第45話:思案する研究者
ミラがこの屋敷に住み始めて、二週間が経っていた。
朝、目が覚めると、窓の外から小鳥の囀りが聞こえてくる。柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡い金色に染めている。
こんな穏やかな朝を迎えられるなんて、二週間前の彼女には想像もできなかったことだろう。
ミラ・レーヴェンス。元王立研究所の主任研究員。今は、この屋敷の住人であり、カナメに雇われた。
ベッドから起き上がり、窓を開ける。秋の朝の空気が、肺を満たした。冷たくて、澄んでいて、心地いい。
二週間前、ミラは路上で野垂れ死にかけていた。三日間何も食べられず、意識が朦朧としていた。研究所を追われ、行く宛もなく、ただ死を待つだけ。
あの時、カナメとザガンが見つけてくれなければ、彼女は今頃、どこかの路地裏で冷たくなっていただろう。
温かいスープとパン。シルヴィアが作ってくれたあの味を、ミラは一生忘れないだろう。
◇
身支度を整え、ダイニングに向かう。
廊下を歩きながら、ミラは無意識に周囲を観察していた。研究者としての癖だ。壁の材質、床の傷み具合、空気の流れ。そういったものが、自然と目に入ってくる。
この屋敷に住む人々は、一人残らず「普通」ではない。
カナメ。一見すると、ただの若い男性に見える。だが、普通の成人男性ではあり得ない膨大な魔力を持っていた。そして、その目には、年齢に不相応な深みがある。まるで、何十年も生きてきた歴戦の戦士のような。いや、違う。あれは「諦観」ではなく「覚悟」だ。何かを守るために、何でもするという覚悟。
彼は冷徹に見えて、家族には甘い。特に、シルヴィアやルナを見つめる時の目は、驚くほど優しい。
シルヴィア。この世の存在とは思えないほど美しい女性。銀色の髪、紫水晶のように美しい瞳、白磁の肌。まるで、神話に出てくる女神のようだ。
だが、彼女は人間ではない。それは、一目見れば分かった。
彼女の周囲には、常に薄い「影」が纏わりついている。普通の人間には見えないだろうが、魔力を感知できる者には分かる。あの影は、彼女の本体の一部だ。――そして時折見せる、底が見えない、冷たくて、強大な魔力。
カナメから「暴食の眷属の上位種」と聞いた時、ミラは背筋が凍った。文献でしか知らない存在。世界に災害を齎す存在だ。圧倒的な捕食者。
そんな恐ろしい存在が、エプロンをつけて料理をしている。家族のために、温かい食事を作っている。そしてあろうことか、居候である自分にも優しい。そのギャップが、ミラにはどうにも不思議だった。
ルナ。金髪碧眼の可愛らしい少女。狼の耳と、蛇の尻尾、そして竜の翼を持つ。
最初に見た時、ミラは変わった亜人だと思った。狼の耳を持つ獣人は珍しくない。だが、よく見ると違和感がある。蛇の尻尾、背中の翼。一つの種族に収まらない、複合的な特徴。
カナメから「キメラだ」と聞かされた時、ミラは絶句した。
人と魔物を掛け合わせたキメラ。そんなものは、文献でしか見たことがない。いや、文献ですら「理論上は可能だが、倫理的に禁忌」とされている領域だ。ミラの知る限り、実例は存在しないはずだった。
誰がこんなことを。
ミラは研究者だ。だからこそ分かる。この子を「作った」者は、研究者ではない。研究者を名乗る資格のない、ただの狂人だ。
ルナを見ていると、胸が締め付けられる。この子が、どんな非道な実験の「結果」で生まれたのか、研究者であればその凄惨な光景は想像に難くない。それなのに、こんなにも無邪気に笑っている。と同時に、彼女をこんな姿にした者への怒りが込み上げてくる。
知の探究者として、ミラは「知りたい」という欲求を否定しない。未知のものを解明したい。その気持ちは分かる。だが、そのために命を弄ぶことは許されない。ルナは実験材料ではない。一人の少女だ。笑い、泣き、怒り、甘える。普通の子供と同じように。
ただ、そんな過酷な環境を生き延びた子が、こんな温かな場所で『今』を過ごしているのが、唯一の救いだと思った。
