第52話:不穏な兆し
朝靄の残る森の中、一人の冒険者が薬草を摘んでいた。
――ドレナス・ガルシア。二十二歳のDランク冒険者。
茶髪に、使い込まれた革鎧。腰には年季の入った剣を佩いている。装備品も身なりも、Dランク相応の一般的な冒険者の男。
特別な才能があるわけではない。だが、真面目に依頼をこなし、少しずつ実績を積み上げてきた。
両親と兄を亡くし、今は妹と二人で生きている。彼は、妹を学校に通わせるため、危険な冒険者稼業を続けている。
今日の依頼は薬草採取。報酬は高くない。だが、それでも一般的な仕事に比べたら遥かに割がいい仕事だった。それに、採取であれば戦闘のリスクは低い。
妹のことを考えれば、無茶はできない。堅実に、確実に。それが彼の信条だった。
しゃがみ込んで薬草を袋に詰めていた時——背後で、枝を踏む音がした。
振り返った瞬間、視界の端で何かが動いた。
「——ッ!」
反射的に剣を抜き、横に跳ぶ。
直後、さっきまで自分がいた場所を、鋭い爪が切り裂いた。
コボルトだった。
犬のような顔をした、小柄な亜人型の魔物。人間の子供を見ただけでも逃げ出すほどの臆病者だ。新米の冒険者でも片手で倒せるような、Fランクの最弱に近い魔物だった。
だが、目の前のコボルトは違った。
先ず、体つきが異常だった。通常のコボルトよりも二回りは大きい。
加えて、筋肉が異様に膨張し、血管が黒く浮き上がっている。口から涎が垂れ、牙を剥き出しにして威嚇している。
そして、赤黒い光が、眼窩の奥で心臓のように脈動していた。
まるで心臓のように。
逃げる気配がない。
むしろ、こちらを獲物として認識している。
「……なんだ、こいつ」
構える間もなく、コボルトが飛びかかってきた。
「クソッ……!速い……!!」
Fランクの魔物とは思えない瞬発力だった。辛うじて剣で受け止めるが、衝撃で腕が痺れる。力も強い。通常のコボルトの比ではない。
二撃目。三撃目。
息つく暇もなく、爪が迫る。受け流し、躱し、剣で切りつける。
だが、コボルトは止まらない。痛みを感じていないかのように、ひたすら攻撃を続けてくる。
四撃目を弾いた瞬間、好機が来た。
身体ごと大きく前のめりになったコボルトが、その勢いのまま雪でぬかるんだ地面に足を取られ、数秒怯んだ。
「——そこだッ!」
剣を振り下ろし、刃がコボルトの首を捉えた。
鮮血が噴き出し、コボルトが倒れる。
だが——。
「……は?」
首を半分ほど斬り落とされたコボルトが、まだ動いていた。
倒れたまま腕を振り回し、爪で地面を引っ掻き、こちらに這い寄ろうとしている。赤黒い目が、憎悪に燃えてこちらを睨んでいる。
「な、なんだこいつは……!?」
致命傷を負っても、まだ襲いかかろうとしている。
追い打ちで頭を叩き潰し、ようやくコボルトは動きを止めた。
荒い息をつきながら、ドレナスは死骸を見下ろした。
黒く変色した血管。脈動する目。異常な筋肉。そして、死の間際まで止まらなかった攻撃本能。
Fランクのコボルト相手に、ここまで手こずったのは初めてだった。
いや、コイツの強さは明らかにFランクの強さのそれではなかった。
「……何なんだ、こいつは」
目の前に転がっている死骸がとても恐ろしく感じた。
嫌な予感が、背筋を這い上がった。
◇
冒険者ギルドは相変わらずの喧騒に包まれていた。
冒険者が行き交い、職員が書類を捌き、掲示板の前では依頼を物色する者たちがひしめいている。いつもと変わらない光景。だが、ドレナスの胸中には、先ほどの異常な戦闘の記憶が燻っていた。
彼は受付に向かい、赤髪のショートカットの女性職員に声をかけた。
「エルダ、採取の依頼を完了した……。それと、一つ報告したいことがある」
「……あら、ドレナスさん。お疲れさまでした。」
エルダが書類を片付けながら、爽やかな笑顔で微笑んだ。
「森でコボルトに襲われた」
