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第60話:金色の暴風


 ルナは、一筋の閃光となって疾走していた。風は刃となって頬を撫で、小さな切り傷を作っていく。それでもルナは疾走をやめなかった。小さな身体から溢れ出した金色の魔力は、崩壊しかけた街並みに鮮烈な黄金の残像を焼き付けていった。


 脳裏に焼き付いているのは、先ほど騎士が放った言葉。


『東区に約千体。学校や孤児院が多い区域だ。多くの子供たちが取り残されている』


 助けなきゃ。行かなきゃ。


 カナメに指示を仰ぐより先に、彼女の身体は、そして魂は、弾けるように飛び出していた。



(後でパパとママには、ちゃんと謝らなきゃ。……でも、今は)



 誰にも届かぬ涙を流し、血の臭いに震えながら、絶望の淵で救いを求めている子供たちがいる。


 その声が、震えが、そして死の予感に満ちた甘い匂いが――今のルナには、痛いほど鮮明に理解できてしまう。

 人ならざる狼の耳は、風に乗って届く絶望を、人間が決して触れることのできない深部まで拾い上げてしまうから。


 五感を支配するその絶望の奔流を前にして、ルナは、己の内に疼く獣の本能と、剥き出しの正義の衝動を、どうしても抑え込むことができなかった。



   ◇



 東区一帯には、鉄錆と内臓の混じった濃厚な戦場の死臭が漂っていた。


 かつての学び舎であったはずの学校を最終防衛拠点とし、騎士団と都市警備兵、そして冒険者たちが必死の陣を敷いている。だが、その防衛線は今にも崩壊してもおかしくない状況だった。


 千体にも及ぶ醜悪な死の軍勢。ゴブリン、コボルト、オーク——種族の垣根を越えた魔の波が、命を喰らおうと幾重にも重なり合って押し寄せていた。



「押し返せ! この背後には子供たちがいるんだ、一歩も引くなッ!」」



 指揮官の悲痛な号令に応じ、騎士や冒険者が必死に剣を振るい、魔物の首を飛ばす。その後方では、槍を揃えた警備兵たちが肉の壁を作り、更に別の冒険者たちが魔法と矢の雨を降らせて辛うじて死線を維持していた。


 だが、絶望的なまでに数が違いすぎた。


 一体を屠れば二体がその死体を踏み越え、二体を討てば四体が血飛沫を浴びながら肉薄してくる。何より異常なのは、この魔物たちが痛みという概念を喪失していることだった。腕を断たれ、内臓を零しながらも、彼らは一切の怯みを見せずに突進を繰り返す。



「こいつら、痛みを感じてねぇのか……ッ!?」



 最前線の冒険者が戦慄の声を上げた。剛腕を切り落とされたはずのオークが、苦悶一つ見せずに残された手で棍棒を握り直し、凶悪な一撃を振り下ろしたのだ。

 咄嗟に身を躱した冒険者の背後で、盾を構えていた警備兵が直撃を受け、肉の塊となって吹き飛んでいった。



「衛生兵! 負傷者だ!」



「駄目です、もう人手が足りません!」



 防衛線の各所で、絶望が物理的な崩壊となって露呈し始める。ゴブリンの群れに引きずり倒される騎士、オークの重圧に粉砕される兵士、そしてダイアウルフに喉笛を食い破られる冒険者。

 じりじりと、死の境界線が校舎へと迫っていく。


 閉ざされた窓の隙間からは、幼い子供たちの震える泣き声が漏れ聞こえ、恐怖に歪んだ小さな瞳が、刻一刻と迫る死の足音を凝視していた。



「持ちこたえろ! あの子たちを……守るんだ……!」



 指揮官の剣筋には既に鋭さがなく、その声には拭い去れぬ疲労と、死への予感が滲んでいた。たったの数秒が、彼らにとっての永遠に思えるほど、状況は追い詰められていた。


 その時だった。

 戦場の血生臭い空気を切り裂き、一筋の金色の閃光が、最前線へと(はし)り抜けた。



   ◇



 ルナは魔物の群れに飛び込んだ。


 最初に蹴り飛ばしたのは、騎士に飛びかかろうとしていたゴブリンだった。彼女の小さな足が容易く貫通し、そのまま後方の群れごと砲弾のように突き飛ばした。



「な——」



 騎士が絶句する間も、ルナの舞いは止まらない。


 次のゴブリンを裏拳で殴り飛ばし、背後から迫るコボルトの集団を長くしなやかな尻尾で殴りつけた。三体のコボルトがまとめて吹き飛び、壁に叩きつけられて肉の染みへと変わる。



「なんだ、あの子供は——」



「援軍か? しかし、あの動き……とても人間とは思えん!」



 兵士たちがざわめき立つが、ルナには彼らの声など届いていない。今の彼女を突き動かしているのは、純粋にして苛烈な『守る』という意志だけだった。



「――子供たちを、守るッ!」



 放たれた叫びには、いつもの甘えた響きなど微塵もない。それは食物連鎖の頂点に立つ暴食の眷属(プレデター)の咆哮であった。


 襲い来るオークの棍棒を最小限の跳躍で躱し、着地と同時に膝を蹴り砕く。バランスを崩した巨体の顎を下から突き上げると、頚椎が粉砕される鈍い音が響き、山のような巨躯が地面へと崩れた。

