に、カナメと過ごした短い時間に思いを馳せる。



「なあ、ドレナス。お前、英雄の隣で戦ったんだろ。実際、どうだったんだよ」



「隣で戦った……というのは誇張しすぎだな。俺はただあの人の後ろに必死にへばりついただけだ。彼は強かった。ひたすらに強かった」



 ドレナスは安酒を一息に干し、空になったグラスをカウンターに置いた。



「あの背中を見た時、俺は兄貴を思い出したんだ。容姿も、戦い方も、何もかも違う。だが……どんな地獄でも仲間を守るって覚悟だけは、嫌になるほど同じだった」



 周囲の冒険者たちが、グラスを傾ける手を止めてドレナスの言葉に耳を傾けている。



「俺は、ああなりたい。英雄になりたいわけじゃないぜ?あの人みたいに——自分の大切なものを、守れる男になりてえんだ」



 その言葉が酒場の空気に溶け込んだ時、誰かが静かにグラスを掲げた。一人、また一人と、それは無言の賛同となって広がっていく。


 ――『Fランクの英雄』。その名は、安酒の中に語り継がれる伝説の一頁となって、静かに根を張り始めていた。



   ◇



 城壁外の集落、【外城区(フォーブール)ヴェラド】。


 かつて三千人が暮らしたこの場所は、スタンピードの爪痕を至るところに残していた。崩れた家屋、焼け焦げた柵、血に染まった石畳。それでも、生き残った住民たちは瓦礫を片付け、臨時の祭壇を築き、亡き者たちへ祈りを捧げている。


 猟師マルコ・ベルントは、その祭壇から少し離れた石垣に腰を下ろし、折れた弓を膝の上に置いて黙然と見つめていた。


 四十年使い込んだ相棒は、あの日の激闘で、握りの木が裂けボロボロになり、折れていた。だが、そのボロボロな弓が目の前に起きた奇跡を鮮明に思い出せてくれた。



「マルコさん、体はもういいのかい」



 近くで瓦礫を運んでいた若い住民が声をかけてきた。マルコは短く頷いた。傷だらけで痛みも残っているが動けないほどではない。

 若者はマルコの隣に座って、遠い記憶を思い出すかのように静かに呟いた。



「あの銀髪の婦人は一体何者だったんだろう……」



 マルコは暫く黙った後、ゆっくりと口を開いた。



「やはり、女神様だろうな」



 その一言に、周囲で復興作業をしていた住民たちの手が止まる。



「あの銀髪の美しさも、俺たちの前に立ちはだかった慈悲深さも、この世のものとは思えなかった。千数百体の化け物が雪崩れ込んできた時、俺たちは死を覚悟した。矢は尽き、武器を持てる奴も殆ど残っちゃいなかった」



 マルコの視線は、折れた弓に落ちたまま動かない。



「だが、あの人が現れた瞬間、全てが終わった。たった一瞬にして、千数百体の魔物が、影に呑まれて跡形もなく消えた」



 住民たちの中から、畏怖の混じった溜息が漏れた。

 マルコの声が、僅かに低くなった。



「あの人が操る『影』——あれだけは別物だ。魔物をまるごと食らい尽くす、底の見えない虚無の深淵。骨一つ、血の一滴すら残さずに消し去っていくのを見た時、俺はな……信仰とは別の、体の芯が凍りつくような畏怖を感じたよ」



 猟師として四十年、この森で無数の命の終わりを見届けてきた男の言葉は、静かに、しかし深く聴衆の心に刻まれた。



「それでも、あの人は女神だと俺は思う。泣きじゃくるガキの頭を撫でて、母親みたいな顔で笑ってくれた。あんな力を持っていながら、あんな顔ができるのは——神か、そうでなけりゃ本物の母親だけだ」



 マルコは折れた弓を抱え直し、祭壇に向かって静かに頭を下げた。ヴェラドの住民たちは、その背中に重ねるように、銀髪の女神への祈りを捧げ始めた。



   ◇



 南区の港町。復興作業が進む倉庫街の一角に、小さな花束が供えられている。

 若き騎士ヴィクター・ハイネは、その花束の前に片膝をつき、長い間、目を閉じていた。


 花束を供えたのはヴィクターではない。南区に暮らす亜人たちが、毎朝新しい花を手向けに来るのだという。人間が築いた街で、種族の違いを理由に隅へ追いやられながらも、この街を守るために戦い、散った仲間への祈りだ。


