第46話:凶行
それは、昼下がりのことだった。
春の陽射しが、庭を柔らかく照らしている。空は高く、雲一つない。絶好の行楽日和だ。
ルナが庭で遊んでいた。シルヴィアが直した花壇の周りを、蝶を追いかけて走り回っている。黄色い蝶が、ひらひらと舞っている。ルナの金色の髪が、陽光を受けて輝いていた。狼の耳がぴんと立ち、尻尾の蛇も楽しそうに揺れていた。
「まてまてー!」
ルナの楽しそうな声が、庭に響く。蝶は捕まらないことを知っているのか、ルナの手の届かない高さで優雅に舞っている。それでもルナは諦めずに追いかけ続けていた。
俺は書斎の窓から、その様子を眺めていた。先日送られてきたザガンからの報告書を改めて読み直していた。
外からルナの声が聞こえる。
平和な光景だ。この平和を、守りたい。
報告書によると、トゥランドールの家系図には複数の矛盾点があるらしい。先祖の名前と、公式記録が一致しない箇所がいくつもある。ザガンは、「偽造の可能性が高い」と睨んで調査を続けてくれている。
その時だった。
何かが空気を切る音がした。
次の瞬間、ルナの悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
俺は反射的に窓から身を乗り出した。
ルナが、地面に蹲っていた。両手で頭を押さえている。その手の隙間から、赤いものが流れ落ちていた。
血だ。
ルナの足元には、拳大の石が転がっていた。それが、ルナの額に直撃したのだ。
俺は書斎を飛び出し、階段を駆け下りた。三段飛ばしで駆け降り、玄関を蹴破るように開け、庭に飛び出す。
「ルナ!」
ルナの傍に駆け寄り、その体を抱き起こした。額から血が流れている。傷口は二センチほど。ルナの金色の髪が、血で赤く染まっていた。
「パパ……いたい……」
ルナが、涙を流しながら俺を見上げた。
「いたいよ、パパ……」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
俺はルナを抱きしめながら、周囲を見回した。
石が飛んできた方向。隣の屋敷。そのバルコニーに——
トゥランドールが立っていた。
奴は、手に石を握っていた。明らかに、次の石を投げようとしている。そして、その顔には、気持ちの悪い笑みが浮かんでいた。
「おや、当たったか。野良犬の躾には、石を投げるのが一番だと聞いたのでな」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
怒り。純粋な、混じりけのない怒り。
――殺す。
理性が消え、本能だけが残った。あの男を殺す。今すぐ。この手で。
俺はルナをそっと地面に下ろし、立ち上がった。視界が赤く染まっている。血が沸騰しているような感覚。こんな怒りを感じたのは、いつ以来だろうか。
前世でも、ここまでの怒りを感じたことはなかった。
「カナメ様——」
シルヴィアの声が聞こえたが、俺の耳には届かなかった。
俺は一歩、前に出た。
あの男との距離は、十メートルもない。一瞬で詰められる。
トゥランドールの首を掴み、握り潰す。それだけでいい。奴の骨が砕ける感触を想像すると、むしろ心が落ち着いていく。
「――カナメ様、待って!」
シルヴィアの影が俺の腕を掴んだ。だが、俺は振り払おうとした。
「離せ、シルヴィア」
「駄目ですわ!今、あの男を殺したら——」
「知るか」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「あいつは、ルナを傷つけた。俺の娘を。血を流させた。殺す理由としては十分だ」
「ですが——」
その時、トゥランドールが笑い声を上げた。
「おやおや、怒っているのか?だが、やめておいた方がいいぞ」
奴の声には、余裕があった。バルコニーの手すりに寄りかかり、まるで見世物でも見ているかのような態度だ。
「私を殺したら、お前たちは犯罪者だ。ギルドから追われ、この街にはいられなくなる。ゴズ殿が黙っていないだろうし、そうなれば、王都の貴族だって黙っていないぞ」
「……」
「お前ごときが私を殺せば、国を敵に回すことになるぞ?その獣耳の化け物も、シルヴィア嬢も、全員処刑台行きだ」
奴の言葉が、俺の脳に響いた。
ルナが、処刑台に。
シルヴィアが、処刑台に。
刹那が。ミラが。俺の家族が、全員。
「どうした?動けないのか?ククク、所詮は成金の分際だな。身の程を知れ」
俺の拳が震えていた。怒りで。悔しさで。殺したい。今すぐ殺したい。だが、その結果、家族が傷つくなら——
「カナメ様」
シルヴィアが、俺の前に回り込んだ。その目には、俺と同じ殺意が宿っていた。紫水晶の瞳が、暗い炎を宿している。
「私も、あの男を殺したい。今すぐ、影で飲み込んでやりたい。あの男の悲鳴を聞きながら、ゆっくりと消化してやりたい」
シルヴィアの声には、抑えきれない殺意が滲んでいた。
