第56話:殺戮の行進
夜が明け、朝陽が煌めいていた。
Cランク冒険者バルリア・オルテスは、北門の外に立っていた。
三十五歳 。剣一本で十五年を生き抜いてきたその背中には、数多の修羅場を潜り抜けてきたベテラン特有の自負と、紙一重で死を回避し続けてきた戦いの勲章とも言える傷が刻まれている 。
あと一歩の武勲があればBランクへ手が届く――そんな周囲の期待を背負いながら、彼は今回の「異例」を受け止めていた 。
今回の依頼は、騎士団長直々の名前が入った緊急依頼だった。
偵察任務。森の縁に集まっている魔物の群れを調査し、数と種類を報告する。
報酬は騎士団持ち。夜中に出された異例の依頼だ。
バルリアが招集したのは、阿吽の呼吸で繋がった気鋭のパーティだった 。
二十歳の若き剣士トマナー 。才気溢れるが、未だ戦場の真実を知らぬ危うさがある 。
三十歳の盾役マーカス 。鉄の守りで、パーティの命をその背中で支えてきた男 。
二十五歳の魔術師リーン 。彼女が編む焔の旋律は、幾度となく窮地を焼き払ってきた 。
「バルリアさん、本当に大丈夫ですかね」
トマナーが不安そうな顔をしていた。
「偵察だ。戦闘じゃない。群れの様子を見て、報告して帰ってくるだけだ」
「でも、最近の森はヤバいって噂ですよ。魔物の様子がおかしいって」
「だからこそ、偵察が必要なんだろ」
バルリアはトマナーの肩を叩いた。
「大丈夫だ。俺を信じろ。危なくなったら、すぐに撤退する」
◇
隠密の魔道具を起動し、一行は森の深淵へと忍び寄った 。
世界が死の静止画に閉じ込められたかのような圧迫感 。鳥の囀りも獣の足音もなく、ただ不気味な心拍音だけが耳の奥で鳴り響いている 。
「……静かすぎる」
マーカスの呟きが、白く濁った霧に吸い込まれた 。
「ああ。嫌な感じだ」
バルリアは周囲を警戒しながら歩を進め、やがて視界が開ける森の縁へと辿り着いた。彼は合図と共に全員を停止させ、茂みの中に身を伏せる。
「これ以上は危険だな」
魔物の軍勢から三百メートルほど距離を取った位置だ。
鞄から双眼鏡を取り出し、震える指先を固定しながらレンズを覗き込んだ。
「数は……。恐ろしいくらいに多いな。千……千五百……。いや、二千体はいるな」
バルリアの声が、絶望の質量を伴って零れる 。
リーンがその瞳に魔力を集中させ、深淵の奥を覗き込んだ 。ゴブリン、コボルト、オーク……本来ならば群れるはずのない種族が、一つの意志に貫かれたように整列している 。
「物凄い数ね……過去に起きた大規模なスタンピードでさえ、せいぜい――」
魔物の群れを見ていたリーンが突然声を詰まらせた。
「あ……ああ……ッ!」
リーンが突如、胃の底からせり上がる恐怖に悲鳴を上げた 。
通常のオークを遥かに凌駕する異形の巨躯 。膨張した筋肉に黒い血管がのたうち、頭上には呪われた王冠のごとき角が聳えている 。
「どうした、リーン! しっかりしろ!」
体が震えて、汗が滲んでいる。
彼女の全身は激しく震え、脂汗が滲み出していた。マーカスが慌てて彼女の汗を拭うが、リーンの表情は今にも嘔吐しそうなほどに蒼白だ。
「お、奥に……!!ジェ、ジェネラル・オークが居るわ……!!」
絞り出すようにリーンが言った。
「ジェネラル・オークだと……!?」
リーン以外の全員が目を見開いた。
――ジェネラル・オーク。
Aランクの魔物で、Aランクの冒険者が複数人で命を賭して挑み、ようやく討ち果たせるかどうかという大物中の大物。
