第54話:恐怖の夜
陽が落ちた【外城区ヴェラド】の集会所には、出口のない不安を煮詰めたような空気が充満していた。
「昨夜、森の奥から聞こえてきたのは……あんなのは、ただの遠吠えじゃない」
沈黙を破ったのは、一人の若い農夫だった。彼の顔は血の気が失せて幽霊のように蒼白く、絞り出すような声は隠しきれない震えに濡れている。
「一匹や二匹の群れが騒いでいるレベルじゃなかった。何十、何百という獣の咆哮が……朝まで、一度も止むことなく響き続けていたんだ」
「ああ、俺も聞いた」
別の男が、縋り付くような重苦しい頷きを返す。
「耳慣れた獣の呼び声とは、根本的に何かが違っていた。あれは、獲物を追う王者の声などではなく……強いて言うなら……」
男はそこで言葉を失い、喉を鳴らした。
三日前、不吉な確信を胸に騎士団やギルドを回ったが、返ってきたのは官僚的な「却下」の判子だけだった。そして今、森はついに、取り返しのつかない変質を隠そうともせずに声を上げ始めている。
すぐそこまで、破滅が足音を立てて近づいている。
「……俺が見てくる」
マルコは壁から背を離し、言った。
その言葉には有無を言わさない決意が込められていた。
「馬鹿を言うな、マルコ。もう日も落ちている。この闇の中、死にに行くようなものだぞ」
「死ぬのを待つか、危険を暴きに行くかの違いだ」
マルコは淡々と答えた。まるで設置した罠に獲物が掛かっていないかを確認しに行くのかのように。
「誰かが確認しなきゃ、この場所を捨てて逃げるべきか、耐えるべきかも分からねえだろ。俺は四十年この森で生きてきた。夜の森を歩くのは慣れてる」
「しかし……」
「心配するな。深入りはしない。様子を見てくるだけだ」
マルコは、相棒である剛弓と矢筒を手に取り、住人たちの不安を背負うように集会所を後にした。
◇
森に入った瞬間、空気が変わった。
――重い空気。そして、三日前に来た時よりも更に静かだ。
まるで、森全体が息を詰めているような圧迫感。獣の気配は消え、虫の音すらない。あるのは、遠くから聞こえる低い唸り声だけ。
マルコは慎重に足を進めた。
月明かりを頼りに、獣道を辿る。四十年歩き続けた道だ。目を閉じていても歩ける自信がある。だが今夜は、その道すらも異質に感じられた。
やがて、森の奥、開けた場所に出た。
そこで、マルコは足を止めた。
「……なん、だ……これは……」
マルコの声は震えていた。
開けた大きな空間。月光が射しこみ、照明のように《《それ》》を照らしていた。
複数の魔物たち、を。
一匹や二匹ではない。何千という数だった。
ゴブリン。コボルト。オーク。ダイアウルフ。オーガ。
異なる種族が、一つの場所に集まっている。整然と。まるで軍隊のように。
そしてそれらは、心臓のように、ドクン、ドクンと、赤黒い目を脈動させて、不気味な地響きのような音を奏でていた。
何千もの目が、同じリズムで明滅している。まるで、巨大な一つの心臓が鼓動しているかのように。
その中心に、巨大な影があった。
他の魔物を見下ろす、圧倒的な体躯。オークだが、通常の個体とは比較にならない巨体だ。全身の筋肉が異様に膨張し、頭には王冠のような角が生えている。
ジェネラル・オーク。
指揮官種であり、Aランク相当の魔物だ。
「……統率、されてる……」
よく見ると、ジェネラル・オークの他にも指揮官種の魔物がいるようだ。
マルコは理解した。これは、ただの魔物の群れではない。
軍勢だ。
何千もの魔物が、指揮官の下に統率されている。
その瞬間——ジェネラル・オークの首が、ゆっくりとこちらを向いた。
赤黒い目が、マルコを捉えた。
同時に、周囲のゴブリンたちも一斉に振り返った。何百、何千もの赤い目が、闇の中で光る。