 防衛線を突破しようとしていたゴブリンの群れが、一斉にルナへと矛先を変えて殺到する。


 ルナは、十数体の殺意を()(くぐ)り、動いた。一体目の顔面を拳で潰し、二体目を蹴り抜き、三体目から五体目までを尻尾の一振りでまとめて薙ぎ払う。



「すげえ……まるで暴風だ……!」



 冒険者の一人が呆然と呟くが、騎士の怒声がそれを遮る。



「おい、ぼさっとするな! あの子が作った隙を無駄にするなッ!」



 その一喝で守備隊たちは正気を取り戻し、再び魔物へと斬りかかった。ルナが前線を強引に押し返したことで、死にかけていた防衛線にわずかな、しかし決定的な余裕が生まれた。騎士たちは態勢を立て直し、警備兵たちは負傷者を後方へと収容する時間を手に入れたのだ。




   ◇



 戦いは泥沼の様相を呈していた。

 ルナは戦場の中心で、魔物を倒し、引き裂き、蹂躙し続けた。騎士団も剣を振るい、冒険者たちが魔法と弓で必死の援護を繰り返す。


 だが、千体という圧倒的な質量はあまりに重すぎた。


 倒しても、倒しても、次から次へと押し寄せてくる。しかもこの魔物たちは普通ではない。痛みを感じず、恐怖も感じない。腕を失っても、足を失っても、それでも襲いかかってくる。


 ルナの白い肌に、徐々に傷が増え始めた。ゴブリンの爪が腕を引っ掻き、コボルトの牙が脚に食い込み、オークの棍棒が肩に振り下ろされて骨を震わせる。

 蛇の魔物因子が持つ【自己再生】が傷を即座に塞いでいくが、それは無尽蔵ではない。自身の能力を制御しきれていない彼女にとって、その代償となる魔力の消耗はあまりに激しく、意識を薄氷のように削り取っていった。



「くそ、矢が尽きたッ!」



「剣が折れた! 誰か予備を回せ!」



「……もう、立てる奴がいねぇ……」



 戦場を指揮するはずの騎士たちは、既に二十人を切っていた。その配下の一般兵も多くが散っていた。都市警備兵も半数以上が負傷し、冒険者たちも一人、また一人と倒れていく。


 それでも、誰一人として逃げ出す者はいなかった。自分たちが退けば、背後の子供たちが食い散らかされる――その恐怖が、彼らを死地へと留めていた。



「持ちこたえろ! まだだ、まだ終わってない!」



 指揮官の腕からは鮮血が滴り落ちていたが、それでも彼は折れぬ心で剣を振るい続けた。


 ルナは既に六百体を超える魔物をその手に掛けていたが、戦場には未だ四百近い残影が蠢いている。


 そして彼女は、群れの後方で禍々しい杖を掲げる『ブリン・シャーマンの存在を捉えた。

 この群れを支配し、統率している元凶。纏う魔力の質が他の個体とは決定的に違う。あいつを倒さなければ、この戦いは終わらない。ルナは本能的にそう悟った。



「——あいつを、倒してくる!」



「待て、一人で行くのは危険だッ!」



 指揮官の制止を背に、ルナは爆発的な踏み込みで地を蹴った。魔物の壁を力任せに突き破り、シャーマンの首を求めて一直線に突進する。



   ◇



 金色の魔力を捉えたゴブリン・シャーマンが、赤黒い瞳に狡猾な光を宿して杖を振り上げる。


 放たれたのは業火の球。辛うじて躱すが、炎が彼女の髪を焦がし、視界を焼き焦がした。

 続けざまに放たれる氷の槍。一本、二本と回避するが、三本目がルナの肩を貫き、肉を抉り取って鮮血が舞う。

 そして、紫電の雷がルナの身体を遅い、その衝撃が神経を麻痺させ、ルナの筋肉を一瞬にして硬直させた。


 その硬直を狙い、周囲のゴブリンたちが一斉に飛びかかり、爪が、牙が、幼い少女の肢体を引き裂いていく。



 痛い。痛い。痛い。


 視界が赤く染まり、ルナの意識が遠のきかける。


 でも——。



「——どいて!」



 ルナは吠えた。全身から金色の魔力が噴き出し、纏わりついていたゴブリンが吹き飛ばされる。ルナは再び走り出した。血を流しながら、傷だらけの体で、それでも再び加速した。


 シャーマンの顔に、初めて明確な『恐怖』が浮かぶ。あの赤黒い目に怯えの色が滲んでいる。杖を振り上げ、最大級の攻撃魔法を放とうとする。


 しかし、その時にはもう遅かった。


 ルナは既に、死神のごとき速度で懐へと潜り込んでいた。



「えいっ!」



 その醜悪な顔面に向かって振り上げられた小さな拳は、シャーマンの頭蓋を果実のように粉砕した。骨が砕け、脳漿が石畳を汚し、死を司っていた身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



