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第67話:英雄の報酬


 スタンピードの鎮圧から、四日が経っていた。


 窓の外に広がるザラダスの街並みは、かつての喧騒とは、似て非なる音に満ちている。鉄槌が石材を穿つ硬質な響き、鋸が新しい木材を挽く規則的な軋みが、途切れることなく鳴り続けていた。

 それらは明日を繋ぎ止めるために、生き延びた者たちが歯を食いしばって立てている、切実な再生の拍動であった。


 街のあちこちではいまだ葬儀の煙が細く昇り、防疫の消石灰が冬の雪のごとく石畳を白く染め上げている。



 ――九千人。



 その非情な数字が、街全体に拭えぬ影を落としている。十五万の民のうち、およそ十七人に一人が還らぬ人となった計算だ。どの家庭にも、どの路地裏にも、昨日までそこにあったはずの誰かの痕跡が、ぽっかりと穴を空けていた。


 俺は窓枠に背を預け、ぬるくなった茶を一口啜った。

 ザガンから提供されたザラダスの中央に位置するこの豪邸は、比較的被害が少なく、スタンピードを経た今も健在だった。

 いや、この豪邸だけでなく、ここら一帯の高級住宅が並ぶ区画は、皆一様に別世界と思えるほど平穏そのものだった。


 一階の居間から、賑やかな声が響いてきた。



「こら!わらわの茶菓子に手を出すでないぞ、小娘!」



「えー!せっちゃん、ずるい! パパ、せっちゃんがお菓子を独り占めしてるの!」



「ルナ、刹那。喧嘩をするなら庭でやりなさい。……お掃除の手間を増やさないで頂戴ね」



 シルヴィアの穏やかな、しかし有無を言わせぬ声が仲裁に入る。



「はーい……」



「ケッ。ガキんちょが騒がしいだけじゃ」



 平和だ。

 四日前にこの街が地獄と化していたとは思えないほど、日常の匂いがする。


 だが、その平穏は薄い氷の上に成り立っていることを、俺は知っている。あの「薬」、マルバスが残した禁忌の劇物。それを使って今回のスタンピードを仕組んだ魔族の男は始末した。

 あの魔族の男は、一言も有益な情報を吐かないまま死んだ。しかし、あの男の立ち居振る舞いから察するに、末端の暴走ではなく組織的な作戦だったことは間違いない。五千体もの魔物を統率し、四方向から同時に攻撃を仕掛ける。それだけの戦術を組める連中が、駒の一つを失った程度で手を引くとは思えない。


 考え込んでいると、玄関の方から扉を叩く音が響いた。硬く、規則正しい三回のノック。軍人の作法だ。



   ◇



 シルヴィアによって応接間へ通されたのは、騎士団長キラレン・ヴェルズガルムであった。


 正装の軍服に身を包み、背筋を伸ばして椅子に腰掛けている。灰色がかった金髪は整えられ、顔の古傷には戦場の泥ではなく薄い軟膏が塗られていた。あの日、血と灰に塗れて咆哮を上げていた武人が、今は一人の礼節ある訪問者として佇んでいる。



「お待たせしたな、キラレン殿」



「いや、こちらこそ突然の訪問を許していただきたい。カナメ殿」



 キラレンは立ち上がり、深く一礼した。その所作には戦場で見せた荒々しさの欠片もなく、宮廷で鍛え上げられた武人の矜持が滲んでいる。


 シルヴィア紅茶を差し出すと、キラレンは一瞬、その妖艶な笑顔にたじろぐような表情を見せたが、すぐに居住まいを正した。

 ルナは刹那と一緒にソファの隅で大人しくしている。ミラは窓際の椅子に腰掛け、手元の資料から視線を上げてキラレンを静かに観察していた。



「単刀直入に申し上げる」



 キラレンは懐から一通の書状を取り出し、テーブルの上に置いた。



「今回の戦闘は、騎士団による『緊急戦時依頼』として正式に記録された。つまり、貴殿方の戦果は全て、正規の討伐報酬の対象となる」



 書状に押されているのは、王直属騎士団の紋章。偽造の余地がない、この国で最も重い印の一つだ。



「他の冒険者や兵たちも、貴殿の働きを目の当たりにしている。報酬の分配に異議を唱える者は、一人もいなかった。——よって、討伐した五千体の魔物から得られる全ての権利は、正式にカナメ殿とその一党に帰属するものと、騎士団は認定した」



 キラレンはそう告げると、テーブルの上に革の袋を置いた。ずしり、と重い音が鳴る。口が僅かに開き、中から鈍い光沢を放つ白金貨が覗いていた。



「これは街からの最低限の謝礼だ。貴殿が救った命の数に対する対価としては、あまりに不釣り合いな端金だが……どうか、受け取ってほしい」



 キラレンの声には、武人としての誠実さと、それでもこの金額では到底足りないという無念が滲んでいた。

 俺は、その革袋に触れることすらなく、静かに首を振った。



「悪いが、要らない」



「……なんと」



「この金を懐に入れたところで、飯が不味くなるだけだ」



 キラレンの眉が僅かに動いた。俺は窓の外に視線を向ける。まだ煙が昇っている。あの煙の一つ一つが、誰かの葬儀だ。



「俺たちは、俺たちの理由で戦った。街を救ったのは、結果に過ぎない。……その金は、あの戦いで武器を握った冒険者や、家族を失った連中に回してくれ」



 特定の誰かの名前を出す必要はなかった。あの北門で背中を預けたDランクの青年。他にも、西の外城区や、南区で命を懸けたという亜人の戦士たちや、東区で子供を守り散った教師たちもいたと聞く。この街には、明日の飯を心配しながら、それでも復興の槌を振るっている人間が無数にいる。