「……クソッ!!」
マルコは踵を返し、ただ、走った。
◇
背後から、地響きのような足音が迫ってくる。
振り返らない。振り返れば、死ぬ。
『死』そのものが、マルコの命を喰らおうと迫ってくる。
マルコは腰のポーチから、無造作に一握りの鉄の塊を背後へ放り投げた。
猟師が獲物の足を止めるために使う、鋭い刺のついた撒菱だ。
直後、背後で「ギャッ!」という短い悲鳴と、複数が重なり合って転倒する音が聞こえた。そしてすぐに、ブチュブチュと肉が潰れるような音が聞こえた。
だが、追手は数千だ。死体の山すら踏み越えて、赤い目が迫る。
マルコは走りながらも、ただ逃げているわけではなかった。
四十年歩いた森だ。どこに「死にかけの古木」があるか、どこに「崩れやすい斜面」があるかを熟知している。
大きな倒木の影を通り抜ける際、マルコは一瞬だけ足を止め、上半身を捻った。 狙うのは追手ではない。頭上の巨大な蔦だ。
放たれた矢が、重い実をつけた蔦を正確に断ち切る。
ドサリ、という音と共に大量の土砂と枯れ木が道を塞ぎ、魔物の軍勢の先頭を押し潰した。
「……チィっ!止まらねぇか」
それでも、マルコを喰らおうとする魔物達は止まらない。
右から飛び出してきたダイアウルフの鼻面に、矢筒から取り出した矢を突き立て、そのまま蹴り飛ばす。
左腕に、焼けるような痛みが走った。
見ると、ゴブリンの牙が、肉に食い込んでいる。
「――ッ!」
今度はゴブリンの顔面にナイフを突き立てる。
腕を振り払い、再び地を蹴り走り出す。やがて、前方に崖が見えた。
背後には何十匹ものゴブリンが、赤い目を光らせて迫ってきている。前は崖。後ろは魔物。
詰みだ。
普通なら。
マルコは崖の下を見た。
二十数メートル下を、暗闇で深淵にも間違えそうな水が轟々と流れている。落ちれば、普通は助からない。
だが、七十メートルほど先の下流に、浅瀬がある。激流に乗り、上手く右岸に寄れれば、そこに辿り着けるはずだ。
「この森のことは、俺が一番知ってるんだよ」
背後で、ゴブリンが飛びかかる気配がした。
マルコは、崖から飛んだ。
◇
氷の刃のごとき急流が全身を打ち据え、マルコは絶望的な窒息感に喉を焼かれた。
荒れ狂う水流に翻弄される肉体は、天地の判別すらつかぬまま濁流の中で回転を続けた。幾度となく岩肌に激突しては、その衝撃に激痛を走らせる。
それでも、十歳の頃より、この森で四十年の歳月を生き抜いた猟師の肉体は、死の淵でも本能的な記憶に従い、「右へ、右へ」と活路を求めてもがき続けていた。
左腕はもはや自らのものとは思えぬほど感覚を喪失し、ただの重りへと成り果てていた。
水が大量に肺の中に入ってきて意識が飛びそうになった。
だが、その刹那。
無慈悲な水流の向こう側に、足裏を叩く硬質な砂利の感触が戻ってきた。
命を繋ぐ、浅瀬。
マルコは動かない体を、腕だけを使って強引に岸辺へと這い上がった。そのまま転がり、安堵で天を仰ぎ見た。視界の先には滲んだ星々が、まるで遠い世界の灯火のようにぼんやりと瞬いている。
「……また、森に助けられたな……」
凍てつく夜気に、白く震える吐息を漏らす。
その言葉が風に消えるのと同時に、彼は抗えぬ深い闇の底へと、静かに意識を沈めていった。
◇
鉛のような重みとともに意識が浮上したとき、視界を埋めたのは見覚えのある天井だった。
窓の外は既に深い闇に沈み、真夜中の静寂が部屋を支配している。全身を苛む激痛と、感覚を喪失した左腕、そして霧が立ち込めたかのように混濁する思考。
それでも、消えぬ火種として胸の奥で燻り続けているものがあった。
「……マルコさん! 気がついたか!」
