第49話:地獄の詰問
「トゥランドール殿」
低く、地這うような声音で俺は告げた。
「この子は私の娘です。化け物でも、ペットでもありません」
「ほう?これほど人品卑しき獣を娘と呼ぶとは。成金という人種は、随分と奇をてらった趣味をお持ちのようだ」
トゥランドールが歪な薄笑いを浮かべると、その背後に控える取り巻き共も、追従して下卑た笑い声を重ねる。
「品性、ですか。ではお伺いしたい、真に品性を欠いているのはどちらでしょうね」
静謐な俺の声は、喧騒の宴を切り裂くようにして会場の隅々にまで浸透していく。
「抵抗する術も持たぬ少女に石を投げつける『勇者の末裔』とは、さぞかし高潔な御身分なのでしょう」
その一言で、トゥランドールの表情は凍りついた。
刹那、会場を支配したのは、波紋のように広がる動揺と囁きだ。
「石を投げた、だと……?」 「あのような幼い子に……まさか」
人々の視線が、値踏みするようにトゥランドールの傲慢な横顔へと集まり始める。
「貴様……何を言っている……」
「この子の額を見れば明白です」
俺は、ルナの傍らに跪き、慈しむようにその前髪をかき上げた。
シルヴィアの治癒魔法を受けたとはいえ、そこには今もなお、生々しく痛ましい傷痕が薄く残っていた。
「先日、庭で遊んでいたこの子の元へ、隣邸から石が飛来しました。それを投じたのは他でもない、トゥランドール殿。貴殿御自身の御手によるものだ」
会場が、静まり返った。
「で、でたらめだ! 根も葉もない妄言を!」
トゥランドールが、その虚勢を叫びに変えて吠える。
「私は『勇者の末裔』だぞ!?この私が、そのような下劣な真似に手を染めるはずがないだろう!」
「『《《勇者の末裔》》』……?ああ、然様でした。ではまず、皆様の興味を引くに足る真実を御覧に入れましょう」
俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
闇オークションにいた紋章官の汚職を掴んでいたザガンから引きずり出させた――極秘裏の、そして絶対的な「正史」である。
「これは王都紋章院が管理する、公式記録の写しです。これによれば、グラディウス家の系譜に勇者の称号を冠する者は……遺憾ながら、一人として存在しておりません。貴族の皆様ならご存知の通り、この書面には紋章院独自の魔術刻印が施されています。王印と封印魔術が添えられたこれに、偽造の余地など万に一つもございません」
騒然とした空気は、もはやトゥランドールの取り巻きさえも飲み込んでいく。
血筋を何よりも尊ぶ貴族社会において、紋章院の権威は神の声にも等しい。
トゥランドールは顔を醜く歪め、殺気が込められた眼光で俺を睨みつけている。
「これだけで終わりだとは思わないでいただきたい」
続けて俺は懐から取り出した。手紙と、見るに堪えない下着を。
それはトゥランドールが、シルヴィアへ送りつけていた歪んだ執着の証拠だ。
「そしてこちらにあるのは、トゥランドール殿が私の妻に宛てた手紙と――そして――貴殿から贈られた《《贈り物》》でございます。便箋には、隠しようもなく貴殿の署名がある」
貴族たちがざわめく。
俺は、手紙を広げた。周囲の人々にも見えるように、ゆっくりと。
「その手紙には、一体何が記されているのだ?」
誰かが、痺れを切らしたように、震える声で問う。
「読み上げましょうか」
一拍の溜めを置く。
会場の全神経が俺の指先に集中し、トゥランドールの顔からは、じわじわと血の気が失せていく。
「――『君のような美しい花が、あのような粗野な男の傍にいるのは実に惜しい。』」
読み上げる声が、静まり返った会場に響く。
「――『私の愛人としての地位を与えてやろう。君にはそれが相応しい。』……。そして、これらと共に、このような破廉恥な布切れが届けられました」
俺が掲げた下着を視界に入れた瞬間、会場は爆発的な動揺に包まれた。
「愛人、だと……?」 「人妻に対し、あのような不埒な文を……」 「なんと……、吐き気を催すほどに不潔な……!」
貴婦人たちは扇で口元を覆い、嫌悪を露わにして囁き合う。紳士たちは苦虫を噛み潰したような面持ちで、穢れを避けるようにトゥランドールから距離を置き始めた。
トゥランドールの額からは脂汗が滴り、その全身は、焦燥か、あるいは憤怒か、小刻みに震えている。
「し、しかも家紋と署名入りで……?」 「正気の沙汰ではないな……」 「いくら何でも、これは……」
