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第61話:港町の籠城戦


 ヴィクター・ハイネが南区へ辿り着いたその時には、潮風の香る街並みは既に、屠殺場を思わせる地獄へと変貌を遂げていた。


 抜剣と同時に、沸き立つ焦燥を糧に疾走した。港湾に隣接するこの一帯は、堅牢な倉庫が立ち並ぶ物流の要所であると同時に――人間に疎まれた亜人たちが肩を寄せ合って生きる、吹き溜まりのような地区でもあった。


 正直に言えば、彼らに抱く感情は偏見に満ちた苦手意識だ。


 だが、亜人であろうと卑しき身分であろうと、守るべきは等しく王国の民に他ならない。今この瞬間に天秤にかけるべきは、己の凝り固まった価値観ではなく、失われゆく命の重さであった。


 倉庫街の狭い路地へ踏み込んだヴィクターを待ち受けていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。

 逃げ惑う住民を猟犬のごとく追走するコボルトの群れと、空から死の影を落とし、鋭利な爪で肉を抉るハーピィの乱舞。悲鳴と怒号が石畳に反響し、血の匂いが潮の香りを完全に塗り潰している。


 先行していた新米騎士たちが必死に剣を振るい、警備兵が槍の穂先を揃えて防波堤を築こうとするが、圧倒的な物量の前にはあまりにも無力に映る。

 そしてその傍らでは、亜人の戦士たちもまた、剥き出しの牙と独自の武技で魔物を斬り伏せていた。その動きは洗練されており、修羅場を潜り抜けた者の特有の凄みが宿っている。


 しかし、そこには決定的な『欠落』があった。

 人間は人間同士で、亜人は亜人同士で固まり、互いに不信の壁を築いているのだ。



「騎士団が援護する! 持ちこたえろッ!」



 ヴィクターは自らの内にある偏見を切り裂くように咆哮し、最前線のコボルトへと躍り出た。

 一体目の首を跳ね、二体目の爪を剣身で受け流し、三体目の胸を正確に貫く。だが、いくら屠ろうとも敵の勢いは衰えず、次から次へと湧いてくる。

 倒れた個体も、四肢を砕かれ、臓物を撒き散らしながらも、怨念に突き動かされるように這いずり寄ってくる。


 数にして四百余り。頭上からはハーピィの耳を裂くような絶叫が聞こえる。

 このままでは、一人残らずこの港に沈むことになる――。


 絶望が現実味を帯びた、その刹那だった。


 一体のコボルトが、戦場に取り残された人間の子供へと牙を剥いた。

 五歳にも満たないであろう少年は、泣くことさえ忘れたように路地の中心で凍りついている。死の爪が、その小さな頭上へと容赦なく振り下ろされる。



「危ない、逃げろッ!」



 ヴィクターが叫ぶが、その距離は絶望的に遠い。

 爪が少年の柔らかな肉を裂く光景が、残酷なスローモーションのように脳裏をよぎった。


 しかし、その光景を、一筋の影が遮った。


 それは、全身を硬質な鱗に覆われたリザードマンの戦士だった。

 彼は迷いなく子供の前に滑り込むと、自らを盾にして、コボルトの猛撃を受け止めた。


 鱗が砕け散る乾いた音が響き、そして、肉が断たれる。噴き出した鮮血が少年の頬を赤く染める。



「ぐっ、う……あぁッ!」



 胸に三本の深く凄惨な傷が刻まれた。しかし、リザードマンは怯むことなく、コボルトの首を手に持った剣で()ねた。


 傷口から溢れ出す赤い血が彼の生命力を急速に削り取っていく。

 それでも、蜥蜴(とかげ)の戦士は一歩も引かず、苦痛に歪む顔に精一杯の穏やかさを浮かべて振り返った。



「……行け、小僧。……母ちゃんの、ところへ」



 その不器用な言葉に弾かれたように、少年は涙を流しながら走り出した。

 リザードマンは震える足で立ち上がり、崩れそうな姿勢を剣一本で支えながら、再び魔物の群れへと向き直る。深手を負いながらも、その瞳には高潔な戦士の誇りが宿っていた。


 ヴィクターは、その光景を魂に刻みつけた。

 忌避すべき対象だと思っていた亜人が、血の繋がりも、種族の縁も、利害関係さえない人間の子供を救ったのだ。

 自らの身を省みず、何よりも先に。


 思考よりも先に、身体が動いていた。

 ヴィクターは駆け寄り、リザードマンの隣へと並び立つ。



「加勢する。……死なせはしないぞ」



 短く、だが誓いにも似た声音で告げると、リザードマンは何も言わず、ただ一瞥を返して、無言のままに剣を振るった。



   ◇



 黒竜商会の戦闘員たちが援軍として到着し、会長であるザガンが陣頭指揮を執ることで、崩壊寸前だった前線は辛うじて形を繋ぎ止めた。傍らではミラが、魔道具を組み合わせた即興のトラップを路地に仕掛けていた。


