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第50話:悪魔の薬


 (とき)の歯車が錆びついたかのような、重苦しい沈黙が場を支配した。


 トゥランドールの手には、聖剣が握られていたはずだった。しかし、その柄の先にあるべき刀身は無惨にも断たれ、切っ先は冷たい石床の上を虚しく転がっている。

 露わになった断面からは、黄金色の輝きを放つ発光魔石が覗いていた。

 それは主の狼狽に共鳴するかのように、消え入りそうな光を弱々しく明滅させている。



「な、なぜだ……。私の……私の聖剣が、なぜ折れる……ッ!」



 トゥランドールの喉から、絞り出すような悲鳴が漏れた。

 貴族たちも、その光景に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしている。

 Aランクというこの街の最高戦力ともいえるような冒険者が、Fランクの男に、それもたった一撃で、文字通り粉砕されたのだ。



「Aランクが……Fランクに、一撃で……?」 「まさか、あの聖剣すらも……?」



 カナメは、刹那を鞘に収めた。

 そして、ミラを呼んだ。



「ミラ、頼む」



 ミラが折れた剣の断面を覗き見た。



「発光魔石を芯に埋め込み、魔術的な輝きのみを模倣した観賞用の模造品ですね。魔力を流すまでもなく、握るだけで発光する卑俗な仕掛け。真に神域にある聖剣であれば、このような外付けの触媒など必要ありません」



 ミラの淡々とした指摘が、トゥランドールの胸に致命的な一撃を突き刺す。

 会場には波紋のように囁きが広がった。あの輝きは全て偽りだったのか、我々はあんな男を勇者の末裔と崇めていたのかと。



「『勇者の末裔』という看板も、この剣と同じく偽りだったというわけか……」 「となれば、Aランク冒険者という肩書きすら、どこまで信じられるものか」



 貴族たちは最早、トゥランドールの全てが偽りに見えた。

 だが、それは感覚は正しかった。



「それは……違う……罠だ!これは罠だ!全部その成金の嘘だ!」



 絶叫する姿には、もはや高貴な面影など微塵もない。その醜態を切り裂くように、力強く、それでいて確かな決意を帯びた声が響き渡った。



「カナメ様が仰っていることは、一点の曇りもない真実です。そして、トゥランドール様、貴方の言葉の中に真実など、ただの一つもございません」



 人混みを割り、一人の男が毅然とした足取りで進み出た。その頬には、今も消えぬ無惨な青痣が残っている。



   ◇



 俺はその男の姿を、記憶の底から即座に引き出した。

 先日、トゥランドールと初めて対峙した際、奴が一方的に暴行を加えていた従者だ。



「ヴェルナー……!貴様、分を弁えろ……!」



 「私は五年にわたり、貴方にお仕えしてきました。ゴズ支部長から預かった違法物の運搬、そして数々の隠蔽工作……。気がつけば、私は貴方の悪事の片棒を担がされていた。何度も逃げ出そうとしました。ですが、『裏切ればお前も同罪だ、地獄まで連れて行く』と脅され続けた。病床の母を抱える私には、抗う術がなかったのです」



 静寂の中に、吐き気を堪えるような呻きと嫌悪の声が混じる。



「到底、信じられん非道だ……」 「これが勇者の血筋を自称した男の本性か」



「トゥランドール様のAランク昇格もまた、金貨二千枚という大金でゴズ支部長から買い取った虚飾です。私は、その汚濁に満ちた取引の場に立ち会いました」



 会場が、どよめいた。



「金でAランクを……!?」



「はい。本来では指定された魔物の素材をギルドに提出しなくてはならないところを、職人に作らせた贋作(がんさく)を提出していたのです。ゴズ支部長は鑑定という本来の昇格審査をせず、そのまま受領し、Aランクへ昇格させたのです」



ヴェルナーの視線が、床に転がる無惨な破片を捉えた。



「その剣も、王都の骨董商から金貨八百枚で買い叩いた品。皮肉にも、偽物を掴まされていたようですが。――そして、カナメ様とそのご家族への嫌がらせは、すべて紛れもない事実です。庭園の蹂躙、腐肉の贈付、奥様への不埒な書面、そして幼子への投石。そのすべてを、私はこの目で焼き付けてまいりました」