傍らの若者が上げた悲鳴にも似た叫びに呼応し、不安に顔を歪めた住人たちが一斉に駆け寄ってくる。
「良かった……川辺で倒れてるのを見つけた時は、もう駄目かと……」
「今、手当てを——」
「……逃げろ」
マルコは、喉を焼くような苦痛とともに声を絞り出した。飲み込んだ泥水のせいで言葉は形を成さず、ただの掠れた悲鳴に近い。それでも、彼は伝えねばならなかった。
「……今すぐ……城壁の内側へ……逃げろ……」
「何があったんだ? 一体何を見たんだ?」
「数が……数千は、下らない……」
肺が軋む音を聞きながら、必死に酸素を求める。
「魔物が……目が赤黒く光り……指揮官の下に、統率されている……」
「統率? 何を言って――」
「スタンピードだ……。未曾有の、大暴走が始まる……!」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
スタンピード。それは魔物達の大暴走を意味する言葉だ。
城郭都市ですら壊滅しかねない、最悪の災厄。
人知を超えた大災害の足音。
「……嘘、だろ……?」
「この目で、見てきた……。だが、これはただの天災などではない。明確な殺意に操られた、蹂躙の軍勢だ……。い、今すぐ、逃げ……」
使命を吐き出すと同時に、マルコの糸は切れ、その意識は再び深い闇の底へと墜ちていった。
◇
【外城区ヴェラド】は、底の抜けたようなパニックの渦へと叩き落とされた。
「スタンピードだって!?」
「逃げろ! 一刻も早く、ザラダスの壁の内側へ!」
震える我が子を抱き寄せる母親、老いた親の腕を引く若者、そして状況も分からず泣き喚く幼児。真夜中だと言うのに起きていた百名を超える人の波が、唯一の希望である城壁の門へと殺到する。
「門が閉まってる!」
絶望に染まったその声の通り、西門は鉄の沈黙を守っていた。
「おい、開けてくれ! スタンピードだ! 魔物が来るんだ!」
住民たちは半狂乱で門を叩き、喉を潰さんばかりに叫び声を上げる。だが、高く聳える石壁の向こうからは、なんの返答も聞こえてこない。
「夜間は開門禁止だ! 朝まで待て!」
やがて、城壁の上から降り注いだのは、都市備兵の冷徹な、あるいは面倒事を取り払うような声音であった。
「待てるわけがないだろう! 今、この瞬間にも魔物が――」
「規則だ! 夜間の開門には代官様の正式な許可が必要となる。我らの一存では動かせん!」
「じゃあ許可を取ってくれ!」
「こんな真夜中に……。 朝まで待て!それ以外に道はない」
非情な宣告を最後に、警備兵の気配は壁の上から消失した。住民たちは、ただ呆然と、絶望的に高くそびえる城壁の前で立ち尽くす。
指先が触れるほど近くに安全な街があるというのに、石の壁の厚みが、彼らから生への執着を奪い去っていく。
「……どうすりゃいいんだよ」
誰かが、力なく呟いた。
森の方角から、夜風に乗って不気味な不協和音が届き始める。一匹、また一匹と重なっていく遠吠えは、もはや数えきれぬほどの質量となって夜空を震わせていた。
「……朝まで待つしかない」
年長者が言った。声は震えていたが、必死に平静を保とうとしていた。
「家を閉ざし、窓に板を打ち付けるんだ。朝になれば、必ず門は開く。それまでの、わずかな辛抱だ……」
「朝まで……本当に持つのか……?」
誰も答えられなかった。
不安を抱えながら、住民たちは各自の家へ戻った。
重い扉を閉める音が、あちこちから聞こえてくる。
やがて、ヴェラドは静まり返った。
誰もが眠れぬ闇の中で、震えながら夜明けを祈る。
だが、森から響く飢えた遠吠えは、時間の経過とともに、確実に、そして残酷なほどに大きく近づいてきていた。