 しかし、それでも戦力差は覆らない。



「倉庫へ籠城する! 全員、退けッ!」



 ザガンの一喝により、撤退戦が開始された。負傷者を担ぎ、怯える子供を囲み、一同は黒竜商会の倉庫へと雪崩れ込んでいく。

 重厚な扉が閉じられ、即席のバリケードが築かれた時、そこには束の間の、そして息の詰まるような安息が訪れた。


 そこから始まったのは、消耗という名の地獄だった。


 ミラが投じる閃光弾がハーピィの感覚を狂わせ、火炎トラップが侵入を試みるコボルトを焼き払う。戦士たちは交代で最前線に立ち、命を削るようにして剣を振るい続けた。


 人間も、亜人も、同じ倉庫の中で戦っていた。

 それは信頼や友情といった綺麗なものではなく、ただ「生き残る」という一点において共有された、野生の共闘。


 だが、時間が経過するごとに、戦力は削り取られていった。

 罠の資材は底を突き、鋼の剣は折れ、戦士たちの体力は限界を超えていた。


 そして、一人、また一人と物言わぬ骸に変わっていった。

 コボルトに喉笛を噛み千切られた戦闘員。ハーピィに顔を裂かれた新米騎士。そして、仲間を庇って背後から刺し抜かれた亜人の老兵。


 ヴィクターの視線は、無意識のうちにあのリザードマンを追っていた。

 彼は、常に最前線にいた。

 子供を助けた際の重傷を負いながら、血を流し続け、時にふらつき、脇腹を押さえながら、それでも不屈の意志で剣を振るい続けていた。


 だが、その鋭さは目に見えて失われていく。

 彼が立っているのは、もはや筋力ではなく、意地という名の執念だけであった。



「下がれ! ここは私が引き受ける!」



 ヴィクターが叫ぶが、リザードマンは短く首を振った。



「……まだ、だ。まだ、守るべきものが残っている」



 それは強がりですらない。既に意識は混濁し、足元は覚束ない。

 それでも、彼は退かなかった。


 そこへ、飢えたコボルトの群れが最後の一押しと言わんばかりに殺到した。

 リザードマンは渾身の力で一体を断ち、二体を斬り伏せるが――直後、死角から躍り出た三体目の爪が、彼の胸を深々と貫通した。



「――ぐぅっ!?」



 リザードマンが膝を折る。その手から、命を繋いでいた剣が滑り落ち、冷たい床に虚しい音を立てた。



「おい、しっかりしろ!」



 ヴィクターは魔物の首を刎ね、崩れ落ちる巨体を抱き止めた。

 周囲の戦士たちが決死の覚悟で前線を押し返し、一瞬の、空白が生まれた。


 腕の中のリザードマンの胸からは、鮮血が溢れ出し、硬い鱗を赤く染め上げた。



「目を開けろ! おい!」



「……皆、助かったか……?」



 混濁した意識の中で、彼はそれだけを案じていた。



「ああ、無事だ。お前のおかげで、皆生きている」



「……そう、か……」



 その言葉を聞いた瞬間、血に濡れた彼の口元に、微かな、だが確かに穏やかな笑みが浮かんだ。



「……なら、いい……」



 それが、一人の英雄が遺した最期の言葉だった。

 彼の身体から力が抜け、虚空へと還っていった。


 ヴィクターは、言葉を失った。

 目の前で、一つの気高い魂が消えた。

 かつて自分が「苦手」だと思い、蔑んでいた亜人の戦士が、誰よりも「騎士」らしい最期を遂げたのだ。


 名前も、出自も、彼がどんな人生を歩んできたのかさえも知らない。

 ただ、この街の一部として生き、この街の未来を守ろうとした。その真実だけが、ヴィクターの胸に重くのしかかった。


 ヴィクターは震える手で、その見開かれた目を閉じた。



   ◇



 死者の数はここに居た者たちだけでも二百名を超え、倉庫の隅には人間と亜人の区別なく、物言わぬ遺体が整然と並べられていた。罠も、武器も、希望も尽き果てた。倉庫の外には魔物たちがひしめき、今にも扉を破って侵入しようと建物を激しく攻撃していた。



「……ここまで、か……」



 誰かが漏らしたその呟きが、終わりの合図のように響いた。

 その時、倉庫の扉が破られ、魔物たちが一斉に侵入をしてきた。


 ――だが同時に、突然倉庫の中に大きな影が出現し、生き物のように蠢いた。



「遅くなってしまいましたわね」



 影の深淵から、この世の者とは思えない銀髪の美女が音もなく現れた。

 その腕には、安らかな寝顔を見せる幼い少女が抱かれている。


 彼女は、少女を優しく床に下ろすと、その光景に怯んだ魔物たちを冷ややかに見据えた。



「二百体、といったところかしら」



 彼女が虚空へ手を翳した瞬間。

 地面から噴出した影の槍が、空を覆うハーピィを瞬時に串刺しにし、撃ち落とした。同時に、地を這う影の津波が、倉庫を囲んでいたコボルトの群れを根こそぎ飲み込み、その存在をこの世から抹消していった。


 死を覚悟した生存者たちの前で、一瞬にして、地獄は跡形もなく消え去った。

 ザガンが、震える手でその光景を仰ぎ見て、深く頭を下げた。



「……御助勢、痛み入ります」



「いいえ。もう少し、早ければ……」



 シルヴィアの紫の瞳が、倉庫の隅に並べられた遺体――そして、その傍らで立ち尽くすヴィクターへと向けられた。


 ヴィクターは、あのリザードマンの前で膝をついたまま、微動だにしない。

 何を語ることもなく、ただ沈黙という名の祈りを捧げている。

 その姿を、生き残った亜人の戦士たちが、静かな視線で見守っていた。そこにはもう、種族を隔てる壁など存在しなかった。


 ギルドの制服を血に染めたエルダは、負傷者の処置を続けていた。倉庫の中に血の匂いが充満していた。エルダは懐にある報告書を強く握りしめ、倉庫内に並べてある二百名を超える遺体を見つめた。


 もし、あの男――ゴズ・ロックスミスが、利権や保身ではなく、真に「ギルド支部長」としての職務を全うしていれば、この命は救えていたはずだ。


 戦いは終わった。

 しかし、流れ落ちた血の温度は、人々の心に癒えぬ傷と、静かな怒りと悲しみを刻みつけていた。


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