第65話:汚物にまみれた豚
南区の外れ、都市の排泄口である巨大な下水管の出口。
そこは泥と油、そして行き場を失ったネズミの死骸が堆積する、救いようのないゴミ溜めであった。朝靄と潮風に混じって漂うのは、大量の排泄物と腐敗した有機物が混ざり合い、発酵した、筆舌に尽くしがたい悍ましい悪臭である。
その汚濁の中で、一つの影が蠢いていた。
「ぐっ……ぅ、げほっ、げほっ……!」
ゴズ・ロックスミス。
かつてザラダス冒険者ギルドの支部長として、この街の経済を牛耳っていた男。ヴァルトハイム伯爵の威光を背に私利私欲の限りを尽くしてきた権力者の成れの果てだった。
その男が今、高級な絹の上着を茶色い汚水で腐らせ、かつて誇らしげに磨き上げていた革靴を泥の底に遺棄したまま、ヘドロの中を四足歩行の獣さながら這いずり回っていた。
脂ぎった顔面には黒い汚泥がこびりつき、丁寧に整えられていた髭には、得体の知れない固形物が呪わしく絡みついている。
「くそっ、くそっ、くそっ……!」
ゴズは震える両腕で、泥まみれの白金貨が詰まった袋を、まるで唯一の自身の臓器であるかのように愛おしそうに抱きしめていた。
スタンピードの警報が鳴った瞬間、彼は真っ先に金庫室へ走った。十五万人の命よりも、己の財産を守ることを選んだのだ。そして、誰にも見つからぬよう、下水道を通って逃亡を図った。
港に停泊している船に乗り込めば、この金を使って王都へ逃げられる。伯爵閣下に泣きつけば、きっと匿ってもらえる。
そんな浅はかな算段だけが、彼の醜悪な生存本能を突き動かしていた。
「あと少し……あと少しで、出口だ……!」
排出口の先、朝日の眩い筋がヘドロの海を照らし出した。
ゴズは歓喜に顔を歪め、最後の力を振り絞って汚泥を掻いた。ようやく外の空気を吸える——自由を手にする。そう確信した刹那、彼の視界を塞いだのは、数本の冷徹な鋼の切っ先であった。
◇
下水から引きずり出されたゴズの姿は、もはや人間というより、泥沼から這い出てきた肥大した豚そのものであった。
巡回中であった騎士たちは、隠そうともしない嫌悪と軽蔑をその瞳に宿し、足元で震える醜態を見下ろしている。
「ひっ、こ、これをやる!!」
ゴズは痙攣する指先で、泥と糞尿にまみれた袋から、一枚の白金貨を差し出した。
「これだけではない! 私はヴァルトハイム伯爵閣下の右腕、この街の要石だぞ! 見逃せば、一生遊んで暮らせるだけの金をお前たちに約束してやる!」
だが、騎士たちの表情は石像の如く微塵も動かなかった。
つい数時間前まで北門の地獄で、肉を裂き骨を砕かれながら戦っていた者たちだ。
友を失い、自らも血泥に塗れ、それでも民を守るために剣を振るい続けた。
それとは対照的に、誰よりも先に、己の金だけを抱えてドブを這い回っていた男の言葉など届く余地もない。
「……」
一人の若い騎士が、静かに一歩を踏み出した。その顔には、親友を失った痛切な怒りが、耐え難い熱を伴って滲み出している。
「黙れ、汚物め」
騎士の無骨な足が、白金貨の袋を無造作に蹴り飛ばした。
硬質な金属音と共に金貨が汚物の中へと散らばり、ゴズの顔面は再び、冷たい泥の中に押し付けられた。
「ぎゃあっ!? な、何をする! 私は支部長だぞ、無礼な——」
「貴様のせいで、俺の友は死んだ」
騎士の声は、あまりに静かであった。だが、その声色には狂おしいほどの憎悪が燃え盛っていた。
「このような事態が起こっていて尚保身に走るかッ!貴様せいでどれだけの多くの人々が犠牲になったと思っているッ!?」
別の騎士が、ゴズの腕を骨が軋むほどの力で掴み上げた。
「連行しろ。団長がお待ちだ」
「や、やめろ! 暴力は軍法違反だぞ! 閣下に告げ口を——」
縄で無慈悲に縛られ、裸足のまま石畳を引きずられていく。ゴズは泣き喚き、虚勢という名の、もはや誰にも響かない言葉を撒き散らし続けたが、その声は街の喧騒に虚しく消えていった。
道の両側には、生き残った市民たちが静かに立ち並んでいた。
彼らの瞳に宿っているのは、冷え切った復讐の炎であった。
家族を喪った者。家を灰にされた者。その沈黙の重圧が、ゴズの浅薄な虚勢を、少しずつ、確実に剥ぎ取っていく。
◇
王立ザラダス守護騎士団館前。
キラレン・ヴェルズガルムが、威風堂々と待ち構えていた。その背後には、戦火を生き延びた騎士たちが、血と泥に汚れた鎧のまま、不動の姿勢で整列している。
「キラレン団長!」
ゴズは縄に縛られたまま、必死の形相で叫んだ。
「これは不当な拘束だ! 私は支部長として、裏で被害状況の隠密調査を行っていたのだ! 下水道を通ったのも、南区の状況を最速で視察するための決断であって——」
「……黙れ」
