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第57話:地獄の門


 魔物の津波が城壁に激突した瞬間、世界が悲鳴を上げた。


 石造りの城壁が軋む音。兵士たちの絶叫。魔物たちの咆哮。それらが混ざり合い、耳をつんざく轟音となって戦場を包み込んだ。


 北門の前は、既に地獄と化していた。


 偵察に出したバルリア達のパーティはものの数分で壊滅した。あれほどの腕利きが、低ランクの魔物相手に為す術なく、一方的に蹂躙された。


 あり得ない。


 だが、現実だった。



「……化け物め」



 キラレンは唇を噛み、滲む血の味で正気を繋ぎ止めた。


 魔物たちの目の光が明滅するたび、心臓を直接掴まれているような圧迫感が胸を締め付ける。

 体から立ち上る黒い蒸気が異常に膨張した筋肉に纏わりつき、一段と不気味さを増していた。

 見れば見るほど悪夢のような光景だった。



「団長! 緊急報告です!」



 駆け込んできた伝令は、顔から血の気が失せ、声は凍りついたように震えていた。



「東区にも魔物の大群が出現! 学校や孤児院が襲われています!」



 キラレンの顔が苦渋に歪む。

 東区。あそこには、この街の未来である子供たちが特に多い区域だ。



「南区にも!空からハーピィの群れが!亜人が戦っていますがいつまで持つかは……!更に、西では【外城区(フォーブール)ヴェラド】が襲撃を受けています! 城壁外です、門を開けなければ——」



 報告が重なる。



「待て。整理しろ」



 キラレンは冷静さを保とうとした。

 伝令一人一人から、正確に、だが迅速に報告を吸い上げた。

 現状を把握したキラレンの顔は、この世の物とは思えないほど青ざめていた。



「北に二千体。東に千体。西に千六百体。南に四百体——か。」



 総勢、約五千体。

 通常のスタンピードの十倍を超える規模。


 しかも——四方から同時に。

 こんなことは聞いたことがなかった。



「……まるで、統率されているかのようだ」



 スタンピードとは本来、魔物の大量発生現象だ。一方向から雪崩れ込み、本能のままに暴れ回る。統率などない。


 だが、今回は違う。


 四方から同時に攻撃。しかも、各方面に指揮官クラスの大型の個体が大群の指揮を執っているらしい。種族を超えた連携。


 これはスタンピードではない。

 ——戦争だ。

 人間を滅ぼすための、計画的な侵攻だ。



「騎士団の戦力は?」



「騎士が約二百名と、一般兵が約六百名です。有事につき、都市警備兵約九百名も指揮下に入りましたが、各所に分散しなければ——」



「冒険者は?」



「ギルドに登録している者は約千五百名。ですが、戦闘に参加している者は三百名程です……!しかも、Aランクは全員が貴族の護衛依頼で不在。Bランクはギルドに登録されている半数の十五名が戦闘に参加しておりますが、既に数名が北門で戦死しました」



 キラレンは奥歯を鳴らし、勝機という名の針の穴を探った。


 騎士団が八百名に、警備兵が九百名。合わせて千七百名ほど。

 だが、警備兵の練度は騎士団に遠く及ばない。装備も、士気も、圧倒的に劣る。


 そして、冒険者の主力もいない。

 高ランクの冒険者がいなければ、この数は止められない。


 ――『負け戦』。


 頭の中に現れた言葉を振り払おうとする。だが、もう『どうやって街を守るのか』ではなく、『誰を生かして守るのか』を考えなくてはならないのかも知れない。



「主力を北門へ展開しろ!命を捨ててでもジェネラル・オークの進行を阻め!

 次に東区に人員を割き、子供たちを最優先で救出する!

 西は城壁外へ騎兵隊を向かわせて、馬の速さを活かして住民の避難を支えるデコイとなれ。

 南区には新米騎士や都市警備兵を向かわせろ!戦闘力の高い亜人が多い地区だ、連中の実力が新米と警備兵未熟さを埋めてくれるはずだ!