刹那。数百年を生きた妖刀。普段は人の姿をしているが、本体は漆黒の刀だ。
彼女も暴食の眷属で、始祖級らしい。勇者ならばともかく、自分のような研究者の身分では、魔族の上位種を直接拝む機会はない。シルヴィアだけでなく、刹那にもこうして巡り会えたのは、研究者としては言葉に出来ないほどの幸運だ。前世でどれだけの徳を積めばこんな奇跡に出会えるのか。
刹那は、過激な発言が多い。だが、その本質は気遣いで優しい性格だというのは居候をしてすぐに分かった。ルナもよく懐いており一緒に遊んであげている姿をよく見る。
そして、古風な喋り方をして、意外と寂しがり屋だ。数百年も刀に閉じ込められていたせいだろうか。
カナメが出かけると、そわそわと落ち着かない様子になる。そして、カナメが帰ってくると、嬉しそうに出迎える。
こんなこと、口が裂けても言えないが。
◇
ダイニングに着くと、既に全員が揃っていた。
シルヴィアが朝食を並べている。今日は、焼きたてのパンと、野菜のスープ。それに、ベーコンエッグ。パンの香ばしい匂いが、食欲をそそる。
カナメが、コーヒーを飲みながら何かを考え込んでいる。トゥランドールという男の嫌がらせについてだろう。昨日の檻の件は、ミラも聞いている。酷い話だ。
ルナは、眠そうな顔でスプーンを握っている。昨夜は、カナメとシルヴィアの部屋で寝たらしい。だが、睡眠の質は良くなかったようだ。檻の件で精神的に参ったのだろう、無理もない。
「おはようございます」
ミラが声をかけると、全員が振り返った。
「おはよう、ミラ」
カナメが、軽く手を挙げる。
「おはようございます、ミラさん。どうぞ、お座りになって」
シルヴィアが、椅子を引いてくれた。
「ミラおねーちゃん、おはよー」
ルナが、まだ半分眠そうな声で挨拶してくれる。
「おはよう、小娘」
刹那は、相変わらず素っ気ない。だが、その目は優しい。
ミラは席に着き、スープを口に運んだ。野菜の甘みと、出汁の旨味が舌に広がる。体の芯から、温まっていく。
美味しい。
研究所にいた頃は、食事は「栄養補給」でしかなかった。味なんて、気にしたことがなかった。路上生活をしていた頃は、腐りかけのパンでも有難かった。
でも今は、違う。
温かい食事がある。一緒に食べる家族がいる。「おいしい」と言える相手がいる。
◇
食後、ミラは自室に戻り、薬の分析を続けた。
あの赤黒い液体。見れば見るほど、不気味な代物だ。脈動する様子は、まるで生き物のようだった。
この薬は、魔物に作用する。それは間違いない。だが、具体的にどのような作用なのか。
分からない。分からないことが、もどかしい。
自分は研究者だ。分からないことを、分かるようにするのが仕事だ。この薬の正体を突き止めることが、今の彼女にできる最大の貢献だ。
ふと、師匠のことを思い出した。
十二歳で学院を出た彼女を、師匠は何も聞かずに受け入れてくれた。家を出た理由も、両親のことも。ただ、「研究がしたいのだな」と一言だけ。
ミラの両親は研究者だ。だが、彼らの倫理観は……普通ではなかった。研究のためなら何でもする。その姿勢が、幼いミラには耐えられなかった。だから、学院を卒業してすぐに家を出た。
幸いにもミラは才女だった。だからこそ、十二歳という年齢でも師匠は受け入れてくれたのだろう。
だが、そんな師匠も三年前に亡くなった。研究所でその研究を引き継ごうとしたミラは、『役に立たない研究を持ち込むな』『そんなものに費やす予算はない』と非難され研究所を追放された。
蓄えは、師匠の資料を買い集めるために使い果たした。競売にかけられた師匠の遺品を、一つでも多く取り戻したかった。だが、ミラ以外にも、師匠の資料を買い漁っている者がいて、全てを手に入れることはできなかった。
結局、ミラの手元に残ったのは元の研究資料の三割程度だった。
あの時、資料を競り落としていたのは誰だったのだろう。裕福そうな、品のいい身なりをした人物だったと聞いている。今となっては、知る術もないが。