人々の視線が、冷たくなっていく。先ほどまでトゥランドールの周りにいた取り巻きたちも、今は一歩、二歩と後ろに下がっている。
トゥランドールの瞳が、出口を求めて激しく彷徨う。
「偽造だ!」
奴は、声を張り上げた。
「その手紙は偽物に違いない!この男が私を陥れるために捏造したのだ!私がかつて送った儀礼的な書面を改竄したのだ!その下着とやらも、この成金が自作自演で用意した卑劣な罠だ!」
狂乱に突き動かされるように、トゥランドールの叫びが木霊する。
「考えてもみろ!私がなぜそのような愚かな真似をする!?家紋入りの便箋で、署名までして、そんな手紙を送るはずがないだろう!」
奴は周囲を見回した。同意を求めるように。助けを求めるように。
だが、誰も応じなかった。
人々はただ、舞台上の道化を眺めるような冷徹な眼差しで、彼を見据えていた。
「そうだろう!?これは罠だ!私を陥れるための——」
「では、これはいかがでしょうか」
俺は、慈悲を切り捨てた声音で遮った。
そして懐から最後の一枚――未だ開封の痕跡がない封筒を掲げる。
その瞬間、会場の空気が、張り詰めた弦のように限界まで引き絞られた。
「あの封蝋は……」
最前列の貴族たちが、息を呑む音が聞こえた。
揺らめく蝋燭の火影が、封蝋に刻まれた「グラディウス家」の紋章を鮮明に浮かび上がらせる。一点の欠けも、再接着の痕跡もない。それは、神聖不可侵な沈黙を保っていた。
「グラディウス家の家紋に、相違ない……」 「未開封……。封蝋が、完全な状態で保たれている……」
疑惑という名の波紋が、確信へと変わっていく。
トゥランドールの顔面は、今や死人のように青白く変色していた。
「この封筒は、私の屋敷の玄関に置かれていた『《《贈り物》》』に添えられていたものです」
俺は淡々と、淡々と、事実を積み上げていく。
「その『贈り物』の中身は、蛆の湧く腐肉を詰め込んだ檻でした。おそらくは、私の娘に対する、あまりに度を越した嫌がらせでしょう」
会場から、嫌悪の声が上がった。
「腐った肉を……?」 「子供に向けて……?」 「なんという下劣な……」
一人の貴婦人が堪えきれず顔を背け、別の婦人は怒りに肩を震わせている。
「私はこの封筒を、今日この時まで、開封せずに保管して参りました」
俺は封筒を見つめ、最後の一撃を放つ準備を整える。
「この中にも、恐らくは……私や家族をなぶり、嘲笑うような下劣な文面と――」
俺は、射抜くような視線でトゥランドールを凝視した。
「――グラディウス家の、誇り高き《《家紋が刻まれた便箋》》が封じられているはずです」
トゥランドールは、もはや言葉を紡ぐことさえ叶わなかった。
口を無様に開閉させ、酸素を求める魚のように喘いでいる。
会場が、絶対的な静寂に支配された。
俺は、視線を周囲に走らせる。
「どなたか、開封して、中身を検分していただけますか」
数秒の停滞。誰もが、その封筒に宿る醜悪さに触れることを躊躇う。
やがて、重厚な杖の音が石床を叩いた。一人の老紳士が、静かに歩み出る。
雪のような白髪に、深い知性を刻んだ皺。厳格な燕尾服に身を包んだその姿には、一朝一夕では得られぬ威厳が宿っている。
「私が、見届けよう」
老紳士は淀みのない足取りで俺の前へと辿り着き、俺は敬意を込めて封筒を差し出した。
受け取った老紳士の指先が、封蝋の感触を確かめる。
会場のすべての瞳が、その一挙手一投足に注がれていた。
彼は封筒を裏返し、透かしを確認し、家紋の細部を老練な眼差しで精査する。
「……間違いない」
老紳士が、低い声で言った。
「グラディウス家の家紋だ。そして——」
彼は、封蝋の縁を指でなぞる。
「――完全なる未開封であると、私が断言しよう。蝋に微細な亀裂もなく、再加熱した痕跡も一切ない。細工など不可能だ。我がブラディール家の名に誓って、これが投函時のまま不変であることを保証する!!」
その言葉が、トゥランドールの死刑判決となった。
老紳士が懐から取り出した銀のナイフが、灯火を反射して冷たく閃く。
会場の緊張は、もはや破裂寸前の風船のようだった。
彼は極めて慎重に、まるで外科手術のようにナイフを封蝋へと滑り込ませた。
微かな、だが決定的な破砕音。赤い蝋が二つに割れ、老紳士の手によって封筒の口が開かれた。
引き出された一枚の便箋。
その文面を追うごとに、老紳士の眉間の皺は深く刻まれ、口元は憤怒に震え始めた。観衆は息を殺し、ただ次の言葉を待つ。
そして、老紳士が顔を上げ、トゥランドールを射貫いた。
