第59話:銀髪の女神
西にある【外城区ヴェラド】は、この世の終わりを表しているかのような地獄そのものへと成り果てていた。
一個の巨大な意思に突き動かされるかのように、オーガを筆頭とした多種多様な種族の魔物たちが、整然とした殺意を持って街を蹂躙する。
一千六百余りの群れの中心には、通常の個体を遥かに凌駕する指揮官種である『オーガ・チーフ』が、獲物を物色するように鎮座していた。
◇
中央広場に、行き場を失った三千人の住民たちが集まっていた。
広場に収まりきらない人々は路地や建物の影にまで溢れ出し、それを包囲する魔物の軍勢が放つ濃厚な死の臭いに、ただ震えていた。
「女子供は真ん中へ入れろ! 動ける男は外側を固めるんだ!」
年長者の男が、今にも掠れそうな声を張り上げる。
その指示に従い、農夫たちは泥に汚れた鋤や鍬を握りしめ、猟師たちは使い古された弓を番え、鍛冶屋の親父は煤けた剣を構えて円陣を組んだ。
誰一人、逃げ出す者はいなかった。
彼らをその場に繋ぎ止めているのは、逃げ場を失った絶望ではなく、己の背後にいる家族を守り抜くという強い信念であった。
「俺たちの後ろには、家族がいる! 三千人の命がかかってんだ! 一歩も引くな!」
若き荷運び人の叫びに応じるように、隣に立つ父親が、重い鉄棒を構え直して魔物を睨みつける。その光景を、マルコは滲む視界の隅で捉えていた。
昨夜のゴブリンとの交戦で負った左腕の傷は深く、包帯の下からは未だに絶え間なく鮮血が滲み出している。激痛に意識を削られながらも、彼は荒縄で強引に左腕へ弓を括り付け、震える右指で弦を引く。
一人ではないという事実だけが、崩れ落ちそうな彼の魂を支えていた。
円陣の中央では、数百人の女性や子供、老人たちが身を寄せ合っている。
泣き叫ぶ幼児を必死であやす母親。孫を抱きしめて祈る老婆。震える弟の手を握りしめる少女。
「大丈夫だ……大丈夫だからな……」
父親たちが、震える声で子供たちを励ましている。
自分たちも恐怖で震えている。それでも、子供たちの前では強くあろうとしている。
その時、静寂を切り裂くようにオーガ・チーフが、金属の擦れるような、呪わしい咆哮を上げた。
「グォオオオオオオッ!!」
それを合図に、死の軍勢が押し寄せる。地響きが足元を狂わせ、魔物たちが一斉に牙を剥いて走り出した。
「来るぞ! 構えろ!」
マルコの号令と共に放たれた矢の雨が、先頭のゴブリンたちの肉を貫く。だが、奴らは痛覚をどこかへ置き忘れたかのように、矢を突き立てたまま泥に塗れた突進を止めない。
「なんで止まらねぇんだ!?」
猟師の悲鳴を嘲笑うように、最前列のゴブリンが農夫に飛びかかった。鋤の一撃で頭蓋を砕きながらも、農夫は後続の二体目、三体目の波に飲まれていく。
「うおおおおっ!」
荷運び人が振るう鉄棒がコボルトの頭を叩き潰すが、即座に別の個体が彼の肩へと鋭い牙を突き立てた。
「がっ——!」
悲鳴を上げながら、それでも鉄棒を振るい、コボルトの頭を叩き潰した。
阿鼻叫喚の渦が広場を支配し、強固だったはずの円陣が脆くも崩れ始める。その隙間を縫って突っ込んできたダイアウルフの顎が、農夫たちの首を容易く食いちぎり、鮮血の海が石畳を赤黒く染めていった
マルコは激痛に耐え、一心不乱に矢を放ち続ける。だが、一体や二体を射抜いたところで、次から次へと湧き上がる魔物に対しては、焼け石に水でしかなかった。
すぐ傍らで、共に生きてきた若い猟師が悲鳴と共に引き倒され、その上に群がるゴブリンたちが肉を噛み千切り、骨を砕く残酷な音が辺りに響き渡る。
「リオス! 返事をしろ、リオスッ!」
叫びは虚しく空に消え、円陣を守る男たちの三分の一が既に物言わぬ肉塊へと変じ果てていた。血の匂いに狂った魔物たちが、中央の女性や子供たちへとじわじわと包囲を狭めていく。
「……ここまで、か」
矢を使い果たしたマルコは、弓を右手に持ち替え、動かぬ左腕の縄を解いた。逃げるという選択肢は既にない。この街で、この仲間たちと生きてきた証を、せめて最期まで足掻き抜くことで示そうと決めたのだ。
正面からゴブリンが、マルコに向かって突進してきた。
弓の先端を、ゴブリンの喉に突き刺すが、それでも勢いは止まらない。
更に横からは、死神の鎌を思わせるオーガの棍棒が迫る。
これが、最期か。
回避も防御も叶わぬ死の淵で、彼が奥歯を噛み締めた、その時だった。
「あらあら。随分と賑やかですわね」
戦場の喧騒を、冷たい氷の刃が切り裂くように、その声は響いた 。