 会場には、もはや生理的な拒絶を伴う嫌悪感が充満していた。貴族たちは一様に眉をひそめ、汚物でも見るかのような冷徹な眼差しをトゥランドールに浴びせる。

 金で買った名誉、金で買った偽物の聖剣。ヴェルナーが曝露する真実の一片一片が、トゥランドールという虚飾の巨像を根底から剥ぎ取っていった。



「貴方のような空虚な人間には、そこに転がっている偽物の残骸こそが相応しい」



「ヴェルナー、貴様……!飼い犬の分際で、主人に噛み付くか……!」



 激情に駆られたトゥランドールが詰め寄ろうとするが、それを遮ったのは老紳士の静かな威圧だった。



「これ以上、貴族の、いや人間の風上にも置けぬ醜態を晒すな」



 トゥランドールを取り囲む世界は、完全に色を失っていた。周囲の貴族も、長年虐げてきた従者でさえも、向けるのは容赦のない侮蔑の眼差しのみ。



「トゥランドール殿」



 俺は、慈悲を切り捨てた声音で引導を渡した。



「折れた偽物の剣。金で買った地位。嘘で塗り固めた血統。……貴様は、その華美な服の中身に、何一つ持たない空っぽの男だ」



 トゥランドールの膝が、完全に折れた。地面に両手をつき、頭を垂れるその姿は、先ほどまでの傲慢さの欠片もない。



「嘘だ……すべて、悪夢だ……私は、選ばれたはずの……」



 白髪の老紳士が、審判を下すように歩み出た。



「トゥランドール・ヴァン・グラディウス。どうやら、貴様は騎士団へと引き渡すべき重罪人のようだな。冷たい檻の中で、自らの醜悪さと一生向き合うがいい」



 警備兵たちに引きずられていく奴の背中を見送り、ようやく広間の空気が正常な温度を取り戻し始めた。



   ◇



「パパ……」



 背後から届いた、小さな震える声。

 振り返れば、ルナが涙をいっぱいに溜めた瞳で俺を見上げていた。ルナはこらえきれず、俺の腰にしがみついてくる。



「怖かったか?」



「……うん。でも、パパがいたから、大丈夫だった」



 ルナの温もりを抱きしめながら、俺は立ち尽くすヴェルナーへと視線を向けた。



「ヴェルナー。君は、地獄から抜け出すための正しい一歩を踏み出した。……行く当てはあるか? もしないのであれば――」



 ヴェルナーは、自嘲気味に、力なく首を振った。



「ありません……。それに、私は逮捕されるべき身です。たとえ強要されたとはいえ、あの男の悪事に加担した共犯者なのですから。……すべて、終わったのです」



 絶望に俯く彼の肩を、不意に大きな手が叩いた。

 先ほどまでトゥランドールを射抜いていた冷酷な眼差しは消え、そこには慈愛に満ちた、老練な優しさが宿っている。



「案ずることはない。幸いにも、君が手を染めたのは命を奪うような重罪ではないようだ。強制された上での告発となれば、数日の拘留で情状酌量も認められよう。もし行く当てがないのであれば、私のところで働かないか?

 少なくとも、あのグラディウス家よりは数段ましな待遇を約束するぞ?」



 老紳士は、いたずらっぽく微笑んだ。

 その言葉を受けたヴェルナーの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。



   ◇



 翌朝。


 朝食を終えた後、書斎でザガンと話していた。



『ゴズですが——奴は、いつもと変わらぬ様子のようです。昨日の園遊会で自分の名前が出たにも関わらず、何事もなかったかのように振る舞っております』



 Aランクを金で売っていたことが公になった。支配者が集う園遊会だ、そこで起こったことについて何も知らないというわけはあるまい。《《普通》》であれば、首が飛ぶような汚職。だが、ヤツは《《普通ではない》》。



「……ヴァルトハイムの威光、か。あの男が背後にいる限り、正義は機能しないというわけだな」



然様(さよう)でございます。王都に居るヴァルトハイム伯爵——あの男の権限はこの街では絶対です。ゴズがあの男の下にいる以上、この程度では揺らぐことはないでしょう』



「つまり、ゴズを潰すには——」



『伯爵を相手にすることになります。容易ではございません』



 俺は、拳を握りしめた。

 すると、不意に部屋の扉からノック音が聞こえた。



「すまない、誰か来たようだ。報告をありがとう、ザガン。今回はお前には本当に世話になった。今後ともよろしく頼む」



『もったいなきお言葉です。それでは失礼いたします』



 ザガンとの通信が切れた。

 ノックした主を確認するために部屋の扉を開けると、そこにはミラが立っていた。


 だが、その表情が、いつになく硬い。

 眉間に皺を寄せて、どこか不安げな顔をしていた。



「先日お預かりした薬の分析が、ほぼ完了しました」



 マルバスが隠していた薬。

 赤黒く、不気味な――用途不明の薬。



「一言でいうならば、『魔物の理性を奪う』薬です」



「魔物の理性を奪う?錯乱させる薬ということか?」



 ミラが額から伝う脂汗を拭う。



「いえ、事態はもっと深刻です……。 通常、魔物にも本能的な判断力があります。危険を察知すれば逃げ、勝ち目のない相手には挑まない……。それはなぜか? 生物には、脳が命を守るためにかける『安全装置』があるからです。