しかし真に恐るべきは、その個体能力以上に、軍勢を統率する異常な指揮能力にある。
ただの魔物の軍勢と、指揮官クラスの魔物が率いる軍勢とでは、あまりにも質が違いすぎる。
連携し、的確に隙をついてくる。
相手のどこが弱点かを冷静に見極めて狙ってくる。
その指揮官が、これだけの軍勢を率いているという事実は、もはや一都市の陥落を意味していた。
「これはヤバいな。急いで報告に戻ろう」
バルリアは声を潜めた。
「偵察どころじゃない。今すぐ、避難をしなくては——」
退却を指示しようとしたその瞬間。
森の最奥から、世界の終わりを告げるような咆哮が轟いた。
金属が擦れるような、掠れた音。人間の声帯では出せない、異質な叫び。
巨大な影が、森の奥から現れた。
その咆哮に呼応するように数千の魔物が一斉に動き始めた。
「逃げろ!」
バルリアが叫んだ時には、もう遅かった。
◇
森の深淵から、魔物の津波がこちらへ向かって押し寄せてくる。
隠密の魔道具は機能しているはずだが、奴らは視覚ではなく、獲物の魂の震えやニオイを嗅ぎ取っているかのようだった。
あまりにも迅速、かつ狂暴な進軍。三百メートルほどあった距離が一瞬で詰められる。
「くそっ!」
バルリアは剣を抜き、最初に飛び込んできたゴブリンを斬りつける。しかし、手に伝わったのは馴染みある肉の感触ではなく、硬質な岩石を叩いたような不快な反動だった。
「硬い……だと……?」
ゴブリンの皮膚は、通常なら革鎧程度の硬さだ。鋼の剣なら、容易く切り裂ける。
だが、今のは——まるで鉄板を斬ったような感触だった。切り裂くことは出来たが、決して普通のゴブリンではなかった。
致命傷を負わせたはずの個体が、未だ立ち上がっている。
胸に深い傷を負いながら、こちらに向かってくる。
その全身からは、異常な体温を示す蒸気が立ち上っていた。浮き出した血管がミミズ腫れのように脈打ち、傷口から流れる血は、シュウシュウと音を立てて蒸発していく。
「何なんだ、こいつらは……!」
◇
「ザコが!!」
トマナーが叫び、ゴブリンの心臓をその剣先で正確に貫いた。
ゴムのような手応えのある弾力が剣を通して伝わる。
心臓を破壊すれば、このゴブリンも活動を止める。そのはずだった。
「トマナー、離れろ!」
バルリアの警告が届いた時、すべては手遅れだった。
心臓を貫かれたはずのゴブリンが、笑みを浮かべたまま動きを止めなかったのだ。
怪物は剣を握るトマナーの腕を両手で固く掴み、身動きを封じる。そして、驚愕に染まるトマナーの喉笛に、迷うことなくその牙を突き立てた。
「が、はっ……!?」
鮮血が噴き出し、トマナーの身体は痙攣と共に崩れ落ちる。
ゴブリンは自らの心臓を刺し貫かれたまま、執拗に青年の喉を噛みちぎり続けた。数秒後、ようやく満足したかのように、その怪物は事切れて重なり合った。
「トマナー!!」
バルリアが駆け寄るが、そこに命の灯火はもう残っていなかった。喉を食い破られ、大量の血の海に沈んだ――ただの肉塊へと成り果てていた。
「嘘だろ……心臓を貫いたのに……」
◇
「なんだよこいつら! 痛みを感じてないのかよッ!」
マーカスが絶叫し、渾身の力で盾を構えてオークの一撃を受け止める。
激突音。しかしそれは、金属がぶつかり合う音ではなく、強固な鉄が粉砕される音だった。
盾を保持していたマーカスの腕が、骨ごと叩き折られる。
「がああああっ!?」
