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第64話:戦禍の爪痕


 朝日が昇りきっているにもかかわらず、北門周辺の空気は薄暗く、重く(よど)んでいた。


 防疫のために撒かれ始めた消石灰の粉末が、風に舞って白い靄を作り出している。鼻を突くのは、焦げた毛髪の悪臭、鉄錆のような血の匂い、そして数千の魔物の骸から立ち昇る腐臭だった。


 騎士団長キラレン・ヴェルズガルムは、城壁の淵に立ち、眼下の惨状を見下ろしていた。


 かつて整然と並んでいた石畳は、魔物の血で黒く染まり、折れた剣や砕けた盾が無数に散乱している。あちこちに倒れているのは、魔物の死骸だけではない。の紋章を刻んだ鎧に身を包んだまま息絶えた騎士、皮の防具さえ持たず槍を握り締めた警備兵、そして金のために命を張り、無残に食い散らかされた冒険者たち。彼らの多くは、もう二度と起き上がることはない。


 だが、それでも——戦いは終わった。


 北門から侵入を図った約二千体の魔物は、一体残らずその生命を終え、骸と化していた。各方面からも、指揮官種を含めた敵軍の完全討伐を告げる報せが、伝令の悲鳴に近い声と共に次々と届けられていた。



「……キラレン団長」



 背後から歩み寄ったオルグレン副団長の手には、一冊の分厚い名簿が握られていた。その顔には泥と血がこびりつき、声は長時間張り上げていたせいか、石を削るような掠れ方をしている。



「戦果報告でございます。速報値ではありますが……」



 キラレンは沈黙を保ったまま、その重たい名簿を受け取った。


 紙面に刻まれていたのは、単なる事務的な数字の羅列ではなかった。壊滅した小隊の指揮官が最期まで握っていた私物の記録。身元すら判別不能となった遺体の、無残な損傷特徴を記した備忘録。


 そして、その末尾に記された概算被害は、キラレンの心臓を冷たく掴んだ。


 死者——九千名以上。重傷者——数万名。

 集計すら追いつかぬ軽傷者の数は、もはや数え上げることに意味を見出せなかった。


 十五万の命を抱える都市が、文字通り「片肺」を抉り取られたに等しい、凄惨な代償であった。



「……」



 キラレンは静かに名簿を閉じ、肺に溜まった濁った空気を吐き出した。


 城壁外の【外城区ヴェラド】では、三千人の住民のうち千人近くが命を落としたという。わずかな時間で、集落はほぼ壊滅状態に追い込まれていたのだ。騎兵隊が到着した頃には、既に魔物たちは居なくなっていたらしい。住民は一様に、影を操る女神に救われたと語った。


 北門では主力部隊が文字通りの肉壁となってジェネラル・オークの進行を阻んだが、その代償として多くの精鋭が散った。


 東区では、金髪の幼女と現場にいた兵士たちが「子供の犠牲者ゼロ」という奇跡を成し遂げた一方で、子どもたちを守り、支えようとした教師や住民たちがその身を盾にして次々と命を散らしていたそうだ。


 騎士団の主力を碌に回せなかった南区の被害も甚大であったが、亜人たちが種族の壁を超えて共闘した結果、一千五百名という犠牲に留まったことは、この地獄における数少ない救いと言えた。



「……全力を、尽くしました。救えなかった命も、確かにあります。ですが、都市そのものの消滅を免れたのは、神の奇跡と言うほかありません」



 オルグレン副団長が、絞り出すように言った。


 騎士団八百名。戦場を指揮する騎士の二百名のうち、戦死した騎士は六十名以上。一般兵の約六百名のうち、四百名近くが戦場に散った。

 九百名を数えた警備兵は半数以上が戦死、あるいは再起不能の深手を負っている。



 この勝利は、奇跡という名の薄氷の上に成り立っていたのだ。



   ◇



 北門へ帰還したカナメの視線の先には、悠然と歩み寄るシルヴィアの姿があった。


 彼女の腕の中には、泥と返り血で衣服を黒く染めたルナが、深い眠りに落ちて抱かれている。 幼い指先には凝固した血が手袋のようにこびりつき、時折、夢の中で獲物を追う獣の本能が疼くのか、小さく喉を鳴らしていた。



「ああ、お待ちしておりました……カナメ様。お怪我は、ございませんのね……?」



 シルヴィアは眉を八の字に歪め、大袈裟なほど痛ましげな表情でカナメを見つめる。


 あれほどの狂乱を鎮圧しながら、彼女の装いには塵一つ付着していなかった。幻想的に煌めく銀髪と、夜の色を映したロイヤルパープルのドレスは、死臭漂う戦場において異様なほど鮮明に際立っている。