 ここは、あのリザードマンの英雄が最期を迎えた場所だ。名前も知らない。出自も知らない。ただ、この街を守るために命を懸け、子供を庇って倒れたということだけを、ヴィクターは知っている。あの穏やかな笑みを——最期に「皆、助かったか」とだけ問うた、あの澄んだ声を、ヴィクターは一生忘れないだろう。



「……俺は、間違っていた」



 誰に聞かせるでもなく、ヴィクターは呟いた。


 裕福な家庭に育ち、両親からは亜人への苦手意識を刷り込まれた。正しくないと頭では分かっていても、肌の色や鱗や尻尾を見ると、どうしても身構えてしまう自分がいた。


 だが、あの日の出来事が全てを変えた。


 人間が怯え、膝を折る中で、彼らは種族の壁など最初から存在しないかのように、隣の人間を守り、その命を盾にした。


 そして、このリザードマンは——最期の瞬間に「皆、助かったか」とだけ聞いた。

 あの穏やかな笑みを、ヴィクターは一生忘れないだろう。

 立ち上がり、剣の柄に手を置く。その拳は、微かに震えていた。



「騎士団が『王の剣』を名乗るなら、まずは俺たち自身が、偏見という錆を削り落とさなきゃならない」



 花束に一礼し、ヴィクターは踵を返した。この街には、まだ守るべきものがある。そしてそれは、人間だけではないのだ。



   ◇



 ——同じ頃。遥か東方、王都クランベルグ。


 ヴァルトハイム伯爵邸。代々の領主が築き上げてきた壮麗な邸宅の執務室で、一人の男が報告書を引き裂いていた。


 レオナルド・フォン・ヴァルトハイム伯爵。五十代半ば、鷹のような鋭い目と、銀色に染まり始めた髪を持つ男。建国以来の名門貴族として王都に居を構え、領地ザラダスの統治は代官に一任して八年以上になる。



「民が騎士団を称え、正体不明のFランクを拝んでいるだと……?」



 報告書の断片が、高級な絨毯の上に紙吹雪のように散った。



「恩知らずの愚民どもめ。あの街の土地も、空気も、門を潜る権利さえも——全ては我がヴァルトハイム家が与えているものだということを忘れたのか」



 伯爵の怒りは、単なる感情の爆発ではない。建国以来の歴史を持つ領主家にとって、民の崇拝が他者へ向くことは、支配構造の根幹を揺るがす深刻な脅威なのだ。ザラダスに置いた代官からの報告では、都市警備兵のうち、戦ったものも多いが逃げ出した者も多かったと聞く。


 領主が守れなかった街を、《《王の騎士団》》と、《《無名の英雄》》が救った。その事実は、「保護と忠誠」という封建契約の不履行を突きつけられたも同然であった。

 民が「自分たちの税金で雇われた警備兵は逃げたのに、英雄が助けてくれた」などと騒ぎでもすれば、領主への忠誠は砂上の楼閣と化す。


 更に厄介なのは、王直属の騎士団が活躍しすぎたということだ。これでは「ヴァルトハイムは自分の領地すら管理できない無能」というレッテルを貼られ、王室から介入を受ける絶好の口実を与えてしまう。八年以上も王都に居座り、政治工作に明け暮れていた代償が、最悪の形で跳ね返ってきたのだ。



「ゴズのような無能を飼っていたのが仇になったか。……だが、あの豚一匹の失態で、この名門の歴史を汚させるわけにはいかん」



 伯爵は破り捨てた報告書の断片を踏みしめ、窓の外に広がる王都の夜景を見据えた。



「英雄など不要だ。我が庭を荒らす不届者は沈めてやらねばな」



 その声は極寒の風のように冷たく、しかし明確な殺意を秘めていた。ザラダスの遥か彼方で、新たな影が蠢き始めていた。



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