師匠の研究は、古代魔術理論と魔力循環。ミラが継いだのは、その一部に過ぎない。残りの資料は、どこかの誰かの手に渡った。だから、いつか、その資料を取り戻したいと思っている。師匠の研究を、完全な形で世に残すために。
カナメは、ミラを拾ってくれた。住む場所と、食事と、仕事を与えてくれた。
再び研究を出来る機会を与えてくれた。
その恩に報いたい。この家族の力になりたい。
そんな純粋な想いが、ミラを奮い立たせた。
◇
夕方、少し休憩を取ろうと庭に出た。
シルヴィアが、花壇の手入れをしていた。先日の嫌がらせで荒らされた花壇を、一つ一つ丁寧に直している。
「シルヴィアさん」
「あら、ミラさん。どうかなさいまして?」
「少し、休憩しようと思いまして」
「まあ!ふふふ、そうですか。では、一緒にお茶でもいかがです?」
シルヴィアが、庭のベンチに座るよう促してくれた。彼女が淹れてくれた紅茶は、芳醇な香りがした。
「この花壇、綺麗ですね」
「ありがとうございます。まだまだ復旧の途中ですけれど」
シルヴィアが、少し寂しそうに笑った。
「私、子供の頃は絵本が大好きで、絵本の中ではお花がたくさん出てきましたから、それが子供の頃から羨ましいなって思って……。ずっとお花を育てることに憧れておりました」
シルヴィアの目が、どこか遠くを見つめている。
「今、こうしてお花を育てられることが、とても幸せなのです。カナメ様と、ルナと、刹那と、そしてミラさんと一緒で。この幸せを、絶対に失いたくありませんわ」
「ふふ、素敵ですね。シルヴィアさんは」
とても暴食の眷属の上位種とは思えない。同性の自分が見ても、美しくて、素敵な女性だ。
「最近はミラさん、食事の時以外にもよく屋敷内を出歩いておりますのね」
シルヴィアはクスクスと笑った。
「えっ……」
「以前は自分のことを部外者と言ってましたし、交流も避けているように見えましたから……。私は嬉しいのです。ミラさんがここを自分の居場所だと思ってくれて」
ミラは過去の発言を掘り起こされて少し気が恥ずかしくなった。
「……ここの居心地が良くって。自分が部外者だと思っていたのが馬鹿らしくなってしまいました」
「居心地?」
「はい。カナメさんも、シルヴィアさんも、ルナちゃんも、刹那さんも。皆さん、私を受け入れてくれました」
ミラは、紅茶のカップを見つめた。
「私を必要としてくれて、私も皆さんを必要としています。それに以前、カナメさんに『お前はもう、うちの家族のようなものだろう』と言ってくれて……」
「あら、カナメ様がそんなことを」
シルヴィアが、嬉しそうに目を細めた。
「私、本当にそれが嬉しくて」
ミラは昔のことを少しだけ思い出した。
「私、家族とは仲が良くありませんでした。だから家族がどういうものかよく分からなくて。
学院を十二歳で卒業した後、師匠の家に転がり込んだのですが、毎日が楽しくて幸せで。『家族ってこういうものなのかな』と思いました。
研究所では、いつも孤立していました。そして、師匠が亡くなってからは、誰にも必要とされていないと思っていました。でも、ここでは……」
ミラは言葉を探した。
「ここでは、必要とされている気がするんです。誰かの役に立てている、という実感があります。それが、こんなにも温かいものだとは、知りませんでした」
シルヴィアが、優しく微笑んだ。
「ミラさん。カナメ様だけではありませんわ。私たちも、あなたがいてくれて嬉しいですし、必要としていますのよ。ルナも『ミラおねーちゃん』と懐いていますし、刹那だって……あれでも、ミラさんには優しく接しているつもりですの」
シルヴィアが笑った。
「だから、どうか遠慮なさらないで。ここは、ミラさんの居場所なのですから」
ミラの胸が、温かいもので満たされた。
この家族を、守りたい。
その気持ちは、日に日に強くなっていた。
だが、そんなミラの決意空しく、
――トゥランドールは一線を越えた。