そこにあるのは、人ではなく汚物を見るかのような、極寒の軽蔑だった。
「……『野良犬の餌場だ。ここで食え。お前たちのような成金には腐肉が相応しい』」
読み上げられた言葉の余韻が、会場を凍りつかせた。 老紳士は、その醜い証明を誇示するように高く掲げる。
「署名は、トゥランドール・ヴァン・グラディウス」
断罪の鐘のように、その名が会場に響き渡る。
「筆跡は、先ほどの手紙と完全に一致している。同一人物の手によるものだ。もはや、疑いの余地はない」
トゥランドールは、力なく後ずさった。
その足取りは幽霊のように覚束ない。
「そして——」
老紳士の手元で、便箋が翻る。
「――この便箋にも、グラディウス家の家紋が刻印されている」
周囲の人々が、手紙を覗き込んだ。便箋の隅に、小さな家紋が自分の存在を主張するかのように刻まれていた。封蝋と同じ、グラディウス家を指す紋章が。
「封蝋、便箋、そして筆跡」
老紳士は、震えるトゥランドールを完膚なきまでに突き放した。
「すべてが一致した。偽造の可能性は、万に一つも存在せぬ。言い逃れは無用だ、トゥランドール・ヴァン・グラディウスよ。貴様は貴族の矜持を泥に塗った卑俗な愚者に他ならない。恥を知るがいい!!」
烈火のごとき叱咤が、静寂を切り裂いた。 直後、静寂は濁流のような罵声へと姿を変える。
「子供に、そのような仕打ちを……」 「腐肉を送りつけるとは、正気か」 「あのような汚らわしい男が、勇者の末裔を自称していたとは……」 「恥知らず、という言葉すら生温い」
先ほどまでトゥランドールに媚びを売っていた取り巻き共は、もはや影も形もない。彼らは既に群衆の海へと紛れ、汚名を被らぬよう身を潜めていた。
人々は、まるで疫病神を避けるように、彼を中心としてぽっかりと空白の円を描く。
トゥランドールの顔色は土気色を通り越し、虚無を映し出していた。
泳ぐ視線、震える唇、滝のように流れる脂汗。
全方位、四面楚歌。
華やかな園遊会の中心で、彼は絶対的な孤独に叩き落とされた。
「違う……」
掠れた声で、トゥランドールが喘ぐ。
「違う……私は……私は勇者の末裔だ……輝かしいAランク冒険者なのだ……!」
だが、その虚しい弁明に耳を貸す者は、ここには誰一人として存在しない。
人々の瞳から、既に彼は消失していた。軽蔑という名の儀式を終えた彼らは、もはや存在しない「無」として、彼から視線を逸らしていく。
それは、剣で斬られるよりも、肉を焼かれるよりも、遥かに残酷な社会的処刑。
「私は……私は……ッ!」
その時、トゥランドールの瞳の奥で、何かが決壊した。
理性の光が消え、底暗い狂気が宿る。
追い詰められたドブ鼠が、死に際に放つあの眼光だ。
顔面は急速に充血し、怒張した血管が彼の理性を焼き切っていく。
「貴様ぁぁぁ……ッ!」
声が裏返り、獣の咆哮へと変わる。
「貴様ァッ……! よくも私を、私を愚弄したなァ……!」
――瞬間。
トゥランドールが腰の獲物を引き抜いた。黄金色の光輝が、眩いばかりに会場を席巻する。優雅な夜を、悲鳴が、恐怖が、無慈悲に引き裂いていく。
「な、何をするッ!?」 「狂ったか! これ以上、罪を重ねるというのか!」
だが、狂乱の渦中にいる奴には、もはや人の言葉など届かない。
怒りに焼かれた双眸。剥き出しになった歯。
奴の視界には、俺という標的だけが映っていた。
「殺す……根絶やしにしてやる……ッ!」
一歩、地を蹴る。
「貴様のせいだ……!貴様さえいなければ……!」
また、一歩。
剣を握る拳は狂おしく震えているが、殺意だけは不純物なく研ぎ澄まされていた。
「死ね……死ね死ね死ね死ねぇぇぇ!!」
呪詛を撒き散らしながら、トゥランドールが黄金の剣を高く振りかぶる。
「死ねぇぇぇ!成金の分際でェェェ!」
狂気の剣筋が、俺の頭上から振り下ろされた。
全身全霊を乗せた、絶望の一撃。黄金の魔力を纏った刃が、俺の命を刈り取らんと迫る。
周囲からは、目を背けるような悲鳴が上がった。
だが――。
あまりに、遅い。そして、あまりに、軽い。
俺は腰の『刹那』を抜き放ち、最小限の機動でその軌道を迎え撃つ。
鼓膜を突くような、鋭利な金属音が炸裂した。
トゥランドールの瞳に、初めて真実の絶望が宿る。
奴が全霊を賭した一撃を、俺は片手一本で、涼やかに受け止めていた。
そして――。
硬質な、乾いた破砕音が、会場の隅々にまで冷酷に響き渡った。
トゥランドールが誇りとしていた聖剣が、俺の一振りの前に、脆くも二つに折れ飛んでいた。




