第58話:Fランクの英雄
瓦礫の山を蹂躙し、約六メートルに及ぶ巨躯を揺らしながらジェネラル・オークが肉薄する。
その化け物が歩む度に地が揺れ、石畳が砕け、周囲の建物が軋みを上げた。
醜悪な口端からは白濁した泡が吹き出し、粘りつく涎が地面へと糸を引いている。
刹那が冷ややかに囁いた。
『ジェネラル・オークか。久しく拝んでおらなんだが、相も変わらず醜悪な面よのう』
俺は刀を構えた。
「どんな奴だ?」
『通常のオークの上位種よ。単体でもそれなりの武力を誇るが、何より厄介なのは群れを統率する狡猾な知性を持っておることじゃな』
「なるほど、道理で他の魔物どもの統制が取れているわけだ」
俺が一歩踏み出すと、怪物の濁った視線がピタリと俺を射抜いた。振り上げられたのは、丸太を数本束ねたかのような無骨な棍棒。
俺の胴回りの四倍はあろうかというその凶器が、大気を圧し潰しながら無慈避に振り下ろされる。
激突の瞬間、地面が爆発したかのように弾け、石礫が弾丸となって四方へ飛散した。直径三メートルを超えるクレーターが刻まれ、その余波による衝撃は城壁をも震わせる。
「ひぃっ……!」
背後で兵士たちの悲鳴が上がった。
俺は横へと跳び、その一撃を紙一重で回避していた。頬を撫でる生暖かい衝撃波には鼻を突くような腐臭が混じっている。直撃すれば人間など一瞬にして肉片へと変貌させるほどの威力だ。しかし、欠伸が出るほどに動作が遅い。
「この程度の速度なら脅威ではないな」
『カッカッ!小僧の分際で随分と言うようになったではないか。じゃが、確かにわらわが半実体化して操作するほどではなさそうじゃのぅ』
続けざまに放たれた二撃目は、横薙ぎの旋回。重低音を響かせて空気を引き裂く棍棒が、民家の壁を紙細工のように抉り、瓦礫の雨を降らせる。
俺はその隙間を縫うようにして接近した。大振りな動作の代償として、奴の懐はがら空きだった。
懐に入り、刹那を一閃。
肉を断つ不気味な感触と、硬質な骨を砕く振動が、柄を通じて掌に伝わってきた。次の瞬間、ジェネラル・オークの右腕が肩口から鮮やかに斬り落とされる。
「グォッ……!?」
重厚な音を立てて腕が地面に落ち、舞い上がった砂埃を赤黒い鮮血が濡らした。断面からはシュウシュウと音を立てて蒸気が吹き上がる。それは空気に触れた瞬間に蒸発するほどの、異常な高熱を帯びた血液だった。
『おお、なかなかの魔力じゃ。少々雑味は混じるが、悪くない』
刹那が悦に浸った声を出すが、オークは止まらない。右腕を失った激痛に怯む様子さえ見せず、まるで痛覚が麻痺しているかのように、残された左腕で即座に棍棒を拾い上げた。
「怯みもしないか。……やはり、ミラが解析したあの薬が関係しているようだな」
『カッカッ!存外、骨がありそうではないか』
◇
キラレンは、自らの正気を疑った。あのFランクのプレートを首にぶら下げた青年が、Aランクパーティですら死を覚悟するジェネラル・オークの剛腕を一刀の下に斬り捨てたのだ。
「……馬鹿な」
ジェネラル・オークは討伐するには、盾役が命懸けで攻撃を受け止め、後衛が魔法で削り、ようやく剣士が急所を狙うという、熟練冒険者たちの緻密な連携が不可欠なはずだった。
それを、たった一人で、しかも一撃で、腕を切り落としたのだ。
だが、オークは止まらなかった。狂乱したように左腕で棍棒を振り回し、傷口から撒き散らされる腐肉の入り混じった悪臭が戦場を支配する。
今回の戦場でキラレンは理解していた。今回相手にする魔物たちは《《異常》》だと。傷を負っても、四肢を失っても、死ぬまで止まらない狂気。
しかし――《《それ以上に異常》》なのは、目の前の青年だった。彼はこの地獄のような光景の中で一瞬の動揺も見せず、むしろ口元を僅かに緩ませ、この殺し合いを楽しんでいるようにさえ見えたからだ。
オークが放つ三撃目。片腕ゆえの遠心力を利用した、より速く重い旋回攻撃。だが青年は、風に揺れる柳のごとき身のこなしで、最小限の動きでその軌道を躱してみせた。
そして再び、黒刀が閃く。今度は左腕が、棍棒ごと石畳へと転がった。
武器を失い、両腕を失った巨体。もはや勝敗は決した――そう確信したキラレンの予想を、怪物は嘲笑う。腕をなくした肉塊が、頭突きを繰り出そうと猛然と突進してきたのだ。六メートルの質量が乗った、必死の牙。たとえ鎧を着込んでいようと、その顎に捕まれば骨ごと噛み砕かれるだろう。
キラレンは、重傷を負いながらも尚、敵を殺そうと執念を燃やす魔物に戦慄した。血を噴き出し、蒸気を上げながらも衰えぬその動きは、まさに化け物そのものだ。もしあの青年がいなければ、誰一人として生き残れなかったに違いない。