キラレンが氷のように冷たく言い放つ。
「ザラダスに軍事戒厳令が発令された以上、逃亡や利敵行為は軍法会議の対象となる。貴様が主張する『管轄』は、民を見捨てた瞬間に消滅した」
「し、しかし、私は貴様ら騎士団に協力要請をしたはずだぞ!?森の異変についても報告書を提出したはずだッ!こんな事態になったのも貴様ら騎士団の不手際ではないか!」
「言い訳は終わりです、ゴズ・ロックスミス支部長」
その苦しい言い訳を、冷たくあしらった声は、キラレンのものではなかった。
群衆を割り、一人の女が凛とした足取りで進み出る。
赤髪のショートカット。泥に汚れボロボロになったギルドの制服を纏いながらも、その顔には疲労を凌駕する決然とした意志が刻まれていた。
エルダ・ホーソン。この男の横暴と腐敗を、二年間、ギルドの職員という立場で見続けてきた女である。
「エ、エルダ……? 何のつもりだ、部下の分際で——」
「嘘をつかないでください」
エルダは、鞄の底に秘していた一束の書類を掲げ、広場の中央に晒した。
「これは、貴方が『却下』の判を押した報告書。私が密かに鞄に隠し、持ち出したものです。貴方は騎士団へ報告など行なっておりません」
キラレンへ手渡された紙には、猟師マルコや冒険者ドレナスの必死の訴えが記されていた。
そしてその余白には、支部長としての印と、ゴズ自身の署名が記されていた。
「これは……」
キラレンの眉間が、深く、峻烈に刻まれた。
「それだけではありません」
エルダは、更に一枚の羊皮紙を取り出した。
「二年前、冒険者ハルト氏が亡くなった事件を覚えていますか」
ゴズの顔から、血の気が引いた。
「あ、あれは……あれは冒険者の判断ミスによる事故であって——」
「嘘です」
エルダの声が、広場に響いた。
「Bランク相当の危険を見落として承認印を押したのは、あなたです。そして、その査定ミスを隠すために、報告書を改竄したのも——あなたです」
その内容が公衆の面前で晒された。
冒険者ハルトの事故に関する「不支給決定通知」の草案。そして、リーアが書いた「魔物の脅威」を指摘する文章が、ゴズ特有の筆跡で乱暴に塗り潰され、「冒険者の過失」という言葉に書き換えられた跡。
「リーアさんは、自らの過失を悔やみ、正当な補償のために騎士団へ告発しようとしていました」
エルダの声が、悔しさに震える。
「けれど貴方は、自らの保身のために彼女の言葉を封じ、もみ消した。……彼女が『森で魔物に襲われて亡くなった』のは、騎士団への告発を決意した一ヶ月後。あまりに出来過ぎた、『事故』だと思いませんか?」
広場が、凍りついたような静寂に沈んだ。 誰もが、その「事故」の裏に潜む、この男と領主代行のどす黒い癒着を想起していた。
「今回のスタンピードも同じです。貴方が己の利益のために報告を握り潰さなければ、この街で死んだ九千人の命は、救えていたはずなのです!」
◇
キラレンが、静かに口を開いた。
「ゴズ・ロックスミス」
その声には、怒りすら超えた、絶対的な断罪の意志が込められていた。
「貴様の罪状は、『重大な職務放棄』、国民に対する『未必の故意による大量殺人幇助』、および『国家反逆予備罪』。これらを、軍法の裁きに問う」
「こ、こんなことをして……伯爵閣下が、貴様らを許すと——」
「貴様がその汚らわしい口で名を呼ぶたびに、閣下の名誉が汚される。……これは閣下への『不敬罪』にも問えるだろうな」
ゴズの顔が、死人のような土色に変わった。
もはや縋る権力も、己を守る白金貨も、この広場のどこにも残されていなかった。
「連行しろ」
騎士たちの手に引かれ、泥にまみれた豚が引きずられていく。
石造りの冷たい独房へ。
かつて自分が、書類一つで人々の運命を切り捨てていた豪奢な椅子から、最も遠い暗闇の底へと。
そして、ゴズを見送ったキラレンが、その場に居た市民に向けて高らかに叫んだ。
「軍事戒厳令により、明日、ゴズ・ロックスミスの公開審問をこの場にて執り行う!」
◇
本部の影で、エルダは震える指先を自身の胸に押し当てていた。鞄の中、リーアgが生前使っていた羽根ペンが、確かに熱を持っているように感じられた。
「リーアさん……」
二年間、ずっと胸の奥で燻り続けていた疑念。リーアの死は、本当に事故だったのか。あの優しかった人が、なぜあんな形で命を落とさなければならなかったのか。
だが、少なくとも今日。この醜悪な権力者に、一条の光を当てることだけはできた。
エルダは空を見上げた。戦火の残り香が漂う灰色の空の向こう側に、確かに見える、不気味なほどに青い空。
「明日、この広場で。全てを、終わらせます」
ザラダスの人々の慟哭を背負った、最後の審判が始まろうとしていた。




