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第55話:騎士団長の懊悩


 猟師マルコが孤独な調査に身を投じていたその頃。

 王立ザラダス守護騎士団館では、団長キラレン・ヴェルズガルムが、執務室で山を成す報告書の群れと対峙していた。


 四十代半ば、その強靭な体躯を包む軍服の下には、歴戦の武人であることを雄弁に物語る無数の古傷が刻まれている。

 灰色がかった金髪を揺らし、彼は深く溜息をついた。その表情は、かつての戦場で敵刃を前にした時よりも、遥かに深い苦悩の色に塗り潰されている。



 机上に散乱するのは、ここ数日で届いた不穏な報告の数々だ。『森で仲間が殺された』『魔物の様子がおかしい』『ギルドへ訴え出たが、門前払いを受けた』。

 冒険者の死亡統計は例年の数倍に膨れ上がり、ついには今日、やり場のない怒りと悲しみを抱えた遺族たちが騎士団の門へと押し寄せてきた。



泣き崩れる老婆、握りしめた拳を震わせる父親、そして愛する者を失い呆然と立ち尽くす若い妻。



「ギルドの連中は『自己責任だ』と言うだけなんです!」



「息子はまだ二十歳でした……未来があったのに……!」



「あの支部長は金の計算に夢中で、調査すらしてくれない!」



 キラレンは、その慟哭のすべてを受け止めた。

 一人一人の瞳を見つめ、彼らの言葉を心に刻み、深く、深く頭を下げた。


 騎士団として、何もできなかったことを詫びた。

 詫びたところで失われた、失われた命が戻るわけではないと理解しながらも。



「……私は、一体何をしているのだ」



 キラレンは呟いた。


 民の盾となり、剣を振るうこと。その単純な目的のために命を懸けてきたはずが、今の彼を縛っているのは、いかなる名剣でも断てぬ「鎖」であった。政治的管轄、組織の論理、ヴァルトハイム家の権威。その強靭な鎖が、目の前で苦しむ民を見殺しにしろと命じているのだ。


 ふと窓に目をやれば、街の灯りは既に消え、真夜中の沈黙が訪れている。書類を整理し、一時(いっとき)の休息を得ようとしたその時――執務室の扉が、静寂を切り裂くように激しく叩かれた。



「団長! 緊急報告です!」



 その緊迫した声音に、キラレンは弾かれたように顔を上げた。



   ◇



 北門の城壁へ駆け上がったキラレンの視界に飛び込んできたのは、月光の下で蠢く、この世のものとは思えぬ「絶望」であった。


 森の縁。そこに、数千体もの魔物がひしめき合っている。

 ゴブリン、コボルト、オーク、ダイアウルフ――。本来であれば互いに争い、決して群れることのない異種族たちが、一つの意思に貫かれたように、恐ろしいほどの統制を保って居並んでいた。



「……軍勢、か」



 キラレンは呟き、望遠鏡を覗く。

 レンズの向こう、魔物たちの瞳は例外なく赤黒い光を宿し、同じリズムで不気味に脈動していた。そして、その数千の殺意が、ただ一点――この街を、真っ直ぐに凝視している。


 彼らは動かない。吠えることもなく、ただそこに「存在」している。まるで、一斉に解き放たれるその瞬間を、固唾を呑んで待っているかのように。



「北門の警備を最優先で増強しろ。投石機を稼働状態へ、弓兵は全配置に就け。松明を増やして射線を確保し、一寸の隙も作るな!」



「了解しました」



 矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、キラレンの背筋を冷たい汗が伝う。これほどの規模の軍勢が一度に動き出せば、防壁など紙細工に等しい。今なら、まだ。

 その焦燥に突き動かされ、彼は最後に命じた。



「それと――ギルドに使者を。ゴズ支部長の緊急面会を求め、Dランク以上の戦力を出来る限り多数手配するよう要請しろ。管轄を論じている時間は、もう我々には残されていない!」