   ◇



 シャーマンが倒れた瞬間、魔物たちの動きが乱れた。

 それまで組織的に動いていた群れがバラバラになり、混乱が波及していく。



「今だ! 押し返せッ!」



 騎士団の指揮官が残された全力を振り絞って叫び、兵たちが最後の反撃へと転じた。だが、統率を失っても、残る四百体近い魔物たちは、尚も飢えた牙を剥いて迫り来る。


 そして――ルナは限界を迎えていた。


 膝を突き、荒い呼吸を繰り返す。身体は鉄のように重く、底を尽きた魔力はもはや傷を癒すことすらも出来ない。立ち上がろうとしても、震える足に力は入らず、ただ視界が揺れる。



「おい、あの子が——」



「誰か、守ってやれッ!」



 騎士たちが叫ぶが、彼ら自身も残敵に囲まれ、一歩も動けない。

 弱った獲物を見定めたゴブリンの群れが、下卑た涎を垂らしながらルナへと迫る。



「パパ……ママ……」



 ルナが小さく呟いた。もしパパがいてくれたら。ママが一緒にいてくれたら。こんなの、どうってことないのに。

 ゴブリンの汚れた腕が、彼女の髪を掴もうと伸びた。


 


 その時だった。





「――よく頑張りましたわね、ルナ」





 背後から、聞き慣れた優しい声が聞こえた。

 直後、地面から漆黒の槍が無数の激流となって噴出し、襲いかかっていたゴブリンたちを慈悲なく串刺しにした。


 ルナが振り返ると、そこには影の中から静かに現れた銀髪の女が立っていた。月の光を宿したような髪、紫水晶のような瞳。優しくて、強くて、大好きな——。




「ママ……!?」




 ルナの瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。それは苦痛によるものではなく、深い安堵からくる涙だ。もう、大丈夫だ。ママが来てくれたから。


 シルヴィアはルナの前に静かに立ち、残された四百の絶望を見据えた。同胞が串刺しにされた惨状さえ顧みず、死を撒き散らす群れが再びこちらへと殺到する。



「本当に偉い子」



 その声には、娘を想う心からの慈愛が込められていた。



「後は、ママに任せなさい」



 地面から『夜』が噴き出した。津波のように、あるいは飢えた洪水の如く、無数の黒い触手が魔物の群れを蹂躙し、沈黙させていく。


  断末魔の叫びさえも影の中に吸い込まれ、一切の痕跡を残さず消えていく。騎士たちはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。あれほど絶望的だった魔物の波が、ただの影によって塵一つ残さず「掃除」されていく光景を。


 シルヴィアがその地に降り立ってから二分と経たず、東区を埋め尽くしていた魔物は、一体残らずこの世から消失した。



   ◇



 静寂が東区を包んだ。さっきまでの地獄が嘘のように静かになっている。


 シルヴィアが振り返ると、ルナはボロボロの服を泥に汚し、地面に座り込んでいた。それでも、潤んだ瞳で必死に母を見上げている。



「ママ……。ルナ……みんなを、守れた……?」



 シルヴィアは優しく微笑み、膝を突いてルナをそっと、壊れ物を扱うように抱きしめた。



「ええ、守れましたわ……。ママはルナみたいな娘がいて幸せですわ」



「そっか……。よかっ……た……」



 安堵が全身の緊張を解き、ルナは母の柔らかな腕の中で、深い眠りへと落ちていった。



   ◇



 シルヴィアは、泥と血に汚れたルナを静かに抱き上げた。腕の中に伝わる、あまりに軽く、しかし確かな命の鼓動の重みを感じながら。

 そこへ、傷だらけの鎧を軋ませ、指揮官の男がよろよろと近づいてきた。



「あなたは……一体……」



「ただの通りすがりですわ」



 シルヴィアは表情を変えず、淡々と答える。



「貴女と、その小さな英雄がいなければ、ここは今頃瓦礫の山でした……。失った者も多いが……それでも、この襲撃で子供の犠牲者が一人も出なかったのは、奇跡としかいいようがない」



 指揮官が校舎を見た。建物の一部は損傷していたが、そこには確かに平穏が残されていた。窓の外からは、恐怖を乗り越えた子供たちが、シルヴィアとルナに向かって必死に手を振っている。



「貴方がたが命懸けで繋いでくれたからこそ、私たちが間に合ったのです。これは貴方がたが手繰り寄せた奇跡ですわ」



 指揮官の口元が、僅かに、そして誇らしげに緩んだ。


 生き残った騎士、警備兵、冒険者たち――その全員が、シルヴィアと、彼女に抱かれた少女を見守っている。その瞳には、消えぬ喪失感と共に、深い感謝の念が宿っていた。


 西も、東も、これで沈静化した。北はカナメと刹那がいるから問題ないだろう。

 ならば、残るは一つ。



「さて、あともう少し頑張りましょう」



 シルヴィアはルナを愛おしげに抱き直すと、音もなく影の中へと溶け、次なる戦場を目指して消えていった。

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