 私は北門に残る!」



「しかし団長、ここはあまりにも危険すぎます!」



「街や民が滅ぼされるかもしれん。そんな状況で、指揮官が安全な場所にいるわけにもいくまい」



 キラレンは剣を抜いた。


 その時——。



   ◇



 ギルドの建物内では、別の種類の混乱が起きていた。



「Aランクはいないのかッ!? 今すぐ私の身を守るAランクを連れてこいッ!」



 支部長ゴズ・ロックスミスが、甲高い声で叫んでいた。


 太った体を揺らし、脂汗を垂らしながら周囲を見回す。その目は恐怖で血走り、声は裏返っている。



「クソッ、どいつもこいつも役立たずめがッ!」



 答える者はいない。


 ザラダス内で数名しかいないAランクの冒険者は、王都の貴族の護衛依頼に出ており、全員が不在だ。

 ゴズが点数稼ぎのために斡旋したのだ。

 それを誰よりもよく知っているはずの男が、慌てふためいているのだ。滑稽を通り越して、哀れですらあった。



「わ、私は貴重な人材だ! 先に避難させろ!」



 ゴズが裏口へ走り出した。

 その背中を、受付嬢のエルダが見ていた。



「支部長……!」



 呼び止めようとするが、ゴズは振り返りもしない。



「う、うるさい! 死にたくなければ黙っていろ!」



 そう吐き捨てて、街の責任を放り出し、彼は闇へと消えた。

 異変の報告を握り潰し、数百人、数千人、それ以上の命を危険に晒した男が——真っ先に逃げた。


 エルダは拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。血が滲んで床にポタポタと垂れた。


 だが、痛みなど感じなかった。

 怒りが、全てを焼き尽くしていたのだ。



「……絶対に、許さない」



 エルダは静かに呟いた。

 しかし、今は、怒りを燃やしている場合ではない。


 生き残ること。それが先だ。


 そして、生き残ったら——必ず、あの男の罪を暴いてやる。



   ◇



 混乱した王立ザラダス守護騎士団館に居たのは、ヴィクター・ハイネだった。


 『民を守る』——その一念だけで両親の反対を押し切って入団した青年。

 周囲が蒼白な顔で右往左往するなか、彼は流されるように北門へ向かおうとしていた。



「北門に主力を!東区に増援を!西区には騎兵隊を!」



 騎士団の伝令が叫んでいる。

 交錯する号令のなか、伝令はヴィクターの腕を掴んだ。



「君は新米か!?ならば、南区へ行け!!」



 その言葉を聞いて、ヴィクターは走り出した。


 南区、亜人たちが肩を寄せ合って生きる区画。


 正直に告白すれば、ヴィクターが彼らに向ける眼差しには、拭いきれない忌避感が混じっていた。

 それは血に刻まれた本能ではなく、教育という名の呪縛だ。「亜人を絶対に信用するな」という両親の教えは、幼少期から彼の魂に深く根を張っていた。


 だから、獣人やエルフと同じ空間にいると、どうしても居心地が悪くなる。


 だが——今は、そんなことを言っている場合ではない。

 亜人だろうと人間だろうと、民は民だ。


 ヴィクターが命を懸ける理由は、それで十分だった。



   ◇



 北門の城壁が、轟音と共に崩れた。

 城門を守っていた鉄扉が、紙のようにひしゃげて吹き飛んだ。


 その向こうから——巨大な影が現れた。


 ジェネラル・オーク。

 六メートルの巨体。通常のオークの三倍はある体躯。


 頭には王冠のような角が生え、両手に持った二本の巨大な棍棒が、朝日に照らされて鈍く光っている。


 狂気に囚われた赤黒い目が、血を求めてギョロギョロと動いている。

 今にも破裂しそうな大木のように太い腕には、黒い血管が浮き出ており、体から立ち上る黒い蒸気がその異常性を物語っていた。



「グォオオオオオオオオッ!!」



 金属が擦れるような、掠れた音。


 声帯が焼け爛れているのだろうか。恐らく本来の声の咆哮ではない。

 だが、その異質さが、かえって恐怖を掻き立てた。


 兵たちの顔から、血の気が引いていく。

 剣を取り落とす者。腰を抜かす者。


 キラレンも、王立ザラダス守護騎士団団長という立場でなければとっくに逃げ出していたかも知れない。

 だが、『騎士団長』という責任の重みが枷となって、まだキラレンを戦場に繋ぎ止めてくれている。

 まだ力を与えてくれる。まだ戦える。


 しかし、他の者たちは違った。騎士、一般兵士、都市警備兵、冒険者。皆が手を震わせ、涙を流しながら剣を握っている。

 ショックで呼吸困難になって倒れている者、重傷で動けなくなっている者も数多い。――もちろん、死亡した者も。


 同じ戦場に立っているキラレンだからこそ、兵たちの士気が下がっていることが手に取るように分かってしまう。


 厭戦の空気が戦場を侵食していく。

 このまま兵たちが戦意を喪失したら、この死神の軍勢が民の命を喰らい尽くすことになってしまう。



「もう少し耐えればきっと援軍が来る!!」



 キラレンは兵たちを鼓舞しようとしたが、彼らには全く響いていなかった。



 もう少し?いつまで?



 耐える?どうやって?



 援軍が来る?誰が?