悲鳴が上がる。本来ならば、Dランクのオーク程度ではマーカスの鉄壁を突破出来ない。
だが、目の前の怪物は、明らかに理の範疇を逸脱していた。
不自然に膨張した筋肉、全身から立ち上るどす黒い蒸気が、生命の限界を無理やり突破させていることを示唆しているかのようだった。
「Dランクのオークだぞ!? なんでこんな——」
マーカスの言葉は、最後まで続かなかった。
オークの巨大な足が、折れた腕ごとマーカスの胴体を無慈悲に踏み潰した。
◇
「炎よ、我が敵を焼き尽くせ——」
リーンが震える声で詠唱を開始する。しかし、その神聖な韻律が最後まで紡がれことはなかった。
背後から、無数のゴブリンが津波のように群がったのだ。
「いや、いやあああっ!!」
リーンの悲鳴が戦場を切り裂く。詠唱は途絶え、彼女の命脈であった杖が地面に転がった。
醜悪な群れが彼女を地面に押し倒し、その姿は一瞬で影に埋もれて見えなくなる。
そして、生々しい咀嚼音が響き始めた。
◇
気づけば、バルリアは血と絶望の渦中で、たった一人取り残されていた。
魔物達に囲まれている。もう逃げ道は、ない。
「くそっ……くそっ……!」
必死に剣を振るう。
一体、二体、そして三体目の胴を裂く。
だが、斬られた魔物が瀕死になりながら襲いかかってくる。
腕を斬り落としたオークが、腕がないまま突進してくる。腹を裂かれたゴブリンが、内臓を引きずりながら這い寄ってくる。
「こんな……こんな生き物がいてたまるか……!」
腕を失ったオークが、自らの欠損した部位を踏み潰しながら突進し、バルリアの身体を地面へと叩きつけた。
背骨が折れる鈍い衝撃と激痛。肺から空気が押し出され、視界が急速に狭まっていく。
「ぐっ……」
霞む視界の中に、仲間の顔がよぎる。
二十歳で散ったトマナー。無口ながらも背中を預けられたマーカス。常に朗らかだったリーン。
全員、死んだ。俺がここに連れてきたせいで、無惨に食い荒らされた。
「……すまねえ、みんな……」
オークの足が、振り上げられた。
「逃げろ……誰か……この化け物たちを……」
魔物の体からは、死を加速させる黒い蒸気が立ち上り続けている。
「ギチギチ」と、限界まで噛み締められた歯が削れ、砕け散る異様な音が響く。
「ミシミシ」と、膨張しすぎた筋肉に耐えかねた骨が、自壊していく音が聞こえる。
こいつらは、生き物じゃない。
己の崩壊さえ顧みず標的を殺し続ける最悪の殺戮兵器だ。
——そして、肉が踏み潰される音が響いた。
◇
北門の城壁の上で、キラレンはその凄惨な幕切れを、ただ無言で凝視していた。
「……すまない」
その謝罪は、誰に届くこともなく風に消えた。
期待を寄せていた偵察隊は、もはや「戦闘」の形を成す間もなく、ただ一方的に蹂躙された。送り出した四人の勇士は、二度とこの門を潜ることはない。
「全軍、迎撃準備!」
キラレンは剣を抜いた。
弓兵が震える手で矢を番え、剣士たちが血の気の引いた顔で構えを取り、魔術師たちが祈りにも似た詠唱を開始する。その中に混じった冒険者たちがそれぞれの武器を構える。
そして、彼らを指揮せねばならない立場の騎士すらも震えていた。
だが、誰もが分かっていた。
この数を、止められるわけがない。
それでも引くことなど出来なかった。
「来い」
キラレンは、軍勢の奥に鎮座するジェネラル・オークを射抜くような視線で睨みつけた。
「ここを守護する騎士として、この門の先へは、塵一つ通さん」
魔物の津波が城壁へと激突し、真の地獄が幕を開けた。