「コボルト……ですか? 珍しいですね。あの臆病な魔物が」
「ああ。それが問題なんだ」
ドレナスは、先ほどの戦闘の詳細を語った。
脈動する赤黒い目。異常に膨張した筋肉。Fランクとは思えない速度と力。そして、致命傷を負っても止まらなかった攻撃。
エルダの明るかった笑顔が、徐々に曇っていく。
「……実は昨日も、似たような報告がありました」
「似たような?」
「はい……。猟師の方が来て、森で異常な魔物の死骸を見つけたと。その方はゴブリンの死骸を見つけたようですが、目が赤黒く光っていて、仲間に食い殺されていたそうです」
ドレナスの眉が寄った。
昨日。そして今日。立て続けに異常が起きている。
「報告書は上げたのか?」
「……はい。でも」
エルダの言葉が、途切れた。
その表情を見れば、結果は聞くまでもなかった。
「却下、か」
「……『Fランクの魔物程度でいちいち騒ぐな』と」
エルダの声には、隠しきれない苦さが滲んでいた。
ドレナスは黙って頷いた。この支部の支部長がどういう人間か、冒険者の間では周知の事実だ。私利私欲を尽くす、事なかれ主義の悪党。面倒ごととなる報告であれば握り潰す。そういう男だ。
だが、それでも行動しないわけにはいかない。
「……あれは決してFランクの魔物の強さではなかった」
「……分かりました」
エルダが書類を取り出し、ペンを走らせ始めた。
その顔を見ながら、ドレナスは口を開いた。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「二年前、俺の兄が死んだ」
エルダの手が、一瞬止まった。
「ハルトっていう名前だ。Dランクの依頼で死んだと言われた」
「……」
「遺体が返ってきた時、ギルドは『ゴブリンに襲われた』と説明した」
ドレナスの声は、静かだった。だが、その奥には押し殺した怒りが燻っている。
「だが、兄の遺体は——上半身が食い千切られていた」
エルダの顔色が、変わった。
「ゴブリンの顎じゃ、あんな傷はつかない。俺は元々、猟師の息子だ。傷口を見れば分かる。あれはゴブリンなんかじゃない、それ以上の大物に一撃で食い千切られた損傷だった」
「……」
「俺はずっと訴えてきた。依頼の査定がおかしかったんじゃないかと。だが、誰も取り合ってくれなかった」
二人を包んだのは永遠とも思えるような沈黙。
ギルドの喧騒が、遠い世界の音のように聞こえる。
当時のギルド支部長もゴズ・ロックスミスだった。
エルダの視線がきょろきょろとしており、明らかに動揺していた。
「……やっぱり、何か知ってるんだな」
ドレナスの問いに、エルダは答えなかった。
「そうか」
ドレナスは椅子の背もたれに体を預けた。責めるつもりはなかった。末端の職員に何ができるわけでもない。それは分かっている。
「……報告書、頼んだよ」
「……分かりました」
エルダが立ち上がり、書類を持って奥へ向かった。支部長室の方向だ。
ドレナスは待った。
そして、支部長室の扉が開く音がした。
その数秒後、怒声が聞こえてきた。
◇
「また森の異変だと? 昨日も猟師が同じようなことを言いに来ただろう!」
支部長ゴズがエルダに怒鳴る。
太った体に似合わない甲高い声は、受付フロアにまで響いていた。
「は、はい。ですが、今度は冒険者からの報告で——」
「冒険者? ランクは?」
「Dランクです」
「Dランクの報告を、いちいち精査しろと?」
嘲笑うような声。ドレナスは拳を握りしめた。
「いいか、よく聞け」
ゴズの声が、少しだけ落ち着いた。
だが、その代わりに、ねっとりとした説教じみた響きを帯びた。
「この街は商業都市だ。人口十五万。王都を除けば、この地方最大の経済拠点だぞ。毎日どれだけの商隊が出入りし、どれだけの金が動いていると思っている」
「……」
「『森で異変が起きている』——そんな噂が立てばどうなる?