 その美貌は曇ることなく、むしろ戦場という名の「毒」に当てられたことで、より一層、人ならざる妖艶な輝きを放っているようだった。



「相変わらず過保護じゃのう……。わらわがついているのだから、そう心配せんでもよい」



 カナメの傍らで、刹那が呆れたように軽く頭を振る。



「ああ、特に怪我はしていないさ。俺も刹那もピンピンしている。……それよりも、ルナは大丈夫か?」



 カナメの声に、わずかな柔らかさが滲んだ。



「ええ。少々張り切りすぎてしまったようですけれど、……今はただ、微睡みの中にいるだけですわ」



 シルヴィアはルナの金色の髪を慈しむように撫で、どこか物憂げな吐息と共に呟いた。



「この子には、少し無理をさせ過ぎたかも知れませんわね」



   ◇



 正午を過ぎた頃、北門の広場に全軍が集められた。


 騎士、警備兵、冒険者、そして武器を手に戦い抜いた住民たち。彼らは一様に疲弊し、返り血と泥に塗れながらも、生き残った実感を噛み締めるように静かに立ち並んでいた。


 壇上に立ったキラレンが、沈痛な面持ちで宣言した。



「黙祷」



 その一瞬、広場を支配したのは「聖なる静寂」などではなかった。


 遠くから響く遺族の、腹の底を掻き切るような慟哭。死体を高く積み上げた荷車が、軋んだ音を立てて往来する気配。

 そして、死臭を封じ込めるために撒かれ続ける消石灰が、風に煽られて白い雪のごとく降り注ぐ音。



 冒険者ドレナス・ガルシアは、亡き兄ハルトの形見である、魔物の牙で噛み砕かれた剣の柄を、指が白くなるほど強く握り締めていた。 掌に爪が食い込み、血が滲み出すが、その痛みすらも喪失の穴を埋めるには至らない。


 若き騎士ヴィクター・ハイネは、南区の倉庫で共に背中を預け合い、その身を盾にして散っていったリザードマンの戦士へ向け、祈りを捧げていた。


 ギルド受付嬢のエルダ・ホーソンは、鞄の底に忍ばせた『不都合な真実』を握り締めている。その瞳には、死者への哀悼と共に、この惨劇を招いた腐敗への静かな怒りが燃え盛っていた。



「——黙祷、終わり」



 キラレンの言葉が、冷え切った広場に響き渡る。

 彼はゆっくりと壇上から降りると、カナメたちの前で歩みを止め、迷いなくその膝を地についた。



「英雄殿」



 その呼びかけに、周囲の兵士たちが息を呑んだ。

 王直属の騎士団を率いる男が、、身分も知れぬ一介のFランク冒険者に対し、膝をついている。



「剣を捧げよ!」




 キラレンの峻厳(しゅんげん)な号令に応じ、血と泥を纏った騎士たちが、一斉に抜剣して天へと刃を掲げた。

 それは、この国の騎士道において、神、王、そして真の英雄に対してのみ許される、最高位の畏怖と敬意の表れであった。



「貴殿らがいなければ、このザラダスは今頃、灰と肉の山に成り果てていた。この礼は、生き残った民の命の重さである」



 キラレンの声は、戦場の喧騒を圧するほどの重厚な響きを伴っていた。

 カナメは、自分に向けられた鋼の林を視界に収めながら、無造作に肩を竦めてみせた。



「大袈裟だな。俺はただ……家族のいる街を無粋な奴らに壊されたくなかっただけだ。それに——少々、腹が減っていたんでな」



 カナメが不敵な笑みを浮かべると、キラレンの口元が僅かに、そして誇らしげに緩んだ。



「ハッハッハッ!!とんだ大食漢ですな!!」



 その一言をきっかけに、張り詰めていた空気が雪解けのように和らぎ、周囲に乾いた笑いが伝播していく。



   ◇



 だが、その安堵を切り裂くように、一人の伝令が血相を変えて飛び込んできた



「報告します! ギルド支部長ゴズ・ロックスミス——逃亡ッ!」



 広場の空気が、凍りついた。



「……何だと」



 キラレンの声が、低く、冷たく響いた。



「スタンピードの警報が鳴った直後に姿を消したとのことです! 脱出ルートは下水に直結する排出口——現在、南の港町方面へ向かったものと推測されます!」



 権力と富を貪り、この街の君主のごとく振る舞っていた男が、九千人の命を見捨て、下水道を這いずり回って逃げたのだ。



「全区域、封鎖」



 キラレンの瞳には、怒りを超越した、絶対的な断罪の光が宿っていた。



「ネズミ一匹、汚物の中から逃がすな」



 その凄絶な殺気を感じ取ったカナメが、静かに問いかける。



「俺たちも、手を貸そうか」



 キラレンは、カナメが言葉を終える前に掌を向けて制し、深く、深く頭を下げた。



「……お気持ちだけで十分です、英雄殿。……この先は、我々の領域だ。これ以上、あなた方の高潔な手を汚させるわけにはいかない」



 カナメは僅かに目を細め、やがて短く溜息をつくと、小さく肩を竦めた。



「そうか。なら、任せるさ」



 振り返れば、シルヴィアがルナを愛おしげに抱きかかえ、いつの間にか合流したミラやザガンと共に、穏やかな微笑みを浮かべて待っていた。



「帰るぞ」



 カナメの短い号令に、家族たちが静かに頷く。

 血と消石灰に汚れた「Fランク」の背中が、朝日の中に溶け込むように消えていく。


 その去り行く姿を、キラレンは網膜に焼き付けるように見送った。



「……あれが、真の英雄か」



 その呟きには、畏怖と、そして拭い去れぬ敬意が入り混じっていた。 彼らは確かにこの街を救った。だが、その在り方はあまりにも超然としており、人間の倫理という枠組みを遥かに超克している。


 人ならざる獣の群れ。あるいは、理を食らう異能の集団。 それでも——いや、だからこそ、彼らは唯一無二の英雄なのだ。



「全員、聞け!」



 キラレンは猛然と振り返り、残存する全騎士に向けて声を張り上げた。



「これより、逃亡者ゴズ・ロックスミスの捜索を開始する! 南区を重点的に洗え! 一匹たりとも、汚泥の中に逃がすな!」



 騎士たちの鋭い敬礼の音が重なり、彼らは獲物を追う猟犬のごとく散っていく。

 ザラダスの街に、新たな「狩り」の時間が訪れようとしていた。

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