 キラレンは暫し沈黙した後、深く頭を下げた。



「……承知した。貴殿の意志は、必ずや正しく届ける」



   ◇



 報奨金の話が片付くと、キラレンの表情が僅かに曇った。



「もう一件、報告がある。魔物の骸の処理についてだ」



「ああ、あの五千体か」



 ザラダスの至るところで積み上がった骸の山。シルヴィアが飲み込んでしまったものもあるが、残っている死骸も数知れない。

 腐食の速度が異常に早く、鎮圧の翌日にはもう使い物にならない部位が大半だった。騎士団と冒険者たちが総出で解体作業にあたり、辛うじて使える素材だけを切り出したと聞いている。



「素材の選別は、既に完了した。腐食が極めて早く、通常であれば数週間は保つ部位すら二日と持たなかったが……辛うじて回収できた分がある。本来であれば五千体分の素材は莫大な価値を持つが、実際に使用に耐えるのはその二割にも満たない」



「それでも、今の街には十分だろう」



「ああ。だが、その権利は全て貴殿に帰属する。先ほどの報奨金と同じく——」



「同じことだ」



 俺はキラレンの言葉を遮った。



「使える分は全部、騎士団で回してくれ。武具の修繕でも、復興の資金にでも充てればいい」



 キラレンが目を見開いた。報奨金を断った上に素材まで手放すなど、常識的には考えられない判断なのだろう。



「ただし、条件が一つある」



「……申されよ」



「遺族への補償を、最優先にしてくれないか。素材を捌いた金で役人の懐を温めるような真似をしたら——」



 俺は傍らに立てかけた漆黒の鞘、刹那の柄に軽く手を添えた。カチリ、と鯉口を鳴らす微かな音が、応接間の空気を一瞬で凍りつかせる。



「その時は、俺たちが『回収』に伺う」



 冗談めかした口調だったが、キラレンの背筋が一瞬強張ったように見えた。この男は、俺の冗談が冗談でないことを、戦場で嫌というほど理解している。



「……肝に銘じよう」



 キラレンが生唾を飲み込んだ音が、妙に可笑しかった。

 その時、隣に控えていたシルヴィアが、花が綻ぶような微笑みと共に口を開いた。



「あら、カナメ様。素材を全てお渡しする前に、一つだけよろしいかしら」



 その手には、いつの間にか小さな羊皮紙のメモが握られている。



「解体の際に回収していただいた『高純度の魔晶石』がいくつかあったはずですわ。あれだけは、私に頂戴できませんこと?」



 にこやかに、あくまで優雅に。だが、その紫色の瞳の奥に、捕食者特有の執着が微かに覗いているのを俺は見逃さない。

 キラレンに視線を向けると、彼は「騎士団が預かっている分に該当する物があれば」と、やや引きつった顔で頷いた。



「では、お言葉に甘えますわ」



 彼女が何を作るつもりなのかは、あえて聞かないでおこう。

 続いてミラも、窓際で静かに挙手をした。



「あ、あの。もし指揮官種の変異個体から採取されたサンプルが残っていたら、私にも少しだけ分けていただけますか。あの薬物の分析に必要なので……」



 こちらは純粋な研究目的だ。シルヴィアの要望と並べると、妙に健全に聞こえるから不思議である。



   ◇



 すべての用件を終え、キラレンを見送るために玄関へ向かった。

 彼は扉の前で一度立ち止まり、戦場で見せた峻厳な指揮官の顔ではなく、一人の男としての、穏やかで深い感慨を湛えた瞳で俺を見つめた。



「カナメ殿。……貴殿は、どこまでも、『Fランク』という枠には収まりきらぬ御仁だ」



「買い被りすぎだ。俺はただの——」



「ああ、分かっている。貴殿は、ただ家族を守っただけだと仰るのだろう」



 キラレンは苦笑し、軍帽を被り直した。



「だが、その『ただ』が、この街の人々にとっては唯一無二の救いとなったのだ。……我々は、貴殿の名を決して忘れはしない」



 踵を返し、護衛の騎士たちと共に去っていくキラレンの背中を、俺は暫く見送った。


 扉を閉め、居間に戻ると、シルヴィアがルナの髪を梳かしながら、穏やかに微笑んでいた。刹那は「もう少し吹っかけてもよかったのではないか」と不満げに呟いている。ミラは既にリストの整理に没頭していた。



 ――英雄、か。



 その称号が街に広まりつつあることは、耳に入っている。ありがたい話ではあるが、名声とは光であると同時に、影を濃くする灯火でもある。目立てば目立つほど、厄介な連中の標的になる。


 それにマルバスの薬も再び使われれば、今回のようなスタンピードが起こるだろう。末端の駒を一つ潰した程度で、全てが終わったわけではないのだ。


 窓の外では、復興の槌音と葬列の鐘が、まだ交互に鳴り続けていた。



「……嵐の後は、凪が来る。だが、凪の後にはまた嵐が来るものだな」



 誰にともなく呟いて、俺は冷めた茶を飲み干した。


 この束の間の平穏を、一日でも長く守り抜く。それが今の俺にできる、唯一の「英雄らしい」振る舞いだろう。


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