「ですが、ルナのことを考えてくださいまし」
シルヴィアの声が、震えていた。
「あの子は、やっと家族を得たのです。やっと、幸せになれたのです。それを、私たちの怒りで奪ってはいけませんわ」
「……」
「あの男は、いずれ必ずと。カナメ様が約束してくださったでしょう?だからここでは……」
シルヴィアの目が、俺を真っ直ぐに見つめていた。怒りと、悲しみと、そして強い意志が混じった目。
「今は、ルナを守ることを優先してくださいまし。あの子が、私たちを待っています」
俺は、振り返った。
ルナが、地面に座り込んだまま、俺たちを見ていた。額から血を流しながら、泣きながら、それでも俺たちを見ていた。小さな手で、血を拭おうとしている。
「パパ……ママ……」
その声を聞いた瞬間、俺の怒りが、少しだけ収まった。
完全に消えたわけではない。トゥランドールへの殺意は、まだ胸の中で燃えている。だが、今この瞬間、俺がすべきことは——あの男を殺すことではない。
ルナを、守ることだ。
「……分かった」
俺は、深く息を吐いた。
「今日は、見逃してやる」
トゥランドールに向かって、俺は言った。
「だが、覚えておけ。お前がルナにしたこと、必ず百倍にして返す。お前の地位も、名誉も、全てを剥ぎ取って、二度と立ち上がれないようにしてやる」
トゥランドールの顔が、一瞬だけ引きつった。俺の目に、本気の殺意を見たのだろう。
「ふ、ふん……。吠えるだけなら誰にでもできる」
奴は虚勢を張りながら、屋敷の中に消えていった。
俺はルナの元に戻り、その小さな体を抱き上げた。
「パパ……」
「大丈夫だ。もう大丈夫だから」
ルナが、俺の胸に顔を埋めた。
シルヴィアが、俺たちの傍に寄り添った。彼女の影が、悍ましく蠢いている。俺だけではない。シルヴィアだって、怒りを抑えていた。
「カナメ様。あの男は必ず……」
「ああ。必ず、潰す」
俺たちは、屋敷の中に戻った。
◇
ルナを応接間のソファに寝かせ、シルヴィアが手当てを始めた。
シルヴィアの指先に黄色の光が集まり、ルナの傷を癒してゆく。
「大丈夫ですわ、ルナ。すぐに終わりますからね」
シルヴィアの声は優しかったが、その手は僅かに震えていた。怒りを抑えているのだ。
治療が終わると、シルヴィアが俺のところへ来て耳打ちした。
「少しだけ、薄く傷跡が残っていますが、時間が経てばこれも消えて完治しますわ。元々この子の蛇の因子は、自己再生が出来ますから、出血量に反して《《体は》》問題ありませんね。今はショックで力もコントロール出来ていないようですが……」
傷は、幸い浅かった。額を少し切っただけで、異常がない。
だが、ルナの心の傷は、体の傷よりも深かった。
「パパ……ルナ、嫌われちゃったの?」
ソファに横になりながら、ルナが呟いた。その声は、小さく震えていた。
「違う。あいつが悪いんだ」
「でも……ルナが化け物だから、石を投げられたんでしょ?ルナの耳が変だから。尻尾がおかしいから」
「違う」
俺は、ルナの手を握った。小さな手。温かな手。この手を、誰にも傷つけさせない。
「ルナは化け物なんかじゃない。俺とシルヴィアの、大切な娘だ」
「……」
「いいか、ルナ。あの男は、自分が偉いと思い込んでいる、ただの馬鹿だ。お前を傷つけることでしか、自分の価値を確認できない、哀れな男なんだ」
ルナの目から、涙が零れた。大粒の涙が、頬を伝って落ちていく。
「でも……いたかった……すごく、いたかった……」
「ああ。痛かっただろう」
俺は、ルナを抱きしめた。小さな体を、壊れないように、でもしっかりと。
「痛くて、悲しくて、悔しかっただろう。だから、泣いていいんだ」
「……うん」
ルナが、俺の胸に顔を埋めて泣き始めた。声を上げて、子供らしく、泣きじゃくった。その泣き声が、俺の胸を締め付ける。どれだけ辛かっただろう。どれだけ悲しかっただろう。どれだけ怖かっただろう。
シルヴィアが、俺たちの傍に座った。彼女の目にも、涙が滲んでいる。
「ルナ、大丈夫ですわ。パパとママが、必ずあの男を懲らしめますからね」
「……ほんと?」
「ええ。約束しますわ」
ルナが、涙で濡れた顔を上げた。
「パパも、約束してくれる?」
「ああ。約束する」
俺は、ルナの頭を撫でた。
「あの男は、お前を傷つけた。パパが、二度とルナに手を出せないように、懲らしめてやる」
ルナが、小さく頷いた。
「……うん。パパ、約束だよ」
「ああ。約束だ」
俺は、ルナの額にキスをした。温かさが伝わってくる。
この子を、守る。何があっても。どんな敵が来ようとも。
シルヴィアが、そっと俺の手を握った。彼女の目にも、同じ決意が宿っていた。紫水晶の瞳が、静かに燃えている。
俺たちは、泣き疲れて眠りに落ちたルナを見守りながら、静かに誓いを交わした。
あの男を必ず地獄に叩き落してやる。尊厳を踏みにじり、二度と表で生きていけないようにしてやる。




