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第62話:英雄の背中


 北門の外では依然として苛烈な戦闘をしていた。騎士が、都市警備兵が、冒険者が、城壁内に魔物たちを入れまいと必死に戦っていた。

 その混沌の中で、冒険者ドレナス・ガルシアは、肌を刺すような死の気配を感じていた。


 眼前に立ち塞がるのは四体のオーガ。

 Cランクに指定されるその怪物は、単体でもドレナスの手には余る強敵だが、ましてやこの異常な魔物——血を渇望する赤黒い目をした化け物が四体。


 Dランクの自分たちでは、抗うことさえ許されない絶望的な戦力差だ。



「くそっ……!」



 震える手で剣を握り直し、ドレナスは必死に虚勢を張る。背後には、これまで数多の依頼を共にしてきた四人の仲間たちが、負傷し、疲弊し、それでも武器を捨てずに立ち尽くしていた。

 逃げ場など、どこにもない。前方にはオーガの暴力が、後方にはゴブリンの群れが死の網を狭め、逃走という選択肢を奪い去っている。



「俺が時間を稼ぐ。お前らは隙を見て、一人でもいいから逃げろ」



 覚悟を決めたドレナスの言葉に、仲間たちは悲鳴のような抗議をぶつける。



「馬鹿言うな、ドレナス!」



「一人で残って何ができるってんだ!」



「お前が死んだら、フィラにどう顔向けすればいい!」



 最愛の妹の名を出された瞬間、ドレナスの心臓が軋むような音を立てた。たった一人の家族であり、兄を失った後に自分が唯一の支えとなった少女。

 冒険者という、死と隣り合わせの職を選んだのは他でもない、彼女を養うためだった。


 いつか来るかもしれない最期。


 その覚悟はとうに済ませていたつもりだったが、いざ現実が爪を立てて迫れば、生への執着が泥臭く胸の内を掻き乱す。


 死にたくはない。フィラを再び、あの兄を失った時のような絶望の淵に突き落としたくはない。

 だが――ここで大切な仲間を見捨てて生き延びたところで、その先にフィラの愛する『誇りある兄』としての姿など残っていないだろう。



「――いいから、行けッ!」



 ドレナスは咆哮し、一歩踏み出した。オーガの一体が、腐った丸太を思わせる剛腕を振り上げる。あの重圧が振り下ろされれば、人間の骨など木の枝のように容易く粉砕されるだろう。

 しかし、その破滅の一撃がドレナスの頭蓋を砕くことはなかった。一筋の「黒い閃光」が、猛威を振るわんとしたオーガの腕を、文字通り一瞬で切り落としたからだ。



「——ッ!?」



 ドレナスは目を見開いた。何も捉えられなかった。


 ただ、漆黒の残像が視界を横切った次の瞬間には、オーガの腕が赤黒い血を噴き上げながら宙を舞っていたのだ。空気に触れてシュウシュウと蒸発する血液の異臭。

 己の腕が落ちたことも理解できず、咆哮を上げるオーガ。だが、その声が途切れるよりも早く、怪物の首が鮮やかに宙に飛んだ。



「大丈夫か?」



 不意にかけられた落ち着いた声に振り返ると、そこには一人の黒髪の男が立っていた。

 年齢は自分より少し上、二十代の半ばを過ぎたあたりだろうか。だが、その佇まいには歴戦の勇士にも見られないような、異質な『落ち着き』が宿っていた。

 男の手に握られているのは、一切の汚れを知らぬ漆黒の刀。あれだけの斬撃を放ちながら、刃には血の一滴すら付着しておらず、澄んだ黒が戦場の喧騒を吸い込んでいる。


 そして、ドレナスの視線は、返り血に濡れて鈍く光る男の首元のプレートに釘付けになった。



「F……ランク……?」



 掠れた声が漏れ、背後にいた仲間たちも同様に困惑の表情を浮かべる。Fランク。冒険者ギルドにおいて最低評価を意味するそのプレートが、目の前の超常的な力を持つ男の首にかけられているという矛盾を、誰も理解できなかった。



「結構ピンピンしてるな。まだ戦えるか?」



 黒髪の男が手を差し出してきた。魔物の返り血で汚れたその(たくま)しい手を、ドレナスは数秒間、ただ凝視する。


 この男は何者だ。Fランクという仮面の下に、どんな真実を隠しているのか。


 だが、思考に沈む暇などなかった。残された三体のオーガが、怒りの矛先をこちらへと向け、形となった殺意を剥き出しにして押し寄せてきたからだ。

 ドレナスは、震える手で――その確かな熱を持った男の手を掴んだ。



「……ああ。まだ、戦える」



 力強く引き起こされ、ドレナスは剣を握り直す。男は短く頷くと、残るオーガたちを見据えて淡々と告げた。



「名前は?」



「ド、ドレナス。ドレナス・ガルシア」



「ドレナスか。俺はカナメだ」



 名乗るや否や、カナメが地を蹴った。速い――などという言葉では到底形容できない。残像すら残さず吹き抜けた黒い風が、一体のオーガを縦一文字に両断していた。



『カッカッ! まだまだ喰い足りんのう、小僧!』



 どこからか響く、女の艶やかな笑い声。周囲に女の姿はない。その声は、カナメが持つあの漆黒の刀そのものから発せられているようだった。


 幻聴か、あるいは――。



「お前は本当に食欲が凄まじいな……」



 カナメが呆れたように呟く中、二体目のオーガが棍棒を振り下ろすが、彼は横に跳んで紙一重で躱し、着地と同時にその膝を払う。バランスを崩した巨体の首を、返す刀で一閃。


 三体目が背後から迫るが、振り向きざまに刃を走らせ、腹部を切り裂いた。


 だが、内臓を撒き散らしながらも、魔物は止まらなかった。致命傷を負った瞬間にこそ発揮される暴走。腸をだらりと引きずりながらも、執念深く両腕を振り回してカナメを捕らえようとする。