   ◇



 しかし、騎士団の必死の呼びかけに対するギルドの返答は、夜風よりも冷ややかなものであった。戻ってきた使者の顔は、屈辱と怒りに歪んでいる。



「団長……支部長との面会は叶いませんでした。取り次ぎの者によれば、『魔物への対処はギルドの専管事項であり、法的根拠なき騎士団の介入は認められない』と。

 さらには、ゴズ支部長がお目覚めになる朝まで、いかなる判断も下せぬとの一点張りです」



 城壁の上、キラレンの拳がぎちりと鎧が擦れる音を立てて握りしめられた。法的根拠――民が食い殺されようとしているこの刹那に、奴らは書類の整合性を求めているのか。



「……腐りきっているな。ゴズ、貴様だけは」



 キラレンは静かに、決断を口にした。



「……仕方ない。ギルドを通さず、直接冒険者を募る」



「しかし、ギルドの頭越しに冒険者と取引すれば、後で問題に——」



「分かっている。だが、今は形式に拘っている場合ではない!全責任は私が取る!」



 キラレンは城壁の縁に立ち、森を見下ろした。

 暗い森の中で輝く、赤い光の瞬きは、先ほどよりも確実に、そして濃密に増殖し続けていた。



「騎士団の名で緊急依頼を発行せよ。偵察、および殲滅任務。報酬は騎士団の公金から捻出する。今すぐ酒場へ走り、動けるDランク以上の者を一人でも多く掻き集めろ!」



「……了解しました」



 部下が闇へと走り去るのを見送りながら、キラレンは呟いた。



「……間に合ってくれ」



 身を突き刺すような寒気は、決して、冬の夜風によるものではなかった。



   ◇



 その夜、冒険者ドレナスは、肌を刺すような嫌悪感に眠りを妨げられていた。


 数日前、自らが遭遇したあの「死んでも止まらない」コボルト。脈動する不気味な瞳。あれが何かの前触れであるという確信が、彼を苛み続けている。


 不意に外が騒がしくなり、窓から通りを見下ろせば、松明の明かりに照らされた冒険者たちが、慌ただしくギルドの方へと駆けていくのが見えた。



「一体、何だ……?」



 静寂の中、ひとり呟いた。ドレナスの胸の中に(わだかま)りとして残っている焦燥感が一層大きなものとなってドレナスを駆り立てた。


 ドレナスは、静かに眠る十四歳の妹の部屋を覗き、その穏やかな寝顔を胸に焼き付ける。

 両親と兄を亡くして以来、残された最後の家族として、兄として、この子の笑顔を守ることだけが彼の生きる意義になっていた。危険を避け、堅実に、確実に。それが、兄妹が生きていくためにドレナス自身が決めた絶対のルールだった。



「……すぐに帰る。いい子でいてくれ」



 独り言のように呟き、彼は家を飛び出した。ギルド前の掲示板には、異例尽くしの紙が貼り出されている。


『緊急依頼――北門外偵察任務、及び、殲滅任務。報酬:騎士団負担。キラレン・ヴェルズガルム署名』


 周囲の冒険者たちは、高額な報酬に色めき立ちながらも、この尋常ならざる事態に身を引いていた。



「ゴズの承認印もないし、この真夜中の緊急依頼って……騎士団の独断か?」



「騎士団がギルドを通さずに依頼だと?よっぽどの地獄だぜ」



「俺はパスだ。さっきの騎士の真っ青な顔を見たか?命あっての物種だろ」



 立ち去る背中を見送りながら、ドレナスは掲示板の文字を凝視した。

 森の異変、握り潰された報告、そして騎士団長が自らの首を賭けて出したこの緊急要請。すべてのパズルが、一つの破滅を指し示している。



 ここで背を向け、安全な眠りに戻ることはできる。だが、その先に待つ「明日」に、あの子の笑顔は残っているだろうか。

 妹を守るために、最も危険な場所へと足を踏み出す――。

 ドレナスは震える手を静かに下ろし、剥き出しの覚悟を背負って門へと向かった。


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