「本当に化け物のような生命力だな」
青年が足を止めた。突進してくるオークを正面から見据え、避ける気配は一切ない。何をする気だ――その思考がよぎった瞬間、彼は跳躍した。
それは人間の動きではなかった。地を蹴った衝撃で石畳が蜘蛛の巣状に砕け、彼はオークの頭上の、更にその先へと一気に舞い上がる。逆光を背負い、空中で身を捻る。
その黒刀は陽光を反射するのではなく、むしろ光を喰らうように禍々しく輝き、キラレンですらも肉眼で捉えられるほどの濃密な魔力を纏い始めた。
「——終わりだ」
無慈悲な一閃。ジェネラル・オークの巨体が、頭頂から股までを境に、吸い込まれるように左右へと分かたれた。
一刀両断。
肉塊が地響きと共に倒れ伏し、断面から立ち上る真っ白な蒸気が、朝の光に照らされて幻想的に揺らめく。
静寂が訪れた。騎士も、警備兵も、そして指揮官を失った魔物たちでさえも、ただ呆然とその青年を凝視している。
「……Fランクが、ジェネラル・オークを……?」
一人で、ものの数分で。
誰かが震える声で零した。「あれは、人間じゃない」と。
キラレンもまた、その言葉を否定することはできなかった。その圧倒的な武勇、そしてこれだけの殺戮を演じながら汗一つかかず、朝の散歩でも終えたような涼しい顔をしているこの青年は一体何者なのだ。
◇
動揺する魔物の群れを見据える。北門から侵入した数はまだ二千近い。オーク、ゴブリン、コボルト、ダイアウルフ――異種族の混成軍が街を飲み込もうと蠢いている。俺は門へと駆け込み、行く手を阻む肉壁を切り刻みながら、城壁の外へと躍り出た。
俺は北門に駆け込み、入ってくる魔物を切り刻んで進み、城壁の外に出た。
「さて、まだ前菜だ」
『カッカッ! ようやく腹を満たせるというものよ!』
俺の前方に立ちはだかるオークの集団。
ガランドから奪った【幻影歩行】は気配を絶ち、減速することなくオークの集団を豆腐のように両断していく。奴らは自分が斬られたことすら気づかず、死の直前まで俺の姿を捉えることさえ叶わない。
『ヒャハハハハッ!よいぞ小僧! 切れ味抜群じゃ!』
『――対象:ハイ・オーク。スキル【剛力】を強奪しました』
システムログと共に、腕から魔力が流れ込んでくる。
通常、接触しなければ発動しない【万能強奪】だが、刹那を媒介にすることで斬撃そのものが略奪の手として機能していた。 流れ込んでくるのは、俺の器を圧迫するような「脂っこい」魔力。だが、今の俺にはそれを即座に処理する「底なしの胃袋」がある。
「ほらよ、刹那。餌だ」
俺は奪った魔力をそのまま刀へと直結させる。
『むぐッ!? ……ケッ、またオークの脂身か! 質より量とはいえ、もう少し高級なものが食べたいのう』
文句を言いながらも、刀は送られた魔力を瞬時に喰らい尽くし、それを次なる「純粋な破壊」へと変換していく。
「文句を言うな。カロリーは高いぞ!」
「ええい、ままよ! 吐き出しじゃあッ!」
バクスから奪った【音速加速】をシルヴィアが「調理」した、俺だけのオリジナルスキル。音速の運動エネルギーをすべて一点の破壊力へと集約させた、世界を断つ《《砲弾》》。俺は刀を構え、水平に空間を斬った。
「――【音速重砲】ッ!!」
刹那が刀身から放たれた漆黒の衝撃波をが、前方五十メートルの群勢を消しゴムで消すかのように消滅させた。
斬り、奪い、食わせ、放つ――それは完結した死の円環。俺の魔力消費はゼロ、むしろ余剰分が身体を活性化させていく。
「最高だな、このサイクル」
これなら、あと一万体いようが息切れすることなく狩り尽くせる。俺の通った後には、ただ綺麗に切り分けられた死体の山が積み上がっていった。
◇
その光景を目にした者は、一様に呼吸を忘れていた。
朝日を背に負い、返り血すら霧散させるその背中は、もはや「Fランク」などという矮小な言葉では括れない。
絶望に染まっていた戦場の空気が、静かに、しかし劇的に熱を帯びていく。
震えていた騎士の腕に力が戻り、逃げ腰だった警備兵が唾を飲み込み、絶望に伏していた冒険者が再び武器を握り締める。
キラレンは、自らの震える手を見つめ、それを強く握りしめた。
剣を天に掲げて、魂を削り出すような咆哮を上げた。
「――全軍、聞けッ!!」
その声は、城壁を、そして魔物の軍勢を震わせた。
「我々の前に立つのは、 絶望を断ち切る、真の英雄だ! 誇りある王の剣を、今こそ示せ! 守るべき民の悲鳴を、我々の勝鬨で塗り潰すのだッ!!」
「「「おおおおおおおぉぉぉぉぉッッ!!!」」」
騎士も、都市警備兵も、冒険者も関係ない。
そこに居る人間の意志が、一つの巨大な咆哮となって爆発した。
それは恐怖をかなぐり捨てた、反撃の合図だった。