 誰もが限界だった。勝機も希望も全くない、死のニオイが立ち込めていた。



「終わりだ……俺たちはここで食い殺されるんだ……!」



 冒険者の一人が叫んだ。

 一番魔物に慣れているはずの冒険者が。いや、冒険者だからこそ、敵わないことが分かるのだろう。


 それをきっかけに、絶望は戦場へ容易く伝染した。



「も、もう無理だ……俺は死にたくねぇ!!」



 一人が逃げ始めると、あとは早い。次々と逃げ始める。

 冒険者たちだけでなく、兵たちの中にも逃げ出すものが現れる。



「待て! 持ち場を離れるな!」



 キラレンが叫ぶ。

 だが、恐怖に支配された者の耳には届かない。


 ジェネラル・オークがゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 ここで死ぬのか。



 キラレンが死を覚悟したその時だった。



「そこを通らせてもらえるか?」



 場違いなほど落ち着いた声が、背後から聞こえた。

 振り返ると、そこには家族連れの黒髪の青年がいた。その首には、冒険者の身分であることを証明するプレートがぶら下がっていた。


 しかし、そのプレートは同時に、この青年が、この戦場においては何の力にもならないことも示していた。



「き、君! 何をしている! ここは戦場だぞ!」



 キラレンは青年の肩を掴もうとした。


 だが、目の前に居たはずの青年の姿が、消えた。

 いや、消えたのではない。速すぎて、目で追えなかっただけだ。


 次の瞬間、轟音が響いた。


 キラレンが轟音の方向を向くと——。

 巨大な棍棒が両断され宙を舞い、ジェネラル・オークが城壁にめり込んでいた。



「……っ!?」



 キラレンは言葉を失った。



 ——何者なんだ?



 青年は涼しい顔でキラレンの方へと顔を向けた。



「状況を教えてくれ。どこがどうなっている?」



 その声には、恐怖が全く宿っていなかった。冷静に、全てを見透かすような落ち着いたものだった。


 その一言でキラレンは現実に戻り、迅速に、且つ、正確に、戦況について答えた。



「……各方角に指揮官クラスの魔物が軍勢を引き連れてザラダスを襲撃している。

 ここ北門に約二千体、ジェネラル・オークが指揮を執っているようだ。

 東区に約千体。学校や孤児院が多い区域だ。多くの子供たちが取り残されている。

 そして、西区の城壁内の被害自体は他の区域よりも少ないが、【外城区(フォーブール)ヴェラド】が約千六百体からの襲撃を受けている。

 南区には約四百体……。数は少ないが、空からハーピィが襲撃している。戦闘力の高い亜人を中心に必死に抵抗している状況だ」



 その言葉を聞いた瞬間、青年の後ろにいた金髪の獣人の幼女が、ピクリと耳を動かした。



「パパ、東ってどっち?」



「東ならあっち側だ」



 青年が、そう言って、東の方向を指さすと幼女は凄まじい速さで飛び出した。



「助けに行くね!」



「ルナ、待て——」



 顔を引き攣らせている青年に、銀髪の美女が寄り添った。



「大丈夫ですわ、カナメ様。あの子は強い子ですから。それに私が援護に参りますので」



 青年は深呼吸をすると、静かな声で言った。



「そうだな……。少し過保護だったかも知れないな。シルヴィア。お前は、先ず西の城壁外にある【外城区(フォーブール)ヴェラド】へ向かってくれ。城壁外となると一番早く辿り着けるのはお前しかいない。その後にルナの援護へ向かってくれ」



「承知いたしました」



 美女は頷くと、影の中に溶けるように消えた。

 キラレンは呆然としていた。


 青年は、恰幅のいいスキンヘッドの男と、白衣を羽織った茶髪の女性に視線を向けた。スキンヘッドの男はキラレンも覚えがあった。黒竜商会の会長ザガンだった。



「ザガン、ミラ。南区を頼む。黒竜商会の連中を使って、亜人たちを援護し、纏めてくれ」



「承知しました」



 ザガンが頷く。

 その時、ギルドの制服を着た赤髪のショートカットの女性が駆け寄ってきた。



「待ってください! 私も南区へ連れて行ってください!」



 肩で息をしている赤髪の女性に、黒髪の青年は困惑しているようだった。



「君はギルドの人間か?戦闘員ではないようだが……。逃げるわけじゃない、戦地へ向かうんだぞ?」



「承知しております……。もうザラダスはどこへ行っても地獄です。でも、魔物と戦えなくても、できることがあるはずです。避難誘導でも、手当てでも」



 女性は拳を握りしめていた。



「……分かった。ザガン、コイツも連れて行ってくれ」



「承知いたしました」



 ザガンたちが、南区へと走り去っていく。



 残ったのは、青年と——腰に差した漆黒の刀だけ。

 そして、刀から、声がした。



『さて、本命はどこじゃ』



 青年は微笑んだ。



「正面だ。一番デカいのがいる」



 倒れていたジェネラル・オークが、ゆっくりと起き上がる。

 棍棒を一本失ったが、まだもう一本ある。


 そして——両目の赤黒い光が、さらに激しく脈動し始めた。


 怒りか。殺意か。



 青年は、刀を抜いた。

 漆黒の刃が、朝日を呑み込むように光を吸い込んだ。



「——さあ、食事の時間だ」



 キラレンは思った。


 この青年は、一体何者なのか。

 Fランクのプレートをつけた、この異端者は。


 青年はニヤリと笑い、地面を蹴った。

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