商隊は迂回し、護衛費用は跳ね上がり、物流が止まる。物流が止まれば物価が上がり、市民が飢える。お前の報告一つで、市民の生活が危うくなるのだ」
エルダは拳を握り、震えた。
恐怖ではない。怒りが、身体の震えと言う形で発露していたのだ。
「それに、騎士団に知られたらどうする。平時ではヴァルトハイム伯爵閣下の警備兵が治安を守っているが、騎士団が介入して来て、この街の警備を指揮しだすぞ。そんなことになれば王都に筒抜けだ。ヴァルトハイム伯爵閣下のお耳にも入る。——私の立場がどうなると思う?」
結局はそれか、とエルダは思った。
街の経済。市民の生活。大層な理屈を並べても、最後に出てくるのは己の保身だ。
「Fランクの魔物程度の異変なら、いずれ収まる。いちいち騒ぎ立てるな。——却下だ」
まともに話を聞くことすらない。
バン、と印を押す音が支部長室に響いた。
◇
エルダは却下の印が押された報告書を持って、とぼとぼと戻ってきた。
最初からこうなることは予想していた。しかし、それが実際に現実になるとやるせない気持ちでいっぱいになった。
「……申し訳ございません」
報告書をドレナスへ見せた。
ドレナスは、右下に押された赤い印。『却下』の二文字と、支部長の署名をまじまじと見つめていた。
「ありがとう。……君はやれることはやってくれた」
それだけ言って、彼はギルドを出ていった。
エルダはその背中を見送りながら、報告書を握りしめた。
ドレナスが去った後、エルダはしばらく動けなかった。
『却下』と押印された手元の報告書を見つめていた。
二年前のことが、脳裏に蘇っていた。
ハルトという冒険者が死んだ。
Dランクの依頼、で。
森林の中にある木の実の採集だった。
だが、その当時、森林はBランク相当の魔物が出没しており、一時的に危険地帯として指定されていた。
そのことを失念しており、Dランクの任務として採集依頼を掲示した。
――依頼の査定ミス。いや、ミスではない。あまりにも杜撰で、確認を怠った、明らかな過失だった。
だが、支部長のゴズはそれを認めなかった。
『冒険者の判断ミスによる事故』
そう処理された。遺族への補償金も、大幅に減額された。
そんな中、ゴズに異を唱えた人がいた。
リーアというエルダの先輩職員だった。正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人だった。エルダの教育係で、仕事のいろはを教えてくれた恩人だ。そして、ゴズの承認印を押したその依頼を、掲載してしまった人でもあった。
リーアはゴズに直談判した。査定ミスを認め、遺族に正当な補償を支払うべきだ、と。そして、リーアは騎士団へ告発しようと動いていた。
だが、ある日、リーアは死んだ。
『家族とピクニックに出かけ、森の奥で魔物に襲われた』
そう聞かされた。夫と、幼い娘と一緒に。都市警備兵によると、三人とも、魔物に食い散らかされていて、遺体すら見つからなかったそうだ。
冒険者でもない一家が、わざわざ危険な森の奥まで行くだろうか?
偶然にしては、あまりにもゴズにとって都合が良すぎた。
ゴズの背後には、ヴァルトハイム伯爵がいる。この街の誰もが知っている公然の秘密だ。伯爵家の力を使えば、人を一人消すことなど造作もないだろう。
都市警備兵もヴァルトハイム伯爵の税収で雇われている。立場としては、ヴァルトハイム伯爵に仕えている私兵となんら変わらない。
エルダには、リーアがゴズに殺されたようにしか見えなかった。
エルダは疑っていた。
だが、証拠はない。そして——怖かった。
自分が声を上げれば、リーアと同じ目に遭う。家族を巻き込むかもしれない。その恐怖が、エルダの口を塞いできた。
だが、エルダの中に迷いが生まれていた。
昨日の猟師の顔を思い出す。
必死に異変を訴えていた。猟師の冷めたような目が忘れられない。
そして今度はドレナスのことを思い出した。
彼の報告が本当なら、罪のない冒険者や市民が異常な魔物に殺されてしまう。
助けられる命を、守らなくていいのか。
私だけが、黙っていていいのか。
エルダは手元の報告書を見つめた。
却下印。支部長の署名。
これはただの報告書ではない。「報告を受けたが対応しなかった」という、動かぬ証拠だ。
一介の職員では今すぐ何かできるわけではない。声を上げれば、消される。それは分かっている。
でも、せめて、証拠だけは残しておこう。
いつか、この証拠が必要になる時が来るかも知れない。
ゴズ・ロックスミスを追い詰める証拠に――。
エルダは報告書を、鞄の奥深くにそっと忍ばせた。
それから、掲示板に向かった。
低ランクの採取依頼を、一枚、また一枚と外していく。
「おい、何してるんだ」
同僚が怪訝そうに声をかけてきた。
「森の魔物が異常なの。貴方のところにも報告は来ていない?低ランクの依頼は危険すぎるわ」
「支部長に報告しなくていいのか?」
「……報告してる。そして、却下された」
同僚は何も言えなかった。
誰もが分かっていた。この支部の『異常』を。
だが、誰も声を上げられない。上げれば、消される。
エルダは黙々と依頼を外し続けた。
これが、今の自分にできる精一杯だった。
◇
――その夜。
森の奥で、異変は静かに進行していた。
闇の中、無数の光が瞬いている。
赤黒い光。脈動する光。
一つ。二つ。三つ。
数えきれないほどの目が、暗闘の中で明滅していた。
ゴブリンが、コボルトが、ダイアウルフが、異なる種族が、一つの場所に集まっている。本来なら殺し合うはずの魔物たちが、何かに導かれるように、森の奥深くへと向かっていた。
その中心に、巨大な影がある。
他の魔物を見下ろす、圧倒的な体躯。
その目もまた、赤黒く脈動していた。
心臓の鼓動のように。
いや——まるで、一つの巨大な心臓が、森全体を支配しているかのように。
光の数は、夜ごとに増えていく。
十。百。千。
やがてそれは、一つの軍勢となる。
街を飲み込む、災厄の群れへと。