 熱湯に触れれば反射的に手を引く。筋肉が断裂する前に痛みが走る。……それらはすべて、個体を生存させるための防衛本能です。 しかし、この薬は受容体を完全に麻痺させ、その『安全装置』を物理的に焼き切ってしまうのです」



「……痛覚を封じ、死への恐怖を消し去るのか。恐ろしいな」



「……はい。ですが、それだけではありません。この薬の真の恐ろしさは、『生存本能の完全放棄』と引き換えに得られる、異常なまでの自己増幅にあります」



 ミラの声が、目に見えて震え始めた。

 その震動は四肢にまで伝わり、立っていることさえ危ういほどに彼女の精神を削り取っているのが見て取れた。



「投与された個体は、魔力回路が強制的に拡張され、筋力も限界を超えて引き上げられる……。いわば、常に『火事場の馬鹿力』を出し続けている状態です」



「筋力と魔力の増強剤……。まるで戦闘用のドーピングだな」



「そんな生易しいものではありません……。本来、生物の体は動けば熱を発し、疲労物質を溜め、傷ついた組織を修復しながら機能するものです。そうしなければ、肉体は数時間も持たずに焼き切れてしまう……。

 ところが、この薬を打たれた個体は、その『冷却』も『排泄』も『修復』も、生存に必要なあらゆるプロセスを停止させ、その全エネルギーを『攻撃』だけに転換するのです。」



 ミラの呼吸が、喘ぐように激しくなっていく。



「自らの骨が砕ける衝撃も、魔力で内臓が焼けただれる苦痛も、彼らは認識しません。 それどころか、致命傷を負い、本来なら絶命するはずの瞬間でさえ、脳は『敵を殺せ』と命令を下し続ける……。

 ……この薬は病気のようなもので、発症するまでに時間がかかるようです。そして、徐々に体を蝕み、発症します。

 発症すると狂乱状態になり、発症してから恐らく24時間から48時間持続します。 もちろん、それ以降は殺されずとも、自らの発する熱と過負荷に耐えきれず、肉体は内側から崩壊し、どろどろの肉塊に変わるでしょう……。

 ですが、考えてもみてください。 痛みも死も恐れず、限界を超えた出力を維持した魔物達を……」



 ミラはそれ以上は語らなかった。自分が言ったことが現実になってしまうのではないかと恐怖したのだろう。



 ——もしこの薬が、大量の魔物に投与されたら。


 ——理性を失い、暴走した魔物が、群れで街に押し寄せたら。


 ——家族が居るこの街で、もしもそんなことが起こったら。



 俺の背筋に、寒気が走った。




 制御不能の、生ける災害。


 マルバスが隠していたこの薬は、人々を地獄へ送るには十分過ぎるほどの『絶望』だった。




 俺は、逃れるかのように窓の外に視線を向けた。

 そこには、一点の曇りもない、穏やかな昼下がりの空が広がっている。




 ――はずだった。






「あれは……何だ……?」






 視界の端、街を囲う重厚な防壁の彼方。

 地平線の向こうから、不気味にうねる細く黒い筋が、空を汚すように立ち上っていた。

 失火だろうか。いや、立ち上る煙の数は、尋常ではない。


 目を凝らせば、それは一箇所に留まらなかった。街の各所から、まるで死を告げる狼煙(のろし)を上げるように、次々と黒い煙が空を侵食していく。


 俺の声に促され、窓の外を覗いたミラの表情が、彫像のように凍りついた。






 そして、——遠くから、声が聞こえた。






 低く、大気を震わせる唸り声。

 魂を直接揺さぶるような、野性的な力強い声。





 遠吠えだ。





 一匹ではない。重なり合い、共鳴し、空を揺らす()()()()()による咆哮。

 そして、重なり合った獣のような声は、地鳴りのような響きとなって、陽光に照らされた街を揺らしていく。





 それは、地獄の門が開いたことを告げる、絶望の雄叫びだった。






 ——そして、人々の響き渡る悲鳴が、この街の終焉を冷酷に告げていた。

 






(『第三章 暴食の眷属と追放された研究者』 完 )


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