第51話:森の囁き
夜明け前の森は、死んだように静かだった。
マルコ・ベルントは、枯れ葉を踏みしめながら獣道を進んでいた。五十年の人生のうち、四十年をこの森で過ごしてきた。十歳で初めて弓を握り、父に連れられて狩りを覚えた。以来、この森は彼の庭であり、教師であり、そして生涯の友だった。
木々の隙間から差し込む薄明かりが、霧に滲んで白く光っている。吐く息が白い。初冬の朝特有の、肌を刺すような冷気。
だが、マルコの体は、震えひとつ起こさない。
革のブーツが湿った土を踏む音。背負った弓が軋む微かな音。自らの一定な呼吸。
世界には、それしか存在しなかった。
本来あるべき、『森のざわめき』が、どこにも見当たらないのだ。
「……静かすぎる」
マルコは足を止め、周囲を見回した。
この時間帯、森は本来なら目覚めの時を迎えているはずだ。小鳥たちが縄張りを主張して囀り、リスが枝から枝へと跳ね回り、鹿が朝露に濡れた草を食む。そうした生命の営みが、森の朝を形作る。
だが、今日は決定的に「無」であった。
虫の羽音一つ、風に揺れる葉擦れ一つ聞こえない。
まるで森全体が、巨大な捕食者の影に怯えて息を殺しているかのようだった。
マルコの手は、無意識のうちに弓の握りへと伸びていた。四十年の経験が、背筋を這い上がる違和感となって警鐘を鳴らしている。論理や理屈ではない。研ぎ澄まされた生存本能が、この静寂の異常性を叫んでいるのだ。
何かが、決定的に狂っている。
◇
獣道を外れ、マルコは絡まり合う茂みをかき分けて深奥へと踏み込んだ。
いつもの狩場に向かうだけなら、このような藪の中に入る必要はない。だが、内側から突き上げてくる焦燥を無視することはできなかった。
この森で生きてきた者として、異変の正体を突き止めるのは、もはや義務を越えた強迫観念に近い。それは高潔な正義感などではなく、自らの「庭」が得体の知れない不浄に侵食されていくことへの、根源的な恐怖であった。
やがて、冷気の中に混じる異質な悪臭が鼻腔を突いた。
血の匂いだ。それも、獣特有の生臭さに、膿のような腐敗臭を混ぜ合わせた、吐き気を催すほどに重く不快な芳香。
茂みを抜けたマルコの視界に、凄惨な光景が飛び込んできた。
「……なんだ、これは」
古木の根元に、ゴブリンの死骸が幾つも転がっている。
ゴブリン自体はこの森のありふれた害悪だ。冬場に素材目当てで狩られる程度の、猟師にとっては馴染み深い獲物に過ぎない。
だが、目の前の遺骸は、その「死の様相」が異常だった。
彼らは、同族の手によって食い散らかされていたのだ。
裂かれた腹部から引きずり出された内臓。肉を噛み千切られ、白く露出した骨。喉元に刻まれた、ゴブリン特有の乱杭歯による傷。
同族が、同族を喰ったのだ。
飢餓に陥れば共食いも厭わぬ連中だが、これは「食事」の跡ではない。
辺りには喰い千切られた内臓が散乱している。共食いにしては、《《残っている肉の量が多すぎる》》。
まるで、壊すことが目的だったかのように。味わうためでも、腹を満たすためでもなく、ただ破壊するためだけに殺されたかのようだった。
マルコは眉をひそめ、死骸の傍らへ膝をついた。
腐敗が始まっている。木や地面に飛び散った血の乾き具合、そして死骸の凍り具合から見て、死後一日か二日程度経過している。しかし、この時期にしては腐敗の進行が不自然に速い。
死骸の体表にはミミズ腫れのように黒い血管が浮き上がり、皮膚のあちこちが裂けて、どす黒い体液が染み出していた。
形容しがたいニオイが鼻を刺激する。
異臭の正体は、これか。
マルコは顔をしかめながら、死骸の頭部を覗き込んだ。
刹那、彼の全身を総毛立つような戦慄が駆け抜けた。
死んでいるはずのゴブリンの眼窩の中で、赤黒い光が灯っていたのだ。
ドクン。 ドクン。 ドクン。
まるで心臓のように、規則正しく、不気味に。
死体の目玉が、拍動しているのだ。
「……ッ!」
マルコは思わず後ずさった。
四十年、この森で狩りをしてきた。魔物の死骸も数えきれないほど見てきた。だが、こんなものは初めてだ。死んだ魔物の目が光り続けるなど、聞いたこともない。
あり得ない。
これは、絶対に普通ではない。
本能が逃走を命じている。一刻も早く、この不浄な場から立ち去れと魂が叫ぶ。
だが、彼はその場に踏みとどまった。
代わりに、腰のナイフを抜いた。そして、意を決して死骸に近づくと、脈動する目玉を慎重に抉り出した。
ずるり、という不快な抵抗感とともに、掌に落ちる異質な質量。
赤黒い光は、なおも掌の上でドクン、ドクンと拍動を続けている。それはまるで、熱を帯びた生きた火種を握っているかのようだった。
気持ち悪かった。
投げ捨てたくなる衝動を抑え、マルコは目玉を布に包んで、背負い袋に押し込んだ。
これを、この異常を、誰かに見せなければならない。
騎士団か、ギルドか。或いは警備兵か。とにかく、この街を守る立場にある者たちに。
何かが起きている。
この森で、何か恐ろしいことが起こっている。それを伝えなければ。
◇
【商業都市ザラダス】は所謂、城郭都市だった。十五万の命を抱くその高い城壁は、マルコにとって馴染み深い風景であったが、今日ばかりは天国と地獄を隔てる断絶の壁のように思えた。
マルコが住んでいるのは、ザラダスの西側にへばりつくように広がる【外城区ヴェラド】。