あまりに場違いなほど澄んだ響き。その一言が発せられた瞬間、広場に漂っていた死の熱気が、急速に凍りついていくのをマルコは肌で感じた。
この地獄のような状況には、あまりにも場違いな響きだった。
マルコは振り返った。
振り返った彼の瞳に映ったのは、輝くような銀髪と、透き通るような肌を持つ女の姿。底知れぬ深淵のような紫水晶の瞳を持つ彼女は、押し寄せる千六百の絶望を前に、まるで春の陽だまりにいるかのような微笑を浮かべていた。
「少々、お腹が空いていましたの」
刹那、女の足元から『影』が爆発した。
石畳から爆ぜるように突き出した漆黒の槍が、鋼のようなオーガの腹部を易々と貫き、その巨体を宙へと吊り上げる。もがく怪物の体躯は、そのまま槍が引き込まれるように地面の影へと沈み込み、音もなく消滅した 。
跡形もなく消え失せた怪物の残滓を前に、マルコは己の目を疑う。
「皆様、少し下がっていてくださいまし」
女が優雅に、まるで舞踏会のフロアへ踏み出すように一歩を刻む 。
彼女の歩みに呼応して、影は意志を持つ獣となって地を這い、住民を包囲していた魔物たちへと牙を剥いた。
それは竜の如き顎となって、ゴブリンを、コボルトを、オーガを、その『存在』ごと貪り食っていく 。
逃げようと跳躍したダイアウルフさえも、空中に伸びた影の触手に捕らえられ、一瞬にして『虚無』に呑み込まれて消えた。
血の一滴、骨の一片すら残さない。そこに魔物がいたという事実だけが、影に塗り潰されていく 。
顎に噛み砕かれ、触手に引き裂かれ、影に呑まれていく魔物の軍勢。あれほど絶大だった死の包囲網が、まるで幻であったかのように消えていく。
◇
「グォオオオオオオッ!!」
配下の消滅という不可解な事態に、オーガ・チーフが猛り、咆哮した。本能が警鐘を鳴らしている。この女は殺しているのではない、食っているのだと。
四メートルを超える巨躯が、側近の一際大きいオーガ四体を引き連れて突進する。石畳を粉砕するその進軍を、シルヴィアは慈愛に満ちた瞳で静かに迎え入れた。
「あら、雑魚にしては少しは骨があるようですわね」
彼女が指を鳴らした瞬間、波紋のように広がった影から、家屋ほどもある巨大な獣の顎が顕現した 。
地面から突き出た影の槍で足を止められたオーガたちは、逃げる術もなくその巨大な『口』へと吸い込まれていく 。指揮官種を含めた全ての巨体が、影の胃袋へと落ちるのに要した時間は、五秒もかからなかった。
「それなりの味ですわね」
シルヴィアは退屈そうに欠伸を漏らし、静まり返った広場を眺めた。
◇
彼女が現れてから二分とかからず、【外城区ヴェラド】を埋め尽くしていた千六百体の魔物は、一体残らずこの世から消滅していた。
広場を支配するのは、静まり返った朝の冷気と、人々の荒い呼吸、そしてどこからか漏れる嗚咽だけだった。
「……間に合わなかった方もいらっしゃいますわね」
目を伏せて呟く彼女の言葉に、マルコは膝から崩れ落ちた。影が去った後の石畳に残されたのは、共に戦った仲間たちの、無残に変わり果てた姿。先刻まで街の活気そのものだった者たちが、動かぬ死体となって転がっている。
だが、それでも、生き残った者がいた。円陣の中央で抱き合う女性や子供たちが、今もその鼓動を刻んでいる。
マルコは、呆然と銀髪の女を見上げた。
「……あんたが、来てくれなかったら……全員、死んでた」
女は振り返り、マルコに対して穏やかな微笑みを返した 。
「あんたは……女神、様……か……?」
「女神などではありませんわ……。私はただの――」
いつの間にか、彼女の裾を、泣きじゃくる子供たちが掴んでいた。その瞬間、彼女が見せたのは先ほどのような鬼神のごとき威厳ではなく、迷子をあやす母親のような、あまりに人間らしい優しさだった。
「大丈夫ですわ。もう怖くありませんよ。……よしよし、もう大丈夫ですからね」
その温かな光景に、生き残った皆が釘付けになっていた。
「では、私は娘のところへ行かなくてはなりませんので」
女は、影に溶けるようにしてその場から消えた 。
三千人の命を繋いだのは、王の騎士でも都市警備兵でもなく、名もなき銀髪の女神だった。
「……あれが、神でなくて何だというのだ」
周囲では、生き残った者たちが怪我人を運び、死者の傍らで泣き崩れながらも、再び歩み始めていた。
三千人の街、ヴェラド。この日、多くの命が失われた。
だが、それ以上の命が、銀髪の女神によって救われたのである。