 しかし、カナメは至って冷静に、完璧な間合いで心臓を一突きにし、抵抗が潰えるのを待った。数秒後、糸が切れたようにオーガは崩れ落ち、周囲に静寂が戻った。



「仲間は無事か?」



 振り返ったカナメは、これだけの激闘を演じた後だというのに、汗一つかいていない涼しい顔をしていた。



「あ……ああ……」



 ドレナスは、ただ呆然と答える。四体の強敵を、一分掛からずに屠った圧倒的な力。それは恐怖を超え、もはや神々しいまでの畏怖となってドレナスの胸を貫いていた。



   ◇



「ここは俺に任せて、北門内で暴れている魔物の処理を頼む」



 男が言った。

 そして、踵を返して戦場の奥へ向かおうとする。



「待ってくれ! 俺も……俺も、アンタと一緒に戦いたい!」



 Dランクの自分が足手まといになるのは分かっている。だが、あの背中を、どうしても見失いたくなかったのだ。

 助けられた瞬間に胸の奥で疼いた、懐かしい感覚。二年前に失ったはずの、あの「守られている」という安堵と高揚。


 ドレナスはこのカナメという男に、亡き兄の姿を重ねていた。容姿も戦い方も違う。だが、その不器用な喋り方と、自ら盾となって仲間を守る揺るぎない背中が、どうしようもなく似ていた。



「……度胸はあるな」



 カナメは小さく呟くと、静かに告げた。



「ついて来い。ただし、無茶はするな。死んだら、そこで全て終わりだ」



「……ああ!」



 ドレナスは駆け出した。その背中に兄の面影を重ねて。



   ◇



 指揮官を失ったはずの魔物たちは、統率を欠くどころか本能剥き出しの狂犬へと変貌し、血と悲鳴、そして焼けた金属の異臭が立ち込めていた。

 その中を、カナメは死神の如き速度で駆け抜けていく。


 斬り、駆け抜けて、また斬る。その無駄のない動作に、ドレナスは必死にしがみついた。



「右だ!」



 カナメの鋭い指示に、ドレナスは咄嗟に反応して右から迫るゴブリンの首を刎ねる。



「よくやった。次は左だ、来るぞ」



 カナメは自ら敵を殲滅しながらも、周囲の戦況に細かく目を配っていた。孤立した騎士がいれば即座に援護し、負傷者を安全圏へ誘導し、襲われている冒険者を自ら盾となって逃がす。

 あれほどの力を持ちながら、彼は決して傲慢に振る舞わない。一人も見捨てないその『在り方』が、ドレナスの心に深く、重く響く。



(――兄さんに、似ている)



 二年前に死んだ、五つ年上の兄。ドレナスが冒険者になったのは、妹を養うためでもあったが、兄のように強くなりたいという憧れもあった。

 その『憧れ』は残酷な死によって遠い存在になってしまった。

 今、目の前にいるカナメは、兄とは全く異なる強さを持ちながら、その「魂の在り方」が、どうしようもなく重なって見えるのだ。



   ◇



 カナメが通った道には魔物の骸だけが築かれた。その光景が絶望していた騎士たちの士気が再燃させる。だが、戦火の勢いは未だ衰えず、終わりは霧の向こうに隠れていた。


 その時、不意にカナメの足が止まった。



『小僧。森の方角――魔力の濃い匂いがするな』



 刀から響く刹那の声に、カナメが森の深部を睨み据える。



「ああ。俺も感じている。この魔物たちの体に残る、ドロドロとした薬品の臭い――そして赤黒い魔力が、森の奥から流れてきているな。近くに今回の騒動の元凶がいるかもしれないな」



『行くか?』



「行きたい。だが……」



 カナメは周囲の戦況を一瞥し、忌々しげに舌打ちをした。周りにはまだ大量の魔物がいる。カナメにとっては取るに足らない雑魚であっても、騎士や冒険者にとってはそうではない。

 ここで自分が抜ければ、再起した騎士たちの負担が増し、再び防衛線が崩れる恐れがある。

 その、苦渋の選択を迫られた瞬間だった。


 するとカナメの近くに大きな影が出現し、生き物のように蠢いた。



「――お待たせいたしましたわ」



 その影からシルヴィアがぬるりと現れた。

 彼女の腕には、服がボロボロになり泥だらけになったルナが抱かれていた。気を失っているようだが、その寝顔は驚くほど穏やかだ。


 カナメの表情が、一瞬だけ柔らかく緩んだ。



「残りの魔物どもは任せた」



「ええ、お気をつけて」



 それだけを交わすと、カナメはまるで最初から居なかったかのように鋭い速さで森の闇へと消えていった。

 残されたシルヴィアの足元から漆黒の影が爆発的に広がる。

 それは黒い津波となってあっという間に残っていた魔物をペロリと平らげた。

 北門に残っていた数百の魔物が、一瞬にしてこの世から消失したのだ。



「……化け物、だ……」



 近くにいた冒険者が呆然と呟き、ドレナスもまた、その言葉に同意した。

 あのカナメも、この女も、もはや人間の枠を超えた理外の存在。自分とは住む世界が違うのだ、と。


 しかし、いつか。いつの日か、あの背中に追いつけるほどに強くなってみせる。大切な妹を守り抜くために。


 兄のように。そして、あの男のように。


 北門の戦いは幕を閉じた。

 だが、ドレナスの胸には、決して消えることのない誓いの炎が灯っていた。

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