公的には「集落」と分類されてはいるが、その実態は人口三千を数える、辺境の地方都市よりもよほど活気のある街だった。
城内へ入る高い税を嫌う商人や、夜間の閉門に間に合わなかった旅人、そしてザラダスの膨大な物資を支える荷運び人たち。
巨大な城壁が吸い込みきれなかった「富の残りカス」だけでも、このヴェラドを肥えさせるには十分すぎたのだ。
マルコは城壁近くの騎士団詰め所へと駆け込んだ。早朝の空気は薄暗く、詰め所内は静まり返っている。
そこにいたのは、鎧を纏うことさえ覚束ない、二十歳前後の若い騎士だった。
経験のなさが透けて見える頼りない佇まいだが、その瞳には、未だ穢れを知らぬ正義の光が宿っている。
「すまない、報告したいことがあるんだが」
「は、はい。猟師の方ですか? 何かありましたか」
若い騎士の問いに対し、マルコは背負い袋から『それ』を取り出した。
布を広げた瞬間、赤黒い光が薄暗い部屋を不気味に照らし出す
「な……なんですか、これは」
若い騎士の顔色が、見る見るうちに変わった。
青ざめ、目を見開き、思わず一歩後ずさる。
「ゴブリンの眼球だ。今朝、森で共食いをしていた死骸から抜き取った。見ての通り、死してなお、こうして脈動し続けている」
「し、死骸……?死んでるのに……光って……」
若い騎士の声が震えていた。
「ああ。俺も見たことがない。四十年この森にいるが、こんなものは初めてだ。何かが起きている。調査を——」
「何を騒いでいる」
三十代半ばの男だった。騎士団に長年勤めてきたのだろう、立ち振る舞いには落ち着きがある。
「猟師殿が、森で異常な魔物の死骸を見つけたと——」
「見せてみろ」
上官はカウンターに近づき、目玉を一瞥した。眉をひそめたが、取り乱す様子はない。
「……確かに、異常だな」
「でしょう。だから調査を——」
上官は静かに、マルコの言葉を遮った。
「猟師殿。我々騎士団が守護すべきは、十五万の民が眠るこの城壁の内側であり、王が定めた法だ」
その声音には、悪意も怠慢もない。ただ、絶対的な官僚的優先順位が横たわっているだけだった。
「森の異変については、まずギルドが調査し、脅威度を確定した後に我々へ正式な出動要請が回る。それが手順だ。我々が勝手に動けば、ヴァルトハイム領主閣下が指名した代官との間に不要な摩擦を生む」
「しかし、これは明らかに——」
若い騎士が上官に反論した。
しかし、上官は取り合いもせずに、書類仕事に目を戻した。
「騎士団は、王の剣だ。野良犬を追い払うために抜くものではない。——悪いが、ギルドに行ってくれ。魔物のことは、あちらの仕事だ」
若い騎士が何か言おうとした。だが、上官の背中を見て、口をつぐんだ。
マルコは黙って詰め所を出た。
上官の言葉には、悪意がなかった。ただ、組織を滞りなく運営するために、優先順位の低い「囁き」を切り捨てているに過ぎない。
それが分かるからこそ、余計に虚しかった。
◇
冒険者ギルドの受付は、朝から賑わっていた。
冒険者たちが依頼書を物色し、職員が書類を捌き、あちこちで交渉や雑談の声が飛び交っている。
活気がある、と言えば聞こえはいいが、マルコにとっては場違いな空気だった。
彼は列に並び、順番を待った。
やがて、赤髪のショートカットの女性職員が、彼を手招きした。快活そうな顔立ちで、身振りも力強い。
「次の方……。おや、猟師さん……ですか? ギルドに足を運ぶなんて珍しい。何か素材の持ち込みですか?」
「いや、報告したいことがあってな」
マルコは、その忌まわしい目玉を再び晒した。
カウンターの上で脈動する赤黒い光。
女性職員の顔から、血の気が引いた。
「……これは」
「今朝、森で見つけた。ゴブリンの死骸から抜き取った目玉だ。死んでいるのに、ずっとこうして光り続けている」
彼女は目玉を凝視していた。その顔は青ざめ、唇が微かに震えている。
そして声を潜めた。周囲に聞こえないよう、カウンターに身を乗り出して。
「報告書は上げます。上げますが……」
言葉が、途切れた。
彼女の視線が、一瞬だけ奥の扉に向けられた。支部長室の方向だ。
「どうかしたか?」
女性職員は何も言わなかった。
書き上げた報告書を持って、支部長室へ入った。
そして数分後、彼女は戻ってきた。
報告書にはでかでかと『却下』と書かれた印がぶっきらぼうに押されていた。
「申し訳ございません」
女性職員が頭を下げた。赤い髪の毛がカーテンのように美しく靡いた。
「そうか。分かった」
マルコは重い溜息をつき、目玉を包み直してギルドを去った。
◇
ヴェラドへの帰り道、マルコは何度も立ち止まり、背後の森を振り返った。
誰かに狙われているような気がしたのだ。
騎士団は管轄を理由に背を向け、ギルドの上層部は耳を貸さない。どれほど鮮明な危機を提示しても、巨大な組織の歯車は、小さな猟師の叫びを容易く粉砕していく。
自分には、何もできない。
迫りくる嵐を予感しながらも、老いた猟師の弓と経験では、この街を守るにはあまりに無力だった。
マルコは鉛のように重い足取りで、村の門を潜った。
せめて、村の若者たちには伝えておこう。しばらくは森へ近づくな、と。
もはや、それだけが自分に許された、最後の足掻きであった。
それだけしか、彼には出来なかったのだ。




